値札のない服:軍服の上着

をはち

値札のない服:軍服の上着

雨上がりの渋谷の裏通りは、秋の冷気が石畳に沈み、街灯の光が淡く揺れていた。


「時代屋」の小さな看板は、夜の静寂に寄り添うように佇み、


ガラス戸の向こうでは、魂を宿した衣類がひそやかに物語を紡ぐ。


店内は古布の懐かしい匂いと、衣擦れの微かな音に満ち、


遥(はるか)は祖母・澄(すみ)の教えを胸に、今夜も店を開けていた。


棚には新たな服が現れていた。


オリーブグリーンの軍服の上着。


使い込まれた生地は硬く、肩の階級章は擦り切れ、胸元のボタンには古い傷が刻まれている。


ポケットからは、かすかに煙草と土の匂いが漂い、左胸には小さな穴、銃創が、黒ずんだ血の跡とともに残っていた。


触れると、布地から冷たく湿った感触が伝わり、まるでその穴から今も血が滲み出しているかのようだった。


赤黒い染みが、月光の下でかすかに光沢を帯び、静かに脈打つように見えた。


「これも…魂の服か」


遥は呟き、澄の言葉を思い出す。


「値札のない服は、そのまま陳列するの。それが務めよ。」


彼女は軍服を丁寧にハンガーにかけ、棚の中央に置いた。


店内の空気が一瞬重くなり、遠くで銃声と土の匂いが混じる風が吹き抜けた気がした。


数夜が過ぎ、軍服の異変に遥は気づき始めた。


銃創の血痕が、夜ごとに色濃くなり、まるで生きているかのように布地を這う。


ある晩、帳簿を整理していると、棚の奥から低いうめき声が聞こえた。


男の声だった。力強く、しかしどこか優しい響き。


続いて、遠くで爆音とヘリのローター音が重なり、誰かの叫び声が響く。


「子供をたんと作れよ!」


その声は荒々しく、波が岩肌に叩きつけられる音が店内にこだました。振り返っても、店内には誰もいない。


軍服の銃創から、赤黒い血が一筋、床に滴り落ちた。


遥は息を呑み、動けなかった。


秋も深まったある夜、ガラス戸が軋む音とともに客が現れた。


杖をついた老人が、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。


右の袖は空っぽで、片腕がなく、左足を引きずる姿は痛々しかった。


白髪の頭は低く、しかしその瞳には、遠い戦場の記憶が宿っているようだった。


老人は棚を一瞥し、軍服を見つけた瞬間、杖を握る手が震えた。


「あ…大尉…お前か」


彼の声は掠れ、軍服を手に取ると、銃創の穴を指でなぞった。


血痕は今も湿り気を帯び、老人の指先に赤い染みが残った。


彼は膝をつき、軍服を胸に抱きしめた。


「まだここにいたのか」


嗚咽が店内に響き、遥は静かに見守った。


老人は語り始めた。かつての戦場。


自分は新婚だった。


妻の話を、いつも上官の大尉に聞かせていた。


「朝は米を炊いて味噌汁こさえて待ってるのさ、花の刺繍のエプロン着てな!」と笑いながら、


戦場の泥の中で語る自分の声が、仲間を和ませた。


だがその日、敵の銃弾が大尉の胸を貫いた。


血が流れ、仲間が叫ぶ中、救助のヘリが来た。


大尉は胸の傷を見て、助からないと悟った。


「お前が行け」と、嫌がる自分を無理やりヘリに乗せた。


「子供をたんと作れよ!」


大尉は血まみれの笑顔で叫び、敬礼した。


自分もヘリの中から、涙ながらに敬礼し返した。


それが最後だった。


老人の目から涙が溢れ、軍服の血痕が再び滲み出した。


「俺は腕と足を撃たれてな。腕は切断、片足は不自由になった。それでも生き延びた。


大尉――約束を守ったぞ。子供をたんと作った。今は孫までいる。」


彼は声を震わせ、軍服を抱きしめた。


「お前が命をくれた。あの朝を、家族を、守れたんだ。」


その瞬間、店内に乾いた風が吹き抜け、軍服の血痕が一瞬輝いた。


銃創から滴る血が、まるで涙のように床に落ち、静かに消えた。


老人は軍服を手に、杖をついて夜の路地へ去った。


ガラス戸が閉まる音が、店内に小さく響いた。


遥は空のハンガーを眺め、澄の言葉を反芻した。


「この店は、魂が旅立つための場所なの。」


翌朝、棚には新たな服が現れていた。


舞台衣装。


深紅のベルベットに金糸の刺繍が施され、襟には古い舞台の埃と、かすかにロウソクの匂いが残る。


裾には擦り切れた跡があり、まるで何度も舞台を踏んだ証のようだった。


値札はない。


遥は深く息を吐き、陳列の準備を始めた。


深夜の「時代屋」は、今夜もまた、彷徨う魂を待ち続ける。



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