Sec. 07: Nothing ventured, nothing gained - 03
そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。
クロフォードは倒れたとき、ティーカップに目をやっていた。紅茶か、あるいはティーカップそのものに毒が仕込まれていたと見るべきだろう。
魔術師としての視覚を起動させ、構成式を視る。思った通り、紅茶を表す構成式の中に別のものが混ざっている。式をあまり覚えていないレイでもわかるほど、異質なものだ。
式核を知覚できない魔術師は、式幹を覚えて『なんの構成式か』を逆算し、推定する。レイはまだ基礎学派の一年目なので、式幹もそう多くは覚えていない。けれど、それでもこれが人体に害のあるものだと理解できた。
紅茶に混ざっているということは、混入の経路は二つ。ティーポットにそもそも入れられていたか、ティーカップに注がれてから入れられたか。会場はビュッフェレストランで、ドリンクもセルフサービスだ。後者であるとは考えにくい。ならば、
「この毒、クロフォードの血液に反応して起動するようになってるな。ってことは——」
「ティーポットに入れられていた……?」
さっと血の気が引くのがわかった。一つのポットから注いだ紅茶を飲んでいた、全ての人間に毒が盛られていたのだ。レイは思わず生唾を飲み、自分の胸元に手を当てる。
犯人はクロフォードの血液を持っている——つまり、彼を誘拐した際に血を採取した、ということだ。魔術師の血でさえ無数の使い道があるのに、魔法使いのそれともなれば、何に使われるのか想像もつかない。
「クロフォードだけを狙った犯行ってことでもある。次は、毒の入手経路だが」藍鍾尤は難しい顔をして、顎に手をやった。「地道に聞き込みするしかなさそうだ」
「なんの毒か、わかるか?」
「アトロピンみたいだな。ナス科の植物の葉や根に含まれてるアルカロイドで——って、こんな蘊蓄はどうでもいいか」
「アトロピン……」
植物の葉や根に含まれる毒物。レイは抄録集の存在を思い出し、鞄を漁ってそれを取り出すと、藍鍾尤にも見えるように開いた。目次を開き、指で辿っていく。
植物に関する研究は、有機学派で盛んだ。ウィッチクラフトであれば、植物の葉や根を用いて霊薬の類いを作ることもできる。研究テーマとして選ばれることもあるだろう。
「——あった」
ソニア・カドガン。有機学派に属する魔術師で、発表のタイトルは『ベラドンナの幻視作用が式海にもたらす変化について』。実証実験あり。
レイが顔を上げると、藍鍾尤は力強く頷く。
「彼女に話を聞こう」
インカムで部下にカドガンを探し出すよう指示した藍鍾尤と共に、レイはレストランを後にする。一歩外に出れば、乗客たちはわっと藍鍾尤に群がり、口々に毒について尋ねた。なんの毒が使われたのか、混入経路はどこからだったのか、自分たちに害はないのか……みな、自分への影響を第一に考えている。当然だ。クロフォードが師や友人でなければ、きっとレイでもそうするだろう。
人の波をかき分けて、押し出されるように廊下に出た。藍鍾尤は耳に手を当て、群衆のざわめきから部下の報告を拾い上げようとしている。「了解」と声を張り上げた。
「上の……スクエアにいるらしい。ミス・ハウエルズも一緒に」
「ハウエルズも?」なんの繋がりが?
「知り合いなんじゃないか」
藍鍾尤は適当に返し、階段を上った。背後では、レストランの警備を任されていた執行者たちが質問攻めに遭っていた。なじるような言葉が多い。中には構成式を視た者もいて、ティーポットに毒を混入させた犯人を早く捕まえろと怒鳴る声もあった。
レディ・モルガン・スクエアの入り口に、警備員が立っている。どうやらここは封鎖されているらしい。藍鍾尤は軽い敬礼をしてスクエアに入り、レイも後に続いた。警備員はレイを止めることはなかった。もう、レイに対する嫌疑も晴れているのだろう。
スクエアの隅に置かれたソファに、紺色のパンツスーツを着た女性が座っていた。その隣には、アデライン・ハウエルズの姿も見える。藍鍾尤は執行者証を掲げた。
「ミス・カドガン。執行課の藍鍾尤です。こちらはレイ、クロフォードの弟子で」
「知ってるよ。クロフォードは有名人だからね」
ソニア・カドガンは、年輪を思わせる深い皺が多く刻まれた、白髪の老女だった。レイたちがソファに座ると、彼女は早速ため息をつく。彼女がティーポットに毒を盛ったわけではないのだろう。
「お前さんたちが聞きたいことはわかってる。だが、オレじゃない」
「どうしてそう言えるんですか?」
レイは鞄から手帳とペンを引っ張り出しながら尋ねた。
「ベラドンナの乾燥根が盗まれたんだ。二日前に、ごっそりね」
二日前。クロフォードが誘拐され、毒を与えられた時期と一致する。しかしカドガンが虚偽を述べていないと信じるに足る根拠は、ない。
「盗まれた時点で、どうして執行者に相談しなかったんですか?」
「金目のものでもないし、発表も終わってる。盗まれて困るようなものじゃない」
「でも、毒性がある。悪用されるとは?」
「悪用なんて」彼女は肩をすくめた。「アトロピンのラット半数致死量は一キロあたり五百ミリグラムだ。オレが持ってた乾燥根から生成できるアトロピンは、せいぜい二グラム。中毒性が現れる閾値は約五ミリから十ミリグラムで、全部使ったって中毒にはならない」
彼女が、嘘をついている可能性もある。毒物の構成式を書き換えれば、少量の投与でも中毒症状をもたらすことができるだろう——レイはそう考え、カドガンに疑いの眼差しを向けた。だが、藍鍾尤は腕を組んで唇を尖らせる。「なら、本当に盗まれたのですね」
「少量の投与で中毒になるよう魔術を使うっていうのは不可能だ。アトロピンのカタログスペック——ラット半数致死量なんかは、式核に含まれてる不変のものだからな」
なるほど、とレイは手帳に書きとめる。式核にはその存在の根本たる概念、性能などが含まれている。アトロピンの場合、この量で出る症状はここまで、という線引きまでもが式核に入っているのだろう。だから、二グラムで出る症状以上の中毒性を引き起こすことはできない。毒が作用する人間を指定することはできるのに——魔術であっても万能ではないのだと、レイは改めて実感した。
「誰かに相談しなかったんですか?」カドガンに質問を続ける。
「したさ。盗まれてすぐ、アデラインにね」
頷き、彼女は隣のハウエルズを見やる。水を向けられたハウエルズも頷いて、肯定した。
「ええ。これ以上余計な騒ぎを起こしたくなかったし、悪用される危険性も低かったから、特に誰かに報告することはなかったけれど」
では、カドガンはシロか。ハウエルズが身の潔白を証明したのだから、彼女がシロだと証言するのなら、カドガンも潔白なのだろう。共犯である可能性は限りなく低いはずだ。カドガンにも、カーリーとチェンバーズを殺す動機はない。
「盗んだ人間に心当たりは?」
「あるわけないだろ。どうやって盗まれたかもさっぱりだ」
はあ、と彼女はため息をついた。この船には魔術師しか乗っていないから、何かを盗み出す方法は無数にある。盗む動機があるのは犯人だけだが、犯行が可能なのは乗客全員だ。
「ご協力ありがとうございました、ミス・カドガン。ミス・ハウエルズも」
藍鍾尤は立ち上がって彼女たちに微笑むと、それでは、といとまを告げる。これ以上、得られる情報はなさそうだった。レイも同じように礼を言い、荷物をまとめてスクエアを後にする。スクエアの封鎖は解除され、人影が戻りつつあった。
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魔法使いの構成式 - Case. 仮面の航海 早蕨足穂 @sawarabitaruho
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