第43話 名

 七通目の便りは、角が擦り切れていた。

 幾人もの懐を経てきた紙を灯の下へ広げると、折り目に沿って山の名が欠け、筆の下半分だけが残っている。沈曉(シェン・シャオ)は先に届いた便りを隣へ置き、同じ地名のある行に指を添えた。

 読み直しには、三日かかった。


 これまで継ぎ足してきた覚えを広げ、場所と日付を一枚へ移す。無憂(ウーユウ)から写した分にはその名を小さく添え、日付のないものは脇へよけ、前後を決められぬ行には丸を打った。

 東から西へ、地名が続いていた。

 山を一つ飛ばした先へ移り、また戻るところがある。二つの観に同じ日付が並ぶところもあり、沈曉はそれぞれの便りを開き直して、届いた日と、書き手の記した日とを確かめた。

 丸は、消せなかった。


 三日目の夜、堂へその紙を持っていった。

 楊文(ヤン・ウェン)は床板を削っている。鉋(かんな)から出た薄い木が足元で巻き、火鉢へくべられた一片だけが、明るく身を反らせて燃えていた。

「これで、分かっている分は全部です」

 楊文は手を払い、卓へ広げた紙を覗き込んだ。木粉の残る指が行の傍らを下り、途中で止まる。

「ここ、抜けてるな」

「はい」

「二つの観の間に、もう一つあるはずだ。俺は行ったことねえけど、名前は聞いたことがある」

「なぜ、ご存じなのですか」

「師匠が、昔ここの奴と喧嘩したって話をしてた。型の話でだ。上段の受けを内へ流すか外へ流すかで、三日揉めたらしい」

「先生も、お若い頃は」

「若い頃の話じゃねえよ。五十過ぎてからだ」


 沈曉は硯(すずり)を寄せ、その地名を書き足した。

 近隣の三つには、墓を荒らされた日が添えてあった。街道を外れたその観の下には何も書けず、筆を上げると、楊文も同じところを見ていた。

「便りが来ていないだけかもしれません」

「そうかもな」

「あるいは、書く者がいないのかもしれません」

 楊文の指が紙から離れた。

「行ってみるか」

「はい」

「宿場まで一日だ。翌日、向こうの観を見て戻って、もう一晩泊まる。三日あれば帰れる」

「留守は」

「阿柏(アボー)に任せる。あいつも、そろそろ観を見る稽古がいる」


 その夜、楊文は阿柏を呼んだ。

 日が落ちたら門を閉め、誰が来ても開けない。朝の稽古は休まず、四人でいる。夜に何か聞こえても、裏山や麓(ふもと)へ確かめに出ず、堂へ集まって朝を待つ。

 阿柏は戸の傍らに立ち、三つとも聞き終えてから頷いた。

「明日発って、三日目の晩には戻る。夜の見回りはするなよ」

「はい。先生は、どちらへ」

「近くの観へ挨拶だ」

 楊文は畳みかけた外衣を脇へ置き、阿柏の顔を見た。

「俺の部屋の櫃(ひつ)に、銭が入ってる。留守の間に要るなら使え」

「分かりました」

「……四人とも、ここにいろ。俺が帰ってくる場所を変えるな」

 阿柏の顎が、もう一度、深く下がった。


     *


 翌朝、二人は山を下りた。

 雪の表は夜の冷えで締まり、履物の下で薄く割れては、斜面へかすかな音を散らす。楊文が前を歩き、道の曲がるところで歩調を緩めるので、沈曉はその背が木立へ隠れる前に追いついた。

 低い峠を越すと、谷の先に宿場の煙が見えた。

 街道から一本入った宿へ着く頃には、軒の氷柱に夕日が残るばかりで、土間の卓に出された飯から、白い湯気が長く上がった。


「あんたと二人で歩くの、久しぶりだな。一年半ぶりか」

「一年と、少しです」

「細かいな」


 宿の主人が湯を持ってきた。

 六十近い男で、盆を置いてからも、片方の肩が下がったままである。二人の荷と楊文の剣を見、空いた椀へ湯を注いだ。

「道士様で」

「はい」

「北へ」

「明日、峠の向こうの観まで」

 名を告げると、主人の注ぐ手が少し遅くなった。

「あそこは四人で暮らしておったはずですがね。薪を買いに来る若いのを、このところ見ません。十日ほど前にも、門が開かんと客が言うとりました」

「お留守でしたか」

「さあ。呼んでも、返事がなかったと」

 壺の口から最後の雫が切れた。主人は袖で底を拭い、まだ卓の傍らに立っている。

「夜は、出ん方がええですよ」

「何か、出ますか」

「通るんです」

「何が」

 主人は答えず、二人の椀へ湯を足した。

「足音がしても、開けんでください」

「ここらでは、それを何と呼びます」

 壺の口が椀から離れた。

「……わざわざ名をつけんでも、分かります」

 主人は戸の方へ目をやった。

「今ので、お分かりでしょう」


 竈(かまど)の奥へ主人が消えてから、楊文が口を開いた。

「分かっちまったな」

「はい」

「阿禾(アフー)の村じゃ、歩き夜。南じゃ、何だった」

「足並みですね」

「どこも、いろんな名をつけるもんだと思ってたが」

 楊文は椀を卓へ戻した。

「つけなくても通じる所があるんだな」

 沈曉は呼び名を控えていた紙を広げ、卓の端で筆を湿す。宿場の名を書いたところで、筆を止めた。竈で薪が折れると、二人とも、そちらを見た。


 翌朝、まだ灯の要るうちに宿を出た。

 街道へ出る横道の先を、一台の荷車が通りかかっていた。牛の肩が闇から浮かび、鼻を垂れた白い息の後ろに、筵(むしろ)で覆った荷が続く。折り込まれた筵の端へ四本の縄がかかり、車輪が石を越しても、荷の形は崩れなかった。

 楊文が足を速めかけた。

 沈曉はその袖に触れた。布越しに腕の動きが止まり、二人は横道の口で、車が行き過ぎるのを待った。


 牛を引く男と、後ろにつく男が一人ずつ。

 前の男がこちらを見て会釈し、沈曉も頭を下げた。傍らを筵が通るとき、湿った土と紙の匂いがした。縄の下から、泥を含んだ水が車板の縁へ伝っている。

 車は北へ向かった。

 轍(わだち)の沈んだ二本の線が、薄明の道へ伸びてゆく。楊文はその先から目を離さず、袖へ触れたままの沈曉の指を見た。

「あれ、何が載ってた」

「分かりません」

「分からんのに、止めたな」

「二人とも、こちらを見ていました」

 沈曉は手を下ろした。

「車についているのは二人です。積むのを手伝った者まで、一緒に歩いているとは限りません」

「三人目が、どこかにいるかもしれねえってことか」

「はい。荷も、まだ確かめていませんので」

 楊文は歩き始めてから一度だけ振り返った。道の両脇は木立に沈み、車輪の軋みだけが、その奥でまだ聞こえていた。


     *


 目当ての観へ着いたのは、昼を過ぎた頃だった。

 山門は閉ざされ、石段の段鼻も、雪の下に隠れている。楊文が最後の一段へ足を置くと、脛(すね)まで沈み、その跡をよけて沈曉も門へ寄った。

 杖の先で雪を払ってみた。

 白い粉が敷石まで崩れる。白澗観(はくかんかん)の門前にある、踏まれて固まった層が、ここには出てこなかった。

「誰もいねえのか」

 楊文が門を叩いた。

 間を置いてもう二度、拳の音が境内へ入ってゆく。返るのは山の木々を渡る風ばかりで、二人は塀に沿って裏へ回った。


 裏の戸は、押すと開いた。

 折れた閂(かんぬき)が内側へ落ち、受け木の割れたところに、白い木肌が覗いている。楊文が剣の柄へ手を掛けると、沈曉はその肩へ触れ、足元の閂を示した。

 敷居を跨いだ先に、獣の小さな跡が散っていた。

 二人は並ぶほどの間を取り、堂へ近づいた。扉は片方だけ開いていて、軋むたび、下に溜まった雪を浅く削っている。


 卓が倒れていた。

 椀が幾つか転がり、一つは卓の脚の下で割れている。沈曉は無事なものを拾い、内側に乾きついた粥の跡へ目を落とした。細い輪が重なり、底の米はひび割れたまま貼りついていた。

「十日前から、これか」

「あの頃にも、門は開かなかったそうです」

 椀を置くと、硬い音が堂に響いた。

 台所の飯は鍋の内側で白く凍り、夜具は身体の入るところを開けて敷かれている。隣の部屋には道服が掛かり、その裾を持ち上げた楊文の指から、薄い埃が落ちた。

「四人分ある。宿で言ってた通りだ」


 行李(こうり)にも中身が残っていた。

 着替え、履物、使いかけの墨。底へ畳まれた文の束の上に、繕いかけの襟が置いてある。針が布を半ばくぐり、引き終えていない糸が、蓋の開く風に少し揺れた。

「誰も、荷を持って出てねえ」

「はい」

「逃げたんじゃねえな、これは。連れてかれたか」

 沈曉は針に触れぬよう襟を戻した。文に宛名がないか一通ずつ裏へ返してみたが、虫食いと滲みの間から拾える字では、この部屋の持ち主も分からなかった。


 東の小部屋に、机があった。

 硯の底へ墨が乾きつき、洗わずに置いた筆が、穂先を曲げて机に触れている。抽斗を開けると経の写しが重なり、その下から、朱で罫を引いた紙が一枚出てきた。


 今は乾いて波を打ち、墨が流れたところに細かな毛羽が立っている。沈曉は窓へ向け、光を斜めに通してみた。字は溶け合っても、縦へ引かれた朱の線は、端から端まで続いていた。

「何だ、それ」

「役所の紙です」

「読めるのか」

「欄の形だけは、分かります」

 乾いた経の写しで挟み、折れ目を支えながら畳んだ。

「持っていくのか」

「はい。書式を確かめます」

 紙を収めてから、抽斗を閉めた。


 堂の裏手が、墓域だった。

 雪の膨らみを払うと、土の色が途中から変わっていた。墓の縁へ古い土の塊が寄せられ、埋め戻した中央には、平らに踏んだ跡がある。楊文は膝をつき、凍った土を手の甲で叩いた。

「同じだ。供物は」

 墓標の傍らに香炉が転がり、横を向いた口に、灰が凍りついている。隣の包みを開くと、銅の飾りが一つ、布の内側へ青い錆を移していた。

「残っています」

「銅だぞ、これ。売れるだろ」

「売れますね」

「盗人なら、持ってくはずだ」

 楊文は包みを戻し、香炉も起こした。固まった灰を指で崩そうとして、縁だけを拭い、両手で据え直した。

「盗人の方が、まだ分かるな。金が要るなら、掘る。掘って、売る。腹は立つが、話は分かる。……こいつらは、金は要らねえんだ」


「骨だけ要る」

 楊文が立ち上がった。

「人は、どこ行った」


 台所へ戻ると、戸口の陰に跡があった。

 吹き込んだ雪を避け、土間の乾いたところへ二筋、幅の狭い擦れが走っている。沈曉が呼ぶと楊文も屈み、片方の跡へ指を下ろした。竈から落ちた灰がそこで掻かれ、筋の先へ寄っていた。

 裏口まで辿れた。

 庇の切れるところから雪に覆われ、その先を払っても、同じ跡は見つからない。北へ下りる道が、白く折れて続いているだけだった。

「四人いて、跡は二筋か」

「一人の、両足かもしれません」

 沈曉は自分の足を揃えてみせた。

「これだけでは、何人運ばれたかは」

「ほかの奴は、自分で歩いたかもしれねえってことか」

 楊文が雪を蹴った。崩れた白さの下から、自分たちの靴底が踏み込んだ跡が出る。

「歩けるのか、そういう風になっても」

 沈曉は返さなかった。戸口の二筋を見直し、消えてしまう端へ指を添えた。


「追うか」

 楊文が北を見た。

「暗くなるまでなら、二里は行ける。轍が見つかりゃ、もっとだ」

「その先は」

「野宿だ」

「明日の晩には、戻れなくなります」

 楊文の手が、剣の柄から離れた。

「阿柏に、三日目には帰ると仰いました」


「あの子は、ここにいろと言われれば、待ちます」

「知ってる」

「三日でも、四日でも」

「知ってるって言ってんだろ」

 声が木立に当たり、そこで途切れた。楊文は北へ向けた足を戻さず、しばらく雪を見下ろしている。やがて長い息が、白く林へ流れた。

「帰るぞ」

「はい」

「……あんたが止めたわけじゃねえからな。俺が決めた」

 沈曉が頷くと、楊文は先に堂へ向かった。戸口をくぐる前に振り返る。

「……あの野郎、知ってたんじゃねえのか」

「無憂殿ですか」

「番をしてた奴も一緒に消える、って言ってた。あれは、こういうことか」

「この観のことを、聞いていたのかもしれません」

「聞いただけか、あいつは」

 沈曉は懐の紙へ手を当てた。

「……どこまで知っていたかは、まだ」


 倒れた卓を起こし、拾える椀を集めた。

 割れたものは端へ寄せ、風に動いていた堂の扉を閉めると、境内の音が一つ減った。楊文は敷居へ挟まった雪を足で払い、もう一度だけ戸を引いてから、墓域へ戻った。

 掘り返された墓は六つあった。

 払った土の上へ、また雪が落ち始めている。墓標の面は剝げ、残る墨も読めず、楊文は一基の前で腰を落とした。

「知らねえ人だ。名前も知らねえ。会ったこともねえ。師匠が喧嘩した相手が、この中にいるのかもしれん。それも、分からねえ」

 膝の周りで雪が沈んだ。

「それでも、腹が立つ」

 楊文が両手を合わせた。沈曉も隣へ膝をつき、六つの土の膨らみを前に、指を揃えた。


 傍らの口は開かなかった。呼ぶ名を、二人とも持っていなかった。


     *


 帰りの雪は、朝より深く足を取った。

 緩んだ表を踏み抜くたびに膝を上げ、沈曉は楊文の跡へ足を入れてゆく。峠の登りにかかる頃には、吸った息が胸の途中で次の息に追われ、襟の内側だけが、汗で温かく濡れていた。

 歩きながら手首へ指を添えた。

 早い脈の間に、一つ、指を打たぬ間がある。確かめようと押さえ直すと、楊文の足が前で止まった。

「休むか」

「いえ」

「二度言わせるなよ」

 沈曉は道の脇へ寄った。岩へ手を置き、吐く息を長くする間、楊文は風上に立っていた。荷を下ろす音のあと、水の筒が差し出される。

 受け取ろうとした指が、紐へうまく掛からなかった。

 楊文は筒を離さず、沈曉の掌に底が収まるまで待っていた。触れた指の太さが、冷えた皮膚へはっきり残り、水を一口含むと、喉の奥でようやく息がほどけた。

「……お待たせしました」

「まだ飲め」

 楊文は道の方を見ている。その肩越しに、遠い谷から薄闇が上がってきた。


 宿場へ戻ったときには、戸口の灯が点っていた。

 主人は二人の裾を見、湯を多めに置いていった。濡れた足袋を外し、手拭いで足を包んでからも、指の間に雪が残るような冷えがある。

 楊文は向かいで剣を拭いていた。

 抜かなかった刃にも湿りがつく。布が鍔(つば)の下から切先へ繰り返し動き、沈曉が夜具へ横になる頃、鞘(さや)へ戻す音が一度した。


 深夜、隣の夜具が擦れた。

「あんた」

「はい」

「起きてたのか」

 沈曉は目を開けた。消した灯の油の匂いが、まだ部屋に残っている。

「あそこの四人な。便りを書いたのは、誰だと思う」

「……あそこからは、一通も来ておりません」

「そうだ」

 楊文の声が、暗がりの低いところを通ってきた。

「来てねえから、抜けてるって気づいた。師匠の喧嘩話を覚えてなかったら、通り過ぎてたな」

 窓の隙間から風が入り、掛けた外衣の裾が壁を擦った。沈曉は、その音がやむまで、繕いかけの襟を見ていた。閉じた行李の中に、針はまだ半ば刺さっている。

「うちの子供らは、絶対に連れてかせねえ」

「はい」

 夜具の擦れる音が近づいた。

「あんたも、だ」


     *


 三日目の夕方、白澗観へ帰り着いた。

 山門の内から閂を外す音がして、阿柏が顔を出した。後ろから小鵲(シャオチュエ)が覗き、阿淵(アユエン)が楊文の荷へ手を伸ばす。阿禾は堂から出てきて、何か言いかけたまま、二人の濡れた裾を見ていた。

「何もなかったか」

「はい」

 阿柏の返事を聞いて、楊文は門柱から手を離した。

 堂では鍋が煮えていた。蓋を取ると、湯気とともに芋の匂いが立つ。沈曉は椀を受け取り、四人が箸を取るのを見てから、自分も膝を卓へ寄せた。


 それから三日、覚えを書き直した。

 場所と日付、土地ごとの呼び名を二枚へ整理し、新しい紙には、荒らされた観で何を教えていたかを書き出してゆく。便りに師の名や稽古の話があれば、その一節を脇へ写し、書いていないものは楊文に尋ねた。

 楊文は子供たちの履物を繕いながら答えた。

 誰それの弟子が河原で人を投げた、どこの師匠は左から打つと嫌がる。針を抜くたびに話が続き、沈曉は喧嘩の相手の名まで聞いてから、教えていた型を紙へ戻した。

「よく覚えておいでです」

「覚えてるっていうか、そういう話しか入ってこねえんだよ。経のうまい観の話は、誰もしねえ」

「東の、三つ目に荒らされた観です。あそこは」

「ああ、あそこはやる。師匠が二人いて、仲が悪い。弟子が二手に分かれて、月に一度、河原で試合う」

「どちらが勝ちます」

「どっちも勝たねえ。勝つと、負けた方が次の月に来なくなるからだ」

 沈曉が筆を動かすと、楊文は縫いかけの踵(かかと)を持ったまま顔を上げた。

「今の、書くのか。どこが要るんだ」

「弟子が集まって、定期に試合える観です。武を教えていたことが分かります」

 楊文は紙を覗き、針へ目を戻した。


 三日目の夜、沈曉は墨の乾いた紙を楊文の前へ出した。

 灯を近づけ、楊文の指が行を下りる。最後まで見てから、初めの行へ戻り、そこに書いた名をもう一度読んだ。

「剣のとこばっかりだ」

「分かったところは、どこも武を教えております」

「経のとこは、一つもねえ」

「集まった便りには、ございません」

 楊文は紙を卓へ置いた。

「選んでる、ってことだな」

「そう思います」

「どうやって選ぶんだ。行って掘ってみるまで、中身は分からねえだろ」


 沈曉は、経の写しに挟んでおいた紙を出した。

 峠向こうの観から持ち帰った一枚は、乾かしても波打ったままで、卓へ置くと四隅のうち二つが浮いた。

「これを、覚えておいででしょうか」

「読めねえ紙だろ」

「読めません。ただ、欄の数と幅は分かります」

 両端を押さえ、罫に沿って指を動かした。

「広いところが三つ。狭いところが九つです。こちらには、長い文は入りません」

「何を書くんだ」

「年か、数か。それとも、丸をつけるだけかもしれません」


「丸」

「書式を見れば、分かります」


 整理した三枚を行李へ収め、その上に経を一冊載せた。濡れた紙だけは別に包み、翌朝、沈曉はそれを懐へ入れて山を下りた。

 楊文も一緒だった。


     *


 役所の出張所は、村の外れにあった。

 塀の下だけ雪が残り、往来は泥で黒くなっている。楊文は入口の前で足を止め、剣の鞘を脇へ寄せた。

「俺は、ここで待つ」

「お入りになりませんか」

「入らねえ」

「なぜです」

「入ると、腹が立つ」

 楊文は塀に寄りかかった。

「腹が立つと、顔に出る。顔に出ると、あんたが聞きたいことを聞けなくなる」

 沈曉は頷き、一人で戸をくぐった。


 冷えた土と墨の匂いがした。

 年配の役人が上がり口で火鉢に手をかざし、奥では若い男が紙を綴じていた。

 沈曉は道士として名乗り、白澗観の再興にあたって、届け出の書き方を知りたいと告げた。

「白澗(はくかん)ね。あそこ、まだあるんですか」

「ございます」

「へえ」

 年配の役人は両手を擦り、顎で奥を示した。

「書式は、そっちが出す」


 若い役人が棚から函を下ろした。

 綴じ紐を解き、上から三枚目を抜く。差し出す指は余白だけを挟み、受け取る沈曉の手が罫へ触れぬ向きに、紙を回していた。

「お若いのに、手慣れておいでです」

「三年目でございます」

 火鉢の向こうから笑い声がした。

「この子はね、字がうまいんですよ。うますぎて、上に呼ばれかけた」

「呼ばれませんでした」

「呼ばれなくてよかったんだ。都は、飯がまずい」

 若い役人は返さず、書き方を示した紙をもう一枚、卓へ置いた。


 朱の罫が、揃っていた。

 濡れた紙で広く空いていたところには、観の名、所在、建立の年。その先に道士の名や歳、入門した年、師の名、号を書き込むところが続き、端の小さな四つには、符籙(ふろく)、経典、丹薬、剣と記されている。

 沈曉は書き方の見本と並べた。

 符籙のところに丸があり、同じ行の剣にも丸がある。ほかの二つは空いていた。

「修めたものに、丸を」

「はい。幾つでも結構です」

「丹薬に丸をつける者は、多うございますか」

「めったにおりません。薬売りと間違われますので。そう書くと、税の欄が別になります」

「別になると」

「面倒でございます」

 若い役人は棚の別の函を見たが、手は伸ばさなかった。


 沈曉は四つの字へ目を戻した。

 符籙にはつく。経典にも、丹薬にも、筆を下ろすところがある。指はその隣まで来て止まり、袖の内で、腰に帯びた剣の重みが僅かに変わった。

 剣には、つかない。


「号を頂く前に亡くなった者は、どう記されますか」

「俗名のままです」

「その名は、帳面に残るのですね」

 若い役人は指についた墨を擦り、棚へ目をやった。

「字は残ります。……ただ、後からその名を探す者がいるかどうかは」

 沈曉も棚を見た。一番上の函の紐には、ほどいた跡も見えぬほど埃が積もっている。

「この届けは、何のために集めておいでですか」


「さあ。昔からある様式でしてね」

 年配の役人が肩をすくめた。

「役所は、これを何に使うのです」

「使いませんよ。溜めておくだけです。溜めて、どこかへ回すんでしょう。北の司か、都か。回った先で読まれてるかどうかは、私は知りません」

「回すのは、いつでございますか」

「年に一度です。暮れに束ねて出す」


 窓から入る光が、卓の半ばで切れていた。

 沈曉は書式を明るい方へ寄せた。

「近ごろ、届け出は増えておりますか」

 年配の役人が顔を上げた。

「よく分かりましたね」

「増えとります」

 若い方が答えた。年配の男がそちらを見たが、若い役人は棚から薄い帳面を下ろしている。

「去年の秋に、催促を出せという達しが参りました。三年以内に届け出よ、と。それまでは、催促などしておりません。出さぬ観は、出さぬままでございました」

「催促を出すと、どうなります」

「出ます。皆さん、お出しになります」

 帳面には、束を送った日と数が記してあった。若い役人は二つの年を順に示し、昨年の暮れのところで指を止めた。

「一昨年の、三倍ございました」


 三倍。

 沈曉は紙の数を見てから、手元の書式へ戻った。ここへ観の名を書き、師の名を書き、その下へ弟子が続く。一人増えるごとに、あの小さな丸も増えてゆく。

「どちらへ送られましたか」

「北の司でございます」

 若い役人の指の下で、送り先の字が半分隠れた。

「受領の判は、まだ参りません」

 沈曉は、紙を返しかけた手を止めた。

 判は来ます。判だけです、と王実(ワン・シー)は言った。あの男の帳面と同じように、ここにも、届けた日を書くところが空けてあった。

「判が来ないままで、差し支えはございませんか」

「こちらは、送ったと記せば済みます」

 若い役人は帳面を閉じた。

「……受け取られたかどうかも分からぬのに、それで済んでしまうのでございます」

 火鉢で炭が崩れた。

「この子は、そういう言い方をする。気にしなさんな。若いうちは、皆そうです」

 年配の男は灰の下へ赤いところを埋め、また手をかざした。


 沈曉は書式を返し、棚へ目を向けた。

「白澗観の分は、こちらにございますか。古いものです」

「古い函は、ございません」

「どちらに」

「北の司へ送りました。十年前に、まとめて」

「どれほどの分でございますか」

「私が参ります前のことですので、存じません」

 若い役人は返された紙の角を揃えた。

「送った、という一行だけが、帳面に残っております。何を何束送ったかは、書いてございません」

 沈曉は棚の一番上を見た。埃を被った函の背にも、観の名は見えなかった。


「人が亡くなった時の届けは、こちらで受けておいでですか」

 年配の男の手が、火の上で止まった。

「受けてました」

「今は」

「北の司から、人が来ます。直に買っていく」

「届けを、でございますか」

「届けも、骸(むくろ)もです。去年から、そうなった。楽になりましたよ。書くことが減った。銭は、あちらが払う」

 沈曉が若い役人を見ると、卓の上で綴じ紐を結んでいた。結び終えてからも顔を上げず、端の長さを揃えている。

「控えを、置いてまいりません」

「控え」

「こちらには、一枚も残りません。持っていかれた分は、この村の帳面には載らないままでございます」

 年配の男が舌を鳴らした。

「それは、上の決めたことだ」

「はい」

 若い役人は次の束を引き寄せた。沈曉が礼を述べる間にも、紐を通す穴へ、細い錐が下りていった。


     *


 外へ出ると、風が強くなっていた。

 楊文は塀の同じところにいた。肩のあたりだけ雪が落ち、黒い衣へ白い粉がついている。沈曉を見て身を起こし、戸の内側を一度覗いた。

「どうだった」

「剣を修めた者には、丸がつきます」

 楊文はしばらく道の先を見ていた。

「あの紙も、丸をつけるための欄だったのか」

「同じ書式でした」

「じゃあ、あいつらは、役所の紙を見て、掘る場所を決めてる」

「その疑いはございます。紙を見られる者が、どこかで関わっているのかもしれません」

 楊文の足が、塀の下の雪を崩した。

「届け出てなくてよかったな、うちは」

「……楊文殿の師匠は、届け出をなさいましたか」

「したことがあるって話は、聞いた。俺が来る前だ」

「いつ頃でしょう」

「知らねえ。あの人、紙が嫌いだった。筆より鉈(なた)の方が話が早い、って言ってな」

「それでも、お出しにはなったのですね」

「ああ。文句は言うが、要ることはする人だった」


 村を抜けてから、十年前に古い函が送られていたことを話した。

 楊文は足を緩め、白澗の分もあったのか、と尋ねた。沈曉が分からないと答えると、道へ顔を戻し、それ以上は聞かなかった。

「三年以内に出せって話も、あれ、そういうことか」

「催促が始まったのは、去年の秋だそうです。暮れに北の司へ回した分は、その前の年の三倍ございました」


 沈曉は袖の中で、濡れた紙の折り目を押さえた。どの観の紙がその束にあったかは、まだ分からない。

「気持ち悪いな」

「はい」


 峠へかかると、風が雪の表を低く削っていた。

 楊文は踏み固まった方へ道を取り、途中で口を開いた。

「うちは、今の紙には載ってねえんだよな」

「再興の届けは、出しておりません」

「裏山も」

「今の十五人のことは、役所へ届けておりません」

「じゃあ、安心していいのか」

 沈曉は足元の氷をよけた。楊文も待ち、顔を横へ向けた。

「よくねえのか」

「紙に載っていない場所は、紙では守れません」

「どういう意味だ」

「何かあった時、ここに誰がいたかを示すものも、役所にはございません。向こうは、まだ観があるのかと尋ねました」

 楊文はしばらく黙って歩いた。

「あいつら、四人とも毎朝庭を掃いてるぞ」

「はい」

「……気持ち悪いな、それも」


     *


 峠の手前で、楊文が足を止めた。

「あんた」

「はい」

「もう一つ、分からねえことがある。……役所は、うちらには名前を書かせる。届け出だ、名簿だ、って。なのに、買った骸には、名前を書く欄がねえ。なんでだ」


 沈曉は隣へ並んだ。

 谷底に村の屋根が見える。煙の出る家と、出ない家があり、風の途切れる間だけ、どこかで薪を打つ音がした。

 煙を見ているうち、南の村の庭先が目に戻った。帳面の男は歳を聞いて、名を聞かなかった。荷台へ寄った女が筵の裾を掴み、徳旺、と呼ぶ。車が動きだすと、その指の間を筵が滑っていった。


「私が習った弔いでは、牌に名を書きます。縁のある者が、その名を呼びます」

「ああ」

「体を土に返す前に、誰を送るのかを、呼ぶのでございます」

 楊文は谷を見ていた。剣に添えた手の節が、風に赤くなっている。

「名を書かれ、呼ばれた者は、誰かでございます。……あの帳面は、荷を数えるために作られております」

「荷」

「いくつ受け取り、どこから運んだか。名を書かずとも、その勘定はできます」


「じゃあ、あの村の、呼んだら戻ってくるってのは」

「おそらく、迷信の類でしょう。私はそうは教わっていません。弔うときには、祭主と、亡くなられた方の縁のある者が名を呼ぶだけです」

「なのに、呼ぶなと言う」

 沈曉は谷の家々へ目を向けた。細い煙が一つ、屋根から離れてゆく。

「……売ってしまった後では、呼びにくいのでしょう」

「父親の名をか」

「はい。葬って差し上げるはずの体を、銭と引き換えに渡したのですから。生活のためとはいえ、孝に背く行いをしたことにはかわりがありません」

「どの面下げて、ってことか」

「そう思う方も、おられるでしょう。南でお会いした息子も、父を売った自分が弔ってよいのかと、尋ねておいででした」

「……婆さんは、呼んだんだな」

「荷車を追って。何度も」

 楊文は谷を見たまま、しばらく何も言わなかった。

「それで、あんたは名を書いてきた」

「息子に頼まれました。体はなくても、父のために置くものが欲しいと」

「板だけでも、か」

「はい。名が残れば、後から見た者にも、ここに暮らした方がいたと分かります」


「うちの十五は、名を書いて、呼んで埋めた」

「はい」

「……あれで、よかったんだな」

「一人ずつ、あなたがお送りになりました。あの山へ行けば、誰の墓かも分かります」

「それでも、掘り返しには来るのか」

「弔いを済ませても、人が墓を荒らすのを防ぐことはできません」

「なら、見張るのはやめられねえな」

「はい」

「けど、あの二日は無駄じゃなかった」

「無駄では、ありません」


 楊文が道へ戻ると、沈曉も続いた。先にできた足跡へ踏み込みながら、懐の紙を押さえる。

「誰の名も書かれぬままの墓も、ございます。知る人がいなくなれば、確かめようもありません」

「……あんたのことは、何か残ってるのか」

「今の名では、どの届けにも載っておりません」

 先を行く足が止まった。

「役所の話は、してねえよ」

 沈曉が顔を上げると、楊文は振り返っていた。

「俺が知ってるだろ。あんたがここへ来たことも、何をしたかも」

 返事をする前に、楊文は坂へ向き直った。曲がり角まで行ってから、一度だけこちらを見る。

「あんたが埋められる時は、俺が呼ぶからな」


 沈曉の足が止まった。

 袖の内で、紙を押さえていた指が離れる。その間に楊文は先へ進み、木立を抜けたところで歩調を緩めた。

 沈曉も坂を上った。

 返す言葉を探すうち、枝の向こうに山門が見えた。楊文はそこで待っていて、内側から、閂を外す音がした。

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