第3話:剣を捨てる覚悟

## 破邪顕正のあとさき


### 第3話:剣を捨てる覚悟


透は広場から屋敷に戻り、すぐに宗介と鈴鹿を集めた。書斎の空気は重い。


「甚兵衛を斬ることは、できない」透は改めて断言した。


宗介は怒りと焦燥で顔を赤くしていた。「なぜです、透様! 彼のせいで里は崩壊寸前です。人殺しになろうと、里を救うのが剣持家の務めではありませんか!」


「人殺しになることではない。里人たちから、自立の機会を奪うことになるからだ」透は静かに答える。


透は刀を磨きながら、ゆっくりと言葉を選んだ。


「かつて妖魔を討ったとき、我々は確かに『破邪顕正』を成し遂げた。だが、それは物理的な邪悪の排除にすぎなかった。里人たちは、共通の敵を失ったことで、自分たちの中の闇に直面している」


「しかし、その闇を放置すれば……」


「放置するのではない」鈴鹿が静かに口を挟んだ。「透様は、里人たちに、彼ら自身の力で闇に対処させるつもりなのですね」


透は頷いた。


「甚兵衛は、里人たちの不安、嫉妬、不満という毒を、巧みに吸い上げている。だが、あの毒の根源は、里人たちの心にある。私が剣を振るうたび、彼らは『英雄が全て解決してくれる』と、ますます外部の力に依存するようになる」


それは、里を護るための行為が、里人たちの精神を弱体化させるという、恐ろしい矛盾だった。剣持家が守り続けてきた里は、実は、自力で立ち上がれない赤子のような存在になりつつあったのだ。


「剣持家の役目は、里を永遠に護り続けることではない。剣が不要になる日を築くことだ」透は結論付けた。


宗介は衝撃を受けたように、言葉を失った。彼にとって、剣持家の存在意義は、剣を振るうこと、その力によって里を守ること、その一点にあったからだ。


「では、里人たちに甚兵衛を追い払う力がない場合、里はそのまま崩壊していくのを、見過ごすのですか?」宗介は苦渋に満ちた声を上げた。


「それが、彼らが自ら選んだ道の結果だ」


透は、里人たちに突きつけられた、厳しい現実を認識させたかった。彼らの『正義』とは、誰かに頼ることで得られる安寧ではない。自らの選択と行動の結果として、自らが生み出す秩序でなければならない。


夜が明けた。透は狩衣をまとい、腰に刀を帯びて広場へと向かった。


甚兵衛は今日も、里人たちを相手に商売をしていた。彼は透の姿を認めると、不敵な笑みを浮かべた。英雄は、自分を排除できないことを知っている。


里人たちが集まる中、透は広場の中央で立ち止まった。


「里の者たちよ」透の声は静かだが、里人全員の心に響いた。


甚兵衛が邪魔をするように口を開こうとしたが、透の纏う静謐な威圧感に、言葉を失った。


透は刀を抜かなかった。その代わり、鞘に入った愛刀をゆっくりと地面に突き立てた。


ゴツ、と、刀の石突が石畳にめり込む音が、広場の沈黙の中で異様に大きく響いた。


里人たちはざわめいた。英雄が、刀を地に置いた。それは、権威の放棄を意味する行為だった。


「私は、妖魔を討った。里の物理的な安全は、確かに守った」透は静かに語り始めた。「しかし、私は、お前たちの心に潜む『邪』を斬ることはできない。それは、私が剣を持つ者である限り、お前たちが私の剣に依存する限り、永遠に解決しない問題だからだ」


里人たちは混乱し、互いに顔を見合わせた。


「薬売りよ」透は甚兵衛に向き直った。「お前は、この里の内情を見事に利用した。お前の商売は、里人たちが抱える本音を映す鏡だ。お前は悪ではない。お前をこの里に呼んだのは、里人たち自身の、弱さだ」


甚兵衛の表情が、初めて微かに曇った。透が、自分自身ではなく、里人たちの心そのものを問題の根源と指摘したからだ。


透は続ける。


「剣持家は、今日をもって、お前たちの心の諍いに、剣を振るわない。里の秩序を、お前たちが自分で、築き上げねばならない」


「透様! どういうことです!」長老の一人が焦った声を上げた。「我々は、あなたに頼ってきたのだ! あなたの力こそが、里の正義ではないのか!」


「私に頼る正義は、本物の正義ではない」透は断言した。


「正義とは、他人に委ねるものではない。自ら考え、自ら行動し、その結果を受け入れることで、初めて生まれるものだ」


透は地に突き立てた刀をそのままにして、里人たちから背を向けた。


「破邪顕正。邪悪を打ち砕き、正義を明らかにせよ。私が行う『顕正』とは、里人たちが、自らの足で立つ力を取り戻すことだ」


透は、里人たちが驚きと困惑の中で見守る中、広場を去った。彼の後ろには、里人たちの自立の象徴として、英雄の刀だけが、地面に刺さったまま残された。


里人たちは、英雄の無言の宣告に、途方に暮れた。頼るべき権威が自ら剣を放棄したことで、彼らは初めて、自分たちの目の前の問題を、自分たち自身の責任として直視せざざるを得なくなった。


甚兵衛は、この予期せぬ展開に戸惑っていた。彼は、英雄の剣を恐れていたが、まさか英雄が剣を放棄し、里人たちの依存心を断ち切るとは思わなかった。


彼の商売の毒は、里人たちが依存する相手を求めていたからこそ機能していた。透の行動は、その依存の鎖を断ち切ったのだ。


甚兵衛は、里人たちの目を見た。彼らの目には、もはや「誰かに解決してほしい」という期待の色はなかった。あったのは、不安と、そして「どうすべきか」という自問の念だった。


誰も甚兵衛の薬を買おうとしなかった。彼らは、透の残した刀の周りに集まり、議論を始めた。罵倒ではなく、真剣な議論だった。


甚兵衛は、この場所で商売を続けることが不可能になったことを悟った。彼の商売は、英雄の力と、里人たちの弱さ、その対比によって成り立つ、虚構のビジネスだったのだ。


その日の夕方、甚兵衛は静かに荷物をまとめ、里を去っていった。誰にも見送られることなく。


里人たちは、透の刀が突き立てられた場所を中心に、夜通し語り合った。彼らは、剣持透という英雄が、自分たちに突きつけた試練の意味を理解し始めていた。


夜明け。透は再び広場に足を踏み入れた。


里人たちはまだ集まっていたが、その表情は昨日の混乱から一変していた。


透は静かに地面に刺さった刀を抜き取った。


「透様」鈴鹿がそっと声をかけた。「里人たちは、ご自分たちで新たな秩序を築き始めました。それは、透様の剣が成し得なかったことです」


透は鞘に刀を収めた。刀身は、里人たちの心に潜んでいた、見えない邪悪を、間接的ながらも断ち切った。


「破邪顕正の真の顕正とは、人々が自らの手で、邪悪に立ち向かい続ける力を得ることだ」


透の剣は、もはや単なる力の象徴ではない。それは、人々が自らの『正義』を磨き続ける道のりを、静かに見守るための、誓いの証となった。


(了)

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破邪顕正のあとさき*邪悪は消えても、闇は残る。 志乃原七海 @09093495732p

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