後ろ髪を引かれる

夔之宮 師走

後ろ髪を引かれる

 ロマンス通りを進み、ロサ会館前で右に曲がって少し進んだ先のビルの3階が俺のバイト先の居酒屋だ。

 

 火曜日だというのに珍しく席の予約がたくさん入っており、のんびり適当に働いて帰るつもりだったのが、ビールを運び、酎ハイを作り、料理を提供し、皿を下げ、酔っ払いから「今日のお勧めはなんだ」と聞かれたので「どれもお勧めです」と元気よく答えたら、「バカにしてるのか」と店長を呼び出されたり、会計時に何度使えないと説明してもよくわからない電子決済をしようとするバカの相手をしたりして時間が過ぎていった。


 俺と同じシフトで入っている大学生のサっちゃんは店長のお気に入りで、俺やキッチンで働いているグエンさんやチャン君もサっちゃんのことが大好きだ。

 店長には妻も子供もいるが単身赴任で池袋に来ており、サっちゃんと不倫しているとかいう噂もあるが俺にとってはどうでも良くて、一緒に働いているだけで楽しいし、制服でわかりにくいがすごく大きな胸を見ているだけで、なんとも言えない気持ちが湧いてくる。

 店長があれを揉んで、サっちゃんがエッチな声を出しているとか想像するだけで嫌な気持ちになったりもするが、それでも一緒に働いているのが楽しくて、俺はシフトに入っている。


 サっちゃんが俺に近づいてきて「あの奥のテーブルは別れ話みたい」と小声で話しかけてくる。サっちゃんからは良い匂いがしていて、酒と料理の香りと一日中働いたり遊んだりしていた連中の身体から発せられる匂いが充満している店の中で、ちょっとした喜びを俺にくれた。


 「へえ。近くに行ったら聞いてみるよ」正直言って、客が口説いていようが、いちゃついていようが、別れ話をしていようが、俺の時給には関係がない。客なんかいない方が俺は楽なのだが、サっちゃんと話を合わせるのは俺にとって重要だ。ちょうど隣の客が帰ったので、テーブルを片付けに行く。


「もういい加減にしてちょうだい」

「なんで今日はそんなに怒っているのさ」

「あなたこそ、何を言ってるのかわかってるの。私たちは付き合ってもいないし、会社の同僚ってだけじゃない」

「何を言ってるのかわからないのは君の方だよ。指輪も買ったし、式場の予約もしているんだから」

「もらった指輪は返したでしょう。こんなもの貰えないって。ただの同僚にいきなり指輪なんか渡さないでよ」

「もう5年も一緒にいるんだから、そろそろかと思ったんだよ。もしかして指輪のサイズがあってなかったのかい」

「たまたま会社で席が隣ってだけじゃないの。いい加減にしてよ」

「じゃあ、どうして今日一緒に来てくれているのさ」

「はっきり言わないとわかってもらえないと思ったからよ」

「僕のことを騙したのか」

「そもそも付き合ってもいないのに何を言ってるのって何度言ったらわかってくれるのよ」


 俺はグラスと皿をトレンチに手早くまとめ、テーブルを拭いてキッチンに戻るとサっちゃんがいたので「あれは別れ話とかそういうのじゃなさそうだぜ」と伝えると、サッちゃんは興味を持った様子で奥のテーブルの様子をうかがっている。サっちゃんの肩が俺の身体に当たって、俺はちょっとだけ嬉しかった。

 その時、テーブルの奥から大きな音が聞こえた。グラスを割ったようだ。俺は慌ててダスターを引っ掴んでテーブルに向かうと、女が帰ろうとして立ち上がったところだった。女は振り返りもせずこちらに歩いてくるが、その後ろに男が立った。


 ガクンと音がして、俺の前で女の頭が消えた。どうも男が後ろ髪を力いっぱい引っ張ったようだ。女の首はおかしな方へ曲り、口元からはよだれなのかあぶくなのかよくわからないものが垂れている。男は女を席に座らせると、向かいに座り、また切々と話し始めた。

 席に座らされた女の頸は直角に曲がり、目はうつろになっている。涙が流れ、鼻血が垂れてくると、男はおしぼりで丁寧に拭いた。俺は、血は拭かないでほしいなと思いつつ「お客様。濡れたりはされていませんか」と声をかける。男は「大丈夫だ。ありがとう」とにこやかな笑みを返してきたが、向かいの女のスカートの裾からはぽたぽたと雫が落ちており、割ったグラスの中身かと思っていたら、おしっこのような臭いがしてきたので俺はちょっと嫌な気分になった。


 男はちょっと思案すると、俺に「生一つ追加で。あ、この子にはカシスウーロンを」と注文を伝えてきたので、俺は厨房に向かって「生一丁追加で」と大きな声で伝える。


 男は店長が呼んだ警察が来るまで女に話しかけており、警察に連れられて出て行った。店長はちゃんと会計は済ませていたようで、そういうところは流石店長だと感心する。

 救急隊が到着し、どう見ても事切れている女を見ると、うんざりした様子で何か無線に向かって喋っていたが、俺は興味がないので何を言っているかよくわからなかった。


 サっちゃんはいつの間にか帰ってしまっており、グエンさんやチャン君も厨房にはいなかった。店長は俺にウイスキーの入ったグラスを渡してきた。俺は店長と二人で酒を飲んだことはなかったが、最初で最後のグラスは俺の財布では出せなそうな味がした。

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後ろ髪を引かれる 夔之宮 師走 @ki_no_miya

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