【短編】『与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか?』

鷹仁(たかひとし)

ソープランド文学館

 福井駅に降りると、ティラノサウルスの恐竜ロボットが天を仰ぎ、壁に書かれたトリックアートのフクイラプトルがこちらを睨んでいた。

 夏の日差しが肌を焼く。数年前から、日本の秋は消えていた。

 恐竜を横目に、俺は駅の西口から北の庄通りへと歩く。観光案内のポスターには東尋坊の写真が映っていた。俺の用が済んだら向かう場所だ。運賃の八百二十円を封筒に分け、バスの最終便を確認する。そして、東尋坊とは反対側の道へと俺は急いだ。

 高架下、“お得なランチやってます”の看板前ですれ違うサラリーマンは次の商談があるのか忙しない。繁華街の裏路地に入ると、雑居ビルに掛けられた錆びたピンクの看板に“ソープランド文学館”と書いてあった。

 ビルの三階にエレベーターで昇る。受付は、湿った空気と安い芳香剤の匂いが混じっていた。お世辞にも綺麗と言えない地方のソープランドは、年季の入ったおばあが受付をしている。ネット予約のクーポン利用で五十分四千円。そこに指名料千円を追加する。サービスの良いキャストは日記の更新がマメな子を選ぶといいと知り合いに聞いた。俺は金を払い、待合室に案内される。部屋はビジネスホテルの一室をさらに安っぽくしたような造りだった。そこには俺よりも一回り老けた男が、所在なさげに部屋の隅を見渡している。彼はこちらと目が合うと、一度ぺこりとお辞儀をして、また壁のシワ探しに戻っていった。

 平日の昼間から風俗通いをする男はどうせろくでもない。この男に配偶者はいないのだろうか。俺は軽蔑の目を彼に向ける。しかし彼を腐したとして、同族嫌悪にしかならないのは分かっていた。そのうえ、どうやっても俺はあの年齢になることはないのだと思うと、安心と少しばかりの寂しさが混じって口の中が苦くなる。それは、入室前に渡されたイソジンの薬液の味だった。


 三十歳にして童貞。まさか自分がこんな場所に来るとは思わなかった。

 いや、違う。前世が力道山なんていう呪いを背負って生まれてこなければ、もっとまともに女と付き合えたはずだ――。

 俺は昭和の英雄としての自意識と己の怠惰が生み出す現実との乖離から、他人との接しかたが分からずにいる。


「お久しぶり、ヒロミさーん」

 自己嫌悪で頭を抱えていると、待合室に一人の女の子がやってきた。歳は二十代前半。ツインテールの黒髪で、身体が細い。妹系というやつだ。

「っはーいっ! キキちゃんっ、いこいこ!」

 キャストの名前はキキちゃんというらしい。

 彼女を見つけると、俺の隣に座っていたヒロミが立ち上がり、目を輝かせて元気よく返事をする。

 ヒロミがキキと手を繋いで出ていく。はたから見れば、キキが彼の娘と言われても不思議ではない。

 そして二人が出て行ってからしばらくして、俺の前に先ほどの娘よりも幾ばくか人生経験を積んでいそうな女性が現れた。キャストの日記――彼女は独特で短歌とエッセイを絡めたやけに文化的なもの――をこまめに更新していたのと、俺より二つ年上であること。そして尻がチャームポイントだと書かれていたので、指名した。俺の勘は間違いなかった。

 彼女は短めのボブカットに蝶の髪飾りをつけ、泣きボクロがある。そして、水色のキャミソールと同系色のショーツを纏った彼女の胸は日ごろ体系維持に努めているのか張りがあった。

 一方で、下着の隙間からはみ出た腹と太腿は、どうしても努力ではカバーできない弛みが見える。その柔らかなシルエットからは、どことなく甘い香りがした。

「ご指名ありがとうございます。初めての方よね」

 中でも俺が一番印象的だったのは、彼女の瞳だ。まるで黒曜石のように上品で深い黒を纏った彼女の目は、こちらを差すような強さがあった。

「こんなおばさんでごめんなさいね」

 俺がぢっと見つめると、彼女は身をよじらせて恥ずかしそうにする。

 彼女が目を細めると、長いまつ毛が目を覆い隠して大人の妖艶な表情に変わった。

「晶子です」

 そして、中腰になっている俺の手を取ると、晶子さんは俺を別室へと引いていく。久しぶりの体温に、何だか泣きたくなった。


 案内された部屋は十畳ほどの風呂場で全面タイルが敷いてある。

 洗い場と二人で入れる大きめの浴槽、そして、ど真ん中に業務用のエアーマットレスがデデンと鎮座していた。

「時間は五十分ですね。他に何かしてほしいことはありますか?」

 晶子さんは風呂場に入ると防水のタイマーを押した。デジタル時計の数字が俺の心拍数と同じリズムで減っていく。

「あの、初めてで……」

 俺がそう言うと、晶子さんは早速風呂桶にお湯を張りながらこちらをチラリと見た。

「お店が? それとも女の人が?」

 そう聴き返す晶子さん目は俺を包み込むような丸みを帯びる。

です」

「まあ、嬉しい」

 晶子さんはわざとらしく黄色い声をあげた。

 恐らく営業トークだろう。しかし、俺が童貞と分かると柔らかな笑顔を作ってみせる彼女に、心の棘が抜かれていく思いがした。


 晶子さんが準備している間、マットレスに仰向けに寝かされた俺は、蛇口に向かう彼女の後ろ姿を見ていた。蝶の髪留めを風呂場の端に置き、短い髪がお湯とローションで右肩に乱れている。そして、その隙間から見えるうなじから肩甲骨にかけて、傷一つない白い肌が緩く揺れていた。

 お湯とローションを混ぜ終えた晶子さんがやってくる。彼女は液体を俺の背中に優しく塗ると、そのまま覆いかぶさるようにした。そして体重をかけないように気をつけながら、彼女は自分の身体をスポンジ代わりに俺の身体を洗いだす。

「重くない?」

「重くないです」

「じゃあ、全身洗ってあげるからね」

「はい……」

 俺が頷くと、晶子さんの身体は俺の背筋と完全に密着した。

 エアーマットレスの冷たさと、お湯と晶子さんの体温で、腹と背中の温度差が気持ちいい。まるで露天風呂のようだ。そして、彼女が胸を押し付けるたびに、俺の中が幸せな圧迫感で満たされていった。

 そうして俺の腹、両手両足は彼女の身体で洗われ、お互いの呼吸が荒くなってきた頃、俺は胸の中のやるせなさに耐えられなくなり休憩を挟むことにした。

「初めてなのに激しくしてごめんね?」

「いえ、大丈夫です」

 俺の顔を見て無邪気に笑う晶子さんの眩しさが不思議だった。人って、初対面の人にこんな顔が出来るのか。俺は、最期に少しだけ彼女のことを知りたくなった。

 俺たちは、湯船に向かい合わせに入り、お互いのことを話すことにした。


 晶子さんは小学生みたいに手で水鉄砲を作り、こちらにお湯を飛ばす。

「そう言えば、あなたの名前を聞いてなかったね。ね、何て呼べばいいかな」

 言葉に詰まった俺は、仕返しにお湯を彼女に飛ばし返した。

 晶子さんが笑っている間に、俺は悩んでいる。この後死ぬ人間が彼女にどんな名前を言えばいいのか。

「あっ、答えたくなかったら別に好きな名前でいいんだからね? 好きなアニメのキャラでもいいよ」

 俺の表情を察した晶子さんが慌ててフォローに入る。俺の緊張をほぐそうと試みる彼女を見ていると、自分の中に甘えが出てきた。そうだ、俺の恥ずかしい部分を彼女にさらけ出したのだから、今更なんだよ。と、俺は、意を決して聞いてみることにした。

「晶子さんは……」

「ん?」


「晶子さんは、前世を信じますか?」

 俺がこの時口にしたのは、自分でも思いもよらないことだった。


「俺の前世、力道山なんです」

 

 初対面の人間に「前世は力道山だった」なんて言われて、晶子さんは笑うだろう。もしくは、気味悪がるに違いない。実際、風呂場の中には気まずい雰囲気が流れていた。神妙な顔で、晶子さんが「ううむ」と唸る。


「笑っちゃいますよね」

 俺が自虐を込めてそう言うと、晶子さんは首を横に振った。

 そして嬉しそうにこう言った。

「わー、奇遇ね! 実は私も、前世があるの!」

「はい?」

 俺は、耳を疑った。なんと、晶子さんも俺と同じく前世があるという。

「与謝野晶子って言うんだけどね。力道山より少し前に生まれた人……は知ってる?」

 俺の名前は道山君になった。

「みだれ髪の……あ、さんって」

 力道山よりも更に半世紀ほど前、昭和の歌人、与謝野晶子は一八七八年に生まれた。


 俺が与謝野晶子を知っていることに満足したのか、晶子さんは「んふー」と息を吐く。

「そ。だから私の源氏名が晶子なの。本名はショウ。こっちも、与謝野晶子の本名、鳳 志やうと一緒!」

 晶子さんは、俺と同じく生まれたときから前世の記憶を持っていたと語った。

 自分とは違う人の記憶を持ちながら、小学生になり日本史の教科書で与謝野晶子を知ったとき、彼女は自分が与謝野晶子の生まれ変わりだと確信したそうだ。


「与謝野晶子はね、子どもが十二人いるの。本当は十三人だったんだけどね」

「その一人は……」

「双子だったんだけど、一人逆子で生まれて、死んじゃったの」

 晶子さんは、まるで自分が一三人産んだお腹を慈しむように、お湯の中で静かに下腹をさする。


「私は、子どもを産めなかった。前世で沢山産んだからかも……お母さん失格だね」

「失格じゃないです。晶子さんは素敵です」

 俺が間髪入れずにそう言うと、晶子さんは笑う。

「ありがとう」

 晶子さんが初めて見せた泣き顔だった。

「それよか俺なんて、前世が力道山なのに、全然筋肉ないし、女の子に声もかけられないし、ボッチで根暗で英雄になんてなれなくてッ……、そんな自分が情けなくて……」

 俺の理想と現実の狭間ですり減った心は、すでに限界を迎えていた。

 高すぎる自意識が、生きづらさが。まるで力道山の力で俺の首を絞めつけている。

「そんなことないよ。道山君はかっこいいよ」

 今度は、晶子さんが間髪入れずにそう言った。

 ……そう言ってから、俺が泣かないように、俺の鼻をそっと押した。

 俺は泣かなかった。力道山が俺の首から手を放す。


 お湯から上がって、俺たちはマットレスの上で抱き合った。

 まるでお互いの体温を交換するかのように、時間が来るまで、俺と晶子さんはお互いの傷を舐めあう。


 タイマーが終わりを告げた。浮世に戻るときが来た。


 晶子さんに服を着せられながら、俺は彼女の記憶に残るために、何か話をしようと思った。

「『与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか』っていうネットミームがありましてね」

 思い出したのは、こんなトンチキなホラ話。

 思った通り、晶子さんは俺の話を聞いて爆笑する。

「なにそれ。『木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ではなくて?」

「本当は、二人は生まれた時代も何もかも違うんですよ。力道山が十五で表舞台に出たときには与謝野晶子は病院で寝たきりで」

「でも、私たちは出会ってしまった」

「そうです」

「福井の……お風呂屋さんの一室で」

 何だか、運命だね。運命って素敵だね。

 そう言いながら、晶子さんは堪らなく甘い声を出す。

 まるで、これが最後だとは露も思っていない純真さに、俺は堪えられなくなる。


「晶子さん」

「なあに」

 この人になら、俺は殺されていいと思った。

 お湯の中に沈めてもらって、苦しみながら死んでいけると思った。

 誰にも見られず崖の上から海に飛び込むよりもはるかに温かいと思った。

「俺を殺してもらえませんか?」

 ああ、俺はこれを言うためにここに来たのかもしれない。童貞を捨てても、俺の人生は何も変わりはしなかった。ソープで後顧の憂いを流してから、俺は東尋坊に身を投げるつもりだったのだ。

「……」

「別に厭ならいいんです」

「ふぅ……」

 半開きになった口と、長い睫毛を瞬かせながら。

 晶子さんは言葉の意味を理解すると、黒曜石の瞳から大粒の涙を流した。

「晶子さん?」

「私が断っても、東尋坊から飛ぶ気でしょう」

 何も言わなくても、晶子さんは分かっていた。

「この店にはね、最期に、女を抱きたくて来る人が多いの」

 晶子さんは、俺が死ぬことを分かっていて、あれだけの笑顔をくれたのだ。

 俺が呆然としていると、彼女は俺の顔を胸に抱いて、ゆっくりと俺の頭を撫で始める。


「よーし、よーし」

 彼女が俺の頭を撫でるたびに、胸の奥から何かがせりあがってくる。

「いいこー、いいこー」

 彼女の胸でどうしようもなくなって、俺は泣いた。小学生の頃に校庭で膝を擦りむいた時くらい泣いた。そして泣き崩れて晶子さんの胸に寄りかかりながら、彼女の心音を聞いていた。彼女は確かに、十三人の子どもを育て上げた母に違いなかった。

「道山君はずっと戦い続けてたもんね。怖かったね」

 俺は十五歳の力道山で、晶子さんは二十六歳の与謝野晶子だった。

「君、死にたまふことなかれ」

 いつからだっただろう。俺が人の温もりを忘れたのは。

 晶子さんは、弟への愛を俺に向けるように、静かに、静かに、祈るような手つきで俺の頭を撫でている。


 ソープランド文学館を出て、俺は駅へと向かった。東尋坊行きのバス乗り場を通り過ぎて、帰りの券を買う。フクイラプトルが「マタコイヨ!」と言っている気がした。


 帰りの電車で、俺は缶のレモンサワーをちびちび飲んでいた。

 俺たちは二度と会わないだろう。与謝野晶子と力道山の人生が交わらなかったように、俺たちもこれから別々の街で、誰かに傷つき誰かを癒しながら、それぞれの人生を歩んでいくに違いない。


 ――与謝野晶子は、力道山を殺さなかった。

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