第6話 三点リーダーの海

『沈黙とは、何もないことではない。言葉になれなかったものが、そこにいる。』


 翌朝、潮守町には三点リーダーが降っていた。


 窓を開けると、黒い点が三つずつ連なり、屋根の上をゆっくり転がっていた。雨樋へ落ちたものは小さく跳ね、道へ出ると、互いを見失わないような間隔で海の方へ進んでいく。


   ……


 声にすれば、ためらいの長さほどの記号だった。


 真帆は昨夜の日記をもう一度開いた。括弧の中の文字は消えていた。天気と買い物と通院だけが残り、初めからそれしかなかったように頁は静かだった。


 日記を見比べるうち、よく似た一文があることに気づいた。


 海まで歩く。


 日付は少しずつ違う。晴れの日も、風の強い日もあった。理由はどこにも書かれていない。けれど十二冊のうち十冊に、その一文があった。


 母が歩いた道を知りたくなった。


 真帆は昨夜「航平へ」とだけ書いた便箋を鞄へ入れ、家を出た。


 黒い点の列は、曲がり角ごとに増えていた。軒先から落ちた三つが、道路の三つへ並ぶ。靴に触れると煤のように薄くなるが、少し先でまた三つの形に戻った。


 町の人は箒で掃こうともせず、その間を歩いていた。自転車の車輪が通ると一度ばらばらになり、通り過ぎた後、点はまた同じ間隔へ集まった。


 海へ近づくほど、潮の匂いが濃くなった。


 坂を下りきると、堤防の向こうに朝の海が開けた。曇った空の色を映し、沖だけがわずかに明るい。砂浜には、町から流れてきた三点リーダーが黒い小石のように積もっていた。


 そこは、真帆と航平が子どもの頃によく遊んだ海岸だった。

 夏休みには、濡れないぎりぎりの場所を競って歩いた。真帆が先に進み、航平が後ろから同じ足跡へ靴を置いた。波が大きい日は二人とも逃げ遅れ、母に叱られないよう、家までに靴を乾かそうと堤防を走った。


 砂浜の端には、満潮になると根元まで波が届く、平たい岩が一つあった。二人はそれを「島」と呼び、海へ入らずに走って、先に岩へ触れた方を勝ちにしていた。たいてい真帆が勝ち、航平は負けるたび、次は靴ではなく裸足で走ると言った。


 一度だけ航平が先に着いた日、真帆は転んだふりをした。追いついた弟が勝った顔をやめて戻ってきたので、本当に膝が痛いように振る舞った。家へ帰るまで、二人とも勝負の話はしなかった。


 子どもの頃から、自分は先に行き、航平は追いかけ、時には戻ってくる役を引き受けていたのかもしれない。けれど、いくつかの思い出だけで、姉は先へ行く人、弟は追いかける人だったと決めるのも、今の自分に都合のよい解釈かもしれなかった。


 思い出そうとしなくても、足が曲がる場所を覚えていた。


 航平と話さなくなってから、真帆はこの海も自分から遠い場所だと思うようになった。写真で海を見ても、潮守町の天気を聞いても、自分にはもう関係がないと言い聞かせていた。


 けれど、歩いた記憶は誰の所有物でもなかった。航平と来た場所であると同時に、真帆が走り、転び、笑った場所でもある。


 砂浜へ下りる階段の前で、名前を呼ばれた。


「真帆さん、ですよね」


 振り返ると、同じくらいの年の男が立っていた。短く切った髪に白いものが混じっている。見覚えのある目元を、記憶の中の少年へ戻すまで少し時間がかかった。


「三浦君」

「覚えてましたか」


 三浦和也は笑った。航平の幼なじみで、小学生の頃は何度も家へ遊びに来ていた。大人になった顔より、玄関に脱ぎ散らかされた二人分の靴の方が先に浮かんだ。


 和也の横を、三つの黒い点が転がっていった。彼は一歩だけ避けたが、振り返りもしなかった。この町で暮らしてきた人の動きだった。


「おばさん、よくここを歩いてましたよ」


 和也は海の方を見た。


「毎年だったみたい」

「たぶん、二人を連れて来てた頃を思い出してたんじゃないですか。俺が聞いたわけじゃないけど」


 最後の一言を添えたところが、昔の和也と変わらなかった。分からないことを、分かったようには話さない。


 真帆は砂に積もった黒い点を見た。


「航平と、いまも会うの」

「帰ってきたときに、たまに。昔みたいにはいかないですけど」


 それから和也は、言うか迷うように口を閉じた。三点リーダーが二人の間を転がり、波打ち際で止まった。


「昔、あいつが真帆さんのことを話したことがあります」


 真帆は和也を見た。


「いつ」

「真帆さんが町を出た頃です。でも、あの日だったか、その前か後かまでは覚えてません」


 和也は砂を靴の先でならした。


「姉ちゃんはいつも先に行く、って。腹が立つけど、俺もいつか追いつきたいって言ってました」


 胸の中で、途切れた声がよみがえった。


――姉ちゃんは、いつも――


「それが、あのときの続きだったのかな」


 尋ねた声は、自分が思ったより早かった。

 和也はすぐには答えなかった。海を見たまま、しばらく考えてから首を横に振った。


「分かりません。俺はあの日の二人を見ていないし、航平から喧嘩の内容を聞いたこともありません」

「でも、航平はそう言ってたんでしょう」


「そのときは。でも、あいつだって毎回同じことを考えてたわけじゃないでしょう。真帆さんに腹を立てた日も、本気で応援してた日もあったと思います。たぶん、同じ日にも」


 和也はそこで言葉を切った。


「俺が知ってるのは、一度そう言ったってことだけです」

「私のことを、嫌いだと言ったことは」


 聞いてから、真帆は答えを誘導している自分に気づいた。

 和也は眉を寄せ、記憶を探す顔をした。


「俺は聞いてません。でも、俺が聞いてないからって、あいつが一度もそう思わなかった証拠にはならないです」


 慰めるために都合のよい空白を埋めない返事だった。

 真帆はうなずいた。


 欲しかった答えに近いはずだった。航平は自分を嫌っていただけではない。追いつきたいと思っていた。その一文を、十五年前の声の後ろへ置けば、途切れた会話はきれいにつながる。


 真帆の中に、一瞬だけ安堵が広がった。怒っていた弟の顔を、ほんとうは姉を慕っていた顔へ置き換えられる。自分の叫びも、すれ違いの結果だったと説明できる。


 その説明は優しかった。優しすぎるからこそ、疑わなければならなかった。


 けれど、和也の記憶をそこへ貼りつけた瞬間、航平がその日に抱えていたほかのものは見えなくなる。


 怒りもあった。寂しさもあった。姉を誇らしく思う気持ちがあったかもしれない。どれか一つが正しく、残りが誤りだったのではない。同じ人の中で、違う方向を向いたまま並んでいたのだろう。


 校閲なら、意味の取りにくい一文へ疑問を出せる。書き手へ戻し、意図を尋ねられる。だが、十五年前の航平を、いまの航平に説明させても、完全に同じ答えが返るとは限らない。


 そもそも、自分は正解を知ってからでなければ話せないと思い込んでいた。


 弟の言葉を先に完成させておけば、自分が傷つかない書き出しを選べるからだ。


「ありがとう」


 真帆が言うと、和也は少し困ったように笑った。


「役に立ったかは分かりませんけど」

「分からないって言ってくれたことが、たぶん」


 和也はそれ以上尋ねず、堤防の方へ歩いていった。


 真帆は砂浜へ下りた。


 三点リーダーは波打ち際に長い帯を作っていた。波が来るたび形を失い、引くと、砂のくぼみにまた三つずつ現れる。海まで運ばれても、沈黙はすぐには消えなかった。


 真帆は風を避けられる岩のそばに腰を下ろした。鞄から便箋とペンを出し、膝の上に置く。


 航平へ。


 その下に「久しぶり」と書いた。葬儀の日に一度交わした言葉なので、線を引いた。


 「ごめんなさい」と書いた。何について謝るのかを相手に探させる文に見え、消した。

 あの日の言い方を謝りたい。十五年連絡しなかったことも、自分だけが傷ついたと思っていたことも謝りたい。けれど一つの「ごめんなさい」に詰め込めば、どこまで受け取るかを航平へ決めさせてしまう。


 「元気ですか」と書いた。返事を求めるための手紙ではないのに、最初から答えを要求している気がして、それも消した。


 紙の上に、細い取り消し線が増えていった。


 真帆はペンを置き、海を見た。


 書き出しを正しくすることより、書かなければならないことがあった。航平がどう思っていたかではなく、自分が分からないこと。自分が言えなかったこと。


 新しい便箋を出した。


「あの日、あなたが何を言おうとしたのか、私はまだ分かりません」


 そこで一度、手を止めた。分からないという言葉を、逃げるためではなく書いたのは初めてだった。


「私も、本当に言いたかったことを言えませんでした」


 二行は、謝罪にも説明にも足りなかった。けれど、足りないまま相手へ渡せる言葉に見えた。


 その下へ、「あなたが悪かったとは、もう思っていません」と書きかけた。すぐにペンを止める。もう、という一語には、以前は悪いと決めていた時間が残る。それを隠す必要はないが、最初の手紙で相手へ渡す言葉なのかは分からなかった。


 真帆はその一行に細い線を引いた。消したことも読める程度の線だった。


 結びを書こうとした。


 ペン先で、点を一つ置く。その隣へ二つ目を打とうとして、真帆は止めた。三点リーダーで曖昧に閉じれば、また続きを航平へ預けることになる気がした。


 かといって、句点を打つ文章もまだ選べなかった。


 真帆は便箋を折らず、鞄の書類入れへ挟んだ。今日は、ここまででよかった。書き終えられないことと、書き始めていないことは違う。


 立ち上がると、波が砂浜の三点リーダーへ届いた。


 三つ並んだ黒い点が水にほどけ、二つは引く波にさらわれた。一つだけが、濡れた砂の上に残った。


 波の細い跡がその下へ伸びていた。

 真帆には、それが小さな読点のように見えた。

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