Case10

 



 赤い瞳の黒犬は、対峙する者を死へと誘う。




 事務所にエヴィがやって来たのは、本日昼過ぎのことだった。今日の朝、いつものように新聞を広げ、いつものようにクラークが事務所へ来る。

 今日は依頼もなければ怪異絡みの記事もなく、また街中で異変が起きたという情報もなかったため、クラークは別の所へ取材に出かけた。そうして何事もなく昼を迎えた時、ドアがノックされる。「お入りください」と声をかけると、ドアを開け入ってきたのはエヴィだったという訳だ。


「こんにちは、ウォードさん!」


「ああ、エヴィ、今日はどういったご要件かな?」


「ウォードさん、最近街で黒い犬を見かけませんでしたか?」


「黒い犬?」


「はい、少し噂されている程度なんですが……なんでも、夜に街中を歩いていると黒い犬が徘徊しているのを見かけたそうで……その犬は赤い目をしていて、口から血が滴っていたと……」


「なにやら恐ろしげな犬だな……その犬、昼間に見かけられることは?」


「無いそうです。なので……わたしはその犬が怪異じゃないかと思ってます。それで、ウォードさんなら何か知っているんじゃないかなということで来ました!」


「なるほど……ここにその情報は入ってこなかったが、怪異に関する情報なら得られると思う」


 そう言い、俺は本棚の本を軽く読んでは別の本を読む。噂と一致する特徴のある怪異……あった。


「恐らくその犬は……『ブラックドッグ』って呼ばれてる怪異だと思う」


 エヴィに開いた本を差し出す。目の赤い、黒い悍ましい犬の絵が描かれていた。エヴィは本を受け取ると、自分の中に落とし込むためなのか声に出して伝承を読む。


「えーと……『ブラックドッグ(別名:ヘルハウンド)は、不吉な妖精の一種である。赤い目を持つ黒い大きな犬の姿をしており、見たり触れたりした者がことごとく亡くなったため、古くから死の先触れとして恐れられてきた』、確かに似た特徴が多いですね。ただ……」


「ただ?」


「目撃した人が亡くなられた、との話は聞いてなくて……」


 伝承とは少し食い違うということは、何かが違うのだろうか。とにかく、調べてみる必要がありそうだ。


「今日の夜にでも調べてみようかな」


「ウォードさん、その……わたしもついて行っていいですか?」


「エヴィも? 危ないからやめといたほうが……」


 エヴィが力強い眼差しでこちらを見る。『わたしも怪異の専門家なんですから!』とでも言いたげな様子だ。


「……いや、エヴィも色々な怪異と関わってきたんだよな。分かった、一緒に行こうか」


「ありがとうございます! では、改めましてよろしくお願いします!」




 満月がよく見える夜の時間。俺はエヴィと街を歩いていた。街灯と月明かりが共に照らす夜の街は明るく、まばらではあるが人も出歩いており、怪異の気配など微塵も感じない。


「穏やかな夜だな……」


「ですねー、ほんとに怪異が目撃されたんでしょうか?」


「まあ、歩いて探していればそのうち見つかると思うよ」


 そうして歩くこと三十分。俺は足を止める。急に止まったので、すぐ斜め後ろを付いて来ていたエヴィは俺にぶつかってしまったが。


「す、すみませんウォードさん! どうしま……」


 謝ろうとしたエヴィも気付いたのか、口をつぐむ。二人の目線の先、道の真ん中にそれはいた。




 明かりがなければ見えなかったであろう、黒く光沢のない体毛。こちらを見据える眼は地獄の炎のように赤黒く染まっていた。口から滴る鮮血は喰らった獲物のものだろうか、それとも……




 俺は相手の出方を窺うべく、臨戦体勢のままその場に留ま──瞬間、見えたのは開かれた口に並ぶ鋭い牙──るのをやめ、エヴィを引き寄せ横に飛ぶ。

 不意打ちに失敗したブラックドッグは二人を通り過ぎ、再びこちらを向いて唸る。


「エヴィ、大丈夫か?」


「は、はい……」


 リボルバーを取り出し、構える。尚も唸って威嚇するブラックドッグに向かって、引き金を引く。放たれた銀の弾丸はブラックドッグの前脚を貫き──


 鮮血が、飛び散った。


「……!?」


 怪異に血が通っている事例など耳にしたことがない。つまりあのブラックドッグ──黒犬は。


「ただの、動物?」


 エヴィが目の前の事実を確認するように恐る恐る呟く。地面に飛び散った血を見た俺は、俯いてその場に膝をついてしまう。

 目眩がする。体が腹からこの不快感を出そうとして何度もえずく。鏡を見ずとも、自分の顔が青ざめているのが分かった。


「ウォードさん!」


 エヴィがほとんど悲鳴にも近い声を上げ、こちらに駆け寄るのを気配で感じる。


 だが、駆け寄るのはエヴィだけではなかった。少し顔を上げると、この状況を好機と見たのか、黒犬がこちらに向かって来ていた。開かれる大きな顎に向かって俺は腕を突き出す。走る激痛。滴り落ちる血は襲撃者のものなのか、俺のものなのか、もはや判断できなかった。ただ、エヴィにその牙が向かわずに済んだことだけは分かった。


「──!!」


 声にならない悲鳴が聞こえ、しばらくして強烈な睡魔に襲われた。なにやら辺りに粉塵が舞っていたが、それについて考えを巡らせる前に俺は意識を手放してしまった。






 次に目を開け、辺りを見回すとそこは自分の事務所だった。どうやら客人用のソファに寝かされていたらしい。あまり力は出なかったが、なんとか上体を起こすことはできた。

 朝日の差し込む室内をぼんやりとした意識のまま見ていると、ドアが開く。入ってきたエヴィは目が覚めた俺に気付くと、安堵した様子で駆け寄ってきた。


「よかった……! 目が覚めたんですね!」


「すまない……エヴィ、あの後どうなったんだ?」


「ウォードさんが腕を噛まれた後、わたしが睡眠薬の粉末を撒き散らして黒犬とウォードさんを眠らせたんです。その後、事務所までなんとか連れてきて」


「そっか……ありがとう。……情けない話なんだが、俺は血が苦手でね。それで気分が悪くなってしまったんだ、すまない」


「いえいえ! こちらこそ何度も庇ってもらって……足を引っ張ってばっかりでした、すみません……」


「大したことじゃないさ。……それより、あの黒犬は?」


「今は保健所にいるんです」


「保健所?」


「はい、どうやらあのブラックドッグ──改め黒犬さんは、複数の病気に罹っていた子だったようで」


 それを聞き、ようやく合点がいった。夜にしか出没しなかったのは羞明の症状(通常の明るさでもまぶしく感じてしまう)、赤い目や口から垂れた血は臓器の異常によるものだったのだろう。そういった病が絡み合い、まるで怪異のような立ち振る舞いをしていたということか。


「一応わたしが出来る限りの処置は施したので、少しずつ良くなっていくと思いますよ」


「そっか……良かった。しかし、痛ましい動物と怪異を間違え、その上撃ってしまうとは……情けない」


「でも、助けられたのは事実ですよ! あまり自分を責めないであげてください!」


 エヴィに慰められてしまうとは……さらに情けない。もっと精進せねば。

 ……なんて考えていると、エヴィの肩に乗っていたメディが俺の頭の上に乗って羽ばたく。やれやれ、この二人組には敵わないな……。




 ここイギリスには、妖精の伝承と並んで幽霊の伝承も多く伝わっている。多くの人々から幽霊が愛されているのは、幽霊の出る家が高値で取引されることからも明らかだろう。


 そして今日も、また、どこかで、幽霊が彷徨う。

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