『鶴乃湯』の女将 中原和代
夕方五時。
日が傾き、商店街のアーケードが茜色に染まるころ、今日もまた番台に小さな明かりが灯る。
『鶴乃湯』の女将・中原和代(なかはら・かずよ)、七十三歳。
背筋を伸ばして腰かけると、いつものように足元の小さなストーブに火を入れる。
冬の始まりは、床から冷える。脱衣所の空気がまだ人の気配を吸っていない時間帯、和代の一日は、静かに始まる。
棚に並んだ小さなロッカーの鍵をひとつずつ確認し、籐のカゴを整える。
カウンターの上には、手書きの「今日はゆず湯です」の札。
誰かの疲れを、ほんの少しでも和らげられるように。
派手なことはできないが、それでも「今日ここに来る理由」になればと、和代は毎週、何かしらの“湯の仕掛け”を用意している。
銭湯の扉の向こうには、すでに熱い湯が張られている。
湯気がゆっくりと天井にのぼり、白く曇ったガラス窓をぼんやり揺らす。
薪で湯を沸かすこの銭湯は、もう五十年この場所にある。
初めて来たときの子どもが、いまでは孫を連れてやってくることもある。
けれど、それも数えるほどになった。最近は、黙って湯につかる一人客がほとんどだ。
「静かなのは、嫌いじゃないのよ」
そう言って和代は笑う。
「でも、湯気の向こうで、誰かの背中がゆっくり揺れてるのを見ると、ああ今日もやってよかったなぁって思うの」
銭湯という空間には、余計なものがない。
服も、時計も、肩書きも。湯に溶けて、すべてがただの「人」になる。
その“裸”の時間が、人をほんの少しだけやわらかくすることを、彼女は知っている。
風呂桶の音、湯の跳ねる音、誰かがぽつりと漏らす独り言。
そのひとつひとつが、この場所の心音だ。
今日もまた、和代は番台からそれらを聴き取りながら、小さな火を守るように座っている。
「最初は、ほんとに嫌だったのよ」
番台の奥、古びた木の椅子に腰かけながら、中原和代は穏やかに笑った。
指先では布巾をたたみ直しながら、目はふと、遠い春の色を思い出していた。
和代が『鶴乃湯』の番台に座るようになったのは、今から五十年前のこと。
結婚を機に、夫・啓一の実家であるこの銭湯に入った。
当時、和代はタイピストとして小さな事務所に勤めていた。
まだ手打ちのタイプライターが主流だった時代。
黙々とキーを打つ時間が心地よく、街の喧騒のなかで働くことに、小さな誇りを抱いていた。
それだけに、銭湯での生活は、あまりに別世界だった。
毎朝の掃除、釜の温度確認、脱衣所の整頓、そして番台に座っての接客。
初めての冬は、湯気の奥で誰が誰だかわからず、会釈のタイミングすら迷った。
常連客の顔と名前を覚えるのも苦労の連続だった。
「いらっしゃいませ」と口に出すたびに、自分が誰かのふりをしているような気がして、妙にくすぐったかった。
それでも、日々は流れていった。
釜の焚き方を教えてくれた義父は寡黙な人だったが、火の扱いについては厳しかった。
「湯は熱ければいいんじゃない。人の心に合う温度がある」
その言葉が、今でも和代の中に残っている。
客たちは、思いのほか多彩だった。
口数の少ない職人、酔いを覚ましに来るサラリーマン、家に居場所のない学生、近所の小学生。
誰もが湯に入るときだけは、何かから解き放たれているように見えた。
服も肩書きも脱ぎ捨てて、ただの「ひとり」になっていく姿。
その背中を番台から見るうちに、和代の心にも少しずつ湯気が染み込んでいった。
「湯って、不思議よね。何にも言わなくても、何かが流れていくような気がするの」
かつて、ふとそうつぶやいたとき、夫の啓一が珍しく笑った。
「それが“情け”なんじゃないかな」
「情け?」
「うん。人と人のあいだに流れる、言葉にならないもの」
その言葉に和代は、ただ小さく頷いた。
日々は変わっていった。
息子が生まれ、客が減り、町に大型スーパーができ、近所の銭湯がひとつ、またひとつと閉まっていった。
けれど、鶴乃湯だけは、変わらずそこにあった。
小さな改装をしながらも、昔ながらの体重計も、壁の富士山の絵も、ずっとそのままだった。
夫が亡くなったのは十年前。
そのときも、やめようとは思わなかった。
「また来週来ますね」と言ってくれた常連の笑顔が、日常の灯を絶やさせてくれなかった。
それからも、季節は巡った。
湯気のなかで交わされる小さな会話、ぽつりと漏れる愚痴、誰にも見せられない涙。
そのすべてを、和代は番台の高さから見守ってきた。
拍手も、喝采もない。
けれど、誰かの人生の片隅にそっと灯りをともすような時間が、そこには確かにあった。
ガスをひねる音、湯の張り出す音、モーターの低い唸り。
鶴乃湯の朝は、音のないようでいて、確かな“呼吸”から始まる。
朝九時、まだ開店には早すぎる時間。
中原和代は、いつものように掃除用具を抱えて、湯上がり場から洗い場へと歩く。
裸足の足裏に感じる床の冷たさが、今日という日を確かに知らせてくれる。
高い天井、白く塗り替えた壁、そして年季の入ったタイル。
富士山の絵は五年前に描き直したばかりで、今も青が鮮やかに残っている。
「銭湯に富士山があるのって、どうしてなんでしょうね」と、かつて常連の若者に聞かれたことがあった。
和代は少し笑って、「見上げる場所があるって、いいことよ」と答えた。
掃除は、決して簡単ではない。
床の目地に詰まった水垢、ロッカーの金具の小さなサビ、シャワーの目詰まり。
けれど、それらに黙々と手をかける時間が、和代にとっては「整える」という行為のすべてだった。
自分のためではない。これからやってくる、名も知らぬ誰かのために。
“気持ちよく風呂に入ってもらう”――その目的のために注ぐ手間は、決して報われなくていいとさえ思っている。
午後三時、最初の常連が現れる。
大きな買い物袋をぶら下げた、ひとり暮らしの女性。
「今日はちょっと、寒いですね」
そのひと言が交わされるだけで、番台の空気がふっとやわらぐ。
彼女はいつも、同じロッカーを使う。同じタイミングで湯に入り、同じ順番で髪をとかす。
誰も知らない小さな習慣の積み重ねが、この銭湯にはいくつもある。
左の蛇口しか使わない人、椅子を二つ使う人、脱衣所に入る前に小さく一礼する人。
和代は、そのすべてを覚えている。注意深く見ているわけではない。ただ、毎日見ているだけだ。
「ここに来ると、少しほっとするんですよ」
帰り際にそう呟かれたとき、和代は胸の奥に灯るものを感じた。
自分がしていることは、湯を沸かして場所を開けておくだけ。
けれど、その“だけ”が、誰かの一日にとっては“救い”になることもある。
経営は、楽ではない。
燃料費は年々上がり、水道代もばかにならない。
スーパー銭湯のような豪華さもなければ、宣伝もしていない。
それでも、鶴乃湯は、今も開いている。
週末には、親子連れの姿もある。
五歳くらいの男の子が、父親に頭を洗ってもらいながら、「あついー!」と叫ぶ声に、脱衣所の誰かがふふっと笑う。
子どもが笑うと、大人たちがつられて肩の力を抜く。
湯気のなかで生まれる、小さな連鎖。それが、和代の何よりの報酬だった。
夜には、学校帰りの女子高生が一人でやってくることもある。
「家、帰ると誰もいないから。ここで温まってからじゃないと、なんか、眠れなくて」
そう言っていた彼女は、最近少し明るくなった気がする。
和代は、湯の温度をほんの一度だけ下げた。長く入っていられるように。
銭湯は、ただ身体を洗う場所じゃない。
誰にも言えない何かを、湯に溶かして帰っていく人がいる。
言葉にすれば壊れてしまいそうな心の重さを、番台から、ただ見守る。
それが和代の「働き方」だった。
日々の終わりは、午後十時。
暖簾をおろし、鍵を閉め、最後に釜の火を落とす。
その静けさが戻った浴室で、和代はひとり、タイルの上に立つ。
湯気の残る空間に、さっきまでの人たちの気配がまだ残っているような気がする。
忘れもののタオル、小さなヘアピン、濡れたスリッパ。
それらを集めながら、和代は思う。
「誰かが“居られた”って思える場所であれば、それで十分なんだよね」
数字で言えば、もう赤字すれすれかもしれない。
それでも店を開けるのは、あの湯気の中にだけ浮かび上がる人々の表情が、どうしようもなく美しいからだ。
笑うでも、泣くでもなく、ただ“ほどける”顔。
それを、和代は毎日見てきた。
ある日、町内会の若い人がこんなことを言った。
「このあたりも、そろそろマンションに建て替わるらしいですよ」
和代はただ、「そう」と頷いた。
老朽化。耐震問題。行政の指導。
いずれ、この場所を畳む日が来ることを、和代もわかっている。
けれど、その日が“今日”でない限り、湯を焚くことに迷いはない。
釜に火を入れ、モーターを確認し、床を磨く。
毎日が、たった一度きりの“誰かのための準備”だと思っている。
「今日も変わりない日だった」
そう言えることが、どれほど尊いかを、和代は知っている。
十一月の終わり、冷たい風が商店街を抜けていった午後のことだった。
いつものように番台に座っていた和代のもとへ、一人の男性が現れた。
スーツ姿で、首元には区のバッジ。丁寧な口調で手渡された封筒には、「耐震診断結果通知書」と記されていた。
中を読んで、和代は黙った。
築五十年を超える鶴乃湯の建物は、現行の基準を大きく下回っているという。
今後の営業継続には、大規模な耐震補強工事が必要となる。
補助金の制度もあるが、それでも自己負担額は決して小さくない。
そして、工事には最低でも三か月以上、営業を止める必要がある。
番台に戻っても、心の中にざらりとした余韻が残っていた。
あの富士山の壁も、釜の火も、この空間すべてが、もう「古い」と言われている。
けれど和代には、それが単なる設備ではなく、数えきれない人たちの「寄りかかってきた場所」に思えてならなかった。
夜になって、いつものように店を閉めたあと、和代はひとり、浴室に立った。
湯を落としたばかりのタイルの床はまだほんのりとあたたかく、壁の富士山は湯気の残り香に霞んでいた。
目を閉じれば、いくつもの声が浮かんできた。
「また来週ね」
「ここがあるから頑張れるよ」
「湯船の中でだけ、泣けるんです」
誰にとっても代わりのきかない場所だった。
でも、それを永遠に続けることは、きっとできない。
その晩、家に帰った和代は、小さなノートを取り出し、表紙に日付とこう記した。
「最後の冬、火を絶やさず」
明日も湯を焚く。誰かが来る。
たとえ終わりが見えていても、湯けむりの向こうに笑顔がある限り、今日という一日は変わらず始まる。
新年を越えたある朝、常連の老婦人が番台の前で立ち止まった。
「……ねぇ、奥さん。ここのお風呂って、あとどれくらいやってるの?」
和代は少し驚いた表情を浮かべ、それから目を細めて笑った。
「三月いっぱいまでにしようと思ってるの」
声は穏やかだった。張り詰めても、寂しさに揺れてもいない。
ただ一枚一枚、襖を閉じていくような口調だった。
老婦人は、少しだけ目を潤ませて頷いた。
「ここがなかったら、わたし、冬越せなかったかもしれないわ」
和代は何も言わず、深く頭を下げた。
やがて、噂はゆっくりと広がった。
あいさつの代わりに「お疲れさまでした」が混ざり始める。
若者がそっと千羽鶴を置いていった日もあった。
かつて子どもだった客が、大人になり、花束を持って訪れた。
だけど、和代はそれでも、変わらずに掃除をし、湯を焚いた。
「終わると決めた日まで、変わらず続けること」
それが自分なりのけじめであり、誇りだった。
春の気配が漂いはじめた頃、最後の一週間を知らせる貼り紙を、店の前に出した。
“鶴乃湯は三月三一日をもって、営業を終了いたします”
小さな文字。装飾もない。ただ、あたたかい手書きの筆跡だけが、そこにあった。
そして、最終日。
暖簾がかけられると、店の前には静かな列ができた。
普段は一人で来る客も、この日は誰かを連れていた。
番台から見える浴室は、笑顔と湯気に満ちていた。
まるで、風呂ではなく“人の記憶”そのものに湯を張ったようだった。
和代は、そのすべてを見届けた。
閉店時間、最後の客が帰ったあと、静かに暖簾を外した。
脱衣所の電気を落とし、釜の火を抜いた。
最後の湯気が、天井へゆっくり昇っていった。
「今日も、いい日だったね」
和代はそうつぶやき、番台に深く頭を下げた。
拍手も、喝采も、テレビもない。
けれど、ここに確かに生きていた情熱は、誰かの体温となり、記憶となり、これからも静かに残っていく。
湯けむりのように、やわらかく、あたたかく。
火は、たしかに、最後まで絶えなかった。
次の更新予定
毎週 日曜日 23:00 予定は変更される可能性があります
架空『情熱大陸』 ばこ。 @bako1110
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