Breath.3 「お礼を兼ねたランチタイム」
I: 静謐なランチタイムの向こうにある次の扉
「……はい。こちら、ご査収くださいませ」
そう言って差し出されたのは、学生会館の食堂でよく見る番号札ではなく、――レシートだった。
しかも、くるりと丸められることもなく、角がぴしっと揃えられている。
「えっ、そんな……」
「仰々しいかもしれないですけど、本当に気にしないでいただけるとありがたいです。今日は私が」
「いやいやいや、弥生ちゃん。それは図書館側が持つべき案件だからね」
「今回の件は運用表示が古いままだったっていう、図書館側の不手際が原因だったからね」
「たしかにそうではあるんですよね……」
「受け取りたいのは山々ですけどね。食費浮くってめっちゃありがたいですし」
今日のランチタイムは4人。麻衣、はるか、弥生、そして純平。
相談を無事に解決して数日後、弥生が「どうしても一度お礼がしたくて」と直接図書館にやってきたのが発端だった。はるかが「じゃあお昼、いっしょに食べよっか」と軽く受けた。そのまま中央図書館から歩いてすぐの学生会館食堂までやってきたという次第である。純平についてはこの日にシフトが入っていたため、運良くランチに相席できたというわけだった。
弥生は食堂の券売機の前でも落ち着いていた。 並んでいる学生の列の中で、ひとりだけ時間の流れが違うみたいに静かだった。迷いがない。財布を出すタイミング、券を取るタイミング、トレーを受け取るタイミング――すべてが、あらかじめ決められていたかのように滑らかだった。
「ところで弥生ちゃん。言い回しが『ご査収ください』なの、何かカワイイわね」
はるかが言うと、弥生はほんのり頬を赤くした。
「すみません、つい癖でっていうほどでも無いんですけど……」
「就活中の名残みたいな?」
「若干ばかりそんな感じです。……実際にそう言われるとちょっと恥ずかしいですね」
「じゃあ、今日は『ありがとう』で良いのよ。私たちも『どういたしまして』で済ませられるし。そういう日がある、ってことで」
はるかの声は、いつもより少しだけ柔らかい。
図書館のカウンターで見るふんわりお姉さんの声に戻っている。
「あとついでに言っちゃうと、ウチの室長の優しい良き先輩兼お友達になってもらえたら嬉しいなぁって」
「あっ、それはぜひ!」
麻衣と弥生ににっこり笑いかけるはるか。その流れに飛び乗るように晴れやかな麻衣。
「……ありがとうございます」
弥生がそう言って、両手を膝の上に揃える。
ほんの少し、息を整えるように視線を落とし――それからゆっくり上げた。
「今日、こうしてご一緒できて嬉しいです。図書館の方とお話する機会って、意外とないので。だから私の方こそ、よろしくお願いしますって感じで……」
「まぁ、そうよねえ」
はるかが笑い、麻衣も小さく頷く。
図書館は、利用者にとっては『常にそこに在る場所』かもしれない。
けれど、その『そこに在る』を成立させるために、たくさんの手が動いている。弥生はあの日その様子を垣間見ることができた、そんな充足感に満たされていた。
「そういえば、図書館の裏側ってどれくらい見せてイイものなんですかね?」
純平が箸で冷やし中華の具をつまみながら言う。
「いい質問」
はるかが即答して、にこりと笑った。
「裏側って言っても、もちろん出していい話と出しちゃいけない話はあるわ。今回の話だって、データベースの細かい構成とか、セキュリティの話とか、そういうのは当然言わない。でも、本を大事に扱うための手順は、むしろ利用者さんにも知ってほしいと思っているの」
「触れさせないんじゃなくて、触れられるための手解き、でしたよね」
麻衣が小声で補足すると、はるかは満足そうに「そうそう」と頷いた。
弥生は箸を止め、まっすぐにこちらを見る。
「……あの言葉、すごく印象に残りました。図書館って、静かにしてるだけの場所だと思ってたんです。でも、違うんですね」
「静かにしてるだけでも、静かに回ってる。――って感じかな」
はるかが言うと、弥生は小さく笑った。
「静かに回ってる……」
その言い方を噛みしめるみたいに、弥生は一度だけ頷く。
麻衣は、自分のトレーの上に置かれたカレーのルーを見た。
湯気は控えめで、スパイスの匂いだけがふわりと鼻をくすぐる。食堂のざわめきは穏やかで、どこか遠い。ここには図書館とは違う“日常の音”がある。
「……でも、弥生さんも、かなり静かに回ってるタイプですよね」
麻衣がぽつりと言うと、弥生は目を瞬いた。
「えっ」
「え、いまの褒め言葉でしょ。麻衣ちゃんが自分から言うって相当よ」
はるかが面白がって言う。
「……そうなんですか?」
「うん。マイちゃんって基本的に、心の中で完結する子だから」
「浜崎さんっ」
「でも、私も……静かなほうが好きです。大勢の中にいると、どうしても疲れてしまって」
弥生はそう言って、視線を食堂の中央へ向けた。
笑い声と、椅子を引く音と、トレーが当たる音。
それらの中で弥生は、少しだけ肩を縮めている。
「図書館だと呼吸ができる、ってこと?」
はるかが訊くと、弥生は少し考えてから頷いた。
「はい。……呼吸、ですね。急がされない感じが、好きなんだと思います」
麻衣の耳の奥で、ふと声がよぎった気がした。
《あの子は大丈夫。ページを急がせたりしない》
ここに本はないのに、なぜかその言葉だけが思い出のように残っている。
麻衣がその余韻に浸りかけたところで、純平がぽつりと話題を変えた。
「……そういえば、ウチのじいちゃんも、そういうこと言ってたな」
「おじいちゃん?」
弥生が反応する。純平は箸を止めずに続けた。
「ウチのじいちゃん、昔っから本好きなんです。でも小説とかじゃなくて理学書とか。たぶん俺が理学部選んだのはその影響なんですよね」
少し意外な純平の背景に全員が興味を示した。
「理学書って、あの……分厚くて、図とか式がいっぱいあるやつですよね」
弥生が丁寧に確認する。純平は笑う。
「そう。分厚いし、字も小さいし、読むとだいたい眠くなるやつ」
「言い方がひどい」
麻衣が突っ込むと、はるかが肩を揺らして笑った。
「でも、そういう本って、図書館にあると“背中だけで安心感”あるよね。借りるかどうかは別として」
「ですです」
純平が頷く。
「じいちゃんさ、昔この大学のどっかで勉強してたらしいんだよ。俺が受かったって言ったら、真っ先に『図書館はいいぞ』って言って」
「中央図書館?」
麻衣が訊くと、純平は首を振った。
「分館って言ってた。しかももっと古い方。今あんまり行かない場所」
麻衣のスプーンが、カレー皿の縁で小さく止まった。
はるかも一瞬だけ瞬きをする。
そして弥生が、何でもない話をするみたいに言った。
「……旧分館、ですか?」
三人の視線が、弥生に集まる。
「あっ、すみません。私、たまたま……」
弥生は慌てて言葉を探すが、声の調子はいつもどおり落ち着いている。
「この前、調べ物をしていてOPACを眺めていたら、その表示が出てきたことがあって。……今も入れるのかな、って」
「入れるよ」
はるかが、にこりと笑って言った。
その笑顔は柔らかい。――けれど、その奥に“鍵束”の重さがちらりと見えた気がした。
「ただし、誰でも自由に、って感じじゃない。ほら、古い場所は古い場所なりに守り方があるからね」
「守り方」
弥生が復唱する。
《鍵を戻したら……、次は、『扉の向こう』だよ》
あの時は『今日の保管庫じゃない』と感じた。いま純平が言った『古い分館』は、その感覚とぴたりと重なる。
「……じいちゃんが言ってた本、そこにあるのかもな」
純平が、麦茶のグラスを持ち上げながら呟いた。
「どんな本?」
麻衣が訊くと、純平は少しだけ考えた。
「タイトルは解らない。赤い背で、紙が硬くて。――読む前に“息をする”って言ってた」
「読む前に、息をする……」
弥生が、その言葉を静かに口の中で転がす。
麻衣は、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
「……じゃあさ」
はるかが、いつもの軽い調子で言った。
「ランチの次は、午後の作業に戻ろっか。――旧いものを守るには、まず『今の仕事』を片付けないとね」
「はい」
麻衣が頷く。
食堂のざわめきは相変わらず日常のままだ。
けれど、麻衣の中でだけ、静かなページがめくられていく。
その静けさの奥で、どこかにある古い棚が誰かを待っている気がした。
次の更新予定
2026年1月20日 23:02
宇津木麻衣はきこえてる 〜人と本の声を聴く図書館〜 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba
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