第43話 名
七通目の便りは、角が擦り切れていた。
幾人もの懐を経てきた紙を灯の下へ広げると、折り目に沿って山の名が欠け、筆の下半分だけが残っている。
読み直しには、三日かかった。
これまで継ぎ足してきた覚えを広げ、場所と日付を一枚へ移す。
東から西へ、地名が続いていた。
山を一つ飛ばした先へ移り、また戻るところがある。二つの観に同じ日付が並ぶところもあり、沈曉はそれぞれの便りを開き直して、届いた日と、書き手の記した日とを確かめた。
丸は、消せなかった。
三日目の夜、堂へその紙を持っていった。
「これで、分かっている分は全部です」
楊文は手を払い、卓へ広げた紙を覗き込んだ。木粉の残る指が行の傍らを下り、途中で止まる。
「ここ、抜けてるな」
「はい」
「二つの観の間に、もう一つあるはずだ。俺は行ったことねえけど、名前は聞いたことがある」
「なぜ、ご存じなのですか」
「師匠が、昔ここの奴と喧嘩したって話をしてた。型の話でだ。上段の受けを内へ流すか外へ流すかで、三日揉めたらしい」
「先生も、お若い頃は」
「若い頃の話じゃねえよ。五十過ぎてからだ」
沈曉は
近隣の三つには、墓を荒らされた日が添えてあった。街道を外れたその観の下には何も書けず、筆を上げると、楊文も同じところを見ていた。
「便りが来ていないだけかもしれません」
「そうかもな」
「あるいは、書く者がいないのかもしれません」
楊文の指が紙から離れた。
「行ってみるか」
「はい」
「宿場まで一日だ。翌日、向こうの観を見て戻って、もう一晩泊まる。三日あれば帰れる」
「留守は」
「
その夜、楊文は阿柏を呼んだ。
日が落ちたら門を閉め、誰が来ても開けない。朝の稽古は休まず、四人でいる。夜に何か聞こえても、裏山や
阿柏は戸の傍らに立ち、三つとも聞き終えてから頷いた。
「明日発って、三日目の晩には戻る。夜の見回りはするなよ」
「はい。先生は、どちらへ」
「近くの観へ挨拶だ」
楊文は畳みかけた外衣を脇へ置き、阿柏の顔を見た。
「俺の部屋の
「分かりました」
「……四人とも、ここにいろ。俺が帰ってくる場所を変えるな」
阿柏の顎が、もう一度、深く下がった。
*
翌朝、二人は山を下りた。
雪の表は夜の冷えで締まり、履物の下で薄く割れては、斜面へかすかな音を散らす。楊文が前を歩き、道の曲がるところで歩調を緩めるので、沈曉はその背が木立へ隠れる前に追いついた。
低い峠を越すと、谷の先に宿場の煙が見えた。
街道から一本入った宿へ着く頃には、軒の氷柱に夕日が残るばかりで、土間の卓に出された飯から、白い湯気が長く上がった。
「あんたと二人で歩くの、久しぶりだな。一年半ぶりか」
「一年と、少しです」
「細かいな」
宿の主人が湯を持ってきた。
六十近い男で、盆を置いてからも、片方の肩が下がったままである。二人の荷と楊文の剣を見、空いた椀へ湯を注いだ。
「道士様で」
「はい」
「北へ」
「明日、峠の向こうの観まで」
名を告げると、主人の注ぐ手が少し遅くなった。
「あそこは四人で暮らしておったはずですがね。薪を買いに来る若いのを、このところ見ません。十日ほど前にも、門が開かんと客が言うとりました」
「お留守でしたか」
「さあ。呼んでも、返事がなかったと」
壺の口から最後の雫が切れた。主人は袖で底を拭い、まだ卓の傍らに立っている。
「夜は、出ん方がええですよ」
「何か、出ますか」
「通るんです」
「何が」
主人は答えず、二人の椀へ湯を足した。
「足音がしても、開けんでください」
「ここらでは、それを何と呼びます」
壺の口が椀から離れた。
「……わざわざ名をつけんでも、分かります」
主人は戸の方へ目をやった。
「今ので、お分かりでしょう」
「分かっちまったな」
「はい」
「
「足並みですね」
「どこも、いろんな名をつけるもんだと思ってたが」
楊文は椀を卓へ戻した。
「つけなくても通じる所があるんだな」
沈曉は呼び名を控えていた紙を広げ、卓の端で筆を湿す。宿場の名を書いたところで、筆を止めた。竈で薪が折れると、二人とも、そちらを見た。
翌朝、まだ灯の要るうちに宿を出た。
街道へ出る横道の先を、一台の荷車が通りかかっていた。牛の肩が闇から浮かび、鼻を垂れた白い息の後ろに、
楊文が足を速めかけた。
沈曉はその袖に触れた。布越しに腕の動きが止まり、二人は横道の口で、車が行き過ぎるのを待った。
牛を引く男と、後ろにつく男が一人ずつ。
前の男がこちらを見て会釈し、沈曉も頭を下げた。傍らを筵が通るとき、湿った土と紙の匂いがした。縄の下から、泥を含んだ水が車板の縁へ伝っている。
車は北へ向かった。
「あれ、何が載ってた」
「分かりません」
「分からんのに、止めたな」
「二人とも、こちらを見ていました」
沈曉は手を下ろした。
「車についているのは二人です。積むのを手伝った者まで、一緒に歩いているとは限りません」
「三人目が、どこかにいるかもしれねえってことか」
「はい。荷も、まだ確かめていませんので」
楊文は歩き始めてから一度だけ振り返った。道の両脇は木立に沈み、車輪の軋みだけが、その奥でまだ聞こえていた。
*
目当ての観へ着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
山門は閉ざされ、石段の段鼻も、雪の下に隠れている。楊文が最後の一段へ足を置くと、
杖の先で雪を払ってみた。
白い粉が敷石まで崩れる。
「誰もいねえのか」
楊文が門を叩いた。
間を置いてもう二度、拳の音が境内へ入ってゆく。返るのは山の木々を渡る風ばかりで、二人は塀に沿って裏へ回った。
裏の戸は、押すと開いた。
折れた
敷居を跨いだ先に、獣の小さな跡が散っていた。
二人は並ぶほどの間を取り、堂へ近づいた。扉は片方だけ開いていて、軋むたび、下に溜まった雪を浅く削っている。
卓が倒れていた。
椀が幾つか転がり、一つは卓の脚の下で割れている。沈曉は無事なものを拾い、内側に乾きついた粥の跡へ目を落とした。細い輪が重なり、底の米はひび割れたまま貼りついていた。
「十日前から、これか」
「あの頃にも、門は開かなかったそうです」
椀を置くと、硬い音が堂に響いた。
台所の飯は鍋の内側で白く凍り、夜具は身体の入るところを開けて敷かれている。隣の部屋には道服が掛かり、その裾を持ち上げた楊文の指から、薄い埃が落ちた。
「四人分ある。宿で言ってた通りだ」
着替え、履物、使いかけの墨。底へ畳まれた文の束の上に、繕いかけの襟が置いてある。針が布を半ばくぐり、引き終えていない糸が、蓋の開く風に少し揺れた。
「誰も、荷を持って出てねえ」
「はい」
「逃げたんじゃねえな、これは。連れてかれたか」
沈曉は針に触れぬよう襟を戻した。文に宛名がないか一通ずつ裏へ返してみたが、虫食いと滲みの間から拾える字では、この部屋の持ち主も分からなかった。
東の小部屋に、机があった。
硯の底へ墨が乾きつき、洗わずに置いた筆が、穂先を曲げて机に触れている。抽斗を開けると経の写しが重なり、その下から、朱で罫を引いた紙が一枚出てきた。
今は乾いて波を打ち、墨が流れたところに細かな毛羽が立っている。沈曉は窓へ向け、光を斜めに通してみた。字は溶け合っても、縦へ引かれた朱の線は、端から端まで続いていた。
「何だ、それ」
「役所の紙です」
「読めるのか」
「欄の形だけは、分かります」
乾いた経の写しで挟み、折れ目を支えながら畳んだ。
「持っていくのか」
「はい。書式を確かめます」
紙を収めてから、抽斗を閉めた。
堂の裏手が、墓域だった。
雪の膨らみを払うと、土の色が途中から変わっていた。墓の縁へ古い土の塊が寄せられ、埋め戻した中央には、平らに踏んだ跡がある。楊文は膝をつき、凍った土を手の甲で叩いた。
「同じだ。供物は」
墓標の傍らに香炉が転がり、横を向いた口に、灰が凍りついている。隣の包みを開くと、銅の飾りが一つ、布の内側へ青い錆を移していた。
「残っています」
「銅だぞ、これ。売れるだろ」
「売れますね」
「盗人なら、持ってくはずだ」
楊文は包みを戻し、香炉も起こした。固まった灰を指で崩そうとして、縁だけを拭い、両手で据え直した。
「盗人の方が、まだ分かるな。金が要るなら、掘る。掘って、売る。腹は立つが、話は分かる。……こいつらは、金は要らねえんだ」
「骨だけ要る」
楊文が立ち上がった。
「人は、どこ行った」
台所へ戻ると、戸口の陰に跡があった。
吹き込んだ雪を避け、土間の乾いたところへ二筋、幅の狭い擦れが走っている。沈曉が呼ぶと楊文も屈み、片方の跡へ指を下ろした。竈から落ちた灰がそこで掻かれ、筋の先へ寄っていた。
裏口まで辿れた。
庇の切れるところから雪に覆われ、その先を払っても、同じ跡は見つからない。北へ下りる道が、白く折れて続いているだけだった。
「四人いて、跡は二筋か」
「一人の、両足かもしれません」
沈曉は自分の足を揃えてみせた。
「これだけでは、何人運ばれたかは」
「ほかの奴は、自分で歩いたかもしれねえってことか」
楊文が雪を蹴った。崩れた白さの下から、自分たちの靴底が踏み込んだ跡が出る。
「歩けるのか、そういう風になっても」
沈曉は返さなかった。戸口の二筋を見直し、消えてしまう端へ指を添えた。
「追うか」
楊文が北を見た。
「暗くなるまでなら、二里は行ける。轍が見つかりゃ、もっとだ」
「その先は」
「野宿だ」
「明日の晩には、戻れなくなります」
楊文の手が、剣の柄から離れた。
「阿柏に、三日目には帰ると仰いました」
「あの子は、ここにいろと言われれば、待ちます」
「知ってる」
「三日でも、四日でも」
「知ってるって言ってんだろ」
声が木立に当たり、そこで途切れた。楊文は北へ向けた足を戻さず、しばらく雪を見下ろしている。やがて長い息が、白く林へ流れた。
「帰るぞ」
「はい」
「……あんたが止めたわけじゃねえからな。俺が決めた」
沈曉が頷くと、楊文は先に堂へ向かった。戸口をくぐる前に振り返る。
「……あの野郎、知ってたんじゃねえのか」
「無憂殿ですか」
「番をしてた奴も一緒に消える、って言ってた。あれは、こういうことか」
「この観のことを、聞いていたのかもしれません」
「聞いただけか、あいつは」
沈曉は懐の紙へ手を当てた。
「……どこまで知っていたかは、まだ」
倒れた卓を起こし、拾える椀を集めた。
割れたものは端へ寄せ、風に動いていた堂の扉を閉めると、境内の音が一つ減った。楊文は敷居へ挟まった雪を足で払い、もう一度だけ戸を引いてから、墓域へ戻った。
掘り返された墓は六つあった。
払った土の上へ、また雪が落ち始めている。墓標の面は剝げ、残る墨も読めず、楊文は一基の前で腰を落とした。
「知らねえ人だ。名前も知らねえ。会ったこともねえ。師匠が喧嘩した相手が、この中にいるのかもしれん。それも、分からねえ」
膝の周りで雪が沈んだ。
「それでも、腹が立つ」
楊文が両手を合わせた。沈曉も隣へ膝をつき、六つの土の膨らみを前に、指を揃えた。
傍らの口は開かなかった。呼ぶ名を、二人とも持っていなかった。
*
帰りの雪は、朝より深く足を取った。
緩んだ表を踏み抜くたびに膝を上げ、沈曉は楊文の跡へ足を入れてゆく。峠の登りにかかる頃には、吸った息が胸の途中で次の息に追われ、襟の内側だけが、汗で温かく濡れていた。
歩きながら手首へ指を添えた。
早い脈の間に、一つ、指を打たぬ間がある。確かめようと押さえ直すと、楊文の足が前で止まった。
「休むか」
「いえ」
「二度言わせるなよ」
沈曉は道の脇へ寄った。岩へ手を置き、吐く息を長くする間、楊文は風上に立っていた。荷を下ろす音のあと、水の筒が差し出される。
受け取ろうとした指が、紐へうまく掛からなかった。
楊文は筒を離さず、沈曉の掌に底が収まるまで待っていた。触れた指の太さが、冷えた皮膚へはっきり残り、水を一口含むと、喉の奥でようやく息がほどけた。
「……お待たせしました」
「まだ飲め」
楊文は道の方を見ている。その肩越しに、遠い谷から薄闇が上がってきた。
宿場へ戻ったときには、戸口の灯が点っていた。
主人は二人の裾を見、湯を多めに置いていった。濡れた足袋を外し、手拭いで足を包んでからも、指の間に雪が残るような冷えがある。
楊文は向かいで剣を拭いていた。
抜かなかった刃にも湿りがつく。布が
深夜、隣の夜具が擦れた。
「あんた」
「はい」
「起きてたのか」
沈曉は目を開けた。消した灯の油の匂いが、まだ部屋に残っている。
「あそこの四人な。便りを書いたのは、誰だと思う」
「……あそこからは、一通も来ておりません」
「そうだ」
楊文の声が、暗がりの低いところを通ってきた。
「来てねえから、抜けてるって気づいた。師匠の喧嘩話を覚えてなかったら、通り過ぎてたな」
窓の隙間から風が入り、掛けた外衣の裾が壁を擦った。沈曉は、その音がやむまで、繕いかけの襟を見ていた。閉じた行李の中に、針はまだ半ば刺さっている。
「うちの子供らは、絶対に連れてかせねえ」
「はい」
夜具の擦れる音が近づいた。
「あんたも、だ」
*
三日目の夕方、白澗観へ帰り着いた。
山門の内から閂を外す音がして、阿柏が顔を出した。後ろから
「何もなかったか」
「はい」
阿柏の返事を聞いて、楊文は門柱から手を離した。
堂では鍋が煮えていた。蓋を取ると、湯気とともに芋の匂いが立つ。沈曉は椀を受け取り、四人が箸を取るのを見てから、自分も膝を卓へ寄せた。
それから三日、覚えを書き直した。
場所と日付、土地ごとの呼び名を二枚へ整理し、新しい紙には、荒らされた観で何を教えていたかを書き出してゆく。便りに師の名や稽古の話があれば、その一節を脇へ写し、書いていないものは楊文に尋ねた。
楊文は子供たちの履物を繕いながら答えた。
誰それの弟子が河原で人を投げた、どこの師匠は左から打つと嫌がる。針を抜くたびに話が続き、沈曉は喧嘩の相手の名まで聞いてから、教えていた型を紙へ戻した。
「よく覚えておいでです」
「覚えてるっていうか、そういう話しか入ってこねえんだよ。経のうまい観の話は、誰もしねえ」
「東の、三つ目に荒らされた観です。あそこは」
「ああ、あそこはやる。師匠が二人いて、仲が悪い。弟子が二手に分かれて、月に一度、河原で試合う」
「どちらが勝ちます」
「どっちも勝たねえ。勝つと、負けた方が次の月に来なくなるからだ」
沈曉が筆を動かすと、楊文は縫いかけの
「今の、書くのか。どこが要るんだ」
「弟子が集まって、定期に試合える観です。武を教えていたことが分かります」
楊文は紙を覗き、針へ目を戻した。
三日目の夜、沈曉は墨の乾いた紙を楊文の前へ出した。
灯を近づけ、楊文の指が行を下りる。最後まで見てから、初めの行へ戻り、そこに書いた名をもう一度読んだ。
「剣のとこばっかりだ」
「分かったところは、どこも武を教えております」
「経のとこは、一つもねえ」
「集まった便りには、ございません」
楊文は紙を卓へ置いた。
「選んでる、ってことだな」
「そう思います」
「どうやって選ぶんだ。行って掘ってみるまで、中身は分からねえだろ」
沈曉は、経の写しに挟んでおいた紙を出した。
峠向こうの観から持ち帰った一枚は、乾かしても波打ったままで、卓へ置くと四隅のうち二つが浮いた。
「これを、覚えておいででしょうか」
「読めねえ紙だろ」
「読めません。ただ、欄の数と幅は分かります」
両端を押さえ、罫に沿って指を動かした。
「広いところが三つ。狭いところが九つです。こちらには、長い文は入りません」
「何を書くんだ」
「年か、数か。それとも、丸をつけるだけかもしれません」
「丸」
「書式を見れば、分かります」
整理した三枚を行李へ収め、その上に経を一冊載せた。濡れた紙だけは別に包み、翌朝、沈曉はそれを懐へ入れて山を下りた。
楊文も一緒だった。
*
役所の出張所は、村の外れにあった。
塀の下だけ雪が残り、往来は泥で黒くなっている。楊文は入口の前で足を止め、剣の鞘を脇へ寄せた。
「俺は、ここで待つ」
「お入りになりませんか」
「入らねえ」
「なぜです」
「入ると、腹が立つ」
楊文は塀に寄りかかった。
「腹が立つと、顔に出る。顔に出ると、あんたが聞きたいことを聞けなくなる」
沈曉は頷き、一人で戸をくぐった。
冷えた土と墨の匂いがした。
年配の役人が上がり口で火鉢に手をかざし、奥では若い男が紙を綴じていた。
沈曉は道士として名乗り、白澗観の再興にあたって、届け出の書き方を知りたいと告げた。
「
「ございます」
「へえ」
年配の役人は両手を擦り、顎で奥を示した。
「書式は、そっちが出す」
若い役人が棚から函を下ろした。
綴じ紐を解き、上から三枚目を抜く。差し出す指は余白だけを挟み、受け取る沈曉の手が罫へ触れぬ向きに、紙を回していた。
「お若いのに、手慣れておいでです」
「三年目でございます」
火鉢の向こうから笑い声がした。
「この子はね、字がうまいんですよ。うますぎて、上に呼ばれかけた」
「呼ばれませんでした」
「呼ばれなくてよかったんだ。都は、飯がまずい」
若い役人は返さず、書き方を示した紙をもう一枚、卓へ置いた。
朱の罫が、揃っていた。
濡れた紙で広く空いていたところには、観の名、所在、建立の年。その先に道士の名や歳、入門した年、師の名、号を書き込むところが続き、端の小さな四つには、
沈曉は書き方の見本と並べた。
符籙のところに丸があり、同じ行の剣にも丸がある。ほかの二つは空いていた。
「修めたものに、丸を」
「はい。幾つでも結構です」
「丹薬に丸をつける者は、多うございますか」
「めったにおりません。薬売りと間違われますので。そう書くと、税の欄が別になります」
「別になると」
「面倒でございます」
若い役人は棚の別の函を見たが、手は伸ばさなかった。
沈曉は四つの字へ目を戻した。
符籙にはつく。経典にも、丹薬にも、筆を下ろすところがある。指はその隣まで来て止まり、袖の内で、腰に帯びた剣の重みが僅かに変わった。
剣には、つかない。
「号を頂く前に亡くなった者は、どう記されますか」
「俗名のままです」
「その名は、帳面に残るのですね」
若い役人は指についた墨を擦り、棚へ目をやった。
「字は残ります。……ただ、後からその名を探す者がいるかどうかは」
沈曉も棚を見た。一番上の函の紐には、ほどいた跡も見えぬほど埃が積もっている。
「この届けは、何のために集めておいでですか」
「さあ。昔からある様式でしてね」
年配の役人が肩をすくめた。
「役所は、これを何に使うのです」
「使いませんよ。溜めておくだけです。溜めて、どこかへ回すんでしょう。北の司か、都か。回った先で読まれてるかどうかは、私は知りません」
「回すのは、いつでございますか」
「年に一度です。暮れに束ねて出す」
窓から入る光が、卓の半ばで切れていた。
沈曉は書式を明るい方へ寄せた。
「近ごろ、届け出は増えておりますか」
年配の役人が顔を上げた。
「よく分かりましたね」
「増えとります」
若い方が答えた。年配の男がそちらを見たが、若い役人は棚から薄い帳面を下ろしている。
「去年の秋に、催促を出せという達しが参りました。三年以内に届け出よ、と。それまでは、催促などしておりません。出さぬ観は、出さぬままでございました」
「催促を出すと、どうなります」
「出ます。皆さん、お出しになります」
帳面には、束を送った日と数が記してあった。若い役人は二つの年を順に示し、昨年の暮れのところで指を止めた。
「一昨年の、三倍ございました」
三倍。
沈曉は紙の数を見てから、手元の書式へ戻った。ここへ観の名を書き、師の名を書き、その下へ弟子が続く。一人増えるごとに、あの小さな丸も増えてゆく。
「どちらへ送られましたか」
「北の司でございます」
若い役人の指の下で、送り先の字が半分隠れた。
「受領の判は、まだ参りません」
沈曉は、紙を返しかけた手を止めた。
判は来ます。判だけです、と
「判が来ないままで、差し支えはございませんか」
「こちらは、送ったと記せば済みます」
若い役人は帳面を閉じた。
「……受け取られたかどうかも分からぬのに、それで済んでしまうのでございます」
火鉢で炭が崩れた。
「この子は、そういう言い方をする。気にしなさんな。若いうちは、皆そうです」
年配の男は灰の下へ赤いところを埋め、また手をかざした。
沈曉は書式を返し、棚へ目を向けた。
「白澗観の分は、こちらにございますか。古いものです」
「古い函は、ございません」
「どちらに」
「北の司へ送りました。十年前に、まとめて」
「どれほどの分でございますか」
「私が参ります前のことですので、存じません」
若い役人は返された紙の角を揃えた。
「送った、という一行だけが、帳面に残っております。何を何束送ったかは、書いてございません」
沈曉は棚の一番上を見た。埃を被った函の背にも、観の名は見えなかった。
「人が亡くなった時の届けは、こちらで受けておいでですか」
年配の男の手が、火の上で止まった。
「受けてました」
「今は」
「北の司から、人が来ます。直に買っていく」
「届けを、でございますか」
「届けも、
沈曉が若い役人を見ると、卓の上で綴じ紐を結んでいた。結び終えてからも顔を上げず、端の長さを揃えている。
「控えを、置いてまいりません」
「控え」
「こちらには、一枚も残りません。持っていかれた分は、この村の帳面には載らないままでございます」
年配の男が舌を鳴らした。
「それは、上の決めたことだ」
「はい」
若い役人は次の束を引き寄せた。沈曉が礼を述べる間にも、紐を通す穴へ、細い錐が下りていった。
*
外へ出ると、風が強くなっていた。
楊文は塀の同じところにいた。肩のあたりだけ雪が落ち、黒い衣へ白い粉がついている。沈曉を見て身を起こし、戸の内側を一度覗いた。
「どうだった」
「剣を修めた者には、丸がつきます」
楊文はしばらく道の先を見ていた。
「あの紙も、丸をつけるための欄だったのか」
「同じ書式でした」
「じゃあ、あいつらは、役所の紙を見て、掘る場所を決めてる」
「その疑いはございます。紙を見られる者が、どこかで関わっているのかもしれません」
楊文の足が、塀の下の雪を崩した。
「届け出てなくてよかったな、うちは」
「……楊文殿の師匠は、届け出をなさいましたか」
「したことがあるって話は、聞いた。俺が来る前だ」
「いつ頃でしょう」
「知らねえ。あの人、紙が嫌いだった。筆より
「それでも、お出しにはなったのですね」
「ああ。文句は言うが、要ることはする人だった」
村を抜けてから、十年前に古い函が送られていたことを話した。
楊文は足を緩め、白澗の分もあったのか、と尋ねた。沈曉が分からないと答えると、道へ顔を戻し、それ以上は聞かなかった。
「三年以内に出せって話も、あれ、そういうことか」
「催促が始まったのは、去年の秋だそうです。暮れに北の司へ回した分は、その前の年の三倍ございました」
沈曉は袖の中で、濡れた紙の折り目を押さえた。どの観の紙がその束にあったかは、まだ分からない。
「気持ち悪いな」
「はい」
峠へかかると、風が雪の表を低く削っていた。
楊文は踏み固まった方へ道を取り、途中で口を開いた。
「うちは、今の紙には載ってねえんだよな」
「再興の届けは、出しておりません」
「裏山も」
「今の十五人のことは、役所へ届けておりません」
「じゃあ、安心していいのか」
沈曉は足元の氷をよけた。楊文も待ち、顔を横へ向けた。
「よくねえのか」
「紙に載っていない場所は、紙では守れません」
「どういう意味だ」
「何かあった時、ここに誰がいたかを示すものも、役所にはございません。向こうは、まだ観があるのかと尋ねました」
楊文はしばらく黙って歩いた。
「あいつら、四人とも毎朝庭を掃いてるぞ」
「はい」
「……気持ち悪いな、それも」
*
峠の手前で、楊文が足を止めた。
「あんた」
「はい」
「もう一つ、分からねえことがある。……役所は、うちらには名前を書かせる。届け出だ、名簿だ、って。なのに、買った骸には、名前を書く欄がねえ。なんでだ」
沈曉は隣へ並んだ。
谷底に村の屋根が見える。煙の出る家と、出ない家があり、風の途切れる間だけ、どこかで薪を打つ音がした。
煙を見ているうち、南の村の庭先が目に戻った。帳面の男は歳を聞いて、名を聞かなかった。荷台へ寄った女が筵の裾を掴み、徳旺、と呼ぶ。車が動きだすと、その指の間を筵が滑っていった。
「私が習った弔いでは、牌に名を書きます。縁のある者が、その名を呼びます」
「ああ」
「体を土に返す前に、誰を送るのかを、呼ぶのでございます」
楊文は谷を見ていた。剣に添えた手の節が、風に赤くなっている。
「名を書かれ、呼ばれた者は、誰かでございます。……あの帳面は、荷を数えるために作られております」
「荷」
「いくつ受け取り、どこから運んだか。名を書かずとも、その勘定はできます」
「じゃあ、あの村の、呼んだら戻ってくるってのは」
「おそらく、迷信の類でしょう。私はそうは教わっていません。弔うときには、祭主と、亡くなられた方の縁のある者が名を呼ぶだけです」
「なのに、呼ぶなと言う」
沈曉は谷の家々へ目を向けた。細い煙が一つ、屋根から離れてゆく。
「……売ってしまった後では、呼びにくいのでしょう」
「父親の名をか」
「はい。葬って差し上げるはずの体を、銭と引き換えに渡したのですから。生活のためとはいえ、孝に背く行いをしたことにはかわりがありません」
「どの面下げて、ってことか」
「そう思う方も、おられるでしょう。南でお会いした息子も、父を売った自分が弔ってよいのかと、尋ねておいででした」
「……婆さんは、呼んだんだな」
「荷車を追って。何度も」
楊文は谷を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「それで、あんたは名を書いてきた」
「息子に頼まれました。体はなくても、父のために置くものが欲しいと」
「板だけでも、か」
「はい。名が残れば、後から見た者にも、ここに暮らした方がいたと分かります」
「うちの十五は、名を書いて、呼んで埋めた」
「はい」
「……あれで、よかったんだな」
「一人ずつ、あなたがお送りになりました。あの山へ行けば、誰の墓かも分かります」
「それでも、掘り返しには来るのか」
「弔いを済ませても、人が墓を荒らすのを防ぐことはできません」
「なら、見張るのはやめられねえな」
「はい」
「けど、あの二日は無駄じゃなかった」
「無駄では、ありません」
楊文が道へ戻ると、沈曉も続いた。先にできた足跡へ踏み込みながら、懐の紙を押さえる。
「誰の名も書かれぬままの墓も、ございます。知る人がいなくなれば、確かめようもありません」
「……あんたのことは、何か残ってるのか」
「今の名では、どの届けにも載っておりません」
先を行く足が止まった。
「役所の話は、してねえよ」
沈曉が顔を上げると、楊文は振り返っていた。
「俺が知ってるだろ。あんたがここへ来たことも、何をしたかも」
返事をする前に、楊文は坂へ向き直った。曲がり角まで行ってから、一度だけこちらを見る。
「あんたが埋められる時は、俺が呼ぶからな」
沈曉の足が止まった。
袖の内で、紙を押さえていた指が離れる。その間に楊文は先へ進み、木立を抜けたところで歩調を緩めた。
沈曉も坂を上った。
返す言葉を探すうち、枝の向こうに山門が見えた。楊文はそこで待っていて、内側から、閂を外す音がした。
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