値札のない服:舞台衣装
をはち
値札のない服:舞台衣装
深夜の渋谷、裏通りの石畳に秋の湿気が沈み、街灯の光が淡く揺れる。
「時代屋」の小さな看板は、夜の静寂に寄り添い、ガラス戸の向こうで、魂を宿した衣類がひそやかに物語を紡ぐ。
店内は古布の懐かしい匂いと衣擦れの微かな音に満ち、
遥(はるか)は祖母・澄(すみ)の教えを胸に、今夜も店を開けていた。
棚には新たな服が現れていた。
深紅のベルベットに金糸の刺繍が施された舞台衣装。
襟には古い舞台の埃が残り、かすかにロウソクの焦げた匂いが漂う。
裾は擦り切れ、何度も舞台を踏んだ証のようにほつれていた。
値札はない。
遥は澄の言葉を思い出す。
「値札のない服は、そのまま陳列するの。それが務めよ。」
彼女は衣装を丁寧にハンガーにかけ、棚の中央に置いた。
店内の空気が一瞬重くなり、遠くで拍手とざわめきが響いた気がした。
戦時中の東京、電力が途絶えた薄暗い劇場。
蝋燭の灯りだけが舞台を照らし、女優・美津子は深紅のベルベット衣装をまとい、観客の前で歌い、踊った。
戦火の中、彼女の声は希望の光となり、客席の兵士や市民を励ました。
衣装の金糸は蝋燭の炎に映え、彼女の存在は舞台を越えて人々の心に刻まれた。
しかし、戦争が終わり、劇場は焼け落ち、美津子の消息も途絶えた。
衣装だけが、奇跡的に残った。
時は流れ、美津子の孫・夏子は祖母の遺したその衣装を手にしていた。
深紅のベルベットは色褪せず、襟に残るロウソクの匂いは、遠い舞台の記憶を呼び起こした。
夏子はダンサーとして生き、どんなオーディションにもこの衣装をまとった。
それは彼女の誇りであり、祖母の魂が宿るお守りだった。
だが、ある日、運命のオーディションが訪れる。
『レ・ミゼラブル』のエポニーヌ役を懸けた日、夏子は衣装が消えていることに気づいた。
楽屋のロッカーを探し、劇場の隅々を駆け回ったが、どこにもない。
誰かに隠されたのだと直感したが、オーディションの時刻は迫っていた。
仕方なく、夏子は汗と埃にまみれた練習着で舞台に立った。
舞台の照明が落ち、スポットライトが彼女を捉える。
夏子はエポニーヌの歌を歌い始めた。
声は震え、練習着はみすぼらしかったが、彼女の動きには祖母の魂が宿っていた。
客席の審査員たちは息を呑んだ。
汚れた服の中で燃える夏子の情熱は、エポニーヌの悲しみと強さを体現していた。
彼らは夏子の中に、戦火の舞台で歌い続けた美津子の姿を見た。
夏子はエポニーヌ役を勝ち取ったが、衣装は二度と彼女の手元に戻ることはなかった。
数十年後の秋、渋谷の「時代屋」。
ガラス戸が軋む音とともに、初老の女性が店に足を踏み入れた。
夏子だった。
白髪交じりの髪を結い、年輪を刻んだ瞳には、舞台の記憶が宿っていた。
彼女は棚を一瞥し、深紅のベルベット衣装を見つけた瞬間、息を止めた。
「あ、あなたは…」
夏子の声は掠れ、衣装を手に取ると、襟の埃とロウソクの匂いをそっと嗅いだ。
指先で金糸の刺繍をなぞると、遠い舞台の拍手が耳に響いた。
彼女は静かに語り始めた。
「この衣装は、祖母の命だった。戦時中、どんな暗闇でも舞台に立った。
祖母が亡くなり、私がこの衣装を受け継いだ。あのオーディションの日…誰かに盗まれたと思った。
でも、舞台に立った時、祖母がそばにいる気がした。エポニーヌは私に、祖母の魂を教えてくれた。」
夏子の目から涙が溢れ、衣装の裾を握る手が震えた。
「ありがとう。やっと会えた。」
その瞬間、店内に蝋燭の炎のような暖かな風が吹き抜け、衣装の金糸が一瞬輝いた。
夏子は衣装を抱きしめ、ガラス戸をくぐって夜の路地へ消えた。
彼女の背中は、まるで舞台の幕が上がるようにキラキラと輝き、衣装とともに闇に溶けて消えた。
遥は空のハンガーを眺め、澄の言葉を反芻した。
「この店は、魂が旅立つための場所なの。」
翌朝、棚には新たな服が現れていた。
ご当地キャラの着ぐるみ。
色鮮やかな布地に、縫い目の粗い手作り感が残り、毛羽立った表面には祭りの喧騒と子供たちの笑い声が染みついているようだった。
目元のプラスチックは曇り、背中のチャックは錆びついている。
値札はない。
遥は着ぐるみを手に取り、眉をひそめた。
「ここは服屋なのに、着ぐるみか…」と小さくぼやきながら、
彼女はそれをそっとハンガーにかけ、棚に置いた。
店内の空気が一瞬軽くなり、遠くで太鼓の響きと子供たちの歓声が聞こえた気がした。
遥は深く息を吐き、陳列の準備を始めた。
深夜の「時代屋」は、今夜もまた、彷徨う魂を待ち続ける。
値札のない服:舞台衣装 をはち @kaginoo8
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