箱のお姉さん
赤とんぼ
箱のお姉さん
俺の爺さんがまだ十代前半、太平洋戦争のさなかのことだ。
空襲警報が鳴り響き、家族と一緒に近くの防空壕に駆け込んだ。
耳をつんざくような爆音が何度も響き、土の壁がびりびりと震える。
焼け焦げた木や油の臭いが鼻を刺し、口の中が苦くなる。
やがて音が途切れ、爺さんは外の様子を見ようと壕を出た。
その時、地面の奥から突き上げるような衝撃が走り、「あ、爆弾にやられてしまった」と思ったらしい。
目の前が真っ白に弾け、気がつくと世界が変わっていた。
空は白く、雲一つないのに光源がどこにあるのか分からない。
風はなく、空気はわずかに金属と薬品を混ぜたような匂いがする。
足元は土でもコンクリートでもない、冷たい板のような感触で、踏むたびに低く鈍い音が響く。
振り返っても防空壕はなく、見渡す限り、見たこともない建物や塔が並んでいた。
高さも形も不揃いで、外なのか中なのか判断がつかないほど天井は遠く霞んでいる。
視界の端に「オリンピック」の文字と「中央」という表示だけが、妙に鮮明に浮かんでいた。
爺さんはとにかく日本に帰りたくて、泣きながらすれ違う人に声をかけた。
だが返ってくるのは意味の分からない言葉ばかり。
中には彼を指差し、何かを囁く人もいた。
「変な言葉話す子供」「姿が変」――そう言っていたのだと後年になって思うようになったらしい。
混乱していた爺さんの耳に、澄んだ声が届いた。
「ここが日本だよ」
振り向くと、背の高いお姉さんが立っていた。
だがよく見ると、彼女は薄い透明な箱の中にいた。
壁も天井も分厚く、内側からは出られそうにない。
閉じ込められているのか、それとも…守られているのか。
お姉さんはにこやかに微笑み、何かを指差した。
そこに現れたのは、今まで見たこともない形の車だった。
車輪はなく、滑るように近づき、外壁は光沢を放ち、空気を切る音すらしない。
窓のない側面、そして音もなく開くドア。
箱のお姉さんに促されるまま、その車に乗せられた瞬間、爺さんの意識は遠のいた。
気がつくと、防空壕の中だった。
さっきまで一緒にいた家族が目の前にいて、「どこ行ってたんだ!」と怒鳴られ、ゲンコツを三発。
外はまだ煙と焦げ臭い匂いが漂い、爺さんが見た光景の痕跡などどこにもなかった。
――二度目は、それからしばらく経ってからだという。
戦後、買い物で賑わうデパートに入った瞬間、またあの白い空間に立っていた。
さっきまで耳にしていた売り場のざわめきも、石鹸や香水の匂いも、一切消えていた。
代わりに、遠くで金属が軋むような不気味な音と、低い爆発音が響いていた。
空間のあちこちが崩れ、白い粉塵が舞っている。
空には、ゼロ戦より一回り小さい飛行機が、鳥の群れのように密集して飛び、羽音のような震動を響かせながら何かを攻撃していた。
爺さんは身を縮め、ただ立ち尽くすしかなかった。
すると、地面の床が盛り上がるようにして透明な箱がせり上がり、その中にお姉さんが現れた。
険しい表情で、爺さんをまっすぐ見つめる。
「もう危ない事を考えてはダメ。お父さんとお母さんを大事にしてください」
その声だけが、あの場で唯一理解できる言葉だった。
近くでは別の男がこちらに向かって叫んでいた。
耳をつんざくような声量で、切迫した調子――だがそれは全く意味の分からない言葉だった。
おそらく「緊急事態だ!」とでも言っていたのだろう、と爺さんは後になって推測している。
次の瞬間、空気が急に引き絞られるように変わり、視界が暗転した。
目を開けると、爺さんはまたデパートの入り口に立っていた。
鼓膜の奥がじんじんと痛み、手のひらには白い粉がかすかに付着していたという。
爺さんはその後、何度も俺にこの二つの出来事を話してくれた。
そして必ず、あの広すぎる建物と、透明な箱に立つお姉さん、そして空を舞う奇妙な機体の絵を描いてくれた。
子供の頃の俺にはただの不思議な絵に見えたが、大人になった今、あれが何だったのかを考えると、妙に背筋が寒くなる。
……爺さんの絵が見つかったから、こんなことを話しているんだけど、その隅には間違いなく「東京2065年」と書かれていた。
箱のお姉さん 赤とんぼ @ShiromuraEmi
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