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小説はいったい誰が書いているのか問題

 「そりゃ作者でしょう。」



 …もちろん小説は創作者によって書かれた創作物に違いないのだが、「小説」というフォーマットを選択したときに、これはいったい誰によって書かれた話なのか? という疑問が湧いてくる。端的に言うと視点の話ではある。

①三人称「神視点」
 三人称なので、仮想的語り手が存在する。作者=語り手と言えそうだが、別に等号が成り立つ必要もないか。神である語り手は複数の登場人物の頭の中を覗ける。ネットだと割とタブー扱いされているが、何を語るか、何を語らないかをよく考えていれば別に問題はなさそうだが(私がそれをできるとは言っていない)。語り手は作中人物の知らないことを書けるわけだが、本当に知っていることを何でも書くと物語にならないので、その辺りは小説のルールにのっとって語ることになる。思うに、絵本の読み聞かせなんかに近い気がする。語り手と読み手、安心できる距離感。

②三人称「一元視点」
 語り手は神だが、場面における視点人物は固定される。あっちこっちに目をやらなくて済むので、感情移入は神視点よりも容易か。ただあくまで三人称なので、その微妙な距離感が読んでいてもどかしくなることはある。三人称「神視点」と一人称のいいとこどりな訳だが、書いていると作中人物でない語り手が邪魔というか、本人の口から語ってほしいと思うことはある。読んでいる際は別に気にならないんだけど。

③二人称
 語り手と読み手、二つの極が極大化する。私は読んだことがないが、それらしい表現を見たことはある。語り手の存在、読み手の存在がはっきりしすぎてしまうので、おそらく書くのも、読むのも苦手。

④一人称
 これが一番の問題なのである。一人称なので仮想的な語り手は存在し得ない。そして私小説でもない限り、作者は語り手ではない。三人称一元視点を極端に振ったと言えるか。語り手と視点人物を一致させることで、物語を追体験しているかのように感じられる。だが仮想的な語り手が不在となるので、語り手はなぜ自らを語ろうとしているのかという問題が生じる。

Ⅰ、語り手が手紙に記した
 書簡体小説。語り手の手紙を小説としてまとめました、という形式。理屈としては自然だが、手紙である以上受け取り人の存在と、手紙を編纂する人物の存在を意識してしまう点、そして手紙というフォーマットに制限される点が不自由か。手紙に小説を書き連ねる人間なんてそうそういないだろう

Ⅱ、作中人物による私小説
 語り手が過去を振り返る、という形式。語り手は既に全てを経験していて、それを小説のフォーマットで書き連ねた、という体をとる。一人称ではこれが主流か? この形式の何が問題かというと、

1、語り手の知らないことは書けない…後で知ったこと、気づいたことならば書けなくはないだろうが、そうすると語られている内容が過去の出来事であることを読み手に意識させてしまう

2、知覚していないことは書けない…語り手が自分で気づいていないことは書けない

3、作中では当たり前の事をわざわざ記す理由…「あなたはいったい誰に向けてこの小説を書いたのですか」という話。個人的にはSFを書く時に困る。私たちはスマートフォンの動作原理を一々説明しない。これに関しては思うに、例えば「横浜駅は不思議な場所だ。いつ訪ねてもどこかで工事をしている」という文があったとき、①その事実を知らない聞き手を予め想定して語る ②聞き手に周知の事実を語り手が確認する の二通りがある。要は書き方次第か。「スマホは便利な道具だ。日常生活に関わるあらゆる機能を、この小型機械に持たせることができる」みたいな語り方なら、違和感は無さそう

4、語り手の知識レベルによる制限…「知らないことは書けない」の延長。例えば語り手が少年少女だとしたら、専門的な説明は難しいはず。仮に児童を語り手にするならますます困難だ。「この語り手はこんなに難しい言葉を使わないのでは?」とか、その逆「この語り手はこんなに平易な言葉を使わないのでは?」とか、あるいはそもそも「この語り手は文章で出来事や心情を語ろうとしないのでは?」なんてこともあり得る

5、語る時点で存命の(つまり語る能力のある)人物以外を語り手にできない

Ⅲ、実は作者が語り手の頭の中を覗いて書いている
 神が作中人物に語らせています、という形式。この場合、一人称の語り手が神になりきって誰かを語ることもあり得る。円環の廃墟。語り手が記述しているという体を取らなくていいのが強みか。あと、自身が知覚していないことを自分で記述するという、傍から見て不可解な小説も作ることができる。例えば、発狂した文章や、自分が死んだという記述なんかも書ける。身も蓋もないことを言えば、一人称の語り手は結局架空の存在なので、皆Ⅲではある。というより、特に意識しないとⅢになるか? 懸念点は、ⅡとⅢの区別は読み手に委ねられる点か。要は、Ⅱの諸々の問題を「お約束」として大目に見てもらうことになる



…散々書いておいて何だが、結局は書き手側の事情であるように思える。小説のフォーマットというのは結局、書き手と読み手を介在するプロトコルに過ぎないので。ただ個人的には、一人称が一番書きやすい気はしている。作中人物でない仮想的語り手をつくると、どうしても「あんた誰だよ」と違和感を覚えてしまう。

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