第2話 天極・戎衣

 ふと目を開けた。

 眠っていたのだと気付いた。

 実に様々な色や形がそこにあった。茶色い壁、白い棚。黒いテレビ。灰色のクマのぬいぐるみ。

 微かだが音もあった。エアコンが吐き出す冷気。

 だがそこには何もなかった。

 私を私たらしめる天極てんきょくは、何一つ。

 この世は真っ白だった。引きつける力も、弾き返す力も存在せず、私が、私の肉体だけが、ぽつんと転がっていた。

 感情も失せていた。

 眠る前には臓腑を潰してしまえそうなほどに渦巻いていた棘ばった心の痛みが、綺麗さっぱり消えていた。

 私は限りなく、ただの肉の塊だった。


 これは、私が目覚めて私を取り戻すまでの0.001秒のこと。


 次の瞬間には、私はむくりと起き上がる。乱れた黒髪をまとめているヘアゴムを解き、さっと手櫛を通し、また首の後ろで一本に束ねる。

 髪を結び直すのは私にとって、戎衣じゅういを着るのと同じこと。



「頑張れ」

 とあの人は言った。

 私にとってはそれが遺言だった。

 私が遺言に仕立て上げた。

 あの人が世を去る間際。私は、『今際の際に陥っている手を握る資格は無い』と逃げたい気持ちを抱きながらも、周囲に言われるがまま、ガリガリでしわくちゃの手を取った。その記憶が今朝からずっと、頭の裏から溢れて止まらなかった。

 ああ、あの人は、私などではなく別の誰かの手と繋がっていたかったんじゃないだろうか。

 そんな行く当ての無い問い掛けが、体の中にたちこめていた。


 だから私は眠ったのだ。体と心を、一時的に無に帰すために。

 そして希にもたらされる0.001秒で、生まれ変わることを期待して。


 私は今日も、遺言を放棄する。


 あの人――祖父への尊敬の念と、自分勝手な懺悔の気持ちとともに。

 祖父が守りたかったもの、私に望んでいたもの、私を認めてくれたであろう唯一の理由。


 立ち上がったら、全て置いて行く。





「さ、お茶沸かそ」




*天極・・・

 磁石の示す極。


*戎衣・・・

 戦場に出る時の服装。



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言葉集めの掌編 みかみ @mikamisan

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