trois
いつもより疲れたからといって、いつもより眠れるわけではなかった。目が覚めても、眠る前のときのように疲れていた。微睡みながら、ある水色を思い出す。SEA TIDE COFFEE STAND の壁にある、あの絵の水色だ。
気づくと眠っていて、空は薄く明るくなっていた。夢に
実際の真也さんは、ひとりの客と話し込んだりしない。そこにいる人たちを巻き込む。客同士で話すこともあった。私から話しかけることはないけれど、話を振られれば笑顔で返すことくらいはできた。
平日の休暇。早朝の海に向かった。今日も真夏日の予報。薄い雲がところどころ空を覆っている。砂浜に降りて水平線を眺めてから、国道に戻りコーヒースタンドに入った。
こんなにも多くの人々が、それぞれの一日をはじめている。午前七時は、遅番の日にアラームをセットしている時間だった。ベンチシートに座ってしまうと見えにくくなるけれど、朝の海の絵を眺める。額装されていないので、キャンバスの側面の色まで楽しめた。
「
真也さんと私しかいない店内で、話しかけられた。
「いいえ。『朝の海』をテーマに描いたと教えてもらっただけです」
「『
「『l'été』——」
立ち上がり数歩離れたところから油彩画を観た。
「夏の海だったんですね」
「早朝の、この湾の色を知らなかったら、夏と言われても分からなかったと思います」
荻窪さんが作業台から出てきて、私の隣に並んだ。私の背は彼の肩くらいの高さだった。
「少し眠る時間が長くなりました」
「では、もう少し今のままで、お薬を続けてみましょう」
ほかに気になることはありませんか、と先生が訊く。ありません、と応えて次の診察日を決めた。
朝早く起きて、細切れに眠るくらいなら、暗くてもいっそ起きてしまうほうが楽だった。まだ薄暗い外に出る。大気は、すでに蒸し暑い。明るくなっていく海を見た。数分間だけ水色に染まる、凪の海面。
午前七時まで、まだずいぶん時間がある。真也さんは店に向かう途中だろうか。それとも、もう店で開店の準備をしているだろうか。
「おはようございます」
波の音の間に、彼の声がした。
「おはようございます」
きっと私は今、とびきりの笑顔をしている。
「僕はこれから店の準備です。よかったら、あとでいらっしゃいませんか?」
「ぜひ、伺います」
「ありがとうございます。明日は定休日なのですが、コールドブリューを大量に仕込んでしまったので一杯ごちそうさせてください」
「嬉しいです。いただきに行きます」
海岸沿いをゆっくり一往復すると、コーヒースタンドの開店時間だった。先に来ていた犬連れの客が、飲み物を手渡され帰っていく。
「いらっしゃいませ」
「店内で、お願いします」
「お待ちください」
立って『l'été』を眺めていると、コールドブリューのグラスがテーブルに置かれた。
「本当にいいんですか?」
「もちろんです。昨日仕込んだ物ですが、賞味期限は切れていないので。おいしいといいのですが」
「ありがとうございます。おいしいです」
立ったままグラスを口にして、目を細めた。
「今日の水色の海は見ましたか?」
「はい」
コールドブリューを飲み込んでから答える。
「毎朝、見られるわけではないのに、不思議です。あの水色が見えた日は、美沙さんが来てくださる」
「そうだったんですか」
「ええ」
真也さんもコールドブリューを飲みながら、笑顔になった。
「いらっしゃいませ」
犬を連れた男の人が、テイクアウト専用の小窓を覗いている。
「ハンドドリップ」
そう言ってキャッシュレス決済すると、店の前のベンチに腰を下ろした。真也さんはお湯を沸かしながら、グラインダーでコーヒー豆を挽いた。ハンドドリップの手順を見させてもらうのも、楽しい。
真也さんは「不思議」だと言ってくれたけれど、私はあの水色が見えそうな日にだけ早朝の海に行っていた。たまたま予想が当たって水色の海が見えただけだ。最近は、水色を湛えた海に浮かんでいると想像すると、早く寝付けるようになった。
へその下に両手を当てて、ゆっくりと呼吸をする。手の下が温かくなってくる。私は『l'été』とだけ、頭に言葉を浮かべる。そして温かさに集中した。油彩画のキャンバスの上に、横たわっているような気持ちにもなる。
夢ばかり見て早く目が覚めてしまうけれど、以前よりも深く眠れているような気がした。夢を見るなら、真也さんの夢が見たいと思う。追いかけても叶わない人かもしれない。彼にはパートナーがいるかもしれない。今はまだ彼のことをほとんど知らなかった。
『l'été』の傍で、彼のコーヒーが飲める日々が続きますように。たまには二人きりで話せますように。また彼が私の店に来てくれますように。ベッドに横になり目を閉じて、ひと通り祈る。
『l'été』
また両手を重ね、ゆっくりと呼吸を続けた。
l'été 𝚊𝚒𝚗𝚊 @aina
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます