03 ~火~ 死出

 徳川は散々だった。

 武田による一方的な蹂躙──そう言っていいぐらいの、それは惨敗だった。

 家康は、家臣の夏目吉信に身代わりになってもらい(吉信がみずから「われこそは徳川家康なり」と名乗って、吶喊していった)、這う這うの体で戦場から脱出した。余談だが、この夏目吉信の子孫こそ、誰あろう、夏目漱石である(諸説あり)。



「家康は恐怖のあまり、糞を漏らした」


 この時、こういう風聞が立った。

 一説によると、織田家の援軍の中でよくささやかれた、とも伝えられる。

 当然ながら武田軍にも伝わり、失笑を買った。

 ……ただひとり、信玄だけは、嘲笑ではなく、どちらかというと朗らかな笑いだった。

 勝頼がそれを聞きとがめると、


「実にいではないか。そうやって、糞を垂れてまで怖がる、逃げる、生きる……善いと思う」


 と答えた。

 何やら禅問答のような答えだったが、その意味を、すぐに勝頼は思い知ることになる。



 信玄が倒れた。

 三河に入り、野田城を落とし、これから三河の主城たる岡崎城をといううところで、倒れた。


「軍を返せ」


 一も二もなく、勝頼は甲斐への帰国を決断した。

 この西上作戦の前から、信玄はたびたびき込んでいた。

 もしかしたら、こうして倒れてしまうことを予期して、敢えて征旅に出たのかもしれない。


「そのとおりよ」


 ようやく三河を離れ、信濃の根羽ねばにまで戻って来た時のことだった。

 それは、甲斐に住む者が誰もがかかる病なのかもしれない。

 あるいは、駿河に出たために、触れることもあった、咳の出る病なのかもしれない。


「とにかく、もういかぬと思うた」


 信玄は、死期を――おのれの命数の尽きるのを知った時、思いついたのがこの西上作戦だった。

 それは死出の旅に出る前に、いくさがしたい、上洛したいというものだったのか、と勝頼は問うた。

 なぜなら、信玄は山県昌景に瀬田(京の北にある土地)に旗を立てよと言っている。


「ちがう」


 あくまでも、武田が今後、生き伸びるための征旅であって、そのような、ただ単に天下を取りたい、あるいは、幕府のために尽くしたい、というような夢物語のためではない。

 そう信玄は語った。

 ただ、上洛を唱えておけば、将軍の御内書ごないしょや将兵のやる気が出るからそうした、と。


「それもこれも勝頼、お前のためだ」


 信玄亡くなった時、武田家を率いるのは勝頼の役目である。

 だから信玄は、勝頼のこれからのためを思って、この征旅をたくらんだ。


「しかし父上」


 ここで勝頼は、父・信玄の発言の途中で切り込んだ。

 当主であり父である目の前の男の邪魔をするなど、ありえないと思っていた勝頼だったが、ここに来て、さすがに言いたいことがあった。


「それがしは負けません。たとえ相手が誰であろうとも。このような、父上の余命を使い果たすような真似をせずとも、徳川や……織田を相手にでも、立派に戦って見せます」


 それは孝心から出た発言だった。

 死出の旅に出る父を、少しでも安心させたかった。

 このような無理をしての征旅など、やらせたくなかった。

 その気持ちの発露だった。

 それゆえに、先の三方ヶ原の戦いでも、平手汎秀なる織田の将を一撃で屠ったと告げた。


「そうか」


 その時、常になく、大きく目を見開いた信玄がつぶやいたのは、その台詞だった。

 いつもの余裕ある、含蓄に満ちた言葉ではなく、ただただ、驚いた、という感じの台詞だった。


「なら勝頼、お前に言っておくことがある」


「何なりと」


 周囲にはすでに、山県昌景や馬場信春など、重臣たちもひかえている。

 それはこれから、武田信玄という偉大な当主が死に際して残す言葉を、細大漏らさず、皆で聞き取ろうという、武田家中の総意である。


「家督は信勝に。勝頼、そなたの子の信勝に」


「……は、はい」


 勝頼の子、信勝。

 この時まだ六歳で、母・龍勝院は先年病没している。

 この信勝が大人になるまでは、当然ながら勝頼が後見として武田家を率いる。

 しかし、と勝頼は思う。

 なぜ勝頼ではなく、敢えて信勝に家督を譲るとしたのか。

 それは勝頼から信勝へ家督を譲るその時より、今やっておいた方が、武田家中における信勝の重みが増すからか。

 勝頼がそう問おうとした時、信玄がまた口を開いた。


「わが死は三年秘せ」


「ははっ」


 これには山県昌景ら重臣たちがそろって返事をした。

 重臣たちが組織として対応する必要のある遺命のためである。


「勝頼」


「はい」


「そなたのこれからを……もっと楽にしてやりたかったが、いかぬ。願わくは……」


 信玄は咳き込んだ。

 口から血が飛び出た。

 痙攣を起こし、止まらなくなっている。

 勝頼は思わず信玄を抱きすくめた。

 

「父上、父上」


「願わくは……そなたのこれからが、楽、でなくとも、みずから……」


 痙攣が酷い。

 うまくしゃべれないようだ。

 だが、勝頼には、どう言えばいいかわかった。


「はい、みずからの、道を征きます」


 痙攣が止まった。

 止まったような気がした。

 信玄は、ふ、と笑いのような、ため息のような、そんな表情をして、そのまま動かなくなった。

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2026年8月31日 05:00 毎日 05:00

征旅無窮 ~三方ヶ原の戦い~ 四谷軒 @gyro

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