3-3: 彼女は焦らせない読者


 応接室の扉を開けたは先ほどよりも少しだけ空気が柔らかく感じていた。


 弥生はソファの背に深く沈みこむでもなく、かと言って前のめりに固まるでもなく、ちょうどいい姿勢で待っていた。膝の上にはファイル。付箋の色は相変わらず整然としていて、ページの端が揃っている。つい先ほど名前を交換し合った程度の間柄でしかないのだが、これがきっとづみやよという人柄なのだと麻衣は思った。


「あっ」


「お待たせしました」


「いえ……! そんな、ぜんぜん……」


 弥生は立ち上がりかけて、すぐに「図書館だ」と思い出したかのように動きが小さくなり、そのままソファの住人に戻った。小声を保とうとしているが、先ほどよりも声にハリが出ていた。


 麻衣が本を抱えたまま入ってきたのを見て、弥生の目が一瞬だけ大きく開く。


 それは驚きというよりも辿り着いたという安堵に近いものだったかもしれない。


「……あぁ」


 言葉が先に出ない。弥生は小さく息を吸ってから、ようやく笑った。


「この本が、それなんですね……」


「はい。こちらです」


 麻衣はソファ脇の低いテーブルにそっと本を置く。ゆっくりとした所作があまりにも丁寧すぎて、はるかが思わず小さく笑った。


「ふふっ。……マイちゃんが大切なものを置くときの手つきよね」


「そ、そうですかね」


 麻衣はつい、指先を丸めて膝の上に置いた。


「お手数をかけてしまって、すみません……」


 弥生が頭を下げる。角度は深いが、急いで折れるような下げ方ではない。ちゃんと、礼を言う人の動きだった。


「ううん、全然気にしないで。むしろ気にしないといけないのはコチラだから」


 はるかはさらに続ける。


「今回の件は運用と表示の間にちょっとだけ古いものが残っていた。それが今回の齟齬に繋がったという感じかしら」


 はるかが、いつものふんわりした声に戻って説明を始める。


「古いもの……?」


「ええ。システム上の表示は『保管庫(特)・要申請』のままだったけど、実際に適用するべき運用はそこまで厳しくない。だから、……そうねえ、お店の入り口の扉に『準備中』の札がぶら下がったまま営業していたような感じかしらね」


 はるかは言いながら、出納票の紙を軽く持ち上げた。まるで「鍵はここだよ」と示すみたいに。


「じゃあ、私は……本来は、もっと簡単に閲覧できた?」


「そう。もちろん、保管庫にある本は『出して終わり』じゃなくて、この本のようにその扱い方の案内が必要になる場合もあるけどね」


 はるかは弥生のファイルの付箋の並びをちらりと見て、微笑んだ。


「でも、弥生さんなら大丈夫そう。こういう人、だいたい本の扱いも丁寧なのよ」


「そんな……、でも、ありがとうございます」


 弥生は少し照れたみたいに視線を落とし、それから本の背表紙へ目を戻す。


 金文字はくすんでいるけれど、くすんでいるぶんだけ時間の蓄積――歴史の積み重ねがある。寄贈印の小さな朱が、その時間をさらに確かなものにしている。


「この本、寄贈されたものなんですね」


「うん。寄贈本はね、その館の『顔』みたいになることがあるの」


 はるかは、ほんの少しだけ声の芯を強くした。


「誰かが残したいと思った知識がここで生き続けてる。だからこそ、扱いも丁寧にしたいのよね」


 麻衣は、その言葉を聞きながら心の中で頷いた。



 ――知を集める場所。

 ――知を繋ぐ場所。



 それは物語の言葉じゃなくて、この建物の機能そのものだ。


「それで、この書籍の閲覧についてなんですが」


 麻衣は、弥生の目を見て言った。緊張はまだ残っている。でも、さっきよりは少し楽だ。仕事の言葉が口に馴染み始めている。


「まず、大きなお願い事としては、館内閲覧のみでお願いしたいです。必要な章を読んで、必要な範囲だけ複写――つまりコピーを取っていただくか、スキャナを使ってデータ化するか、というかたちになります。……その方法で、ゼミの予備報告に間に合わせることはできますか?」


 弥生はすぐに頷いた。


「はい。むしろ、そのほうがありがたいです。私、必要な箇所は最初から抜き書きしてまとめる予定だったので……。ページの扱いも、気をつけます」


「よかったです、ありがとうございます」


 麻衣は胸の奥で小さく息を吐く。


《貴女の言う通りね。あの子は、私のことを急がせたりしなさそう》


 声が、また耳の奥を撫でた。麻衣は小さく、本に向かって微笑んだ。


「……あの」


 弥生が手を挙げるようにして、控えめに言った。


「もし可能なら、閲覧する前に……少しだけ、この本の状態を見ておきたいです。どのくらい開いていいかとか、どこが傷みやすいかとか」


「もちろんです」


 麻衣が即答すると、はるかが満足そうに頷いた。


「とってもいい質問よ、弥生さん。あなたは『本と仲良くなる』のが上手そうね」


「仲良く……?」


「うん。急に距離を詰めないで、まず相手の呼吸を知る。たとえば――ほら、この背のところとか」


 はるかは指先で背表紙の根元を示す。触れない。示すだけ。


「ここが弱ってるときは、無理に開かない。ページを押さえつけない。必要なら書見台を使う。……それだけで、本はずいぶん長生きできるの」


 弥生は真剣に頷く。ファイルを開き、メモを取る。


 その横顔は、研究者というよりも丁寧な読者の顔だった。


《……よく学ぶ方ですね》


 ほんの一言。低い声。さっき保管庫で聞いたのと同じ。


 麻衣の胸が、少しだけ温かくなる。


「弥生さん。閲覧室のほうで、書見台を用意しますね。あと、必要なら手袋じゃなくて、ページを傷めないように手を清潔にして、乾燥しすぎないように……」


「はい。手、洗ってきます」


 弥生は立ち上がってまた静かに動いた。図書館の音を乱さない人の歩き方で、廊下へ出ていく。


 その背中を見送ってから、麻衣は小さく笑った。


「……穂積さん、ほんとに落ち着いてますね」


「うん。あの子はたぶん、本のほうが落ち着くタイプね」


 はるかは、どこか嬉しそうに言う。


「こういう相談はね、癒やしよ。こっちまで丁寧になれる」


 麻衣は頷きながら、テーブルの本をもう一度見た。


 金文字は静かで、重い。けれど、それは威圧じゃない。支えの重さだ。


《……よくぞ、迎えに来てくださった》


 今度は、はっきり聞こえた。


 麻衣は心の中で返す。


(迎えに来たのは、私じゃなくて――この人です)


 声は、ほんのわずかに笑った気がした。


《貴女が彼女を導いてくれたからこそよ。私は役目を果たしましょう》


 そして、最後は少しだけ格言みたいに、落ち着いた調子で言った。


《知は、読む者の呼吸に合わせれば、決して逃げはしない》


 麻衣はその言葉を胸にしまって、名札を指で押さえた。


 室長という肩書きが、少しだけ現実味を帯びる。


 こういう瞬間のためにここにいるのだと、そう思える。




     ○




 閲覧室へ移動し、弥生が書見台の前に座る。


 麻衣は複写のルールを簡単に説明し、必要があれば職員側で手続きする旨を伝える。


 はるかは少し離れた場所から、見守るように頷いた。


「……ありがとうございます」


 弥生は本を開く前に、まるで挨拶をするみたいに背表紙に目を落とした。


 それから、ゆっくりと一ページ目をめくる。


 紙が鳴る。擦れる音。


 その音が、妙に美しい。


《焦らず、ゆっくり》


 本が囁いた。


 弥生は、まるで聞こえているかのように、ゆっくり頷いた。


 麻衣は少し不思議な気持ちで、その様子を見守る。


 声が聞こえるのは、自分だけ。


 なのに――届くことは、ある。


 弥生が読み始めたところで、はるかが麻衣の肩をとん、と軽く叩いた。


「よし。マイちゃん、こっちはこっちで一つ片付けましょうか」


「片付ける……?」


「うん。さっき『鍵は紙に残っている』って言ったでしょ」


 はるかが笑う。


「つまり、紙を外したら終わりじゃない。――札を外したあと、ちゃんと『その札をしまう』のも仕事よ。遠足は帰宅が完了するまで、でしょう?」


 麻衣は頷き、端末室へ戻るイメージを思い浮かべた。


 表示の更新。注記の整備。運用に合わせた案内の差し替え。


 目録の向こう側で、誰かの時間を守る作業。


「……はい。やります」


「イイ感じ。じゃ、行こ」


 ふたりが歩き出したとき、麻衣の耳に、さらに別の声が触れた。



《鍵を戻したら……次は、扉の向こうだよ》



「……え?」


 麻衣が立ち止まる。


 はるかが振り返る。


「どうしたの?」


「いえ、なんでも……」


 扉の向こう――。


 それは、今日の保管庫のことじゃない気がした。


 もっと別の――普段は行かない場所。


 誰も知らない、あるいは『見えなくなっている場所』。


 麻衣はその感覚を胸の奥にしまい込み、何も言わずに歩みを進めた。


 図書館は、今日も静かに回り続ける。


 けれどその静けさの裏で、次の物語のページが――そっと、めくられ始めていた。

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