03 ~火~ 死出
徳川は散々だった。
武田による一方的な蹂躙──そう言っていいぐらいの、それは惨敗だった。
家康は、家臣の夏目吉信に身代わりになってもらい(吉信がみずから「われこそは徳川家康なり」と名乗って、吶喊していった)、這う這うの体で戦場から脱出した。余談だが、この夏目吉信の子孫こそ、誰あろう、夏目漱石である(諸説あり)。
*
「家康は恐怖のあまり、糞を漏らした」
この時、こういう風聞が立った。
一説によると、織田家の援軍の中でよくささやかれた、とも伝えられる。
当然ながら武田軍にも伝わり、失笑を買った。
……ただひとり、信玄だけは、嘲笑ではなく、どちらかというと朗らかな笑いだった。
勝頼がそれを聞きとがめると、
「実に
と答えた。
何やら禅問答のような答えだったが、その意味を、すぐに勝頼は思い知ることになる。
*
信玄が倒れた。
三河に入り、野田城を落とし、これから三河の主城たる岡崎城をといううところで、倒れた。
「軍を返せ」
一も二もなく、勝頼は甲斐への帰国を決断した。
この西上作戦の前から、信玄はたびたび
もしかしたら、こうして倒れてしまうことを予期して、敢えて征旅に出たのかもしれない。
「そのとおりよ」
ようやく三河を離れ、信濃の
それは、甲斐に住む者が誰もがかかる病なのかもしれない。
あるいは、駿河に出たために、触れることもあった、咳の出る病なのかもしれない。
「とにかく、もういかぬと思うた」
信玄は、死期を――おのれの命数の尽きるのを知った時、思いついたのがこの西上作戦だった。
それは死出の旅に出る前に、いくさがしたい、上洛したいというものだったのか、と勝頼は問うた。
なぜなら、信玄は山県昌景に瀬田(京の北にある土地)に旗を立てよと言っている。
「ちがう」
あくまでも、武田が今後、生き伸びるための征旅であって、そのような、ただ単に天下を取りたい、あるいは、幕府のために尽くしたい、というような夢物語のためではない。
そう信玄は語った。
ただ、上洛を唱えておけば、将軍の
「それもこれも勝頼、お前のためだ」
信玄亡くなった時、武田家を率いるのは勝頼の役目である。
だから信玄は、勝頼のこれからのためを思って、この征旅をたくらんだ。
「しかし父上」
ここで勝頼は、父・信玄の発言の途中で切り込んだ。
当主であり父である目の前の男の邪魔をするなど、ありえないと思っていた勝頼だったが、ここに来て、さすがに言いたいことがあった。
「それがしは負けません。たとえ相手が誰であろうとも。このような、父上の余命を使い果たすような真似をせずとも、徳川や……織田を相手にでも、立派に戦って見せます」
それは孝心から出た発言だった。
死出の旅に出る父を、少しでも安心させたかった。
このような無理をしての征旅など、やらせたくなかった。
その気持ちの発露だった。
それゆえに、先の三方ヶ原の戦いでも、平手汎秀なる織田の将を一撃で屠ったと告げた。
「そうか」
その時、常になく、大きく目を見開いた信玄がつぶやいたのは、その台詞だった。
いつもの余裕ある、含蓄に満ちた言葉ではなく、ただただ、驚いた、という感じの台詞だった。
「なら勝頼、お前に言っておくことがある」
「何なりと」
周囲にはすでに、山県昌景や馬場信春など、重臣たちもひかえている。
それはこれから、武田信玄という偉大な当主が死に際して残す言葉を、細大漏らさず、皆で聞き取ろうという、武田家中の総意である。
「家督は信勝に。勝頼、そなたの子の信勝に」
「……は、はい」
勝頼の子、信勝。
この時まだ六歳で、母・龍勝院は先年病没している。
この信勝が大人になるまでは、当然ながら勝頼が後見として武田家を率いる。
しかし、と勝頼は思う。
なぜ勝頼ではなく、敢えて信勝に家督を譲るとしたのか。
それは勝頼から信勝へ家督を譲るその時より、今やっておいた方が、武田家中における信勝の重みが増すからか。
勝頼がそう問おうとした時、信玄がまた口を開いた。
「わが死は三年秘せ」
「ははっ」
これには山県昌景ら重臣たちがそろって返事をした。
重臣たちが組織として対応する必要のある遺命のためである。
「勝頼」
「はい」
「そなたのこれからを……もっと楽にしてやりたかったが、いかぬ。願わくは……」
信玄は咳き込んだ。
口から血が飛び出た。
痙攣を起こし、止まらなくなっている。
勝頼は思わず信玄を抱きすくめた。
「父上、父上」
「願わくは……そなたのこれからが、楽、でなくとも、みずから……」
痙攣が酷い。
うまくしゃべれないようだ。
だが、勝頼には、どう言えばいいかわかった。
「はい、みずからの、道を征きます」
痙攣が止まった。
止まったような気がした。
信玄は、ふ、と笑いのような、ため息のような、そんな表情をして、そのまま動かなくなった。
次の更新予定
2026年8月31日 05:00 毎日 05:00
征旅無窮 ~三方ヶ原の戦い~ 四谷軒 @gyro
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。征旅無窮 ~三方ヶ原の戦い~の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます