怪談百合譚【不定期連載】
鈑金屋
『千燈の夜、きみを忘れても』
──世界が忘れても、わたしだけは。
【第一部】──灯の下で、ふたり歩いた
浴衣の襟から、白いうなじがのぞいていた。
月の光を受けて、それはしっとりと艶を帯びていて。
じっと見つめていると、そこだけ世界から浮かび上がるみたいだった。
「……なによ、見すぎ」
気づかれて、わたしは顔をそらした。
そらしたのに、目の端には映っている。
こっちをちらりと見る横顔。
わたしより少し背が低くて、細い肩に乗る黒髪は、今日は結ってあった。
少し大人ぶった後れ毛の流れが、首筋を撫でるたび、どきりとする。
「その髪、……いつもとちがうね」
「お母さんに手伝ってもらったの。……なんか、浴衣だから、ちゃんとしたほうがいいかなって」
どこか照れくさそうに言うその声が、ふわりと甘い匂いを連れてきた。
「香水……?」
「うん……初めて。あんたが、好きそうなやつ。選んでみた」
言ってから、美咲は口をつぐむ。
帯を押さえるように、両腕を胸の前に交差させて、ぎゅっと身じろぎした。
細いのに、成長途中の柔らかいふくらみが、結びのあいだからふくらんでいて。
帯に押しつけられて形を保ってるその輪郭を、わたしは目をそらしながら、しっかりと記憶していた。
白地に紫陽花模様。
汗ばんだ肌に張りついて、胸のあたりや背中に、ところどころ皺が寄っている。
すこし濡れた襟元からは、淡い地肌の色が透けて見えた。
美咲は、頑張ってた。
わたしのために、髪も、浴衣も、香りも、全部。
いつもより、少し大人のふりをして、今夜に賭けてくれていた。
わたしが言いたいことも、たぶん気づいてた。
でも、言えなかった。
それを壊してしまいそうで。
このまま、ずっと歩いていたくて──。
だから、わたしは逃げるみたいに言った。
「ねえ、裏参道って知ってる?」
「なにそれ?」
「願いが叶うんだって。……そこ、鳥居の奥」
誰もいない境内のはしっこ。
屋台の明かりの向こう、灯籠の途切れた先に、ぽつんと立つ鳥居。
「誰もいない方、行こうよ」
手を差し出すと、美咲はほんのすこし戸惑ってから、それを握った。
やわらかかった。温かかった。すこし汗ばんでいて、甘い匂いがした。
わたしの指に、美咲の香りが、染み込んでいくようだった。
【第二部】──手を離されたのは、わたしじゃなかった
鳥居をくぐると、空気が変わった。
しん……と音が吸い込まれていくようだった。
あれほど響いていた太鼓や人の声が、背後に遠ざかっていく。
さっきまで手を繋いでいた人が、なにか遠い存在に思える。
「やっぱり、戻らない……?」
不安そうに、美咲がわたしを見る。
その顔を見て、なんだか胸がぎゅっとした。
ねえ、わたしは間違ってないよね。
こんなふうに並んで歩くのが、うれしかっただけなんだよ。
「ちょっとだけ、ね。すぐ戻ろ」
美咲がこくんとうなずいた。
歩き出すと、ふくらはぎが目に入った。
浴衣の裾が、歩くたびにゆれて、すっと白い脹脛がのぞく。
踵が少し高い下駄を履いていて、いつもよりすこし足取りが不安定で、
肌が柔らかくて細くて、そしてとても、無防備で──
「きゃっ」
「わっ、ごめん!」
ふいに美咲がつまづく。
あわてて支えたとき、わたしの胸に彼女がぶつかった。
布越しに触れた感触。
帯の結び目の上から、熱が伝わってきた。
鼓動が早まっているのが、わたしにも伝わる。
「大丈夫?」
「……うん」
「……香水、いい匂い」
「っ、バカ……」
小さく笑って、もう一度、彼女の手を取った。
さっきより、しっかりと指を絡めて。
──もう、離さない。
あのときは、そう思ったのに。
だったのに──。
ふいに、空気が落ちた。
ざぁっと木々が揺れて、石畳の隙間から吹いた風が足元をすくっていく。
「っ……あれ、だれ……?」
目の端に、見えた。
木の影。
ひとつ、黒い影が、こっちを見ていた。
顔がない。
表情が、なかった。
「美咲、こっち戻ろう──」
そう言って振り返った瞬間。
手が──なかった。
繋いでいたはずの、美咲の手が。
手どころか、腕も、肩も、身体も。
わたしのすぐ隣にいたはずの、美咲が──
いなかった。
境内にも、鳥居の奥にも、視界のどこにもいない。
「……え?」
わたしの声だけが、空に溶けていく。
「美咲……っ!? 美咲!!」
叫んでも返事はない。
走り回っても、影も形もない。
だれも、いない。
さっきまで歩いていた道に、足音も、気配も、何も残っていなかった。
わたしの隣にいた女の子は、
さっきまで手をつないでいたはずの彼女は──
世界から、いなくなっていた。
【第三部】──“いなかったこと”にされていく
夏が終わるころ、わたしは世界の形を、ひとつひとつ失っていった。
最初は、美咲の家だった。
呼び鈴を鳴らしても誰も出ない。
翌日、見に行くと、ポストが空で、表札の名前が違っていた。
「そんな人、最初から住んでないですよ」って、近所の人が言った。
次に学校。
教室の席に、美咲の姿はなかった。
でも、それどころか──
わたし以外、だれも「美咲」の存在を憶えていなかった。
「あれ? 千秋って、ひとりで来てたよね?」
「プリクラ? あんた写ってるの一人だけじゃん」
LINE履歴からも消えていた。
わたしのスマホの中には、美咲と撮ったはずの写真がいくつもあるのに、
友達に見せると、「これ千秋一人じゃん」と言われる。
──消えていく。
まるで、最初から存在していなかったみたいに。
彼女の名前も、声も、匂いも、触れた熱も、
わたし以外の世界から、きれいに、ゆっくりと、削ぎ落とされていった。
なのに。
わたしの中だけには、全部残っていた。
その夜のこと。
張りつく浴衣。
汗のしみた帯の膨らみ。
風に揺れる後れ毛。
すれ違うときに感じた、甘い香水の匂い。
耳元で笑った声。
つま先で弾んだ下駄の音。
繋いだ手の温度。
なにもかも、昨日のことみたいに思い出せる。
「どうして、あたしだけが……」
教室で、ベッドで、通学路で、
何度も自分に問いかけた。
答えなんてないのに。
だって──これが、“理”なんだ。
神さまは、願いを聞いてくれる代わりに、代償を奪う。
それが、この神社の“裏参道”の正体だったのだと、
わたしは、あとから知った。
願いが叶う。けれど、何かを失う。
そして、ふたりで来た者は、どちらかだけが戻される。
それは、決まっていない。
誰が選ぶわけでもない。
ただ、運命が、勝手に決める。
わたしは戻された。
美咲は、連れていかれた。
──それだけのことだった。
理不尽でも、怒っても、泣いても、叫んでも、
この世界は、それを「なかったこと」にしていく。
やさしい顔をして、丁寧に、わたしの記憶の証拠を、
ひとつずつ、ていねいに、消していった。
だけど。
「わたしは、忘れないから」
呟くたび、胸がちくりと痛む。
でも、香水の香りは、まだ鼻の奥に残っている。
もう洗っても取れない、記憶の匂いとして。
【第四部】──秋燈、ゆらいで、きみの名を呼ぶ
秋が来た。
半袖の制服を仕舞い、スカートの下にタイツを履く季節。
神社には、夏の賑わいが去ったあとの静かな灯籠が、
ぽつりぽつりと並んでいた。
秋祭り──というにはひっそりとした、神事だけの夜だった。
屋台も太鼓もない。
けれど、わたしは、この夜を待っていた。
ここに、もう一度戻ってくるために。
彼女に、もう一度、会うために。
制服のポケットに入れたのは、小瓶の香水。
あの夜、美咲がつけていた香りと同じブランドの、
最後の在庫だった──と、薬局の店員が言っていた。
香水をひと吹きすると、
わたしの周りの空気だけ、夏に戻る気がした。
──あの夜の匂い。
汗と線香と甘い香りが混ざった、
はじめての、恋の匂い。
わたしは境内の奥へと向かう。
誰もいない裏参道。
あのときの鳥居の前には、今も縄が張られている。
木札には、こう書かれていた。
「神域につき、立入禁止」
「この先、帰れません」
ふふって、笑ってしまった。
知ってるよ。
わかってる。
帰るつもりなんて、最初からない。
だって、わたしが帰ってきてしまったことで、
美咲は、置いていかれたのだから。
──あのとき、わたしが願ったのは。
“この時間が終わらなければいいのに”
ただ、それだけだった。
ふたりで歩いて、汗をかいて、
視線が重なるたびに鼓動が跳ねて、
何度も「言おう」として、でも言えなくて。
終わってほしくなかった。
その願いは、叶った。
でも、世界は、わたしだけを“終わらせない側”に残した。
願いは叶えられたのだ。
理不尽ではあるけれど、正しい“交換”だったのだ。
──だったら。
「今度は、わたしが願う番だよ」
わたしはポケットの香水瓶を握りしめる。
そして──足を、縄の向こうへ。
踏み出した、そのときだった。
「やめて……っ、こないで……!」
風の向こうから、あの声が聞こえた。
懐かしくて、優しくて、泣きそうになる声だった。
あの夜、耳元で「似合う?」って囁いた、
あの声。
わたしは、そっと笑った。
「バカだな。行くに決まってるじゃん」
願いなんて、もういらない。
ただ、お前がそこにいるなら、それでいい。
足を、もう一歩。
わたしは、きみに会いに行く。
神様が忘れたとしても。
世界がなかったことにしても。
わたしだけは、きみのすべてを覚えてる。
だから──
待ってて、美咲。
[了]
『秋谷日報』
令和○年9月17日(火)夕刊 第六面(社会面)
◇女子高校生、秋祭り夜に失踪 神社裏参道で目撃最後
【秋谷市】
9月16日午後8時半ごろ、秋谷市在住の県立秋谷高校に通う女子生徒(17)が、地元の秋祭りに訪れた後、所在不明となっていることが分かった。関係者の話によると、生徒は当日の夕方、ひとりで八幡神社裏手の“裏参道”へ向かう姿が近隣住民により目撃された。
八幡神社の裏参道は、境内の奥に位置する立ち入り禁止区域で、祭りの当日も結界縄が張られていた。神社関係者は「一般参拝者の立ち入りは想定しておらず、灯籠も消えていたはず」と話している。
少女は白い制服姿で、祭りの終盤にはすでに同行者はおらず、ひとりで境内にいたとみられる。なお、失踪当時の携帯電話・所持品等は現場付近から発見されておらず、神社内および周辺を捜索中という。
◇“願いと引き換えに消える”──裏参道の伝承
八幡神社裏参道には、古くより“人を連れていく道”という民間伝承が存在する。
地域に語り継がれている言い伝えによれば、「裏参道をふたりで通れば、片方が帰れなくなる」「願いを叶えた者が、代わりに何かを失う」とされている。
この伝承に関して、地元の郷土資料館によれば、昭和初期にも同様の失踪例が複数記録されており、当時の新聞には「神隠し事件」として掲載された事例が確認されている。
八幡神社は市の重要文化財に指定されており、通常は関係者以外立ち入ることはないが、近年SNSや動画投稿サイトなどで“肝試しスポット”として紹介され、若者の間で話題になることもあった。
◇「ふたりで来たのに、ひとりだけ戻ってきた」
なお、現場には「誰かを探しているようだった」という目撃証言が残されている。
女子生徒が最後に確認されたのは、裏参道に向かって一礼したあと、結界縄を越えて奥へと進んでいく姿だった。
神社関係者によれば、「彼女は何かに語りかけるように“待ってて、美咲”と繰り返していた」とのことで、関係を示す人物について警察が調査を進めているが──
──以下、文字がにじんで読めない。
やがて、紙面のインクがゆっくりと滲みはじめる。
文字が、タイトルが、段組みが崩れていき、
そして──その場所に現れたのは、
まったく別の記事だった。
『秋谷日報』
令和○年9月17日(火)夕刊 第六面(社会面)
◇秋祭り、無事に終了 八幡神社で静かな宵
【秋谷市】
9月16日、八幡神社で行われた秋祭りが穏やかに執り行われた。昨年に続いての規模縮小ながらも、地元の親子連れや学生たちの姿が見られ、屋台の明かりと灯籠が夜の参道をやさしく照らした。
神社関係者は「事故やトラブルもなく、例年通りの神事が無事に終了できた」と語った。
※本紙には、当該日における事件・事故の報告は確認されておりません。
怪談百合譚【不定期連載】 鈑金屋 @Bankin_ya
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