寝室
尾八原ジュージ
寝室
そこはあなたとわたしの寝室だ。住まいに拘りのあるあなたが契約している1LDKのマンション、その四階の角部屋。掃き出し窓とバルコニー、備え付けのクローゼット、ダブルベッドの他には何もない、寝て起きるためだけの完璧な寝室だ。
わたしはあなたが知らない間に、そっとあなたの部屋に入る。あなたの部屋は無人であっても、かすかにあなたの匂いがする。シューズボックスの上にはカエルのオブジェが付いた金属のトレイがある。そこはあなたが帰宅するとすぐに鍵を置く定位置であり、そしてわたしがその鍵をこっそり盗み取った現場でもある。
複製した鍵と脱いだ靴は、清潔なビニール袋に入れて持ち運ぶことにする。わたしは寝室に入り、寝室のクローゼットに入る。胸の鼓動が高鳴る。これでここはあなただけの寝室ではなく、あなたとわたしの寝室になった。しかしあなたはそのことを知らないのだから、わたしはひっそりと隠れていなければならない。
ほどなく玄関のドアを開閉する音が聞こえ、それから足音が近づいてくる。「はーっ疲れたぁ」とため息のような声を聞いたわたしは、あなたが帰宅したことをクローゼットの中で確信し、嬉しくて嬉しくて小躍りしたくなるけれど我慢する。
それから数時間はあなたの生活音を聞いて過ごす。あなたは今日、同僚数名と共に夕食を外で済ませてきた。レストランの匂いを落とすため、あなたはまず風呂に入る。入浴を済ませるとすぐに浴室を軽く掃除し、寝室と扉をひとつ隔てたリビングに入ってきてテレビを点ける。冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえ、きっと缶ビールを取り出したのだろうとわたしは想像する。
リビングで、あなたは眠る前のひと時を謳歌する。もしもわたしに、ソファで寛ぐあなたの隣に堂々と座ってにこにこする権利があったなら、どんなに幸せだろう――わたしは夢想しながら、夜が更けるのを待つ。
やがてあなたはテレビを消し、歯磨きをし、おそらく明日の支度とかのちょっとした用事を済ませて、このベッド以外にはほとんど何もない、完成された寝室に入ってくる。朝日と共に目を覚ますあなたには、目覚まし時計すら必要ない。あなたは先に電灯を消し、それからベッドに入る。ベッドの軋む音、掛布団をかけるばさっという音がして、やがて静かになる。
あなたは眠っている。
じゅうぶんにその眠りが深くなった頃を見計らって、わたしはクローゼットを出る。常夜灯の下、あなたの無防備で美しく愛らしい寝顔を眺める。それからゆっくりと、ひっそりとベッドに乗り、あなたの隣に体を横たえる。
わたしとあなたの頭は今、ほとんどぶつかってしまいそうな距離にある。あなたの寝顔を眺めながら、今どんな夢を見ているのだろう、その夢の中に入っていけたらどんなにいいだろうと夢想する。それがどんな悪夢であっても、あなたと二人ならわたしには何の不満もないだろう。
わたしもまぶたを閉じてみる。あなたの寝息を聞く。このまま眠ってしまったらどうしよう。朝が来るまでに目覚めなかったらどうしよう。その場合あなたは朝日と共に目を覚まし、隣で眠るわたしを見つける。それから一体どうなるだろう。きっとわたしにとって愉快なことにはならないはずだ。だからこそわたしは今、この夜がいとおしくてたまらない。
このときが永遠に続けばいいのにと思いながら、わたしは目を閉じたままあなたの匂いを吸い込む。一夜を幸せに過ごすためなら、この先の人生をすべて棒に振ってしまってもいい気がしてくる。
あなたの寝息を聞いているうちに、だんだん眠気が忍び寄ってくる。
わたしはベッドの下からひっそりと這い出す。
あなたの隣には女がひとり眠っている。さっきクローゼットから出てきた女だ。わたしの他にもこんな女がいたのかと思うと、あなたのことが心配になるし、また余計にいとおしくもある。
わたしもこっそりベッドに入る。ベッドの下にスムーズに滑り込むことができるように体重を落としておいてよかった、と心の底から思う。あなたの寝息と、知らない女の寝息が聞こえる。重なったりずれたりを繰り返しながら、ふたつの寝息は止まる様子がない。
わたしも瞼を閉じてみる。ふたりぶんの寝息の中から、あなたの寝息を抽出しようとする。それはとても難しく、わたしは諦めて目を閉じたままそこに留まる。
あなたの頬は今、わたしのまつ毛が触れるか触れないかのところにある。あなたの髪の香り、皮膚の香りがすぐ近くから漂ってくる。そのことがあまりに嬉しくて、ほかに女がいようがいまいが、そんなことはどうでもいいと思えてくる。
あなたとの距離の近さに酔っているうち、だんだん眠くなってくる。でもクローゼットの女が引かない以上、わたしもまた引くわけにはいかない。あなたの隣で眠ってしまうよりほかに選択肢はない。
わたしは瞼を閉じたまま、眠気を手繰り寄せる。頭の中が白いもやに覆われていく。意識が完全に夢の中へと沈む直前、カラカラという掃き出し窓の開く音と、ベランダから侵入してきた誰かの足音を聞くけれど、起きてたまるものかと思う。
寝室 尾八原ジュージ @zi-yon
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