02 ~林~ 三方ヶ原の戦い

 ところが、信じがたいことに、信玄は次なる征旅の行き先を浜松にはしなかった。

 家康は驚愕する。


「西に転じただと?」


 二俣城を出た武田軍は、何と、南にある浜松城には向かわず、西進した。

 いわば素通りであり、このまま行くと、三河にたどり着く。


「なぜだ」


 この、長年にわたり戦いつづけ、ついには天下を取った男は、後に伝えられるように、「信玄にとみなされず、武士としての意地を傷つけられた」とは思わなかった。

 信玄のめあては、上洛などではなく、遠江と三河を手に入れること。

 そう見切っていたはずなのに、なぜ武田軍はこの遠江の――徳川の本城たる浜松城を攻めないのか。


「なぜだ」


 このまま西に進むと三河だ。

 だが、三河はすでに、武田の別動隊たる山県昌景が長篠など主な城を攻略している。

 三河の先である東濃も同様だ。

 遠山家の岩村城もまた、すでに、やはり別動隊である秋山虎繁が攻めた。その際、城主のおつやの方に、「この虎繁に娶られるならば、城の者の命は奪わない」ともちかけると、おつやの方は受け入れた。武田もまた約束を守り、遠山家の当主とされていた信長の四男・御坊丸を甲府へ送り、そこで大切に育てることにしたという。


「もしや」


 遠江、三河、東濃……まさか本当に、武田は上洛を目指すつもりか。

 かつて今川義元という傑物がおこない、そして散っていった上洛行をするつもりなのか。


「ちがう」


 武田信玄は、その今川義元がたおれたあと、死に体の今川家をではないか。

 この徳川家康と共に。

 上洛などという無謀な賭けはすまい。

 ではなぜ。


「徳川どの、よかったではないか」


 いつの間にか城に来ていた織田家の将、平手汎秀ひらてひろひでが嘲るように言う。

 あの恐ろしき武田勢がこの城に来ていたら、徳川の家は滅んでおったぞ、と。

 家康はその言葉を、他人事のように聞いていた。

 それだけ、考えることに必死だった。

 だから、汎秀が吼えるに任せていた。

 こう、怒鳴るまでは。

 

「もし戦うなら、この汎秀、一命を賭して戦ったのにのう」


「……ほんとうか」


 突如として振り返った家康に、汎秀はぎょっとした顔をして、しかし、驚いたことを恥じるように「そうだ」と答えた。


「そうか」


 家康は出陣を命じた。

 武田を追う、と。

 家臣たちは止めた。

 せっかく素通りしてくれるのに、なぜ今、そのような無謀を、と。


「……武士の意地だ」


 そうだけ答えて、家康は馬に乗った。



 武田信玄は、二俣城を出て、西進し、三方ヶ原という台地に至ったところで、反転し、魚鱗の陣を取るように命じた。


「父上は何をお考えか」


 武田勝頼は、信玄の言葉をいぶかしんだ。

 徳川が襲ってくる可能性は十分にある。あるがゆえに、物見や間者を多数伏せてある。

 だが、彼らはまだ、何も言ってこない。


「だというのに、なにゆえ、父上はこのように徳川が来るという前提で動かれるのか」


 そう問われると、「念のためだ」とはにかんだように信玄は答えた。

 歳を取ると、どうにもそういう「勘」がはたらき、「わかる」と言う。


「もし来ずば、それでよい。しかし、もし来たら、と思うてのう」


 かつては甲斐の虎と恐れられた男が、そのように――好々爺こうこうやのように披露すると、一種の可笑しみがあった。

 重臣の馬場信春と山県昌景は、では仰せのとおりにと、さっそくに陣をかまえた。

 勝頼もまた、間者や物見に、動きはないかと連絡つなぎをつけた。

 その時。


「何?」


 浜松城下に潜んでいた間者が、ちょうど家康出陣の報を持ってきた。

 しかも、徳川勢八千だけでなく、織田家援軍三千も加わっているという。


「そうか」


 勝頼はこの時、信玄に、徳川勢が一万一千で来た、と答えた。

 対するや、武田勢は二万七千。

 兵力差、倍以上。

 どうあがいても、勝負にならない。

 だから、織田のことは言うまでもないとした。


「徳川にそんなに兵がいたか」


 と信玄は言った。

 彼の見るところ、徳川の動員兵力は八千が限界である。


「もしや」


 信玄はさらに何か言おうだったが、そこへ徳川が鶴翼の陣を取っている、と物見が告げに来た。

 鶴翼はその名のとおり、左右両翼に大きく兵を展開する陣形で――つまり、大軍でないとできない陣形だった。


「われら武田が二万七千で魚鱗なのに、なぜに徳川はあのような」


 勝頼のその疑問は当然である。

 魚鱗――上から見て魚のようになる密集陣形は、どちらかというと、相手より兵力が劣る時に用いられる、中央突破を狙う超攻撃的な布陣である。

 それを大軍で、しかも左右に伸びきった鶴翼に突っ込むと、どうなるか。


「家康は、死にたいのか」


 山県昌景はそうまで言った。

 海道一の弓取りとなれば、上杉謙信に及ばずとも、もう少しましな戦い方ができないのか、と思ったゆえの発言だった。

 鶴翼の陣は、確かに中央の層を厚くすれば、そこそこ防御力が増す。しかしそれは、相手より多数で、しかも左右両翼で包んで倒すというのが前提だ。

 それを――この場合、より大多数の武田軍、それも武田騎馬隊を先頭に据えた魚鱗の陣――密集陣形に突入されたら、どうなるか。


「ひとたまりもない」


 昌景の発言を受けるように、馬場信春が言った。

 こうなると、次から次へと矢継ぎ早に至り来る間者たちの言うように、家康は武士の意地をかけて――つまり、眼中にないと思われたことに腹を立てて、無思慮無謀に吶喊とっかんしてきているとしか言いようがない。


「あるいは、このまま三河に進まれたらと思うと、だけでもせぬと、ということやもしれぬ」


 これは勝頼の発言である。

 彼は、このような無謀を成すのなら、相応のがあると考えた。

 そしてその発言は、意外なところから反応があった。


「そうでもあるな」


 何と、父たる信玄がそれをうべなった。

 勝頼はほんのり誇らしげな表情をした。

 かつての嫡男――兄・義信が亡くなって以来、としたところが、消えたように思えた。

 喜色に染まった顔で、なおも語りかけようとした勝頼だが、「来るぞ」と信玄に言われ、振り返った。


「徳川が来るぞ!」


 先峰を任されていた武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)が、大音声だいおんじょうでそう叫んだ。

 勝頼はうなずいて、全軍に進むよう命じた。

 この時点で、すでに武田家中では、采配は勝頼に、それをじっと見守るのが信玄、というかたちができていた。


「鶴翼のまま、進んで来るとは愚かな」


 勝頼は、当初決めたとおりに魚鱗のまま動けと言い、それでも自身は愛馬を駆って、真っ先に戦場に出た。

 出たところで、われこそは平手汎秀と名乗る若武者に遭遇したが、難なくひと槍でほふった。


「ふむ。敵は自棄やけになっておるぞ! 押されるな! 押し返して行け!」


 致命傷にあえぐ平手汎秀とやらをしり目に、勝頼は馬を先に進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る