第20話 「名前、とは」
なんだ? …ここは…。
ふと気が付くと、果てしない広大な平面。周りは何もない。
眼下には、ゆるやかに光が波打っているような揺らぎが広がっている。
目の前に、闇がいる。いや、自称神様…か…?
名づけは、境界線だ。この面から、お前を切り離す。
固定は存在を安定させるが、…「個」だぞ。
…名前を取り戻せば、…元のお前に戻れるぜ。
闇から声が響く。
「元の、おれ?」
ああ、そうだ。…安心安定の、あの……孤独…だよ。
そうだっただろう? ほら、思い出せ。
「!」
テレビに、ぼけて、突っ込んで、ささやかに楽しかった、
…あのころだよ? ぅへへ…
お前は、今、ありのままの存在でいるんだよ。それが、自由だぜ。
「自称か、み、…いや、神様? あなたは、名は?」
…おれか? そんなものは、ねぇよ。 おれは空っぽの、…器だぜ…。
闇が、濃くなっていく…。視界が沈む…。こ、この闇の深さは…!
「あるじー。にくにくぅ。
主食は夢にゃが、肉は別腹にゃ。美味いにゃ」
「…! ここ、は…」
りっつ…? 空間が温かさを戻したように感じた。
肉の焼ける良い匂いが、河原の風にふわりと流れる。
自称神様は、焼き網の前でご機嫌だ。
スウィリディはどや顔で皿をもって待機している。
りっつは肉の匂いにつられて、短い尻尾をふんふん振っている。
おれは──
免許証の名前欄がスロットマシーンみたいに回転しているのを、
まだ呆然と見ていた。
文字が流れ続ける。
ひらがな、カタカナ、漢字、記号、数字、意味不明な文字列。
――どこに、いた…?
ノンリニアたんを見る。
ノンリニアたんは静かに言った。
「観測すると、確定します。
しかし今は……確定しないほうが安全です」
「安全…?」
「あなたの物語は、まだ名前をもとめていません」
おれは言葉を失った。
自称神様が肉をひっくり返しながら笑った。
焼き加減が、…良い。
「お前の名前なんてものはよ、まだ決まってねぇってことだろ」
自称神様は肉を、スウィリディの持つ皿に乗せながら、軽く言った。
りっつはそれを、涎だらだらで凝視している。
「これは、わたくしのお肉なのです! あなたが見ると減ります」
「お前は、途中だ。だから名前も揺れるんだよ。
まあ、可能性があるってことだな」
りっつが心配そうに近づいてくる。
「あるじもねいむどしたいのにゃ…?
りっつがつけるにゃ! 『ひざまくら』にゃ!」
「ぐは! それは、やめてくれ……」
スウィリディがすかさず割り込む。
「では、わたくしが御名を授けましょうぞ。
ぬん! きました、『ヒザマクーラ・オル・サンライト』!」
「……」(一同)
トゲまるが、哲学者のように静かに言った。
「名前とは、存在の固定値だよ。
しかし、固定値は時に、存在を縛る。
君はまだ縛られないほうがいい」
「……さっき、似たようなことを、どこかで聞いたような気がする…」
「ふふ、普通の人間なら、名前は揺れないね」
トゲまるの言葉が、胸に刺さった。
ノンリニアたんが補足する。
「あなたは、量子場の影響を受けています。
あなたの存在情報は極めて不安定です」
おれは息を飲んだ。
「……じゃあ、おれの名前は…存在は…」
「未確定です」
ノンリニアたんは静かに言った。
「あなたの名前は、
あなた自身が決めるまで確定しません。
他者が呼ぶ名前ではなく、
あなたが選ぶのです」
「選ぶ……?」
「はい。
あなたの物語は、あなたが書くものです。
名前もまた、あなたが選ぶべきものです。
あなたの幸せは、あなたが決めるのです。」
自称神様が肉を差し出しながら笑った。
「あー、めんどくせ。
まあ、難しく考えんなって。
名前なんてよ、最後にありゃいいんだよ。墓石に彫るためにな。
揺れてるってのは、生きてるってことだ」
りっつが、おれの膝に乗って言った。
「あるじは、あるじにゃ。
それで、いいにゃ」
スウィリディが鼻を鳴らす。
「わたくしは、神様のネイムドで幸せですわ」
トゲまるが静かに光った。
「名前は、いずれ決まるよ。
君が選ぶときが来るんだね」
おれは深く息をついた。
免許証の名前欄はまだ回転している。
しかし、さっきより怖くなかった。
「……そうか。
じゃあ、今はまだ……自由で、いいか」
ノンリニアたんが、青い目をふっと優しく光らせた。
「はい。
それが、今のあなたの存在です」
自称神様が肉を差し出す。
「ほらよ。今日の肉はうまいぜー。歩く良質タンパク『森のマジお肉』!
そして、おれは、焼き加減マスター!」
りっつが短い尻尾をふんふん振る。
トゲまるにもらったトゲで肉を刺している。
「肉にゃ! 肉にゃ! 美味にゃ。
今宵の我が刀、『トゲ丸』は血に飢えておるのにゃ!」
スウィリディがどや顔で木の実を転がす。
トゲまるが転がされる…。
「ストライク! ですわ!」
トゲまるは、転がったまま静かに光る。
「ほどほどの火はいいね。乾燥は、正義だよ」
おれは、ふっと笑った。
名前が揺れていても、
おれの、この日常は確かにここにある。
― 非線形量子場演算AI端末『ノンリニアたん』の日常 ― @achi-omoikane
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