deux

 山側のキッチンの擦りガラスからは、朝日が射し込まなかった。でも、もうすでに外が明るいことは分かる。まだ午前五時にもならないけれど、起きることにした。

 夏至の今日、一年でいちばん早く太陽が昇り、いちばん遅く沈む。晴れの夏日になる予報だった。細い坂道を西へ下り、国道を越えると海に出る。午前七時。国道沿いのコーヒースタンドがシャッターを開けた。

「おはようございます」

「おはようございます。店内で、アイスラテを」

 先日と同じ男の人が、笑顔であいさつしてくれた。店内に入り、テーブル側の壁を見て驚く。あのギャラリーで出会った朝の海の絵が、そこに掛かっていた。前に観たときと同じように、額装されずにひっそりと佇んでいる。

 グラインダーで挽いた豆が、タンパーで固められた。ホルダーがラ・マルゾッコのエスプレッソマシンに取り付けられる。抽出される間の時間と香りが好きだ。

「あの水色の絵、個展で観ました。私が行ったときには、もう売約済だったんですけれど、こちらがお迎えされたんですね」

「そうなんです。会期が先週までだったので、昨日届きました」

「もう観られないかと思っていたので、嬉しいです」

「気に入られていたんですね。うちが先に買ってしまって申しわけないです。ずっと飾っておくので、いつでも観にいらしてください」

「ありがとうございます。謝らないでください。こういうものは、ご縁なので」

「そうだ、忘れる前に」

 これを、と名刺を渡される。『SEA TIDE COFFEE STAND Owner MASAYA OGIKUBO 荻窪真也』の文字。私もバッグの中から自分の名刺を取り出した。

美沙みささん。きれいなお名前ですね」

 笑顔の真也さんが、アイスラテのグラスをテーブルに届けてくれる。金属の細いマドラーが挿さっているけれど、混ぜずに少しずつ味わった。

「今日も、お仕事ですか?」

「はい。土曜日なので、お互い忙しくなりますね」

 言い終わらないうちに、客が現れる。

「アイスアメリカーノ。店内で」

 男の人が隣のテーブルに座り、イヤフォンを外した。私はもう一度、エスプレッソが抽出されるまでの手順を目で追う。

「今日は、お休みですか?」

 テーブルにアイスアメリカーノを置いてから、真也さんが言った。隣の男の人は休日で、砂浜を走っていたらしい。

「何を聴いてみえるんですか?」

 真也さんが男の人に訊ねる。男の人は知らないアーティストの名前を答えた。店内は地元のコミュニティFMが流れている。


 私が勤めている 13 COFFEE ROASTERY は、フードとスイーツのメニューもあるロースタリーカフェだった。コーヒースタンドは、カフェと違ってテイクアウトが多いイメージだ。

 次々と飲み物を用意している真也さんと、ゆっくり話す時間はなさそうだった。名刺の裏のQRコードからSNSをフォローする。私のアカウントは、海と賄いの写真しか載せていない。

 賄いは三十五パーセントオフで頼めるので、昼食はいつも店のドリンクとフードをオーダーしていた。バックヤードで食べるだけだけれど、とてもきれいに盛り合わせてくれるので写真を撮りたくなる。


 夏至の雰囲気に背を押されて、また SEA TIDE COFFEE STAND に来た今日。水色の絵に会えたり、真也さんと名刺を交換できたり、すてきな一日のはじまりになった。今度は平日に来よう、と思い作業台にグラスを戻す。

「ごちそうさまでした」

「わざわざ、ありがとうございます。いってらっしゃい」

 店を出るときにも、真也さんの笑顔が見られた。




 やはり今日は来客が多く、開店と同時にウェイティングが出ていた。疲れ果てて部屋に戻り、長財布にしまった真也さんの名刺を取り出す。真也さんはいろいろな人たちに名刺を配っているのだろう。私だけが特別だったらよかったけれど。

 私は客に自分の名刺を渡したことはなかった。店長をはじめ 13 COFFEE ROASTERY のスタッフは自分の名刺を持っているけれど、たまにある同業者との打ち合わせのときに交換したり、友人や知人に配ったりするだけだった。

 外で名刺を交換したことなど今までになかったな、と真也さんの名刺をホルダーに挟みながら考える。ギャラリーでも名刺を交換したら、よかったのかもしれない。ふだん受け身の私から、名刺を渡すなどありえないとも思う。

 オープンな真也さんの接客術に、すっかり魅せられてしまった。バッグから文庫本を取り出し、また未読の書籍の上に載せる。あのコーヒースタンドは、会話や情報交換を楽しむところだ。


 眠れないからといって、本を開く気にはなれなかった。縦に書かれた活字の上を目が滑っていき、内容がほどんど頭に入ってこない。最近二倍に処方された睡眠導入剤を飲んで横になる。

 一時間タイマーにセットしたエアコンが切れる前に、眠りにつけることもある。次に目が覚めるのは、もう空が明るくなりはじめる時間になった。それは陽が長くなっただけなのかもしれないけれど。

 それからは細切れに夢を見て、何回も目を覚ます。合計睡眠時間は四、五時間くらいだろうか。合わせて二、三時間くらいしか眠れなかった先月までに比べれば、よくなっているといえる。薬が効いているのだろうか。



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