さよならアリゲーター
鍵崎佐吉
Seeyoulater alligator
平日の夜のサイゼリヤは雑然としつつも妙に落ち着いた雰囲気があって、アルコールの入った頭ではそれがなぜだか少し心地よく感じられる。テーブルの向こうで二つ目のドリアを食っている有本は見飽きるほどにいつもと同じで、それでも多分もうこいつとは二度と会うことはないんだろうなという予感があった。白ワインを口に含んで、もう一度別れの言葉を考えてみる。何も思いつかないということは、何も必要ないということでいいんだろうか。
有本が不意に視線をあげる。
「カズキさぁ」
「あ?」
「初めて会った時のこと覚えてる?」
随分陳腐な質問をするもんだと思いつつ、俺はテーブルに肘をつけて答える。
「まあ、なんとなく」
「そっか。そうだよな」
そう言って有本はへらへらと笑う。何がそんなにおかしいのか、俺にはさっぱりわからない。そんな相手と四年もつるんできた自分自身のことも、俺にはよくわからなかった。
なんか面白そうだなと思って勢いで入った演劇サークルは想像してたよりかなりガチよりの空気で、一か月もしない内に俺は顔を出すのが億劫になってしまっていた。今さら演技を練習したところでどうせ脇役か裏方しかやらせてもらえないだろし、来月あたりには皆から忘れ去られて最初から俺なんていなかったことになっているんだろう。別にそれを理不尽だとかは思わなかった。そうやって何かを切り捨てていった方が人生は楽になる。
だけどどういうわけか同じ新入生の有本とかいうやつだけは俺がサークルに行かなくなった後もちょいちょい絡んでくるのだ。ぱっと見は陽キャっぽいがなんか妙にダボついた雰囲気があって、そのへらへらした締まりのない笑顔で話しかけられると返事くらいはしてやろうという気になってしまう。
「カズキさぁ、もうサークル行かねえの?」
出会ってまだ半年も経ってないのに、こいつは俺のことを馴れ馴れしく下の名前で呼んでくる。俺の方はと言うと、そもそも有本の下の名前なんか憶えていない。
「行かない。なんか思ってたのと違ったし」
「でもさ、その方がおもろいじゃん」
「おもろくねえよ。俺はもっと緩くやってたいの」
「ははっ、なんか今時の若者って感じ」
「お前もだろ」
感性も趣味も違うし、正直気が合う相手だとは思えなかった。それでも二年生になって幾人かの知り合いがいつのまにか赤の他人になってしまっていても、有本とはなんとなく一緒に遊んだり飯を食ったりする仲が続いていた。
俺たちが会う時はいつも二人きりで、共通の友人というのもいなかった。大抵はどちらかの趣味にもう一方が付き合わされる形で、例えばよく知らないバンドのライブとか、もしくは推しが出演している劇だとか、そういうのに行って最後にファミレスで酒を飲んで終わるというのが通例だった。有本は金欠だからと言って安いメニューを頼み、だけど最終的には腹が減ったといってもう一品同じものを頼む。そういう馬鹿っぽいところは案外見ていて飽きないもので、有本と飯を食うのは結構楽しかった。
あれは二年生の冬のことだったと思う。有本から急に映画を見に行かないかと誘われて、することもなかったので俺は行ってみることにした。映画はあるヒット小説が原作の「泣ける」とか「感動した」とかが売り文句のよくあるやつだったが、原作知識がなかったためかえって新鮮な気持ちで楽しむことができた。ところが誘ってきた方の有本は数少ない取柄である明るさに翳りが差しており、何かがあったのであろうことはすぐにわかった。サイゼリヤに入って二杯目の白ワインを飲み干した後、ようやく有本は口を割った。
「映画、本当は先輩と見に行くつもりだったんだ」
「先輩?」
「演劇の、ミユキ先輩」
俺はもうその人のことを思い出せなかったが、有本は先輩に惚れていたらしい。こいつがずっとサークルにいたのもそれが目的だったわけだ。そして先日、勇気を出してついに告白したのだが、見事に玉砕したとのことだった。
「異性として見れない、生理的に無理、だって」
意中の相手にここまで言われて正気を保っていられる人間はいないだろう。そのミユキ先輩とやらにとって有本の何がそこまで駄目だったのかはわからないが、まあ今更励ましたところで無意味だろうなと思った。その後も有本は追加で二杯のワインを飲み、まだ飲み足りないというのでコンビニで酒を買って有本の家で飲むことにした。酔いが深まるにつれて話はどんどん支離滅裂になっていき、それでもフラれたという事実だけは忘れられないらしく、思い出したように自己嫌悪や先輩の称賛を始めたりする。その豹変ぶりを眺めながら、こいつ結構演技の才能はあるんじゃないかなとか考えていた。
気づいたらいつのまにか二人とも寝落ちしてしまっていて、酔いのモヤがかかったままの頭で薄暗い部屋を見渡すと、枕を抱えてベッドにうつ伏せになった有本と目が合った。
「おはよう、カズキ」
「……気ぃ済んだか?」
「やっぱさぁ、女は駄目だよ、女は。ペットでも飼った方が良い」
「はあ」
「俺さぁ、ワニ飼いたいんだよ」
酔っているのか寝ぼけているのかわからないが、面白そうなのでそのまま喋らせてみる。
「本当はライオンがいんだけどさ、無理じゃん。日本じゃ。だからワニ飼ってさ、プールで泳がせるんだよ」
「お前、ワニの世話とかできんの?」
「できるよ。だってさ、ワニって噛む力はすごいけど、顎を開く力は弱いんだよ。だからこう、ガッて押さえたら大丈夫」
そう言ってワニの餌やりのイメージトレーニングを始める有本を見て、予測できない人生も悪くないなと思ったのだった。
三年になって、今までサボっていた単位の回収をして、流れでなんとなく就活をして、そうして少しずつ日々が多忙になっていく。モラトリアムの終わりがゆっくりと近づいてくるのを肌で感じながら、ただ某漠としていた日常が未来への意味を持ち始めているのが少し心地よくもあった。そうして自分の人生に集中している間に、きっと何かが不可逆的な変化を始めていたんだろう。気づいたらもう三ヶ月も有本に会っていなくて、それでもなぜかまだ終わったとは思えなかった。試しに飯に誘ってみたらあいつは二つ返事でやって来た。
「ワニ飼った?」
「いや、やっぱり人間も悪くないなって」
「つまんな」
「僻むなよ陰キャ」
軽く脛を蹴りつけてやると有本はオーバーリアクションで飛び上がる。そうやって俺たちはまだ他人ではないことを確かめ合いながら、どこかで秋が終わりに向かっていくような肌寒さを感じていた。
別に何が悪かったわけでもない。喧嘩をしたわけでも、思ってたのと違ったわけでもないし、なんとか先輩みたいに生理的に無理だったわけでもない。俺たちには最初から理由なんて何もなかった。それでも俺たちは少しずつ離れていって、それを繋ぎとめようとするのはなんだかすごく滑稽で恥ずかしいことのように思えたのだ。
ようやく内定をもぎ取って、ふと大学生活を振り返った時に、真っ先に思い浮かんだのは有本のヘラヘラした締まりのない笑顔だった。別にあいつが一番仲の良かった相手かと聞かれるとそうでもないと思う。ただなんとなく、有本とは今ここでしか会えないのだと感じた。何者でもない自由で曖昧な存在だったからこそ、俺たちは自然に溶け合うことができた。理由とか目的とか「友達」という肩書とかを背負ってしまえるほどの強度はなくて、その不確かさがどうしようもなく心地よかった。だからきっと、俺たちはもう二度と会うことはない。
有本は客席にいる俺にすぐに気づいたようだった。まあ三十人ほどしか観客のいないこんな小舞台なら気づかれない方が難しい。四年になったのにまだ脇役をやっている有本は、それでも生き生きとしているように見えた。公演が終わって俺が余韻に浸っていると、舞台袖から出てきた有本が声をかけてくる。
「どうだった?」
久しぶり、の一言を言わなかった理由はなんとなくわかってしまった。だから俺も、当たり前みたいな顔をして返事をする。
「まあ、そこそこかな。脚本は良かった」
「俺は?」
「声がでかい」
「そりゃそうだろ、劇なんだから」
きっと有本にとってはここが自分の居場所で、卒業した後だってサークルのメンバーとはたまに飲みに行ったりするんだろう。それを羨ましいとは思わない。俺たちはいつも二人きりで、だからこの時間は今だけのものなんだ。
「飯行こうぜ、カズキ」
そうして俺たちはお決まりの場所へ足を運ぶ。
冬のピークは過ぎ去ったけれど、肌を刺す夜の冷たさは容赦なく酔いの熱を奪っていく。俺たちはただ無言のままそこに立ち尽くして、走り去っていく車の群れを眺めていた。友達みたいな何かだった、そんな不確かで曖昧な関係をどう終わらせればいいのか、俺にも有本にもわからない。今までも、そしてこれから先も、俺たちはきっと何度もこんな別れを迎えるだろう。そのうちわざわざ立ち止まるのも面倒になって、やがて何も感じなくなるだろう。だからこのモラトリアムの終わりの何でもない別れくらいは、しっかりと噛みしめてみたかった。
目の前を一台の黒い外車が走り抜けていく。その細長いフォルムと白いヘッドライトがどことなくワニを連想させた。
「有本」
「ん?」
「ワニ飼ったら教えろ。見に行くから」
俺たちが他人になっても、その一言さえあればきっと会いに行ける。いつの日か全てを忘れ去ってしまっても、きっとどこかで繋がっていられる。そんなふざけた祈りの言葉が、俺たちの別れには相応しい気がした。
「任せとけ。ビビるくらいでかいやつを見せてやるよ」
へらへらと笑いながら有本は片手を上げる。俺も同じように片手を上げて、そして歩き出す。
夜の風が少し背中を押してくれたような気がした。
さよならアリゲーター 鍵崎佐吉 @gizagiza
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