第7話 まだ、続いている

『すべての文章に、急いで句点を打つ必要はない。』


 青嶺市へ戻る朝、潮守町の空には何も降っていなかった。


 昨日まで屋根や道を流れていた三点リーダーも、道の端に残っていた黒い点も、夜のうちに薄くなっていた。雲の切れ間から淡い光が差し、庭の物干し竿が細く光っている。


 真帆は母の家の窓を一つずつ閉めた。


 冷蔵庫の中はほとんど空にした。日記の箱には蓋をし、すぐには処分しないものを押し入れの手前へまとめた。片づけきれない物はまだいくつもある。次にいつ来るかは決めていない。それでも、全部を今日終わらせる必要はないと思えた。


 最後に仏壇の前へ座った。


 母の写真の前には、葬儀でもらった花が少しだけ色を失っている。真帆は机から持ってきた手紙を膝の上で開いた。


 あなたは悪くない、


 何度読んでも、その先は白かった。


 数日前まで、白い部分の方が大きく見えていた。ここに何が続くのか。それさえ分かれば、母が自分をどう思っていたのか、航平との十五年をどう裁けばよいのか、決められる気がしていた。


 今は、母が書いたところまでが目に入った。


 母は「あなたは悪くない」と書いた。そこで言葉が止まり、読点を置いた。その先を見つけられなかったことまで含めて、母の文章だった。


「お母さんも、分からなかったんだね」


 声にすると、思っていたより普通の言葉になった。


 責める響きも、慰める響きもなかった。ただ、母も最後まで迷ったのだと認める言葉だった。


 真帆は手紙の読点へ指を近づけた。黒い記号は、もう紙の上には見えなかった。残っているのは母のインクだけだった。


 句点を書き足そうとは思わなかった。


 母が亡くなったことは変わらない。もう電話をかけても、野菜の名前を聞くことも、返事を待つこともできない。その事実には、終わりがある。


 けれど、終わったからといって、そこまでの時間まで消えるわけではない。

 理髪店の閉じたシャッターを思い出した。


 真帆は手紙を元の封筒へ戻し、仏壇の前に一度置いてから、鞄へ入れた。持って帰ることにした。答えを探すためではなく、母が書けたところまでを残しておくために。


 玄関へ向かう途中、台所で足が止まった。航平が直したという戸は、何事もなかったように静かに閉まっている。冷蔵庫の脇には母の買い物メモが一枚残っていた。捨ててもよい紙だった。真帆は迷った末、そのままにした。次に来たとき、自分で決めればいい。


 この家を離れることが、母を置いていくことのようには、もう思えなかった。


「行ってきます」


 帰るのに、その言葉が出た。

 写真の母は何も答えなかった。


 それでよかった。


 居間へ戻り、海で書いた便箋を机に広げた。

 取り消し線の下に、昨日の二行が残っている。


 『あの日、あなたが何を言おうとしたのか、私はまだ分かりません。』


 『私も、本当に言いたかったことを言えませんでした。』


 真帆は新しい便箋を一枚出した。


 昨日の紙を横に置き、最初から書き直す。文字をきれいにするためではなかった。消した言葉も迷った跡も、自分には必要だったが、それをそのまま航平へ渡して、読み解く仕事までさせたくなかった。


    航平へ。

    あの日、あなたが何を言おうとしたのか、私はまだ分かりません。

    私も、本当に言いたかったことを言えませんでした。


 ここで一度、ペンが止まった。


 旧校舎で声にした言葉を思い出す。誰もいない教室なら言えた。紙の上なら、逃げずに残る。


 あのとき「勝手にすれば」と言ったことは、ごめんなさい。


 本当は、嫌いにならないでと言いたかったです。


 書いてから、真帆は読み返した。


 十五年分の謝罪には足りない。航平の側にあった十五年についても何も書いていない。それでも、最初の一通ですべてを説明する必要はなかった。


 何もかも書けば、今度は長さで相手を囲い込むことになる。

 最後に二行を加えた。


    返事は要りません。

    ただ、このまま何も言わずに終わりたくないと思いました、


 最後の読点の上で、ペン先を止めた。

 校閲者なら見逃さない。文は終わっていない。普通なら句点へ直すか、その後に続きを置く。


 真帆は直さなかった。


 返事を求める印ではない。航平に続きを書かせるための空欄でもない。


 自分の方から、ここで終わりにしないと伝えるための読点だった。


 便箋の下に「真帆」と署名し、二つ折りにした。



 母の机に残っていた住所録を開き、航平の住所を封筒へ写した。電話番号の隣に、母の字で現在の住所が書き直されていた。何度か訂正された跡がある。そのたびに母は新しい住所を聞き、書き換えていたのだろう。


 封筒へ入れる前に、もう一度だけ開いた。


 言葉は増やさなかった。


 駅前のポストは、十五年前と同じ場所にあった。

 塗り直された赤は記憶より鮮やかで、投入口の金属だけが白く擦れている。


 真帆は封筒を両手で持った。


 投函すれば、取り戻せない。


 書き直したくなれば、家へ戻る時間はまだあった。「返事は要りません」は冷たくないか。「嫌いにならないで」は重くないか。読点で終えるのは、結局、自分の考えを航平へ押しつけていないか。


 いくつも疑問が浮かんだ。


 そのどれにも、今ここで正解は出せなかった。


 真帆は封筒を投入口へ入れた。

 中で、紙が一度だけ何かに当たる音がした。


 それだけだった。


 空が明るくなるわけでも、町に降る記号が止まるわけでもない。駅舎の屋根には小さな疑問符が一つ引っかかり、道路の向こうでは読点が二つ、風に押されて転がっていた。


 真帆はポストの前を離れた。


 改札を抜け、青嶺市行きの列車へ乗る。


 発車してしばらくすると、窓の外を海が並走した。堤防が途切れ、昨日座った岩のあたりが遠く見えた。どれが「島」だったのか、もう車内からは分からなかった。


 肩に、かすかな冷たさが触れた。


   、


 黒い読点が一つ、コートの上に乗っていた。

 葬儀の日なら、真帆はすぐに払っていた。

 今日はそのままにした。


 列車が潮守町の境を越え、海が建物の向こうへ消えた頃、肩の読点もいつの間にかなくなっていた。


   ***


 青嶺市へ戻って三日後、真帆は校閲の机に座っていた。


 休んでいる間に届いた原稿が積まれ、付箋の色も赤字の量も、出発前と変わらない。変わらないことに、少し安心した。


 午後、一本の原稿で手が止まった。


 一文が長い。編集者の赤字で文の途中に句点が入っていた。二文に分ける案だった。


 以前の真帆なら、その赤字に疑問を出さなかった。意味も通る。文法上の問題もない。

 真帆は最初から読み直した。


 長い文の前半で語り手は迷い、後半でようやく言いたいことへ近づいている。途中で切れば読みやすくなるが、ためらいまで整いすぎる気がした。


 真帆は句点を入れず、読点の位置を一つ直した。


 余白に短く書く。


 〈二文に分けると語り手の息が変わるように思います。読点整理で一文を残す案。著者確認〉


 正しさを捨てたわけではない。

 読みにくさを放置するのでもない。


 ただ、文末を決める前に、その文章がなぜそこまで続いているのかを、もう一度見ることにした。


 真帆は余白の文字をもう一度読み、赤いペンを置いた。


 数時間後、その箇所は著者確認へ回された。真帆の案が採用されるかどうかは、まだ分からない。採用されなければ、理由を確認して別の形を考える。それも仕事だった。


 以前と変わったのは、すぐに句点を打つことが正確さだと思わなくなったことだけだった。


   ***


 それから三週間ほどたった夕方、郵便受けに一枚の葉書が入っていた。


 差出人の名前を見て、真帆は鍵を持ったまま動けなくなった。


 水瀬航平。


 十五年ぶりに、自分へ直接届いた弟の字だった。


 葉書を裏返す。

 長い説明はなかった。


    姉ちゃんは、いつも先に行くから、今度は少し待っていて。


 真帆は一度読み、もう一度読んだ。


 十五年前の「姉ちゃんは、いつも――」の続きなのかもしれない、と一瞬思った。


 すぐに、その考えを手放した。


 これは過去の空白を埋める答えではない。


 今の航平が、今の真帆へ書いた一文だった。


 最後には句点があった。


   。


 以前なら、その丸を終わりの印として見ただろう。


 いまは、航平が一つの文を自分の言葉で言い切った印に見えた。


 真帆は泣かなかった。


 口元が少し緩み、玄関に立ったまま、小さく息を漏らした。


「待っていて、か」


 十五年前なら、先に行けと言われても腹を立て、待てと言われても腹を立てたかもしれない。


 三十九歳になった今なら、少しくらい待てる。


 葉書の余白を指でなぞった。


 返事を書く便箋は部屋にある。

 けれど、今夜すぐに書く必要はないと思った。


 真帆は葉書を机の上に置き、その隣へ白い便箋を一枚だけ出した。

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句読点が降る町 みずしぶん @chimisu

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