後編


 友人らとは違う講義を取っていて、そこには知り合いがいなかったので、端っこに座って講義を聞く日々を送っていたところ、優しく声をかけてくれたのが彼だ。

 講義のマメ知識や単位の取り方などを教えてくれて、連絡先を交換して、そのうち食事に誘われるようになって、共に過ごす時間が増えていった。

 出会った当初は未成年だった叶恵は、二十歳になる七月の誕生日にドレスコードのあるレストランで食事をして、初めてアルコールを飲んだ。酔い覚ましに川縁を歩き、そこがファーストキスの場所。


 キス以上の進展がないまま過ごし、クリスマスがそうなるのか、でもやっぱりちょっと怖いなあ。

 なんてことを思いながら、公園で予定を話していた十一月の頭。ホテルの宿泊に躊躇した叶恵を見て、それまでずっと優しい態度を取っていた松下が、顔を歪ませた。


 少しの違和感。

 でもきっと見間違いだと自分に言い聞かせてその場は別れ、ハンドタオルを落としたことに気づいた叶恵が戻ったとき、その会話を聞いてしまった。

 スマホで誰かと電話をしているらしい松下の声が、叶恵の耳に届く。



 この期に及んで、泊まりはちょっと、とか言いやがってよ。こっちはどんだけ我慢したと思ってんだか。

 ああ? 当然だろ。女に不自由してねえよ。でも、それとこれとは別だろ。ああいうのを相手にすんのがいいんだし、いかに落とすかが大事って、おまえも言ってんじゃん。

 まあ、部屋だけは抑えておいて、じわじわ攻めるって。任せとけ、あのテの女を何人も喰ってきた俺に不可能はねえ。



 電話を切った松下と目が合い、こちらが聞いていたであろうことを察すると、態度が豹変。



 おまえみたいに冴えない女が男と付き合えたんだ、俺に感謝してもいいぐらいだろ。もったいぶるほどの身体してねーくせに、恥ずかしがってもちっとも可愛くねえ。ブス。

 もういいよ、別の女誘うし、どうせ抱くならそっちがいい。

 あ、言いふらそうとしても無駄。大学では、おまえが俺につきまとってるストーカー扱いだから、痛い女扱いされるだけだぞ。




 一方的にまくしたてられ、そのくせ去り際に、「関係続けたいなら連絡ちょーだい。おまえはどうせ誰にも相手にされないだろうしな」とねっとりと言われ呆然。


 とりあえず自分はフラれて、でも奴からすれば、叶恵にフラれたことにするらしい。

 まったく意味がわからなかった。


 そういえば大学内でイチャついたことはなく、恋人っぽい振る舞いはいつもデートだけだった。

 それは、初彼氏に戸惑う叶恵に合わせてくれているのだと思っていたが実はそうではなく、学内では「同じ講義に出ている後輩を無下にできない優しい先輩」に見えるように仕向けていたのだと気づく。


 思えば、松下から「好き」という言葉をかけられたことはなかったかもしれない。

 惚れているのは、あくまで叶恵のほう。

 言質を取られないように、巧妙に誘導されていたような気もする。



 友人たちは怒ってくれた。けれど相手がふたつ上の先輩ということもあって、女子だけで乗り込んでいくのは難しかった。男を相手に啖呵をきれる強気な性格の子はいなかったこともあり泣き寝入り。身体の関係に至っていなかったことは幸いかもしれない。


(だって、なんか、裸の写真とか撮って脅されたりとか、そういうのあったらヤだし)


 それでも、松下の言葉は大きな傷となって叶恵に残っていて、「どうせ誰にも相手にされない」はエコー付きで常に反響している。

 別れたその日はバイトが入っていて、とんでもなくひどい顔をしていたらしい叶恵は、店長夫人である墨田すみだ奈津なつに心配され、洗いざらい暴露する羽目になってしまったので、破局事件は皆に知られているところだ。



「松下先輩、あんたみたいな、いかにも男慣れしてなさそうなのを相手にするの好きなんだよ。初物好きって言われてて」

「はつもの?」


 年が明けて最初に水揚げされるマグロの競売が頭に浮かぶ。


「……私はマグロじゃない」

「初めてならそんなもんじゃねえの? あ、いや、俺もよく知らねーけど!」



 慌てたように言葉を付け加える男に、叶恵も言う。

「マグロ、あんまり好きじゃないから私も食べないんですけど」

「は?」

「え?」


 問われて、問い返す。

 マグロが苦手でどこが悪い。日本人がみんな大トロが好きとか思うなよ。


寿ことぶきって名前のせいか、寿司好きだといじられますけど、たしかに嫌いじゃないですけど、赤身は苦手なんです」

「……あー、うん、わかった。俺が悪かった。忘れて」


 何が『わかった』のかはわからないけれど、叶恵は頬を膨らませたまま、ふんと息を吐く。初対面の男に失礼な態度を取られて、これは怒ってもいい案件のはず。

 いや、正確には初対面ではなかった。名前も知られている相手だった。

 そういえば、こちらは相手の名を知らない。


「あの、みついミートさん」

「なんで店の名前なんだよ。そこは三井みついでいいだろ」

「あ、みついって苗字だったんだ」

「知らねーのかよ。姉貴と一緒にいるくせに」

「奈津さんは墨田だもん。旧姓なんて知らない」

「――まあ、たしかに」


 頷く姿を見ながら、叶恵は冷めつつあるココアを飲む。ミルクと砂糖がたっぷりなのか、咥内が甘みで満たされた。バイト先の喫茶店で飲むココアはこんな甘くない。甘いことは甘いけれど、あとに引かない甘さなのだ。

 いったん置いて、今度はボールペンを手に取る。さっさと名前を書いてしまおう。



 寿叶恵


 なんとも、おめでたい字面である。苗字が寿なうえ、叶って恵まれるときたもんだ。

 我が親ながら盛りすぎじゃなかろうかと、叶恵は人生何度目かの疑問をくちに乗せる。


「いいんじゃない? それも親の愛だろ」

「名前も思考回路もおめでたいなって、よくバカにされましたけどね」

「そういうことを平気で声に出すほうがバカなんだよ。俺なんて、秋に生まれたからアキオだぞ」


 そう言って、男は机上のボールペンを取り上げると、傍らのメモ用紙に文字を書き始める。


 三井秋生


 意外と丁寧な字が並び、それが彼の名前なのだとわかった。



「そういえば、奈津さんは八月一日生まれだっけ。だからナツだったり?」


 叶恵の誕生日が七月末日ということもあって、バイト先で一緒にお祝いをしてくれた。本当に良いバイト先に恵まれたと思っている。

 大学に入学して数ヶ月後に見つけたバイトだったが、二年目も祝ってもらっていて、なにか恩返しができないものかと思う日々だ。


「あ、そっか。恩返しになるかな」

「なにが」

「これ、宿泊券。店長たちにはずっとお世話になってるから。でもお店をやってると難しいかな」

「そんなことねーんじゃねーの? 年中無休を謳ってる店じゃねーし」

「じゃあ、次のバイトのときに奈津さんに――」

「あれ、秋? やだ、女の子と一緒にいる」


 背後から響いた声に、目前の秋生あきおがあきらかに動揺した。人間こんなに顔に出るのかと言わんばかりの狼狽ぶりに、叶恵はポカンとする。


「こんにちは、こいつの姉の――え、叶恵ちゃん? うそ、ほんとに?」

「あけましておめでとうございます、奈津さん」


 ついさっきまで話題にしていた相手がやってきて、内心で驚きつつも叶恵は頭を下げる。新年の挨拶も早々に、奈津は弟である秋生に詰め寄った。


「ちょっと、いつのまにデートに誘ったの」

「誘ってねえ!」

「じゃあ、告白ほやほや? 叶恵ちゃーん、こんな弟だけどよろしくね。カッコつけてるくせに、ご覧のとおり超ヘタレでさ。叶恵ちゃんに彼氏ができて相当へこんでたけど、手ひどくフラれたって知って、でもそこにつけこむのは男としてどーのって煮え切らなくて。なにが男として、よね。一年以上片想いこじらせてるくせに、いまさらなに言ってんのって話でさあ」


 ペラペラと朗らかに続ける姉に対して、弟のほうは頭を抱えて突っ伏している。ちらりと覗く耳が赤いのは、寒さのせいではないだろう。


「奈津、そのへんにしとけ。秋くんが死んじゃう」

「……もう死んでる」


 正月用の紅白袋を持ってやってきたのは、奈津の夫にして叶恵の雇い主であり、秋生の義兄。

 彼の登場により奈津のテンションが下がり、やっと普通に会話ができる空気になった。

 もうこの流れで聞いてしまおうと叶恵は賞典袋を見せて、「店長。温泉旅行、興味ありますか?」と問いかけた。


 特賞だったこと。

 福引に使った引換券は喫茶店の買い出しで集まったものでもあり、自由に使っていいとは言われたけれど、こんな豪華なものが当たってしまっては気が引ける。

 そして、そもそも誘う相手に苦慮していることを付け加え、掲げるように進呈する。


「秋と行けばいいのに」

「それはちょっとハードルが高いし、秋くんの神経が持たない」

「いいからもう帰れ」


 突っ伏したままの男が唸り、義理の兄はすべてを心得たとばかりに肩を叩くと、妻を連れて去っていく。嵐のような夫婦を見送って、叶恵は未だ顔を上げない秋生に声をかけた。


「すみません、なんか誤解されちゃったみたいで」

「寿さんが謝ることない。むしろ俺が謝らないといけない」

「大丈夫、奈津さんには誤解だって言っておくから! たしかに私は恋愛とか疎くて、松下さんのことも、そもそも私が勘違いしちゃったのが悪いんだし、好きとか言われたわけでもないのに彼女とかそんなわけないのに、ほんとバカで、これだからおめでたい思考しているって言われちゃう――」

「好きだから! 俺は、寿叶恵って子が好きだから、姉貴の誤解じゃないから!」


 好きって、なにを? と、反射的に言いそうになって。しかし顔を赤くしてまっすぐこちらを見つめる秋生に、くちをつぐんだ。

 じわじわと熱くなってくる。おかしい。ここ、こんなに空調効いてたっけ?


 秋生はメモ用紙を取って何かを書きつけ、一枚取って叶恵の前に置くと、立ち上がった。


「これ俺の番号。俺はバイト始めたころから寿さんのこと見てたから、ずっと好きだったから。その、まずは友達でいいので、嫌じゃなかったら連絡欲しい。あと、店に来てくれたらコロッケぐらいいつでも奢るから」


 早口で告げると秋生は立ち去り、叶恵はまだぼんやりとしながら残っているココアを飲む。甘い。



 好きだから。



 衝撃の言葉はしばらく脳から離れそうにない。

 元彼の発言があっさり消え去ってしまった自分は、お手軽すぎるのでは。

 告白というのは、もっとロマンチックなものだと思っていたけれど、あんな唐突にやってくるものなのか。


(唐突じゃないか。ずっとって言ってた……)


 紅潮する頬を抑える叶恵に、店内放送が朗らかに新春を告げた。



 おめでとうございます。

 良き一年の始まりとなりますように。



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恋初め 彩瀬あいり @ayase24

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