第44話 封

 八通目の便りは、墨が裏まで抜けていた。

 雪の緩み始めた朝、麓(ふもと)から来た男が息を切らしてそれを差し出した。折った紙を開くと、字が行を追うごとに下がり、最後は端へ詰め込まれている。差出人は道観(どうかん)の者ではなく、村の名主だった。

 楊文(ヤン・ウェン)は両手で紙を伸ばし、声に出して読んだ。

「村はずれ、林に人がおり候。倒れ候えども動き候。近づきたる者、手を掴まれ候。いたく腫れ候。いかがいたすべきや。急ぎお越し下されたく候」


「候ばっかりだな」

「丁寧に書こうとなさったのでしょう」

「倒れてるのに、動いてる」

 沈曉(シェン・シャオ)は使いの男を見た。

「怪我をなさった方は、村においでですか」

「はい。林のそばで、皆と」

「先に戻って、近づかぬよう伝えてください」


 男が門を出る間に、薬箱を開いた。

 上へ晒しを重ね、針の包みと血止めを脇へ寄せる。添え木を蓋の裏へ挟むと、楊文が便りを畳んで卓へ置いた。

「急いで書いたんだろうな」

「返事を持たずに帰してしまいました。私どもも急ぎましょう」

 沈曉は剣を帯び、符紙の束を懐へ入れた。書いてあるものが四枚、白紙が二枚。


 阿柏(アボー)に留守を頼み、麓で怪我人が出たと伝えた。二人が山を下りる道では、木の梢から雫が落ち、朝の光に一つずつ瞬いては、まだ凍った雪へ穴を穿っていた。


     *


 林は村から半里ほど離れていた。

 木立の手前に、名主と男が四人、固まっている。鍬(くわ)を持つ者も棒を持つ者も、その先を地につけ、奥の方へ目をやっては、誰かの肩越しにこちらを窺(うかが)った。

「あちらです」

 名主の指が細かく震えた。

「近づかんでください。半刻ほど前にも、若い衆が腕を掴まれました」

「便りにあった方とは、別の方ですか」

「はい。離れろと言うたのですが」

 押し出されるように若者が一歩出た。大きな身体を縮め、左手で袖をたくし上げると、右の前腕に五本の痣が浮いていた。


 沈曉はその腕を受けた。

 腫れた皮膚の下へ、指の跡が同じ濃さで沈んでいる。親指のかかったところから腕の裏へ回るところまで、紫の帯を押しつけたように揃い、縁だけが赤く滲んでいた。

 顔をしかめた若者が腕を引きかけたので、沈曉は支える手の位置を変えた。

「痛みますか」

「今は、そんなに。……手が、変な感じです」

「指を動かしていただけますか」

 握って開く指を見、手の先の温かさを確かめた。薬を出しながら、握りが戻らぬようなら今夜でも呼ぶように、と名主へ伝える。便りに書いた最初の怪我人も診ることにしてから、若者へ尋ねた。

「掴まれたあと、相手は締め直しましたか」

「……しません。掴んだまんまでした。ずっと同じ強さで」

「離した時は」

「急に、ぱっと離れました」


 名主が後ろを振り返った。

 木の間に男が立っていた。身体が片方へ傾き、片腕が捩(ねじ)れたまま垂れている。風に道服の裾が動いても、その上の肩は、いっこうに向きを変えなかった。

「便りには、倒れていると」

「初めは倒れとったんです。助け起こそうとして、最初の者が掴まれましてな。夕方には、ああして立っとりました」

「一体だけですか」

「見た限りは。今朝も、同じ場所に」

 名主が声を落とした。

「道士様。これは、何でございますか」


 沈曉は木立を見たまま、しばらく答えなかった。名主の背後で男たちが一歩寄り、鍬の先が雪を掻いた。

「幽鬼とは、違います」

「では、何と」

「名は、まだございません」


「うちの若い衆は、名を呼んでやれば戻ると言っとります。あれが、村の誰かなら」

「呼ぶのは、弔いの作法でございます。止める術ではございません」

 沈曉は近寄りかけた男たちへ手を向けた。

「知ったお顔でも、傍へはおいでにならぬよう」


 楊文が隣へ来た。

「うちのと、同じじゃねえのか」

 名主に聞かせぬほど低い声だった。

「あれは、死ぬ手前で留めてありました。留めたものを外せば、死が追いつきます」

「これは」

「死んでから、留めてあります。……還ろうとするものを、引き留めてある」

 楊文の手が、剣の柄へ下りた。

「死なせねえのと、帰らせねえのと、か」

「はい。離れていてください」

「一緒に行く」

「符が効きません。斬っても、止まりません」

「知ってる。あんたから聞いた」

 鞘(さや)から抜ける刃に、雪の白さが移った。

「だから、行く」


 二人で木立へ入った。

 十歩ほど手前で、湿った土と紙の匂いが届いた。若い男だった。頬の肌は張り、顎に細い髭が残っている。道服の襟を見て、沈曉は足を緩めた。

 先日、無人の観に掛かっていたものに、仕立てが似ていた。

「あの観の者かもしれません」

「先だって行った、あそこか」

「似た道服がありました」

「あそこからは、北へ引きずった跡があった。なんで南に」

「列から、落ちたのかもしれません」

「列から」


 男の顔が向いた。

 開いた目は二人の顔を捉えず、その下で、傾いていた胴だけが起きる。白澗観(はくかんかん)の者が動くときには、襟を直す手や、片方だけ強く出る足があった。この男は、向きを変えた姿勢のまま、足を出した。

 速かった。


 楊文が前へ出かけ、沈曉はその肩を引いた。こちらへ伸びた手を、楊文の剣が外へ弾く。その下を沈曉がくぐり、男の胸へ左の掌を当てた。

 背後で、楊文が衣を掴み損ねた。


 冷たさが手首まで上がってきた。

 生きた人の脈の下に触れる流れも、死の際に細ってゆくものも、掌を押し返してこない。隘路(あいろ)の闇では触れた途端に次の手が来た。今は楊文が、横から回る腕を受けている。その間に沈曉は、胸の奥へ、さらに深く触れた。


 長く水を汲まぬ井戸へ手を差し入れ、石の肌だけに触れるようだった。

 中に、誰もいない。


 それでも肩が動き、足が踏み出そうとする。

 沈曉は掌を少し上げた。胸の中央から髪ほどの糸が出て、短く途切れている。先はどこへも続かず、切れ口だけが外へ向き、かつて引かれた張りを、まだ残していた。

 左の指を、その上へ重ねた。

 触れると、糸が指の腹で細かく震える。指をずらさずに押さえているうち、男の腕が下がり、膝が僅かに折れた。

「動きが」

「鈍らせただけです。長くは持ちません」

「どうする」

「結びます。薬箱を、ここへ」


 楊文はすぐ傍らへ箱を下ろし、蓋を開けた。

 沈曉は右手で懐の符を一枚抜き、胸へ当てた。書かれた朱へ指を添えても、紙は濡れた衣を滑り落ちる。楊文がそれを拾い、開いた箱の隅へ置いた。

「筆は」

「細い方を。朱は、帯の内にございます」

 楊文の手が腰へ入り、小さな朱入れを抜いた。沈曉は左手を離さずに膝をつき、差し出された蓋の上へ、白紙を一枚広げた。


 指の下で、糸が鳴りたがっていた。

 押さえる力を緩めると、男の肩がこちらへ寄る。楊文が箱の蓋を近づけ、沈曉は右手の筆を朱へ浸した。

 いつもの書き出しを置かず、輪を一つ、閉じる。その内へ短い線を入れ、結び目をつくるように筆を返すと、紙の細かな繊維へ、朱が沁みて広がった。

 筆を置いた。

 男の胸へ紙を当て、左の指で押さえた糸を、その輪の内へ収めてゆく。右手を添え、印を結ぶ。最後の指が納まったところで、男の膝が落ちた。


 雪を押して、両膝が沈む。

 腕も下がり、こちらへ曲がっていた指が開いた。目だけは、沈曉の肩の向こうへ向けたまま、閉じなかった。


 胸の内が熱く、息を吸うと、襟元の汗だけが急に冷える。印をほどいた指を膝へ戻しかけたところへ、肩を掴む手が来た。


 楊文の手だった。

 指が衣を寄せ、その下の肩まで確かめるように止まる。沈曉が顔を上げても、すぐには離れなかった。

「……いや」

 楊文は手を下ろした。剣を持ち直し、空いた掌を一度開いてから、握る。


 沈曉は肩へ触れかけ、膝へ手を下ろした。

「効いてるのか、それ」

「押さえているだけです」

「符には見えなかったぞ、今の」

「符でございます。ただ、名はございません」

「名のねえ符か」

「今、初めて書きました」

 楊文は雪についた膝を見て、それから男の顔を見た。

「こいつには、あったんだろうな。名前」


     *


「終わりましたか」

 名主が木立の手前まで来ていた。

「押さえただけです。まだ、動きます」

「では、どうすれば」

「連れて帰ります」

 楊文がこちらを向いた。

「山へ、です」

「あんた、それは」

「調べなければ、分かりません」


 胸の紙が、濡れた道服に貼りついていた。

 沈曉は薬箱の蓋に残った朱を拭い、男の膝へ目を戻した。

 雪に沈んだ衣の下で、若い足が揃っている。

「うちには、子供が四人いる」


「はい」

「それでも、持って帰るのか。理由を言え」

「ここへ置けば、今夜にも緩むかもしれません。そばで結び直す者が要ります」

「村へ行くか」

「分かりません。残すなら、私もここにおらねばなりません」

「焼くって手もあるぞ」

 沈曉は男の手を見た。爪の欠けた指が雪へ触れ、溶ける水もなく、そのまま沈んでいる。

「止めて、送る方法を探したいのです。焼くだけで済ませれば、次に来た者にも、それしかできません」

 楊文はしばらく黙り、刃についた水を払って鞘へ収めた。

「四人だぞ」

「はい」

「あんたが数えてる中に、あの子らも入ってるんだろうな」

「入っております」

 楊文は物を測るように男の肩から膝まで見た。

「縄は、俺が掛ける。子供らの出入りする所には置かねえ」


 木立の外で、村の男が口を開いた。

「役所には、届けますか」

「届けた方が、よろしいでしょうか」

 日に焼けた男は名主を見、もう一度、膝をついた骸(むくろ)を見た。

「届けると、買いに来ます。去年、隣で人が死んだ時に、そうでした。値を言われて、家の者が受け取って、そのまま」

「返っては、こなかったのですね」

「札一枚と、銭です。銭はその場で。受け取ったっていう札だけ、ひと月あとに」

 名主が袖を引いた。

 男は黙りかけ、引かれた袖を見下ろしてから、もう一言だけ足した。

「買われていった先が、これじゃないと、誰が言えますか」


 楊文が男の道服の襟を直した。

 肩を起こし、襟元から胸の紙へ手を移す前に、沈曉の方を見た。沈曉が首を振ると、そこは触れずに手を退けた。

「うちの裏山に、置くのか」

「いえ。物置でよろしいかと」

「墓の傍には、置くなよ。あそこは、寝てる奴らの場所だ。こいつは、寝てねえ」


 名主が納屋から戸板と縄を出した。

 胸の紙を避けて身体を縛り、腕と脚もそれぞれ留める。先に怪我をした男を家先で診てから、二人は戸板の前後へ回った。

 楊文が前を持ち、沈曉が後ろを上げる。

 重かった。

 坂へかかっても、担がれている身体は傾きを助けず、戸板の上でまっすぐこちらへ重みを返してくる。肩を貸した病人なら、苦しいなりに首を寄せ、背を預ける。その小さな動きが一つもなく、沈曉は柄へ掛けた指を、深く握り直した。


 名主だけが山道の入口までついてきた。

「あの、この者は」

「調べます」

「それから」

「送ります。方法が、分かれば」

「分からなかったら」

 沈曉は答えずに足を止め、名主が差し出した包みを見て、首を振る。

「頂けません」

「薬代です。人を診ていただきましたので」

 名主は手を引っ込めなかった。楊文が戸板の前を岩へ預けて待っている。沈曉は後ろも下ろし、包みを受け取った。


 山道では幾度も休んだ。

 日の残るうちは腰ほどの岩へ戸板を渡し、暗くなってからは、道の平らなところを選んで下ろす。楊文が薬箱に括っていた提灯(ちょうちん)を取り、戸板の前へ吊るした。

 休むたび、沈曉は胸の紙へ指を添えた。

 朱はまだ濃く、輪の内側に糸が収まっている。顔を上げたとき、男の右手の指が二本、曲がって伸びた。

「動くぞ」

 楊文が剣へ手を掛けた。

「指だけです」

「指だけで済むのか」

「……今は」

 沈曉は印を結び直し、動きがやむのを待ってから、戸板を持ち上げた。

 曲がった指の間に、細い空きがあった。柄を握るなら、そこへ入る。何もないところを閉じ、また開いた指を、担いで歩く間も、ときおり灯が照らしていた。


     *


 山門をくぐると、小鵲(シャオチュエ)が駆けてきた。

 提灯に照らされた戸板を見て足を止め、後ろの阿禾(アフー)が、その肩越しに覗こうとする。

「近づくな」

 楊文の声が庭へ響いた。

「阿柏。三人を堂へ入れろ。戸を閉めて、開けるな」

 阿柏が二人の間へ入った。阿淵(アユエン)も小鵲の腕を取って引き、阿禾だけが、引かれながら沈曉を見上げた。

「先生。あれ、生きてますか」

「亡くなった方です。ただ、まだ動きます」

「……死んでるのに?」

「はい。ですから、近づかないでください」

 阿禾は戸板を見てから、一歩退いた。

「それは、分かりました」

 阿柏の手に促され、今度は堂へ入った。


 物置の道具を壁際へ寄せ、戸板を床へ下ろした。

 楊文が縄の結びを確かめる間、沈曉は印を組み直し、それから男の手を灯へ向けた。

 掌に厚いところがある。

 指の付け根から斜めに擦れ、柄を受けるあたりの皮が平たく硬くなっていた。もう片方にも似た跡があり、沈曉は自分の指の腹で、その縁をなぞった。


 掌を下へ返し、戸板の上へ戻した。


 戸を閉めて、閂(かんぬき)を掛けた。

 楊文はその木へ手を置いたまま、沈曉を見た。

「これ、いつまでやる」

「分かるまでです」

「分かるまでな」

 戸の隙間から、運んできた土の匂いがした。楊文は閂を押して動かぬことを確かめ、ようやく手を離した。

「飯だ。食え」


 沈曉は少し遅れて歩き出した。

 懐の包みが薬箱の縁に触れたので、灯の届くところで開いてみると、銭が三枚、干した棗(なつめ)の間に収まっていた。

 銭だけを別にし、棗を包み直して堂へ持っていった。

 戸を開けると、四人の顔がこちらを向いた。

 沈曉は卓へ包みを置いた。阿禾の手が伸び、途中で楊文を見る。楊文が顎を動かすと、ようやく一つ取り、隣へ包みを押した。


     *


 毎朝と毎夕、沈曉は物置に入った。

 戸を開ける前に堂の子供たちへ声を掛け、楊文が入口に立つ。縄を確かめてから、灯を男の顔へ寄せ、首や手首に指を置いた。

 脈は返らなかった。

 胸へ耳を当てても、衣の擦れる音だけが近く聞こえる。床板と同じ冷たさが頬に移り、離れてしばらくしてから、自分の皮膚が温かさを取り戻した。


 男の肘は曲げられた。

 支えを外せば戻り、掌も、指を一本ずつ開けばその形になる。林で見つけたときからあった腕の傷を拭いて晒しを巻いたが、翌朝も、その次の朝も、傷の縁は同じところにあった。

 灯を近づけても、目は応じなかった。

 だが、沈曉が三歩の内へ入ると、首が僅かにこちらへ回る。灯だけを先へ差し出しても変わらず、自分が近づいたところで、頸の筋が衣を引いた。


 沈曉は床の継ぎ目に印をつけ、翌日も同じところに立った。


「増えも減りもしません」

 夕餉(ゆうげ)のあと、楊文にそう告げた。

 紙へ書いた傷の長さを、今日のものと並べてみる。自分の指には、戸板を握って擦れた赤みがまだあり、そこへ筆が触れると痛んだ。

 物置へ入るたび、沈曉は胸の符を確かめ、結び直した。

 初めはすぐに収まった糸が、次の夕方には指の間へ残り、その夜は、最後の印をほどくまでに、幾度も息を継いだ。


 三日目の夜半、戸を打つ音がした。

 二度、三度と続いてやみ、沈曉が外へ出ると、楊文も剣を提げて堂の脇を回ってきた。

 灯を渡し、閂を外した。

 骸は縛られたまま、戸板ごと床を擦っていた。右腕が縄の許すところまで上がり、肩が動くたび、板の端が戸へ当たる。

 胸の紙は、まだついていた。

 朱の輪だけが薄くなり、灯を近づけると、その下の道服の染みが透けて見えた。


 沈曉は膝をつき、印を組んだ。

 上がっていた腕が徐々に下がり、戸板の軋みが止まる。指を解こうとすると、胸の奥で糸が押し返してきた。

「三日か」

 楊文が灯を下ろした。

「持たなくなってきてんのか」

「はい。書き直しても、次は二日持つかどうか」

「減るのか、持ちが」

「糸が、撚(よ)れてきております」

 沈曉は片手を胸へ置き、もう片方の指で、短く捩る形を示した。

「結びの内で太くなり、押し広げようとします。初めは髪ほどでした。今は、麻糸ほどに」

「書き直すたびに、強く結ぶのか」

「はい。根競べです」


「どっちが先に尽きる」

「こちらです。あちらは、疲れません」

 楊文は沈曉の手を見た。組み合わせた指の節が、灯の下で白く浮いている。

「じゃあ、どうする」

「断ちます」

「断てんのか」

「傀儡なら、糸の先に手がございます。手を止めるか、糸を断てば落ちます。これには、その先がございません」

 胸の紙を押さえた指に、細かな震えが来た。

「断ったあと、何が残るかは、まだ」

「……やれ。ここにいる」


 楊文が戸板の脇へ座った。

 沈曉は薄れた符を剝がし、膝の上へ置いた。押さえていた糸が、掌へ食い込むように張る。もう片方の手で朱入れを開け、指の腹へ朱を取った。

 縒れた糸の表を探った。

 輪の内へ納めたときの細さはなく、指を当てたところから外へ、硬いものが逃げようとする。その脇へ爪を沿わせ、朱のついた指を横に引いた。


 断った。


 縄が緩んだ。

 腕が落ち、膝が外へ開き、最後に首が横を向いた。倒れる身体を楊文が戸板の縁で受け止め、沈曉は胸から手を離した。

 男の目は開いていた。

 顔を寄せても、三歩の内へ膝を進めても、その目も首も動かなかった。

「終わったのか」

「止まりました」

「それだけか」

「それだけです」

 沈曉は膝の紙を取った。朱の輪が途中で切れ、剝がした端には、衣の繊維がついていた。

 戸板の上では、若い男がこちらへ顔を向けている。

 その顔に呼びかける名を、沈曉はまだ書けなかった。


     *


 翌朝、楊文が荷を出した。

「俺、下りてくる」

「どこへ」

「峠向こうだ。あの観の墓、雪が緩んでるだろ。引きずった跡も、続きが見えるかもしれん」

「私も」

「あんたは残れ。あれの面倒があるだろ」

 物置の方を顎で示した。

「止まっております」

「止まってるもんの面倒を見るのは、あんたの仕事だ」


「一人では」

「阿柏を連れる。剣は持たせん。荷持ちだ」

「あの観まで、連れておいでになるのですか」

「跡を見る。先に人がいりゃ、引き返す。三日だ。こないだと同じ宿を使う」

 楊文は荷の口を結び、沈曉へ顔を向けた。

「一人じゃ行くなって話だろ。あんたがこっちを離れられねえなら、あいつしかいねえ」


「日が落ちる前に、宿へお戻りください」

「分かった」


 阿柏が外衣を着て出てきた。

 楊文はその荷紐を引き、肩から落ちぬところへ直してから、沈曉を振り返った。

「あんた、紙は足りてるのか」

「白紙は、あと一枚です」

「一枚か」

「麓で、買ってまいります」

「俺が買ってくる。どういうのがいる」

「厚い方がよろしいです。薄いと、朱が抜けます」

「厚いの、高いんだよな」

「高うございます」

「値切れねえのか、それは」

「安い方を、と言うと、薄いものを出されることがあります。束の上と中で、紙が違うことも」

「一枚ずつ見ろってか」

「できましたら」

 楊文は笑い、阿柏の荷へ手を置いた。

「聞いたな。お前も見ろ」

「はい」


 門を出る前に、楊文がもう一度振り向いた。

「あれが動いたら、逃げろよ」

「動きません」

「動いたら」

 沈曉は門柱から手を下ろした。

「見立てが違っていたということです。子供たちを連れて、離れます」

「即答だな」

「同じ押さえ方は、できませんので」

「そういうとこは、信用できる」

 阿柏を先へ行かせ、楊文も坂を下りた。

 沈曉は二人の足音が遠ざかるまで門に立ち、それから戸を閉めた。閂を掛けた手へ木の冷たさが残り、確かめるように、もう一度押した。


     *


 その日、物置へ小さな板を持って入った。

 削っておいた、何も書かれていない牌だった。

 戸を閉め、灯を壁際へ置く。骸は戸板の上で横を向いたままだった。近づいても変わらぬことを確かめてから縄を解き、肩と腰の下へ布を差し入れた。顔を上へ向け、襟を合わせると、運ばれてきたときより若く見えた。


 沈曉は枕元に座った。

 掌を胸へ置いても、糸は返らない。指を離し、膝へ牌を据える。名を書くところに、削った木の筋が細く通っていた。

 傍らの紙に、年の頃を書いた。

 二十ほど。道服の襟の仕立て。柄を握り続けた掌。

 そこまで書き、男の顔を見直した。目尻の形も、耳の下の小さな傷もある。この顔を知っている者なら、戸板の傍へ膝をついたとき、別の一語を口にする。

 筆を、牌の上へ運んだ。

 穂先は木へ届かなかった。


 年も、衣も、掌の厚みも、紙の上に並んでいる。胸へ掌を戻しても、そこから先へ手を導くものはなく、灯の油が減る間、沈曉は同じところに座っていた。


 やがて筆を洗い、白い牌を男の枕元へ置いた。


 翌日も、物置の戸は静かだった。

 阿淵と小鵲が薪を運ぶとき、二人はその前だけ足を速めた。薪が一本落ち、阿淵が拾う間、小鵲は先へ行かずに待っている。沈曉が戸の外から声を掛けると、二人とも顔を上げ、何も言わずに堂へ戻った。

 朝の稽古の音は三人分だった。

 阿淵が先に振り、小鵲と阿禾が追う。刃の下りる間が揃わず、ときおり誰かが足を踏み直す音がした。沈曉は薬を刻む手を休め、その音をしばらく聞いていた。


 三日目の夕方、阿禾が物置の前で止まった。

 薪を抱えた胸の上に顎を載せ、沈曉の手元を見ている。

「先生」

「はい」

「中の人は、名前がないんですよね」

「私には、分かりません」

「なら、僕がつけてもいいですか」

 沈曉は閂へ置いた手を止めた。

「……この方が呼ばれていた名を、先に探しましょう」

「見つからなかったら」

 抱えた薪の端が、少年の袖から突き出していた。沈曉は落ちかけた一本を受け、腕の上へ戻した。

「まだ、探せることがございます」

 阿禾は口を尖らせ、薪を抱え直した。堂へ向かいかけ、もう一度振り返る。

「でも、名前がないと、可哀想です」

 沈曉は返さなかった。


     *


 楊文が戻ったのは、その夜遅くだった。

 門を叩く音がし、沈曉が開けると、阿柏が先に入ってきた。口を開きかけて閉じ、荷を下ろそうとした指が紐から滑った。

 楊文は後ろにいた。

 額に汗が浮き、襟の内側が濡れている。息を吐くたび、胸元から夜気へ白いものが出て、顔の前を過ぎた。

「見た」

 嗄(か)れた声だった。

「隊列だ」


 沈曉は門を閉めた。

 楊文が懐から包みを出す。油紙の角が折れ、紐が食い込んでいたが、開いた内側には、白い紙が二十枚ほど揃っていた。

「買ってきた」

「……ありがとうございます」

「厚いのにした。高かったぞ」

「おいくらでしたか」

「言わねえ」

 楊文は土間の上がり口へ腰を下ろした。

 沈曉は一枚を指で挟み、少し撓ませてみた。頼んだ厚さだった。端が滑らかに切り揃えられ、束の途中から抜いたものにも、薄いところはなかった。


 堂へ二人を上がらせ、火鉢を寄せた。

 阿柏の手は震えていた。濡れた袖を捲り、湯の入った椀を持たせると、指が縁へ強く掛かる。小鵲が起きてこようとしたので、沈曉は今夜は休むよう告げ、堂の戸を閉めた。


「話せますか」

「ああ」


 昨日の昼、峠向こうの観へ着いたという。

 雪は緩んでいたが、消えた跡がそのまま出てくるわけではなかった。裏門の北側で泥を払うと、低い枝へ布の切れ端が引っ掛かり、その下の土に、何かを引いた幅の広い擦れがあった。

 辿った先は、荷を運ぶ細道だった。

「轍(わだち)があった。何度も通ってる。そこだけ土が深く切れてた」

「先へ進まれたのですか」

「少しな。小屋が一つあった。空だ。中に、縄と筵(むしろ)と、水の入ってねえ桶」

「人のいた跡は」

「炉には灰があった。新しいかどうかは、分からねえ」

 楊文は椀を持ち上げかけ、また膝へ戻した。

「戻りかけたところで、音がした」


 阿柏の指が、椀の縁を擦った。

 足音だった。幾人もいるはずなのに、一つの足が何度も地を打つように聞こえ、二人は道を外れて藪へ入った。阿柏を伏せさせ、楊文は木の陰から見た。

「五十はいた」


「四列で、長かった。声も、灯りもねえ。あんたの言った通りだ」

「顔は」

「見えた。近かったからな」

 楊文の指が、椀の腹へ食い込むように曲がった。

「若い奴が多かった。二十かそこらだ。道服の奴も何人かいた」

「歩き方は」

「揃ってた。揃いすぎてた」

「踏み出す前に、揺れましたか」

「揺れねえ。一遍も揺れねえ。あれは、歩いてんじゃねえ。運ばれてるみたいだった。自分の足で」


 沈曉は新しい紙を一枚取った。

 墨を含ませた筆が、紙へ滑らかに下りた。昨夜の日付を書き、場所を尋ねて添える。阿柏が火へ手を伸ばし、途中で止めて、また椀を持った。

「音は」

「足音だけだ。……いや」

 楊文が湯を見た。

「琴だ。遠くで、ずっと同じ調子で鳴ってた。あの晩あんたが言ってたやつだ。列が通る間じゅう、止まらなかった」

「後ろは、どうなっておりましたか」

「後ろ」

「列の、いちばん後ろです」

 楊文はしばらく黙り、膝の上で椀を回した。

「……車が一台、ついてた」

「荷は」

「空だ。何も載ってねえ」

「空の車が、列の後ろを」

「そうだ」


 筆の先に墨が溜まった。

 沈曉は余白で整えてから、空の車、と書いた。物置へ運んだ男の、何も握らぬ二本の指が目に戻った。

「どうした」

「いえ。五十というのは、どのように数えられました」

「手前の列を数えた。十三あたりで木に隠れた。その向こうにも同じだけ続いてりゃ、五十を越す」

 沈曉は数の脇へ小さく丸を打ち、およそ、と添えた。

「先頭に、生きた者はおりましたか」

 楊文の顔が火へ向いた。

「……馬が一頭いた。乗ってたのは、一人だ」

「顔は」

「見えねえ。頭巾を被ってた。腕に、板みたいなもんを抱えてた。琴は、そこから鳴ってたんだと思う」

「馬は、どのように」

「並足だ。列と、同じ速さでな」

 沈曉は、それも書いた。

 馬がいて、乗る者がいる。どこで水を与え、どこで休むのか。紙の端に問いを一つ置き、筆を下ろした。


「そのあとは」

「列が行ってから、道へ戻った。宿で夜を明かして、今朝、こっちへ向かった」

 楊文は椀を卓へ置いた。離れた指が少し震え、膝の上へ戻ると、衣を掴んだ。


「ほかに、何か」

 返事がなかった。

 火鉢で炭の赤いところが崩れ、灰の陰へ沈んだ。阿柏がこちらを見た。何か言いかけ、楊文の方へ目を移して、口を閉じる。

「見間違いかもしれん」


「暗かった。顔に、木の影がかかってた。……見間違いだ」

「何を」

 楊文は立ち上がった。

「疲れた。寝る」

 戸口で肩が一度、柱へ触れた。直して出てゆく背を、沈曉は椅子から動かずに見送った。


     *


 残った阿柏は、椀を両手で包んでいた。

 湯はもう少なく、底が傾くたびに、火の色が内側で揺れる。沈曉が足すと、少年は僅かに頭を下げた。

「あの」

「はい」

「先生、途中で、変になりました」

 沈曉は壺を置いた。

「変に、というのは」

「隊列を見てる時です。急に、体が固まって。……それから、剣を抜こうとしました」

「抜いたのですか」

「抜きかけて、やめました。ずっと、震えてました」

 阿柏の親指が、椀の縁を何度も撫でていた。

「僕が、袖を引いたんです。声を出しそうだったので」


「そしたら、先生、僕を見て、それで……戻ったみたいでした。剣から手を離して」

「よく、やりました」

 少年の顔が上がった。

「あなたが引いてくれて、よかった」


 阿柏は湯を飲んだ。

 飲み終えるまで待ち、沈曉は声を落として尋ねた。

「帰り道は、いかがでしたか」

「……ずっと、黙ってました」

 少年は膝を見たまま、しばらく考えていた。

「一度だけ、話しかけられました」

「何と」

「髪を、結い直せと」


 沈曉の手が止まった。

「髪を」

「はい。藪を出て、走ってる途中で、急に立ち止まって、僕の髪を見て。ほどけてるから直せって。……それで、自分で結い直してくれました」

「ご自身の手で」

「はい。きつく結ばれて、まだ痛いです」

 阿柏が後頭部へ手をやった。

 紐は髪へ深く食い込み、耳の後ろから引き上げた筋まで、きっちりと揃っている。沈曉は隣へ移り、少し緩めましょう、と言って結び目に指を掛けた。

 結び方は崩さず、引きすぎたところだけを戻す。

 阿柏の肩が少し下がった。


「今日は、休みなさい」

「はい」

 少年は立ち上がったが、戸口まで行って足を止めた。

「先生は、こわくないんですか」

 沈曉は卓へ戻り、筆を取ろうとしていた。

「こわいですよ」

「では、なぜ」

 火鉢の灰が崩れかけていた。沈曉は火箸で寄せ、その上へ炭を一つ足した。

「何がいるのか分からぬままでは、どちらへ逃げればよいかも、分かりませんので」

「だから、数えるんですか」

「ええ。私は、数える方が得意なのです」

 阿柏は卓の紙を見てから、頭を下げた。戸が閉じても、火箸を持つ沈曉の指は、しばらく灰の上に残っていた。


 少年が出ていってから、もう一行書き足した。

 墨の乾く間に灯を持ち、堂を出た。

 楊文の部屋は暗かった。通りかかると衣擦れがし、床板が小さく鳴った。沈曉は戸の前で歩みを緩め、そのまま物置へ向かった。


 閂を確かめてから、中を見た。

 骸は動かなかった。布を整え、胸へ掌を置いても、切った糸は戻っていない。枕元の牌は白いまま、灯を受けていた。


 戸を閉める指の腹に、阿柏の髪を結んでいた紐の感触が残っていた。


 物置の中から音はせず、楊文の部屋にも灯は点かなかった。

 堂へ戻ると、四枚目の覚えが卓に広がっていた。場所と日付、呼び名、修めた法をまとめた三枚の上へ、今夜の紙を重ねる。

 五十余りか。四列。空の車が一台。

 墨の乾いたその下に、数でないものを一つ、書いておいた。

 髪、と。

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天理の石 倣 @apricot2528

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