いいことば、いいせかい。

秋の香草

解析記録

//解析文ここから//



     一

「クソ重い〜。優利、代わりに持ってくれ」

「嫌だよ」

 日向のだる絡みを、僕は軽くあしらう。

 年度始めの恒例行事、教科書配布だ。業者の人が学校にやってきて、古い教科書の回収と、新しい教科書の配布をする。僕たちは一人分の教科書セットを図画工作室で受け取り、教室へと戻る最中だった。

「それにしても、四月の終わりにようやく配布なんて、変だよな」

「『改善語彙リスト』の改定が遅れたから、教科書の作成に時間がかかったんだって」

「へえ」

 日向は興味がないようだった。

 教室についたが、人はまばらだった。僕の苗字は小野で、日向の苗字は梶居。教科書は出席番号順に受け取るから、もうしばらくかかるだろう。

 待ち時間は教科書に名前を書くことになっていた。僕はパラパラと乱丁落丁を確かめていたけれど、日向はそんなことお構い無しに僕の方にやってきて、机に手をついた。

「そういえば、『華氏451度』、読破したぜ」

「華氏? なんだっけ」

「前話したじゃんか。本を持つのが禁止された社会の話」

 そういえば、帰り道で日向が口にしていたような気がする。

「あー、言ってたね。『図書館戦争』みたいな? どうだった」

「おもしろかったぜ。特に大事なのは終盤、男たちに出会うシーンで——」

 日向が語りだした。そうなのだ、こいつはいかにも陽の者らしい見た目をしているのに、意外と難しそうな本をよく読むのだ。部活仲間と放課後までだべってそうな彼が、どういう訳か僕とよく一緒にいるのも、それが理由だ。

「でも日向、それ大丈夫なの? もし『互換書物リスト』に載った本だったら——」

 教室の扉が開き、先生が入ってきた。「座って教科書に名前書いてろ!」と茶々を入れられた日向は、そそくさと自分の席へ戻っていった。

 僕は国語の教科書を開き、内容を確認してみた。年々厚みが減っているのは気づいていたが、中を見るとやはり、ずいぶんと寂しくなっている。『こころ』は僕のもう何個か上の代で削除されていたけれど、今回は『源氏物語』も取り扱うのを止めたようだ。たぶん「不適切な恋愛描写」とか、そんな理由だろう。ここ数年で発表された作品以外は、数えるほどしかない。その残った作品も、あちこち継ぎ接ぎしたと一目で分かる内容で、とても読む気になれない。今年の国語も、退屈な授業になりそうだ。


 放課後、僕は図書委員の仕事があって、学校に残っていた。図書館の蔵書と「互換書物リスト」を見比べて、リストに記載された本があったら本棚から探し出し、一か所にまとめる。そうやって集まった本は、月末にまとめて処分される。もし「互換書物リスト」の本を学校が所持し続けたら大問題になるから、学校の委員会といえど大事な仕事だ。

 そうはいっても、毎月大量に廃棄される本を眺めていると、あまりいい気分はしない。特に最近は昔読んだことのある本が「互換書物リスト」に載っていることも増えてきた。本棚から回収している最中、この本はもう二度と読めないのではないかと考えると、ぞっとする。

「おつかれさん」

 カウンターに座っていた山崎さんが、回収した本を抱えている僕に一切目もくれず、退屈そうに呟いた。山崎さんは僕のクラスメイトで、中学の頃からずっと図書委員会に入っていたらしい。

「相変わらず、貸出の方は暇そうだね」

「だってほとんど誰も借りに来ないし。図書委員の仕事なんて、本を捨てることばかり。ねえ、最後に新刊が入ったの、いつ?」

 山崎さんがぼやいた。

「参考書とか、資料はちょくちょく入ってくるけど——」

「つまらないつまらない。漫画とか小説とか、もっと欲しいじゃん!」

「古い本はどんどん入手が難しくなってるから。それに、新しく出版するとしても、最近は色々難しいし」

 しばらくの間、沈黙が続いた。誰一人図書館にやってこないけれど、開館時間のあいだは留まっていないといけない。前は貸出業務以外にも、図書新聞を作って新刊を知らせたり、おすすめの本を紹介したりしていたけれど、あるとき新聞に載せた本が「互換書物リスト」に該当したことがあって以来、新聞はもう書けなくなった。

 今日も、誰一人図書館を訪ねる人が現れないまま、閉館時間になった。

「来年は図書委員会、なくなってるかもね」

 入口の鍵を回しながら、山崎さんはぽつりと呟いた。心なしか、寂しげな表情をしていた。かけるべき言葉も分からないまま、僕たちは別れた。


     二

 日向の部活が終わるのを待っていようかと考えたけれども、微妙な時間だったので、僕は家へ真っすぐ帰ることにした。

 夕食を食べた後、母が買ってきてくれたアイスをスプーンでつつきながら、僕は居間でニュースを見ていた。

《——表現更新法の順守不十分の可能性で指導を受けたのは、東京都武蔵野市の十二歳の少年で——》

 画面のキャスターが淡々と話す。最初は吹き出しそうになるほど奇妙に思えたこの言い回しも、今ではすっかり慣れてしまった。要は「『表現更新法』に違反した容疑で逮捕された」という内容を「改善語彙リスト」に沿うように伝えようとすると、こうなるわけだ。ニュースの続きを聞くとどうやら、「互換書物リスト」に載った本を自室に隠し持っていたらしい。いわゆる「禁書」を持った人間が全員、即座に罪に問われるわけではないけれど、こんな風にある種見せしめとして、公安官に連れていかれる人間は一定数いる。

「ひゃー、まだ子供なのに容赦ないねえ。あんたも変な本とか、部屋に置いてたりしないだろうね」

 母がまるで他人事かのように——実際、赤の他人に関する報道を一緒に見てるわけだけど——僕に話しかけた。

「ないよ。捨てないといけない本はちゃんと捨ててる。ストリーミングもちゃんと認証済みのやつしか使ってないし。大学受験もあるからさ」

「ならいいけど。このまえ佐藤さんとこの娘さん、指導されたの聞いた? 母さん、息子の悪い噂が街中に広まるの、絶対嫌だからね」

 佐藤さんの話は僕も聞いた。近所に住む僕と同じくらいの子、大の映画好きで、どうやら「表現更新法」施行以前の規制映画を保管していたのを、公安官に見つかったそうだ。その後の音沙汰はない。ただ、起訴されたというニュースは見ていないから、すでに釈放されているのかもしれない。


 今日も僕は、図書館の本棚から「互換図書」を抜き取る。僕の仕事は、数々の本を間接的に、火にくべているのに等しい。「改善語彙リスト」の言葉で表すならば、まさしく「焚書」と呼ばれるものだ。不要な本、存在するべきではない本を処分し尽くす。そうすることで、図書館はより「良い」空間となる。もし後世の人間が、この馬鹿げた行いを客観的に分析できるようになったとしたら、僕みたいな人間はきっと、恥ずべき行為に加担した、意気地なしとみなされるだろう。けれど今この世界では、僕の行いは称賛こそされども、決して非難はされないのだ。今の僕の行いは「焚書」ではない。本を燃やすのは良い行いなのだから、これを否定的な言葉で表現してはならない。「良いこと」は、良いという事実それ自体によって、「良いこと」として完結する。だから悪いのは、間違っているのは、「悪いこと、間違っていること」ではなくて——良いこと、合っていることを「悪い、間違っている」と主張する方なのだ。だから「良くない」表現は徹底的に排除される。「改善すべき語彙」を排除すれば、世界はより良くなる。あらゆる書物は、改善された語彙によって書かれたものに集約され、そうでない書物は、もっとふさわしい表現が存在する「互換品」として処分される。


 両手で何とか抱えられる量の「互換図書」を保管場所に置いた後、僕はカウンターに戻った。今日の当番もたまたま、僕と山崎さんだった。

「今日も、たくさん捨てる本があるんだね」

 山崎さんが静かに語りかけてきた。心なしか、彼女の冷ややかな目が僕を貫く。

「最近は本当に、増えてきたね」

 ただ相づちを打つだけではだめなことは、なんとなく分かっていた。けれど、他に言葉が思いつかなかった。

「ごめん、責めてるわけじゃない。小野くんが本を捨てる仕事を一人で引き受けてるの、単に力仕事だからってだけじゃなくて、他の人に同じ事をしてほしくないからでしょう。少なくとも、わたしはそう思ってる。だから、わたしが言いたいのは——」

 僕はなにも答えずに、山崎さんの言葉の続きを待った。

 山崎さんは何か話す代わりに、カウンター下に腕を伸ばし、そこから何かを取り出した。

 本だった。間違いない、今日捨てる本のリストに載っていたのに、確かにこの図書館にあるはずなのに、なぜか見つけられなかった一冊。いま山崎さんは、それにそっと手を載せている。

「小野くん、わたしが何をしようとしているのか、当ててみて」

 山崎さんの目が、じっと僕を見つめている。

「処分する前に、せめて本をざっと見返す?」

「この本だけは、捨てさせない」

 彼女は本を手に取り、表紙をなぞった。

「わたしが覚えている限りで、初めて読んだ小説なの。どうしてこの本を手に取ったのかすら、もう覚えていないくらいに。ずっと手元においておきたかったのに、『指導』が怖くて、捨てちゃった」

 山崎さんがどんなリスクを冒そうとしているのかを、僕は察した。

「『互換書物リスト』に載った本は、処分記録が残されてしまう。もし誰かが持ち去りでもしたら、必ず犯人探しが始まる。そしたら山崎さんが——」

「分かってる。わたしの行いが何を招くか、すべて予期したうえで、小野くんに話してる」

 そう言うと彼女は、本を手に持ったまま立ち上がった。

「わたしをチクってもいい。見なかったふりをして、共犯になってもいい。きっと、わたしたちは最後の図書委員になるだろうね。小野くんにはどうか、その二択を、選んでほしい。同じ委員会のよしみだし」

 山崎さんは笑った。寂しそうな笑顔だった。

 彼女は自分がさも冷静かのようにふるまっているけれど、少なくとも僕には、彼女がある種の破滅衝動に突き動かされているようにしか見えなかった。どうせ、見つかってしまう。本が処分されるだけか、もしくは本に加えて山崎さんが「指導」されるか。その違いしかない。どうやっても、足がついてしまう。彼女が手にもつ本、それにどうしても愛着があるというならば、何か裏ルートで本を入手して、それから部屋に隠し持った方が、リスク的にはまだましだ。処分予定の「互換書物」を図書館から持ち去ろうとすると、どうやっても足がついてしまう。だから、僕はともかく、彼女は間違いなく「指導」対象になる。

「通報なんかしない。けれど、山崎さんの背中を押すこともできない」

 僕は、意気地なしだ。

「共犯になるリスクは、甘んじて受け入れるんだ。小野くんらしいね」

 もう閉館時間だ、と独り言のように呟きながら、山崎さんは自分のリュックを取りに行った。そして手に持った本を、中へ入れた。

「どうしても、許せなかったんだ。小野くん、巻き込んでごめんね」

 入口の鍵をかけながら、山崎さんがそっと呟いた。

 僕はまた、かける言葉を見つけられなかった。


 僕は結局、山崎さんの事を誰かに報告したりはしなかった。けれど、処分リストと現物の不一致は隠しようがなかった。不審に思った先生が図書委員の生徒に一人ずつ聞き込みを行い、あっさりばれてしまった。

 山崎さんは学校に来なくなった。僕も公安官に連行されるんじゃないかとびくびくした。あまり深く考えずに彼女を見過ごした自分を呪った。けれど、聞こえのいい返事をしておいて、結局後悔に明け暮れる自分が、何より嫌だった。

 公安官は、僕の元へは現れなかった。山崎さんは消えたけど、僕の日常はこれまで通り、変わることはなかった。


     三

 それから数か月がたった。「改善語彙リスト」が一回改訂されて、世界はより良くなった。「不良行為」の検挙件数は、表現更新法違反を除けば、減少の一途をたどっている。「犯罪」という言葉を徹底して排除したことによる成果だ。

 「暴力」という言葉を禁じたことによって、僕たちは暴力から自由になった。「差別」という言葉を禁じたことによって、僕たちは差別から自由になった。「憎悪」という言葉を禁じたことによって、僕たちは憎悪から自由になった。「戦争」という言葉を禁じたことによって、世界から戦争が消滅した。「飢餓」という言葉を禁じたことによって、飢える苦しみは存在しなくなった。「格差」という言葉を禁じたことによって、人類は皆平等になった。こんなふうに、世界は日々改善されていっている。


 僕は日向の家へ遊びに行った。といっても、訪ねるのは今回が初めてだ。僕の家からだと電車で三十分ほどかかるから、日向と合うのは実のところ、学校と、通学経路だけなのだ。今日はたまたま彼の誘いを受けて、彼の家へ向かうことになった。

 日向は改札口で僕を待っていた。そこから十分ほど歩くと、彼の家へ着いた。何の変哲もない一軒家。僕は日向の家に上がり、彼の自室へ向かった。中を覗くと、壁ぎわに机が、奥の方にベッドがある。小ぎれいな部屋だ。意外だったのは、どこにも本棚が置かれていないことだ。

「部屋に本は置いてないの?」

「だいたいは親父の書斎にある。それと——」

 日向は机の向かい側にあるクローゼットに近づいていった。そして、おもむろに扉を開けた。

「とっておきは、この中にしまってる」

 クローゼットの中に、布が被せられた小さな棚が置かれていた。日向が布をめくると、中には本がびっしり詰まっていた。

「一度でいいから、見せておきたかったんだ」

 分かってしまった。ここにある本のほとんどは、「互換書物リスト」に載った「禁書」だ。もしかしたらという僕の悪い予感が、的中してしまった。

「見つかったら大変なことになる」

「だろうな。俺もじき『指導』される」

 日向は淡々と語った。それよりも、彼の言葉が引っかかった。今、俺「も」って言った?

「山崎さんのこと——」

「ああ。そういえば彼女も連れてかれたんだっけ。じゃあ俺もそいつに加わるわけか」

「まだ決まったわけじゃないでしょ。公安官が把握してる違反者の数は、実際に立ち入って調べる数よりはるかに多いって言うじゃん。まだ手遅れと決まったわけじゃないし、もしそうだとしても急いで『互換図書』を処分すれば——」

 うろたえた僕を、日向が遮った。

「駄目なんだ」彼が落ち着いた声で語る。「親父が連れてかれたんだ。研究資料が『互換図書』に指定されたせいで。研究室に公安官が立ち入ったそのときまで、資料を手放さなかったらしい。おそらく俺も、ついでに調べられる」

 日向のお父さんが教員なのは知っていた。でもまさか、そんなことになっているとは思いもしなかった。

「だったら! 今すぐに禁書を処分すれば、日向は無事で済むかもしれない」

「俺に本を捨てる気はさらさらないぜ。そんなことをするくらいなら、俺は喜んで公安官に身を委ねる。親父だってそうしたんだ」

「『正しいこと』に自分の人生を賭ける気なの? 絶対やめた方がいい。きっと後悔する」

「それでも俺は、譲れない」


 突然、インターホンが鳴った。もう一度チャイムが鳴った後、「梶居さん、ちょっとお時間よろしいですか」という声が、スピーカー越しに聞こえてきた。

「チッ。間が悪いな。優利、何も言うなよ」

 そう言って日向は、一階へ降りていった。僕も後に続く。

 日向がドアを開くや否や、男が数人、土足のままドカドカ上がりこんできた。

「あなたが梶居日向さんですね。早速ですが中を案内してください」

 先ほどドア越しにしゃべっていた男が、日向の方を見て話しかけた。

「自己紹介とかはないんですかね」

 次の瞬間、男が右足を振り上げ、それから日向を思い切り蹴とばした。日向は僕の左横へ勢いよく倒れこんだ。男は冷たい目で、日向を見つめていた。

「いや、分かるでしょう、状況的に。お父様の件、既に聞いているのでしょう? 舐めたことを言われても困ります」

 僕は公安官の男から必死に目を逸らし、日向に手を貸した。日向はゆっくりと立ち上がった。

「——俺の部屋でいいですか。案内します」

 日向は階段を上り始めた。公安官と他何人かも、後に続いた。僕はどうすればよいかわからず、立ち尽くしていた。

「そこのあなた」

 公安官の男が突然立ち止まり、僕の方を見た。

「一緒に来てください。面倒なので」

 言われるがまま、僕は男たちの後に階段を上がった。

 部屋にたどり着くと、日向と公安官が例の本棚の前に立っていて、その周囲を他の男が取り囲んでいた。

「梶居日向さん。これらが何に該当するか、あなたはご存じですね」

「——『互換書物リスト』です」

 公安官の男は、顔色一つ変えなかった。

「私は常々疑問に思っているのですが——あなたのような連中はなぜ、それほど必死こいて、表現改善法を蔑ろにするのですかね。イタズラか何かですか」

「余りにも愚かで、馬鹿げたルールだからですよ」

「なるほど。興味深いですね。参考にします」

 取り押さえろ、と短く呟いた。すると周囲の男が日向を押し倒して、後ろ手に手錠をかけた。

 あまりにも、我慢ならない光景だった。

「待ってください。こんなの間違ってますよ! だいたい、いくら公安官といったって、令状はお持ちなんですか!」

「優利、黙ってろ!」

 日向が頭をこちらに向けるのが見えた。すると僕と日向の間に、公安官の男が立ちふさがった。

「これは家宅捜索などではありません、『指導』です。なので令状の類は不要です」

「どうかしてます。さっきだって、日向に突然暴力を振るって——」

 そこで口を噤んだ。公安官の表情が一瞬、強張ったように見えた。

 彼はゆっくりと、僕の方へ近づいてきた。

「類は友を呼ぶ、とはこのことを言うのですね。『改善語彙』を何のためらいなく口にするなんて」

 公安官は振り返り、後ろの男たちに指示を出した。

「彼も連れていきましょう。『指導』が必要かもしれません」


     四

「だから叩くのはやめ——」

 言いきる前に、バインダーの面で頬を打たれた。軽い衝撃の後、遅れて痛みがジンジンやってくる。

「『叩く』という言葉を使うな。本来ならとっくに『改善語彙』に入っていてもおかしくないんだぞ」

 白髪交じりの、中年と思しき男だ。さっきからずっと、険しい表情で僕を睨んでくる。

「どんな言葉で表現しようと、あなたが僕に暴力を振るっているのは変わりません」

 今度はバインダーの背表紙で、側頭部を殴られた。考えていたことが何割か吹っ飛んだ。

「『暴力』だと。なぜそんなにも、おぞましい事を軽々しく思いつく。全く恐ろしい」

 こんな問答を、かれこれ三時間ほど続いている。今みたいに痛めつけれられたり、「改善語彙リスト」の言葉を回避しつつ巧みに詰られたり、ずっとこんな調子だ。これも全て「指導」の一環らしい。正確には、今の僕は表現改善法違反で公安局に連れてこられているわけではないので、「指導」の扱いですらないみたいだけど。将来は分からないが、今は「改善語彙」を単に口にするだけでは、「指導」の対象とはならない。だから、日向と一緒に連れてこられた僕の扱いも中途半端なようだ。

 もう何ターンか会話のキャッチボールを行った。かと思うと突然、僕の相手をしていた男が立ち上がり、扉の向こうへ消えた。

 入れ替わりでやってきたのは、若い男だった。微笑しながら近づいてきて、僕とテーブルをはさんだ向かいに座った。

「やあ、はじめまして。優利くん、で合ってる? 僕は公安官の葛城。よろしくね」

 気さくな人、というのが第一印象だ。でも状況が状況なので、全く安心はできない。

「顔がこわばってるね、すごく警戒してる。当然だね。でもこちらとしても、君には申し訳ないと思ってるんだ。極論、無関係の人を巻き込んでるわけだからね。とはいえ、日向くんに加えて、前に図書館から『互換書物』を持ち去ろうとした子も、君のクラスメイトでしょう? だから、もしかしたら何かそういう、危ない考えを優利くんが抱いてしまってないかと心配でね。腐ったミカン、みたいな?」

 葛城と名乗った男は、手元の資料に目を落とした。

「確認だけど、『表現改善法』に抵触しそうなものは所持していないんだね」

「持ってません」

「まあ実を言えば本当は、君のお家に上がらせてもらわないと、確かめようがないんだけど。でも今回はシロでいっかなあ、流石に。日向くんの件のついでで来てもらってるだけだし」

 そう独り言をつぶやいてから、葛城は資料ファイルを、彼の横にある机へ放り投げた。

「よし、これで終わりだけど、何か質問ある? あ、日向くんに関係するのはナシね、全部秘密だから」

「ふざけないでください。これだけ散々な目に合わせておいて、何もなしですか? 日向だって——」

 葛城が口を挟んだ。

「勘違いしないでほしいな。必要なら君に『指導』を施すことだってできるんだよ。君を開放するのは、僕たちの好意のようなものだ。できるならそのまま、心よく受け取ってほしいな。面倒事はお互いのためにならないだろ?」

 葛城はまるで小さい子を諭すかのように、柔らかい笑みを浮かべて僕を見ていた。けれどその目は笑っていなかった。

「——ありません」

 葛城は満足げに頷いた。彼は僕に立ち上がるよう、合図を出した。

「あと、もう一つ」僕がドアの取っ手に手をかけたとき、葛城が声を発した。

「来る『表現改善法』改正案は知ってるかい」

「知りません。最近ニュースを見ていなくて」

 仕方ないだろう。この前の「改善語彙リスト」改訂で、いよいよ報道は見ていられないものになった。単語のチョイスが滅茶苦茶で、何を言っているのか分からないのだ。

「そうか。まあ簡単に言うと、『改善語彙』の発言記録を残そうっていう試みだ。スマートフォン等の電子機器について、マイクへのアクセス・情報収集を強化する。加えて公共空間へのマイク設備の設置を義務化する。それから、『改善語彙』を強化する。今までは『不適切』な単語だけを制限するしかなかったけど、これからは暗喩や多義語、果ては単語の組み合わせなんかも『改善語彙』の対象になる。そのうち『良くないこと』を頭に浮かべる人間はいなくなるだろう」

「『思考犯罪』ですか。どうかしてますね」

 ははは、と葛城が高笑いの声を上げた。

「『思考犯罪』か。まるで思考以外の『犯罪』があるかのような表現じゃないか。そんなものはない! 言うなれば、犯罪とは思考だ。だから『思考犯罪』なんておかしな言葉を用いる必要性がない。それは"1=1"みたいなものだよ、全くもって無意味だ。ともかく、『改善語彙』には気を付けた方がいい。もちろん『犯罪』も改善語彙だからね。次は君を『指導』しないといけなくなるかもしれない」

 僕は扉を開け、部屋を出た。職員に公安局の外まで案内される間、僕は寒気が止まらなかった。


     五

 山崎さんも、日向も、戻ってこなかった。二人とも退学処分になったという噂が学校中を駆け巡ったけれども、本当かは分からない。結局僕だけが「指導」をまぬがれたようだ。

 僕の家にあった古い本は、全て処分してしまった。紙媒体はいつ「互換書物リスト」に載ってもおかしくないから、危なくて持てない。「改善語彙」を即座に反映できるストリーミングに頼りきりになった。

「日向くん、仲良かったんでしょ。あんたも気の毒だねえ」

 テレビを見ながら、母がボソッと呟いた。僕は母と一緒にバラエティ番組を見ている。本当はニュースが見たかったのだけれど、今はどの放送局も、朝に数分ニュース番組を放映するくらいで、ほとんどの時間やっていない。

 公安局に連れてかれたことは、帰ってから正直に話した。最初はびっくりされたし、職員に暴力を振るわれたことを話すと怒り心頭に発していたけれど、僕が「指導」されないことを知って、ひとまず安心した様子だった。ただ、僕と日向が高校入学以降ずっと仲が良かったのは知っていたので、そちらは今も驚きを隠せないようだ。

「日向くんねえ。どうして、こうなったんだろうねえ」

 母はまるで自問自答しているかのようだ。

 思えば、どうしてこうなったのだろう。いったいどうして? 良くない、間違った表現を除くことに、誰もが熱狂した。不適切な表現を無くせば、不適切な考えを無くせると信じた。世界がより良くなることを期待した。それで世界は、本当によくなったのか?

 それでも、良い言葉は良い言葉なのだ。悪い言葉は悪い言葉なのだ。悪い考えは、それが悪い考えだから、悪い考えなのだ。だから、いいことばであふれたせかいは、いいせかいだ。

 意気地なしの僕に言えるのは、ただ、これだけなのだ。



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補遺:本記録は受信したバイナリ列を解析したものである。受信データは、ヘッダ情報を格納したメタデータと、本文と思しき文字列を格納したデータ部からなる。メタデータでは"MTF-8"と呼ばれる文字コードが指定されていたが、UTF-8を用いてバイナリ列を変換したところ、日本語で記述された文章と判明した。なお、復元不可能なビット列は解析者によって補完されている。また、本記録は禁止表現規制法の例外規定を受けている(分類5、承認番号:7A54B3F275A1)

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