寡黙な補聴器技師・芦田響

 芦田響あしだひびきの一日は、微細な沈黙から始まる。

 作業台の上には、親指ほどの補聴器。

 小さな筐体の中に詰まっているのは、音ではなく、記憶と生活と、切り離された誰かの世界だ。


 今朝、来店したのは八十を越えた老婦人だった。

 「音がまた、遠くなった気がしてね」

 彼女はそう言いながらも、どこか申し訳なさそうに笑った。

 芦田はうなずき、小さな椅子に促す。


 静かな調整が始まる。

 ドライバーの先端で回されるネジ、耳の形に合わせて微調整されるチューブ。

 慎重に挿入された補聴器が、ぴたりと耳のくぼみに収まった瞬間、老婦人の目がふっと揺れた。


 「......あら」

 彼女は息を呑むように呟く。

 「......いま、外の風の音がしたわ」


 それは、単なる聴覚の回復ではなかった。

 音が聞こえたというより、“世界と再び繋がれた”感覚だったのだ。

 芦田は何も言わず、わずかに頷いた。


 今日もまた、誰かが沈黙からひとつ、音のある場所へ戻っていく。




 芦田響が最初に「音」を失ったのは、小学三年の冬だった。

 風邪をこじらせたあと、右耳が妙にくぐもっていた。

 最初は気のせいだと思った。けれど、教室のざわめきが急に遠くなり、母の声が左からしか届かなくなったとき、響はようやくそれを「異変」として受け入れた。


 診断は「突発性難聴」。

 薬と安静が効果をもたらす可能性もあると言われたが、完全に戻ることはなかった。


 それでも、彼は「聞こえない」という言葉を、周囲にほとんど使わなかった。

 誰かに説明するより先に、音の輪から落ちこぼれていく感覚が、なによりも早く身体に染みついた。


 彼は人の口の動きで意味を取る癖を覚え、空気の揺れで会話の気配を読むようになった。

 そしていつの間にか、ひとりでいる時間が増えた。

 騒がしさは怖くなかった。ただ、自分が“いないように扱われる”静けさが、堪えた。


 けれどある日、学校の音楽室でたったひとつの「再会」が起きた。

 放課後、誰もいない教室で、先生がふとピアノの鍵盤を鳴らした。

 その低く柔らかな一音が、左耳を超えて、身体の奥に「届いた」のだ。

 耳ではなく、胸の内側がふるえた。それは「音が聴こえる」というより、「音と繋がる」体験だった。


 その瞬間からだった。

 響は、音の正体を知りたくなった。



 高校では科学部に所属しながらも、音響や心理学の本を読み漁った。

 人がどこまで音に慰められるか。

 どの瞬間に“音”が“言葉”になり、感情に変わるのか。


 進学したのは、都内の音響工学系の大学だった。

 けれど、そこで待っていたのは、“数値と性能”ばかりの世界だった。

 周波数、ノイズ、集音率――大切なことには違いない。

 けれどそこには、「音を使って誰かを救いたい」と願っていた少年の気持ちが置き去りにされていた。


 卒業後、響は大手メーカーへの就職を辞退し、ある町工場のような補聴器専門店の門を叩いた。

 紹介もコネもなかった。

 ただ、「ここでなら、人間の耳に触れられる気がした」と後に彼は語る。


 その店は、創業から半世紀以上続く、補聴器一筋の老舗だった。

 先代の職人は無口な人物で、技術は目で盗めという風情だった。

 だがその指先には、微細な音を読み取る感性と、人をまるごと受け止めるような温かさがあった。


 響は、そこで3年間、誰よりも長く椅子に座り、誰よりも静かに工具を磨いた。

 補聴器は、ただ音を大きくする道具じゃない。

 「聞きたくない音まで、聞かせてしまう危うさ」さえある。


 「だからこそ大切なのは、調整ではなく“同調”だ」

 先代がぽつりと残したその言葉を、響は今も胸に刻んでいる。



 28歳。

 今、響は独立し、小さな店舗を構えた。

 大きな看板もない。予約制でもない。

 けれど、口コミだけで、静かに人が訪れる。


 そこには“耳”の問題を抱えた人間だけでなく、

 「世界の音から少しだけ遠ざかってしまった」人たちがやって来る。


 そして彼は、今日もまた、耳ではなく“心の窓”を開けるために、音と沈黙のあいだに身を置いている。




 店の扉は、ほとんど音を立てずに開く。

 ドアベルの代わりに、芦田は空気のゆらぎで気配を読む。

 金属の小さなカチリという音、ほんのわずかな足音、そして風が持ち込む季節の匂い。


 「こんにちは」

 その日の来訪者は、年の頃なら七十代の男性だった。濃い茶のハンチング帽を深くかぶり、手にはビニール袋を提げている。


 「この間つくってもらったやつ、ちょっと合わんくてな」

 芦田は静かに頷き、椅子を勧めた。

 男は頑固そうな面差しのまま、補聴器を外して差し出した。


 「音がうるさすぎるんだよ。まるで全部、責められてるみたいだ」

 それは技術的な問題ではない。わかっている。

 補聴器は、ただ「音を戻す」だけでは済まない。

 その人が何を聞きたくて、何を聞きたくないか。そこまで踏み込んで、初めて意味を持つ。


 「少し、周波数帯を絞りましょう。

  たとえば、人の声だけをすくい上げて、騒音を抑えるようなかたちに」


 芦田の声に、男は目を細めてうなずいた。


 「......あんた、まるで坊主みたいな口調だな」

 「耳を開くのも、心を閉じすぎないことから始まるので」


 そんな会話すら、たった二往復。

 でも、それで十分だった。帰り際、男はぽつりと呟いた。


 「家に帰ると、カミさんがテレビの音うるせぇって文句言ってたのよ。

  でも俺、本当は......あの人の声が、久しぶりに聞こえたんだよ」



 別の日には、母親に手を引かれた五歳の少年が来た。

 耳の検査では異常がなかったという。けれど「聞こえにくい」と本人が訴えるらしく、幼稚園でも集団行動に支障が出ているという。


 芦田は、少年に補聴器を勧めなかった。

 代わりに、小さな録音機とヘッドホンを使って、自分の声や足音、紙を破る音などを一緒に録音してみせた。

 子どもは目を輝かせ、くすぐったそうに笑った。


 「聞こえてるんだよね。だけど、世界がちょっと怖いだけなんだ」

 母親は、うつむいて涙を拭った。


 「......ずっと、私が責められてるのかと思ってた」

 「誰も責めてないし、誰も悪くないです。ただ、耳は心と一緒に育つんです」



 日々、彼のもとには様々な理由で「音」から遠ざかった人々がやってくる。

 定年退職後、急に会話が減ってしまった男。

 事故で聴力を失った元ミュージシャン。

 精神的な疲弊で「音が痛くてたまらない」と訴える若い女性。


 彼は診断医ではない。治療家でもない。

 けれど彼の仕事は、音を“戻す”のではなく、“迎える”ことだった。


 工具を握る手は、まるで聴診器のように、人の輪郭を確かめる。

 調整の終わった補聴器を耳に装着する、その一瞬の沈黙――

 芦田は、そこに最も深い“音”があると感じている。



 あるとき、店の扉を叩いたのは、若い女性だった。

 目元には疲れの色があり、けれど姿勢はしゃんとしていた。


 「音が、怖いんです」

 芦田はその言葉に、深くうなずいた。


 「とくに、何の音が?」

 「玄関のチャイムとか、車のエンジンとか……。

  でも、一番怖いのは、人の笑い声かもしれない」


 過去に何があったのかまでは、尋ねなかった。

 彼はただ、机の引き出しから一冊のノートを差し出した。


 「“音日記”を書いてみませんか。好きな音を、一日ひとつだけ記録するんです」

 「好きな音......?」

 「ええ。たとえば、ポットの湯気の音。ペン先が紙をこする音。

  自分の耳が“怖がってない”瞬間に、気づくために」


 彼女はためらいながらも、ノートを受け取った。

 そして、一週間後。

 再び店を訪れたとき、彼女は最初にこう言った。


 「昨日、“雨の音”が心地よかったんです。なんだか、包まれてるみたいで」


 芦田は、ほんの少しだけ笑った。

 それは彼が最も深く肯定する「音」の在り方――

 聞こえることは、つながること。

 けれど、つながることの前には、必ず“聴きたい”という意志がある。


 彼が今日も耳を澄ますのは、機械の中のノイズのためではない。

 誰かが世界に向けて、ほんの小さな扉を開こうとしている、その瞬間のためなのだ。




 雨の降る午後だった。

 予約もなく、空白の時間を工具の手入れに費やしていたとき、扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、十歳くらいの少女。後ろには誰もいない。


 「お母さんに、来てみたらって言われたの」

 濡れた髪を少し気にしながら、少女はまっすぐ芦田の目を見た。

 「耳は悪くない。でも、音が......苦手」


 芦田は頷き、小さな椅子を差し出した。

 「苦手な音って、どんな音?」

 「チャイムの音。急に鳴ると、胸がドキドキして......。あと、大きい声」

 「じゃあ、好きな音は?」

 少女は、少し考えてから答えた。


 「鉛筆の音。あと、雨が窓を叩く音」

 それは、彼女の世界のどこかに、まだ“安心できる場所”が残っている証だった。


 芦田は彼女に、小さなマイクと録音機を手渡した。

 「一日ひとつ、“好きな音”を集めてみて」

 「集めるの?」

 「うん。世界には、やさしい音もあるって、耳が思い出せるように」



 数日後。

 再び来店した少女は、録音機を抱えていた。


 「これ、聞いていい?」

 芦田がイヤホンを渡すと、彼女は目を閉じてひとつずつ再生した。

 冷蔵庫の扉が閉まる音、ページをめくる音、寝ている母の呼吸音。


 「......わたし、音の中にもやさしい場所があるって、知らなかった」

 その言葉は、芦田にとって、確かな震えを持って届いた。


 自分が届けたかったのは、音そのものではなかった。

 音を通して、誰かが“自分の世界”にそっと手を伸ばせるようになる、その瞬間だったのだ。


 それが、芦田響という技師を突き動かしている。

 音の調整ではなく、「聴きたいと思える勇気」をつくること。

 それこそが、彼の仕事だった。




 朝、シャッターを開けると、昨日の雨が舗道に光を残していた。

 空はまだ曇りがちで、鳥の鳴き声もなかったが、それでも世界は音を携えていた。

 車の走る遠い音、向かいの八百屋が段ボールを積む音、すれ違う誰かの咳ばらい。

 そのどれもが、生きている音だ。


 芦田は、いつものように椅子に座り、作業台の上に道具を並べる。

 補聴器のメンテナンス予約は一件だけ。静かな一日になりそうだった。

 けれど、それでいい。

 ここは、必要とされるそのときにだけ開かれる、小さな音の港なのだ。


 店の奥には、例の少女が録音した音日記が保存されている。

 母の寝息、電子レンジの音、カーテンが風に揺れる音。

 どれもが彼女だけの世界で見つけた“やさしい音”。


 彼はときどき、その中のひとつを再生する。

 自分のためではない。ただ、思い出すためだ――

 音は、誰かを救うためにあるのではなく、

 「あなたは、ここにいていい」とそっと伝えるためにあるのだと。



 昼下がり、店の前を通りかかった青年が、ふと立ち止まった。

 ガラス越しにこちらを覗き、少し迷ってからドアを押す。

 初めての顔。


 「ここ......補聴器のお店ですよね」

 「はい」

 「なんか......たぶん、自分にはまだ早いと思うんですけど。

  でも、ずっと“音が遠い”ような気がしてて」


 その言葉に、芦田はゆっくりとうなずいた。

 「“遠い音”は、悪いことじゃありませんよ。

  むしろ、聴こうとする姿勢があるってことですから」


 青年は少し笑った。

 その笑みを見て、芦田は思う。

 人が「音」に向き合うとき、それは単なる聴覚ではなく、

 生き方の輪郭を確かめる行為なのかもしれない。



 夕方、店の前の街路樹が風に揺れた。

 葉と葉が擦れ合うその音を、芦田は微かに耳にした。

 それは誰にとっても取るに足らない音。けれど、彼にとっては意味がある。


 今日もまた、音の中に誰かが帰ってくる。

 その小さな帰還の手助けができるのなら、それ以上は望まない。


 指先は、今日も静かに働いている。

 音の向こうにある沈黙へ、そっと触れるように。

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