嘘と桜とレモネード

白雪花菜

嘘と桜とレモネード

 朝の日差しが曇ったガラスを通して、喫茶店内を照らしていた。

 窓際には向かい合わせの四人席が三つ、あとはカウンター席があるのみの小さな喫茶店であり、三つの四人席の、ドアから見て奥側の席には雑多に運動靴などの荷物が置かれ、席を潰している。

 店主の老夫婦は不愛想だ。


 ――デートでは絶対に使ってはいけません。マッチングアプリの初回デートでここに連れて行くと、確実に次はありません。気の乗らない相手と会うにはいいところだと思います、と某口コミサイトに書いてあるほどの喫茶店だった。


 この喫茶店は人の出入りが少ない。店員の老夫婦は客が入って来たとしても、その客に関心を持つことはない。


 それをいいことに、春香は颯太と会うのに、この喫茶店を利用していた。


 春香はスマートフォンの画面を見て、時間を確認する。通知画面には、颯太からのメッセージが届いていた。


 ――あと五分ほどで着きます。


 春香はそのメッセージを確認して、目の前に置かれたレモネードに沈むレモンに目を向けた。それを見ながら、微かに笑った。

 急に呼び出したのは春香の方で、颯太はなんとか都合をつけてくれていた。


 ――颯太は優しい。


 そう思うと、春香の口元には笑みが浮かぶのだ。


「お客さん、もう一時間経ってます」


 老婆が不愛想に春香に話しかけた。

 この喫茶店は、何故か滞在が一定時間経つと、人がいないのに追い出されるのだ。


「――連れがいるんで」


 春香はにべもなく言う。老婆はすごすごと引き下がった。

 春香は老婆の後姿を見ながら、残念に思う。


 ――レモネードは美味しいのにな。


 寧ろ、レモネードしか美味しくない。一度、コーヒーを頼んだが、炒りすぎなのか納豆の味しかしない。

 春香はスマートフォンにまた目を落とす。何件かメッセージが来ているのを確認しつつ、退店を促されているから、もう一杯くらいレモネードを頼もうか、と考えた。


 そう考えていると、ドアのベルが鳴る音がする。春香はドアの方へ目を向けた。清潔感のある短髪の、目が大きく、鼻梁の高い青年が息を切らせて入ってきた。

 彼は春香の存在を確認すると、駆け寄り、手を合わせて頭を下げる。


「ごめん、遅れた」


 申し訳なさそうに言う颯太を見て、春香は微笑んだ。


「いいの、急に呼び出したから。――レモネードでいい?」

「うん、レモネードで」


 そう言って、颯太は座った。

 すみません、と言って春香は老婆を呼んだ。口を曲げてやってきた老婆に、レモネードを二つ頼んだ。


「会社の組合だっけ? 用事があったのにごめんね」


 春香がそう言うと、颯太は「別に大丈夫。話聞いて日当貰うだけだしね」と言った。


「へえ、話は覚えてるの?」

「いや、全く」


 そう言って、颯太は笑った。


「――春香の近況はどうなの? 仕事は順調?」


 春香の仕事は人材派遣会社の営業だった。


「うーん、ぼちぼちかな。成績も悪くもないし、よくもないし。――それより、私さ、四月にこの街を出るんだ」


 春香の言葉を聞いて、颯太は驚いたように目を見開く。


「――転勤?」

「ううん、結婚」


 春香は微笑んだ。


「――それは、おめでとう、春香」

「喜んでくれるの?」

「そりゃ、嬉しいでしょ。春香が幸せになれるんだから」

「あはは、ありがとう」


 老婆がレモネードを二つ、春香と颯太の前に置いた。

 カラン、と氷が揺れ落ちた音がした。


「――颯太もさ、この街を出ればいいのに」


 春香が呟くように言うと、それを聞いた颯太が首を振った。


「――今の会社、あと二年は転勤ないし、わざわざ遠くに引っ越してもね」

「そっか」


 そう言うと、春香はレモネードに目を落とす。レモンの濁りはまるで、春香の心模様を映し出しているかのようだった。



 結局、レモネードを飲まぬうちに店から追い出されてしまって、春香と颯太は川沿いを歩いた。目の前にはソメイヨシノが植わっており、まだ開花期を迎える前の蕾がたくさん成っている。川の向こうには、田園風景が広がっていた。

 もう田んぼは水張りを終え、四月の代掻きを待つばかりだった。

 二人の手には、レモネードが入ったプラスチックの蓋つきカップがあった。飲み物は手つかずだ、というと、何故かカップに入れてくれたのだった。


 ――こんなサービス初めて。


 春香はそう思った。


「――春香」


 不意に、颯太は名前を呼んだ。


「――春香はもうこの街を出るんだから、今までのことは忘れたほうがいいよ」

「……今までのことって? ――颯太のことも?」


 颯太は一瞬、息を呑んだように見えた。


「当たり前だろ。春香のお父さんに関することは忘れた方がいい」


 颯太は怒ったように言った。


 春香の父親は春香と颯太が小学校一年生の頃に亡くなった。

 霜が凍り付くほどの寒い夜のことだった。

 春香の父親は酒で酔った中、用水路に落ちた。そんなに深くもない用水路だったが、泥酔した男は起き上がることができなかった。

 翌日、冷たくなった春香の父親が発見されたのだ。


「――お父さんのことなら、私は颯太に感謝してる」

「感謝するもんじゃないだろ。俺は……」

「でも、感謝してる」


 春香は自信を以て言える。

 春香の父親はアルコール依存症で、よく春香と春香の母親を叩いた。春香と春香の母親は父親を恐れるばかりだった。


 ――そんな日々から、颯太が救ってくれた。



 ⁂


 去り行く春香の背中を見て、颯太は胸が苦しくなった。


 霜が凍り付くほどに寒い夜、薄暗くなった時間に、春香の父親は春香に、自身を迎えに来させた。

 颯太はというと、遊びまわって、薄暗くなった中、歩いていたのだった。

 サッカーボールを片手に歩いていた颯太の目の前で、春香は父親に頬を叩かれ、道路に叩きつけられていた。叩きつけられた春香を今度は蹴り上げた。

 颯太はショックを受けた。颯太の親は彼に対して、そういうことはしない。

 颯太はボールを投げ捨て、春香の父親に突進した。彼女の父親はそのまま、用水路に落ちた。


 巨体が用水路から出るのに苦労している中、颯太はボールを拾い、春香の手を握って走った。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。


 そう言っていた気がする。

 息があがったところで、颯太と春香は止まり、春香は涙を浮かべながら、「ありがとう」と、言った。


 その時、なんて答えたのか、颯太は覚えていなかった。覚えているのは、春香を家まで送ってあげたことだけだった。


 そうして、颯太は送り届けた後、一人で歩きながら、手の震えが止まらなかった。家に帰って風呂に入っても、時折手が震えた。

 眠る前、手を震わせながら思った。


 ――父親を用水路に落としたところで、父親が家に帰ってしまえば、春香がまた殴られるかもしれない。


 自分が如何に中途半端なことをしたのか、と思うと、その夜は眠れなかった。


 だが、翌日、学校でとあるニュースが駆け巡った。


 ――春香の父親が用水路に落ちて、凍死した、と。


 颯太は己が完璧なことをしてしまったことに恐れ戦いた。


 それから、春香はいきいきと毎日を過ごし、時折、颯太と遊んだ。春香は颯太を気にするかのように、颯太に感謝の念を伝えてきた。


 ――だって、お父さんがいなくなって、幸せだもん。自首するなんて言わないで……。


 そう言って、涙を浮かべる春香に対して、颯太は何も言えなかった。


 春香の背中が更に遠くなっていく。


 中学時代に春香に告白されたことがあったが、颯太は「友達のままがいい」と断った。

 その方がいいからだ。颯太は春香の父親を殺してしまった。

 このことは颯太が背負うべきで、春香は背負うべきではない。

 春香のことは好きだった。だが、春香にはもっと純粋な相手と幸せになって欲しかった。


 ――春香は前に進んでいる。


 颯太はそう思いながら、目の前の桜に目を向ける。柔らかな風を受け、蕾のついた枝が揺れる。

 桜はもうすぐ、開花を迎えそうだ。



 ⁂


 颯太に見送られながら、春香はレモネードを片手に歩いた。レモネードのレモンが、氷の底へ沈んでいく。


 ――結婚するなんて嘘。


 ずっと、颯太を縛り付けたままだった。颯太には自分を忘れて幸せになって欲しい。


 ――いつか、颯太もこの街を出て行って。

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