第44話 封
八通目の便りは、墨が裏まで抜けていた。
雪の緩み始めた朝、
「村はずれ、林に人がおり候。倒れ候えども動き候。近づきたる者、手を掴まれ候。いたく腫れ候。いかがいたすべきや。急ぎお越し下されたく候」
「候ばっかりだな」
「丁寧に書こうとなさったのでしょう」
「倒れてるのに、動いてる」
「怪我をなさった方は、村においでですか」
「はい。林のそばで、皆と」
「先に戻って、近づかぬよう伝えてください」
男が門を出る間に、薬箱を開いた。
上へ晒しを重ね、針の包みと血止めを脇へ寄せる。添え木を蓋の裏へ挟むと、楊文が便りを畳んで卓へ置いた。
「急いで書いたんだろうな」
「返事を持たずに帰してしまいました。私どもも急ぎましょう」
沈曉は剣を帯び、符紙の束を懐へ入れた。書いてあるものが四枚、白紙が二枚。
*
林は村から半里ほど離れていた。
木立の手前に、名主と男が四人、固まっている。
「あちらです」
名主の指が細かく震えた。
「近づかんでください。半刻ほど前にも、若い衆が腕を掴まれました」
「便りにあった方とは、別の方ですか」
「はい。離れろと言うたのですが」
押し出されるように若者が一歩出た。大きな身体を縮め、左手で袖をたくし上げると、右の前腕に五本の痣が浮いていた。
沈曉はその腕を受けた。
腫れた皮膚の下へ、指の跡が同じ濃さで沈んでいる。親指のかかったところから腕の裏へ回るところまで、紫の帯を押しつけたように揃い、縁だけが赤く滲んでいた。
顔をしかめた若者が腕を引きかけたので、沈曉は支える手の位置を変えた。
「痛みますか」
「今は、そんなに。……手が、変な感じです」
「指を動かしていただけますか」
握って開く指を見、手の先の温かさを確かめた。薬を出しながら、握りが戻らぬようなら今夜でも呼ぶように、と名主へ伝える。便りに書いた最初の怪我人も診ることにしてから、若者へ尋ねた。
「掴まれたあと、相手は締め直しましたか」
「……しません。掴んだまんまでした。ずっと同じ強さで」
「離した時は」
「急に、ぱっと離れました」
名主が後ろを振り返った。
木の間に男が立っていた。身体が片方へ傾き、片腕が
「便りには、倒れていると」
「初めは倒れとったんです。助け起こそうとして、最初の者が掴まれましてな。夕方には、ああして立っとりました」
「一体だけですか」
「見た限りは。今朝も、同じ場所に」
名主が声を落とした。
「道士様。これは、何でございますか」
沈曉は木立を見たまま、しばらく答えなかった。名主の背後で男たちが一歩寄り、鍬の先が雪を掻いた。
「幽鬼とは、違います」
「では、何と」
「名は、まだございません」
「うちの若い衆は、名を呼んでやれば戻ると言っとります。あれが、村の誰かなら」
「呼ぶのは、弔いの作法でございます。止める術ではございません」
沈曉は近寄りかけた男たちへ手を向けた。
「知ったお顔でも、傍へはおいでにならぬよう」
楊文が隣へ来た。
「うちのと、同じじゃねえのか」
名主に聞かせぬほど低い声だった。
「あれは、死ぬ手前で留めてありました。留めたものを外せば、死が追いつきます」
「これは」
「死んでから、留めてあります。……還ろうとするものを、引き留めてある」
楊文の手が、剣の柄へ下りた。
「死なせねえのと、帰らせねえのと、か」
「はい。離れていてください」
「一緒に行く」
「符が効きません。斬っても、止まりません」
「知ってる。あんたから聞いた」
「だから、行く」
二人で木立へ入った。
十歩ほど手前で、湿った土と紙の匂いが届いた。若い男だった。頬の肌は張り、顎に細い髭が残っている。道服の襟を見て、沈曉は足を緩めた。
先日、無人の観に掛かっていたものに、仕立てが似ていた。
「あの観の者かもしれません」
「先だって行った、あそこか」
「似た道服がありました」
「あそこからは、北へ引きずった跡があった。なんで南に」
「列から、落ちたのかもしれません」
「列から」
男の顔が向いた。
開いた目は二人の顔を捉えず、その下で、傾いていた胴だけが起きる。
速かった。
楊文が前へ出かけ、沈曉はその肩を引いた。こちらへ伸びた手を、楊文の剣が外へ弾く。その下を沈曉がくぐり、男の胸へ左の掌を当てた。
背後で、楊文が衣を掴み損ねた。
冷たさが手首まで上がってきた。
生きた人の脈の下に触れる流れも、死の際に細ってゆくものも、掌を押し返してこない。
長く水を汲まぬ井戸へ手を差し入れ、石の肌だけに触れるようだった。
中に、誰もいない。
それでも肩が動き、足が踏み出そうとする。
沈曉は掌を少し上げた。胸の中央から髪ほどの糸が出て、短く途切れている。先はどこへも続かず、切れ口だけが外へ向き、かつて引かれた張りを、まだ残していた。
左の指を、その上へ重ねた。
触れると、糸が指の腹で細かく震える。指をずらさずに押さえているうち、男の腕が下がり、膝が僅かに折れた。
「動きが」
「鈍らせただけです。長くは持ちません」
「どうする」
「結びます。薬箱を、ここへ」
楊文はすぐ傍らへ箱を下ろし、蓋を開けた。
沈曉は右手で懐の符を一枚抜き、胸へ当てた。書かれた朱へ指を添えても、紙は濡れた衣を滑り落ちる。楊文がそれを拾い、開いた箱の隅へ置いた。
「筆は」
「細い方を。朱は、帯の内にございます」
楊文の手が腰へ入り、小さな朱入れを抜いた。沈曉は左手を離さずに膝をつき、差し出された蓋の上へ、白紙を一枚広げた。
指の下で、糸が鳴りたがっていた。
押さえる力を緩めると、男の肩がこちらへ寄る。楊文が箱の蓋を近づけ、沈曉は右手の筆を朱へ浸した。
いつもの書き出しを置かず、輪を一つ、閉じる。その内へ短い線を入れ、結び目をつくるように筆を返すと、紙の細かな繊維へ、朱が沁みて広がった。
筆を置いた。
男の胸へ紙を当て、左の指で押さえた糸を、その輪の内へ収めてゆく。右手を添え、印を結ぶ。最後の指が納まったところで、男の膝が落ちた。
雪を押して、両膝が沈む。
腕も下がり、こちらへ曲がっていた指が開いた。目だけは、沈曉の肩の向こうへ向けたまま、閉じなかった。
胸の内が熱く、息を吸うと、襟元の汗だけが急に冷える。印をほどいた指を膝へ戻しかけたところへ、肩を掴む手が来た。
楊文の手だった。
指が衣を寄せ、その下の肩まで確かめるように止まる。沈曉が顔を上げても、すぐには離れなかった。
「……いや」
楊文は手を下ろした。剣を持ち直し、空いた掌を一度開いてから、握る。
沈曉は肩へ触れかけ、膝へ手を下ろした。
「効いてるのか、それ」
「押さえているだけです」
「符には見えなかったぞ、今の」
「符でございます。ただ、名はございません」
「名のねえ符か」
「今、初めて書きました」
楊文は雪についた膝を見て、それから男の顔を見た。
「こいつには、あったんだろうな。名前」
*
「終わりましたか」
名主が木立の手前まで来ていた。
「押さえただけです。まだ、動きます」
「では、どうすれば」
「連れて帰ります」
楊文がこちらを向いた。
「山へ、です」
「あんた、それは」
「調べなければ、分かりません」
胸の紙が、濡れた道服に貼りついていた。
沈曉は薬箱の蓋に残った朱を拭い、男の膝へ目を戻した。
雪に沈んだ衣の下で、若い足が揃っている。
「うちには、子供が四人いる」
「はい」
「それでも、持って帰るのか。理由を言え」
「ここへ置けば、今夜にも緩むかもしれません。そばで結び直す者が要ります」
「村へ行くか」
「分かりません。残すなら、私もここにおらねばなりません」
「焼くって手もあるぞ」
沈曉は男の手を見た。爪の欠けた指が雪へ触れ、溶ける水もなく、そのまま沈んでいる。
「止めて、送る方法を探したいのです。焼くだけで済ませれば、次に来た者にも、それしかできません」
楊文はしばらく黙り、刃についた水を払って鞘へ収めた。
「四人だぞ」
「はい」
「あんたが数えてる中に、あの子らも入ってるんだろうな」
「入っております」
楊文は物を測るように男の肩から膝まで見た。
「縄は、俺が掛ける。子供らの出入りする所には置かねえ」
木立の外で、村の男が口を開いた。
「役所には、届けますか」
「届けた方が、よろしいでしょうか」
日に焼けた男は名主を見、もう一度、膝をついた
「届けると、買いに来ます。去年、隣で人が死んだ時に、そうでした。値を言われて、家の者が受け取って、そのまま」
「返っては、こなかったのですね」
「札一枚と、銭です。銭はその場で。受け取ったっていう札だけ、ひと月あとに」
名主が袖を引いた。
男は黙りかけ、引かれた袖を見下ろしてから、もう一言だけ足した。
「買われていった先が、これじゃないと、誰が言えますか」
楊文が男の道服の襟を直した。
肩を起こし、襟元から胸の紙へ手を移す前に、沈曉の方を見た。沈曉が首を振ると、そこは触れずに手を退けた。
「うちの裏山に、置くのか」
「いえ。物置でよろしいかと」
「墓の傍には、置くなよ。あそこは、寝てる奴らの場所だ。こいつは、寝てねえ」
名主が納屋から戸板と縄を出した。
胸の紙を避けて身体を縛り、腕と脚もそれぞれ留める。先に怪我をした男を家先で診てから、二人は戸板の前後へ回った。
楊文が前を持ち、沈曉が後ろを上げる。
重かった。
坂へかかっても、担がれている身体は傾きを助けず、戸板の上でまっすぐこちらへ重みを返してくる。肩を貸した病人なら、苦しいなりに首を寄せ、背を預ける。その小さな動きが一つもなく、沈曉は柄へ掛けた指を、深く握り直した。
名主だけが山道の入口までついてきた。
「あの、この者は」
「調べます」
「それから」
「送ります。方法が、分かれば」
「分からなかったら」
沈曉は答えずに足を止め、名主が差し出した包みを見て、首を振る。
「頂けません」
「薬代です。人を診ていただきましたので」
名主は手を引っ込めなかった。楊文が戸板の前を岩へ預けて待っている。沈曉は後ろも下ろし、包みを受け取った。
山道では幾度も休んだ。
日の残るうちは腰ほどの岩へ戸板を渡し、暗くなってからは、道の平らなところを選んで下ろす。楊文が薬箱に括っていた
休むたび、沈曉は胸の紙へ指を添えた。
朱はまだ濃く、輪の内側に糸が収まっている。顔を上げたとき、男の右手の指が二本、曲がって伸びた。
「動くぞ」
楊文が剣へ手を掛けた。
「指だけです」
「指だけで済むのか」
「……今は」
沈曉は印を結び直し、動きがやむのを待ってから、戸板を持ち上げた。
曲がった指の間に、細い空きがあった。柄を握るなら、そこへ入る。何もないところを閉じ、また開いた指を、担いで歩く間も、ときおり灯が照らしていた。
*
山門をくぐると、
提灯に照らされた戸板を見て足を止め、後ろの
「近づくな」
楊文の声が庭へ響いた。
「阿柏。三人を堂へ入れろ。戸を閉めて、開けるな」
阿柏が二人の間へ入った。
「先生。あれ、生きてますか」
「亡くなった方です。ただ、まだ動きます」
「……死んでるのに?」
「はい。ですから、近づかないでください」
阿禾は戸板を見てから、一歩退いた。
「それは、分かりました」
阿柏の手に促され、今度は堂へ入った。
物置の道具を壁際へ寄せ、戸板を床へ下ろした。
楊文が縄の結びを確かめる間、沈曉は印を組み直し、それから男の手を灯へ向けた。
掌に厚いところがある。
指の付け根から斜めに擦れ、柄を受けるあたりの皮が平たく硬くなっていた。もう片方にも似た跡があり、沈曉は自分の指の腹で、その縁をなぞった。
掌を下へ返し、戸板の上へ戻した。
戸を閉めて、
楊文はその木へ手を置いたまま、沈曉を見た。
「これ、いつまでやる」
「分かるまでです」
「分かるまでな」
戸の隙間から、運んできた土の匂いがした。楊文は閂を押して動かぬことを確かめ、ようやく手を離した。
「飯だ。食え」
沈曉は少し遅れて歩き出した。
懐の包みが薬箱の縁に触れたので、灯の届くところで開いてみると、銭が三枚、干した
銭だけを別にし、棗を包み直して堂へ持っていった。
戸を開けると、四人の顔がこちらを向いた。
沈曉は卓へ包みを置いた。阿禾の手が伸び、途中で楊文を見る。楊文が顎を動かすと、ようやく一つ取り、隣へ包みを押した。
*
毎朝と毎夕、沈曉は物置に入った。
戸を開ける前に堂の子供たちへ声を掛け、楊文が入口に立つ。縄を確かめてから、灯を男の顔へ寄せ、首や手首に指を置いた。
脈は返らなかった。
胸へ耳を当てても、衣の擦れる音だけが近く聞こえる。床板と同じ冷たさが頬に移り、離れてしばらくしてから、自分の皮膚が温かさを取り戻した。
男の肘は曲げられた。
支えを外せば戻り、掌も、指を一本ずつ開けばその形になる。林で見つけたときからあった腕の傷を拭いて晒しを巻いたが、翌朝も、その次の朝も、傷の縁は同じところにあった。
灯を近づけても、目は応じなかった。
だが、沈曉が三歩の内へ入ると、首が僅かにこちらへ回る。灯だけを先へ差し出しても変わらず、自分が近づいたところで、頸の筋が衣を引いた。
沈曉は床の継ぎ目に印をつけ、翌日も同じところに立った。
「増えも減りもしません」
紙へ書いた傷の長さを、今日のものと並べてみる。自分の指には、戸板を握って擦れた赤みがまだあり、そこへ筆が触れると痛んだ。
物置へ入るたび、沈曉は胸の符を確かめ、結び直した。
初めはすぐに収まった糸が、次の夕方には指の間へ残り、その夜は、最後の印をほどくまでに、幾度も息を継いだ。
三日目の夜半、戸を打つ音がした。
二度、三度と続いてやみ、沈曉が外へ出ると、楊文も剣を提げて堂の脇を回ってきた。
灯を渡し、閂を外した。
骸は縛られたまま、戸板ごと床を擦っていた。右腕が縄の許すところまで上がり、肩が動くたび、板の端が戸へ当たる。
胸の紙は、まだついていた。
朱の輪だけが薄くなり、灯を近づけると、その下の道服の染みが透けて見えた。
沈曉は膝をつき、印を組んだ。
上がっていた腕が徐々に下がり、戸板の軋みが止まる。指を解こうとすると、胸の奥で糸が押し返してきた。
「三日か」
楊文が灯を下ろした。
「持たなくなってきてんのか」
「はい。書き直しても、次は二日持つかどうか」
「減るのか、持ちが」
「糸が、
沈曉は片手を胸へ置き、もう片方の指で、短く捩る形を示した。
「結びの内で太くなり、押し広げようとします。初めは髪ほどでした。今は、麻糸ほどに」
「書き直すたびに、強く結ぶのか」
「はい。根競べです」
「どっちが先に尽きる」
「こちらです。あちらは、疲れません」
楊文は沈曉の手を見た。組み合わせた指の節が、灯の下で白く浮いている。
「じゃあ、どうする」
「断ちます」
「断てんのか」
「傀儡なら、糸の先に手がございます。手を止めるか、糸を断てば落ちます。これには、その先がございません」
胸の紙を押さえた指に、細かな震えが来た。
「断ったあと、何が残るかは、まだ」
「……やれ。ここにいる」
楊文が戸板の脇へ座った。
沈曉は薄れた符を剝がし、膝の上へ置いた。押さえていた糸が、掌へ食い込むように張る。もう片方の手で朱入れを開け、指の腹へ朱を取った。
縒れた糸の表を探った。
輪の内へ納めたときの細さはなく、指を当てたところから外へ、硬いものが逃げようとする。その脇へ爪を沿わせ、朱のついた指を横に引いた。
断った。
縄が緩んだ。
腕が落ち、膝が外へ開き、最後に首が横を向いた。倒れる身体を楊文が戸板の縁で受け止め、沈曉は胸から手を離した。
男の目は開いていた。
顔を寄せても、三歩の内へ膝を進めても、その目も首も動かなかった。
「終わったのか」
「止まりました」
「それだけか」
「それだけです」
沈曉は膝の紙を取った。朱の輪が途中で切れ、剝がした端には、衣の繊維がついていた。
戸板の上では、若い男がこちらへ顔を向けている。
その顔に呼びかける名を、沈曉はまだ書けなかった。
*
翌朝、楊文が荷を出した。
「俺、下りてくる」
「どこへ」
「峠向こうだ。あの観の墓、雪が緩んでるだろ。引きずった跡も、続きが見えるかもしれん」
「私も」
「あんたは残れ。あれの面倒があるだろ」
物置の方を顎で示した。
「止まっております」
「止まってるもんの面倒を見るのは、あんたの仕事だ」
「一人では」
「阿柏を連れる。剣は持たせん。荷持ちだ」
「あの観まで、連れておいでになるのですか」
「跡を見る。先に人がいりゃ、引き返す。三日だ。こないだと同じ宿を使う」
楊文は荷の口を結び、沈曉へ顔を向けた。
「一人じゃ行くなって話だろ。あんたがこっちを離れられねえなら、あいつしかいねえ」
「日が落ちる前に、宿へお戻りください」
「分かった」
阿柏が外衣を着て出てきた。
楊文はその荷紐を引き、肩から落ちぬところへ直してから、沈曉を振り返った。
「あんた、紙は足りてるのか」
「白紙は、あと一枚です」
「一枚か」
「麓で、買ってまいります」
「俺が買ってくる。どういうのがいる」
「厚い方がよろしいです。薄いと、朱が抜けます」
「厚いの、高いんだよな」
「高うございます」
「値切れねえのか、それは」
「安い方を、と言うと、薄いものを出されることがあります。束の上と中で、紙が違うことも」
「一枚ずつ見ろってか」
「できましたら」
楊文は笑い、阿柏の荷へ手を置いた。
「聞いたな。お前も見ろ」
「はい」
門を出る前に、楊文がもう一度振り向いた。
「あれが動いたら、逃げろよ」
「動きません」
「動いたら」
沈曉は門柱から手を下ろした。
「見立てが違っていたということです。子供たちを連れて、離れます」
「即答だな」
「同じ押さえ方は、できませんので」
「そういうとこは、信用できる」
阿柏を先へ行かせ、楊文も坂を下りた。
沈曉は二人の足音が遠ざかるまで門に立ち、それから戸を閉めた。閂を掛けた手へ木の冷たさが残り、確かめるように、もう一度押した。
*
その日、物置へ小さな板を持って入った。
削っておいた、何も書かれていない牌だった。
戸を閉め、灯を壁際へ置く。骸は戸板の上で横を向いたままだった。近づいても変わらぬことを確かめてから縄を解き、肩と腰の下へ布を差し入れた。顔を上へ向け、襟を合わせると、運ばれてきたときより若く見えた。
沈曉は枕元に座った。
掌を胸へ置いても、糸は返らない。指を離し、膝へ牌を据える。名を書くところに、削った木の筋が細く通っていた。
傍らの紙に、年の頃を書いた。
二十ほど。道服の襟の仕立て。柄を握り続けた掌。
そこまで書き、男の顔を見直した。目尻の形も、耳の下の小さな傷もある。この顔を知っている者なら、戸板の傍へ膝をついたとき、別の一語を口にする。
筆を、牌の上へ運んだ。
穂先は木へ届かなかった。
年も、衣も、掌の厚みも、紙の上に並んでいる。胸へ掌を戻しても、そこから先へ手を導くものはなく、灯の油が減る間、沈曉は同じところに座っていた。
やがて筆を洗い、白い牌を男の枕元へ置いた。
翌日も、物置の戸は静かだった。
阿淵と小鵲が薪を運ぶとき、二人はその前だけ足を速めた。薪が一本落ち、阿淵が拾う間、小鵲は先へ行かずに待っている。沈曉が戸の外から声を掛けると、二人とも顔を上げ、何も言わずに堂へ戻った。
朝の稽古の音は三人分だった。
阿淵が先に振り、小鵲と阿禾が追う。刃の下りる間が揃わず、ときおり誰かが足を踏み直す音がした。沈曉は薬を刻む手を休め、その音をしばらく聞いていた。
三日目の夕方、阿禾が物置の前で止まった。
薪を抱えた胸の上に顎を載せ、沈曉の手元を見ている。
「先生」
「はい」
「中の人は、名前がないんですよね」
「私には、分かりません」
「なら、僕がつけてもいいですか」
沈曉は閂へ置いた手を止めた。
「……この方が呼ばれていた名を、先に探しましょう」
「見つからなかったら」
抱えた薪の端が、少年の袖から突き出していた。沈曉は落ちかけた一本を受け、腕の上へ戻した。
「まだ、探せることがございます」
阿禾は口を尖らせ、薪を抱え直した。堂へ向かいかけ、もう一度振り返る。
「でも、名前がないと、可哀想です」
沈曉は返さなかった。
*
楊文が戻ったのは、その夜遅くだった。
門を叩く音がし、沈曉が開けると、阿柏が先に入ってきた。口を開きかけて閉じ、荷を下ろそうとした指が紐から滑った。
楊文は後ろにいた。
額に汗が浮き、襟の内側が濡れている。息を吐くたび、胸元から夜気へ白いものが出て、顔の前を過ぎた。
「見た」
「隊列だ」
沈曉は門を閉めた。
楊文が懐から包みを出す。油紙の角が折れ、紐が食い込んでいたが、開いた内側には、白い紙が二十枚ほど揃っていた。
「買ってきた」
「……ありがとうございます」
「厚いのにした。高かったぞ」
「おいくらでしたか」
「言わねえ」
楊文は土間の上がり口へ腰を下ろした。
沈曉は一枚を指で挟み、少し撓ませてみた。頼んだ厚さだった。端が滑らかに切り揃えられ、束の途中から抜いたものにも、薄いところはなかった。
堂へ二人を上がらせ、火鉢を寄せた。
阿柏の手は震えていた。濡れた袖を捲り、湯の入った椀を持たせると、指が縁へ強く掛かる。小鵲が起きてこようとしたので、沈曉は今夜は休むよう告げ、堂の戸を閉めた。
「話せますか」
「ああ」
昨日の昼、峠向こうの観へ着いたという。
雪は緩んでいたが、消えた跡がそのまま出てくるわけではなかった。裏門の北側で泥を払うと、低い枝へ布の切れ端が引っ掛かり、その下の土に、何かを引いた幅の広い擦れがあった。
辿った先は、荷を運ぶ細道だった。
「
「先へ進まれたのですか」
「少しな。小屋が一つあった。空だ。中に、縄と
「人のいた跡は」
「炉には灰があった。新しいかどうかは、分からねえ」
楊文は椀を持ち上げかけ、また膝へ戻した。
「戻りかけたところで、音がした」
阿柏の指が、椀の縁を擦った。
足音だった。幾人もいるはずなのに、一つの足が何度も地を打つように聞こえ、二人は道を外れて藪へ入った。阿柏を伏せさせ、楊文は木の陰から見た。
「五十はいた」
「四列で、長かった。声も、灯りもねえ。あんたの言った通りだ」
「顔は」
「見えた。近かったからな」
楊文の指が、椀の腹へ食い込むように曲がった。
「若い奴が多かった。二十かそこらだ。道服の奴も何人かいた」
「歩き方は」
「揃ってた。揃いすぎてた」
「踏み出す前に、揺れましたか」
「揺れねえ。一遍も揺れねえ。あれは、歩いてんじゃねえ。運ばれてるみたいだった。自分の足で」
沈曉は新しい紙を一枚取った。
墨を含ませた筆が、紙へ滑らかに下りた。昨夜の日付を書き、場所を尋ねて添える。阿柏が火へ手を伸ばし、途中で止めて、また椀を持った。
「音は」
「足音だけだ。……いや」
楊文が湯を見た。
「琴だ。遠くで、ずっと同じ調子で鳴ってた。あの晩あんたが言ってたやつだ。列が通る間じゅう、止まらなかった」
「後ろは、どうなっておりましたか」
「後ろ」
「列の、いちばん後ろです」
楊文はしばらく黙り、膝の上で椀を回した。
「……車が一台、ついてた」
「荷は」
「空だ。何も載ってねえ」
「空の車が、列の後ろを」
「そうだ」
筆の先に墨が溜まった。
沈曉は余白で整えてから、空の車、と書いた。物置へ運んだ男の、何も握らぬ二本の指が目に戻った。
「どうした」
「いえ。五十というのは、どのように数えられました」
「手前の列を数えた。十三あたりで木に隠れた。その向こうにも同じだけ続いてりゃ、五十を越す」
沈曉は数の脇へ小さく丸を打ち、およそ、と添えた。
「先頭に、生きた者はおりましたか」
楊文の顔が火へ向いた。
「……馬が一頭いた。乗ってたのは、一人だ」
「顔は」
「見えねえ。頭巾を被ってた。腕に、板みたいなもんを抱えてた。琴は、そこから鳴ってたんだと思う」
「馬は、どのように」
「並足だ。列と、同じ速さでな」
沈曉は、それも書いた。
馬がいて、乗る者がいる。どこで水を与え、どこで休むのか。紙の端に問いを一つ置き、筆を下ろした。
「そのあとは」
「列が行ってから、道へ戻った。宿で夜を明かして、今朝、こっちへ向かった」
楊文は椀を卓へ置いた。離れた指が少し震え、膝の上へ戻ると、衣を掴んだ。
「ほかに、何か」
返事がなかった。
火鉢で炭の赤いところが崩れ、灰の陰へ沈んだ。阿柏がこちらを見た。何か言いかけ、楊文の方へ目を移して、口を閉じる。
「見間違いかもしれん」
「暗かった。顔に、木の影がかかってた。……見間違いだ」
「何を」
楊文は立ち上がった。
「疲れた。寝る」
戸口で肩が一度、柱へ触れた。直して出てゆく背を、沈曉は椅子から動かずに見送った。
*
残った阿柏は、椀を両手で包んでいた。
湯はもう少なく、底が傾くたびに、火の色が内側で揺れる。沈曉が足すと、少年は僅かに頭を下げた。
「あの」
「はい」
「先生、途中で、変になりました」
沈曉は壺を置いた。
「変に、というのは」
「隊列を見てる時です。急に、体が固まって。……それから、剣を抜こうとしました」
「抜いたのですか」
「抜きかけて、やめました。ずっと、震えてました」
阿柏の親指が、椀の縁を何度も撫でていた。
「僕が、袖を引いたんです。声を出しそうだったので」
「そしたら、先生、僕を見て、それで……戻ったみたいでした。剣から手を離して」
「よく、やりました」
少年の顔が上がった。
「あなたが引いてくれて、よかった」
阿柏は湯を飲んだ。
飲み終えるまで待ち、沈曉は声を落として尋ねた。
「帰り道は、いかがでしたか」
「……ずっと、黙ってました」
少年は膝を見たまま、しばらく考えていた。
「一度だけ、話しかけられました」
「何と」
「髪を、結い直せと」
沈曉の手が止まった。
「髪を」
「はい。藪を出て、走ってる途中で、急に立ち止まって、僕の髪を見て。ほどけてるから直せって。……それで、自分で結い直してくれました」
「ご自身の手で」
「はい。きつく結ばれて、まだ痛いです」
阿柏が後頭部へ手をやった。
紐は髪へ深く食い込み、耳の後ろから引き上げた筋まで、きっちりと揃っている。沈曉は隣へ移り、少し緩めましょう、と言って結び目に指を掛けた。
結び方は崩さず、引きすぎたところだけを戻す。
阿柏の肩が少し下がった。
「今日は、休みなさい」
「はい」
少年は立ち上がったが、戸口まで行って足を止めた。
「先生は、こわくないんですか」
沈曉は卓へ戻り、筆を取ろうとしていた。
「こわいですよ」
「では、なぜ」
火鉢の灰が崩れかけていた。沈曉は火箸で寄せ、その上へ炭を一つ足した。
「何がいるのか分からぬままでは、どちらへ逃げればよいかも、分かりませんので」
「だから、数えるんですか」
「ええ。私は、数える方が得意なのです」
阿柏は卓の紙を見てから、頭を下げた。戸が閉じても、火箸を持つ沈曉の指は、しばらく灰の上に残っていた。
少年が出ていってから、もう一行書き足した。
墨の乾く間に灯を持ち、堂を出た。
楊文の部屋は暗かった。通りかかると衣擦れがし、床板が小さく鳴った。沈曉は戸の前で歩みを緩め、そのまま物置へ向かった。
閂を確かめてから、中を見た。
骸は動かなかった。布を整え、胸へ掌を置いても、切った糸は戻っていない。枕元の牌は白いまま、灯を受けていた。
戸を閉める指の腹に、阿柏の髪を結んでいた紐の感触が残っていた。
物置の中から音はせず、楊文の部屋にも灯は点かなかった。
堂へ戻ると、四枚目の覚えが卓に広がっていた。場所と日付、呼び名、修めた法をまとめた三枚の上へ、今夜の紙を重ねる。
五十余りか。四列。空の車が一台。
墨の乾いたその下に、数でないものを一つ、書いておいた。
髪、と。
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天理の石 倣 @apricot2528
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