第2話:薬売りの囁き

## 破邪顕正のあとさき


### 第2話:薬売りの囁き


里に立ち寄った薬売り、甚兵衛(じんべえ)は、すぐに里人たちの間で話題の中心となった。彼の商売は単なる薬の売買に留まらなかった。彼は、里人たちが抱える小さな不安や嫉妬を、まるで漢方薬のように調合し、提供した。


甚兵衛の商売の仕方は巧妙だった。彼は広場で小さな集会を開き、里の主婦たちや商人たちに話しかける。


「いやはや、剣持様には頭が下がりますな。里の平和を護ってくださった」甚兵衛はまず英雄を称える。


里人たちが満足げに頷くのを確認してから、彼は核心に触れる。


「しかし、平和になったのは結構。だが、本当に利益を得ているのは、一部の裕福な者だけではないですか? 剣持様に沢山の謝礼を献上できる者だけが、恩恵を独占している。おかしいと思いませんか?」


甚兵衛の言葉は、里人たちの心に巣食っていた、小さな不満を正確に突いていた。妖魔という共通の敵が消えた今、里人たちの目は、隣人の持つ富や名声、そして剣持家からの評価へと向かい始めていたのだ。


甚兵衛は微笑む。


「ご心配なく。この『安寧の香』を焚けば、少なくとも心の中のざわめきは治まりますよ。ただし、これを焚く資格があるのは、真に里の復興に尽力した方だけです」


彼は『優越感』と『嫉妬心』という最も強いスパイスで、里人たちの心の不和をかき立てた。


里の秩序は、急速に乱れていった。


「あいつは剣持様への献上をサボった! あいつには里の共有物を使う資格はない!」


「お前こそ、薬売りの言うがままに、近所の悪口を言いふらしている!」


里の集会は罵倒の応酬になり、かつて共同で妖魔に立ち向かった連帯感は、脆くも崩れ去った。


透は、自室でその混乱の報を聞いていた。


「透様。里の長老たちが、甚兵衛という薬売りの追放を求めています」宗介が憤慨した様子で報告した。「彼は明確に里の和を乱しています。剣持様の力で、里から追い出すべきです!」


透は静かに茶を啜った。


「宗介。甚兵衛は、里の掟を破ったか?」


「いえ……しかし、彼の言動は、里の精神的な秩序を破壊しています!」


「精神的な秩序か」透は呟く。「その秩序は、元々、私という外部の力に依存して成り立っていた脆いものだったということだ」


透は立ち上がった。


「剣持家は、私的な感情で人間を排除することはできない。里人自身が、彼の商売の毒性に気づき、拒絶せねば、根本的な解決にはならない」


しかし、長老たちは待てなかった。彼らは透を訪ね、強く迫った。


「透殿! 頼む! あの男は、里を内部から蝕んでいる。かつての妖魔よりもたちが悪い! 破邪顕正。どうか、彼の邪悪な商売を断ち切ってくれ!」


長老たちの瞳は、怯えと、再び英雄に依存したいという願望に満ちていた。彼らが透に求めているのは、彼らの都合の良い『正義』の代行だった。


透は決心し、甚兵衛のいる広場へと向かった。


甚兵衛は、里人たちに囲まれ、上機嫌で商売をしていた。透が近づくと、里人たちの視線が一斉に甚兵衛から透へと移った。期待と沈黙が広場を支配する。


甚兵衛は透を見て、深く頭を下げた。芝居がかった敬意だった。


「おお、剣持様。里の英雄が、この貧しい薬売りの商売をご覧になってくださるとは、光栄の至り」


透は静かに甚兵衛に向き合った。


「薬売りよ。里人たちが、お前を追放するように求めている」


甚兵衛は肩を竦めた。「それはお気の毒な。しかし、私は何も法を犯してはおりません。ただ、里人たちが欲しがるものを、売っているだけです」


透は一歩踏み出した。里人たちが固唾を飲んで見守る。彼らは、英雄の剣が振り下ろされる瞬間を待っていた。


「お前が売っているのは、薬ではない。人の心の闇だ」透は断じる。


甚兵衛は笑った。その笑顔には、一切の悪意も、恐怖もなかった。ただ、商人の冷徹な計算があった。


「それは酷い言いがかりですな、剣持様。闇? 私は、真実を売っているのですよ」


甚兵衛は続ける。「この里は、あなた様が討ち滅ぼした妖魔によって、一つにまとまっていた。皆が恐怖を分かち合い、手を携えていた。しかし、その恐怖が消えた今、人々は『自分のこと』を考え始める」


甚兵衛は里人たちを指さした。


「里人たちは皆、自分が一番正しく、一番苦労したと思っています。私がしているのは、その不満を言語化して、彼らに安心感を与えているだけ。彼らは自分の胸の内の毒を、私の薬で解放しているのです」


透の瞳が甚兵衛を鋭く射抜く。


「お前は、里の共同体を破壊している」


「破壊? いいえ、私はただ、あなた様が成し遂げた『破邪顕正』の結果を、見せつけているだけです」


甚兵衛は声を潜めたが、里人たち全員に届く音量で言った。


「剣持様は、純粋な『邪悪』を斬りました。それは明確で、誰もが納得する正義の行使でした。しかし、私はどうです? 私は、ただの人間だ。私を斬れば、あなたは人殺しになる。あなたの『正義』の刀は、私のような曖昧な人間を斬ることを許しますか?」


広場は静寂に包まれた。里人たちは、期待に満ちていた顔から、一転して不安げな表情に変わった。彼らの英雄が、初めて明確な答えを出せない状況に陥っている。


透は刀に手をかけた。鞘越しに伝わる冷たい鋼の感触。


甚兵衛の言葉は、透の最も恐れている真実を突いていた。


もし、透が甚兵衛を力で排除したとすれば、里人たちは安堵するだろう。だが、それは彼らの問題を剣に丸投げし、自らの手で『正義』を築く機会を永遠に奪うことになる。


透が甚兵衛を斬ることは、里人たちにとって都合の良い『悪』の排除であり、彼らの依存をさらに深める行為にしかならない。


「あなたは、私の真の敵ではない」透は手を刀から離し、重い声で言った。


甚兵衛は勝ち誇ったように笑った。


「光栄です、剣持様。では、私は商売を続けさせていただきます。里人たちは、まだ、私を必要としていますから」


透は広場を後にした。彼の背中に、里人たちの失望と、甚兵衛の嘲笑が突き刺さった。


英雄の刀は、明確な敵を失い、新たな、より深く、より厄介な人間の心の闇の前で、無力に立ち尽くしていた。


(第3話へ)

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