母の口癖

石野 章(坂月タユタ)

母の口癖

 私は三十八歳にして、文学の神から未だ一行たりとも採用されぬ女である。


 神はどうやら、私に対しては慎重な態度を取っているらしい。彼は私の原稿を眺め、「うーむ」と顎を撫でながら、ほんの指先ほどの希望だけを残して却下する。実に意地が悪い。


 そんな私のもとへ、母が倒れたという報せが届いたのは、梅雨入りの曖昧な午後のことだった。


「お母さんがね、倒れはったの」


 電話の向こうで、親戚の声が少し湿っている。私は「そうなんだ」とだけ返して、スマホを耳に当てたまま、しばらくカーテンの揺れを眺めていた。


 父が亡くなってから、母はずっと一人で暮らしていた。にもかかわらず、私は仕事とも言えぬフリーター生活を盾に、帰省を延々と先送りにしてきた。親不孝と言われれば、まあ、そうだろう。返す言葉もない。仲が悪かったわけでもなく、ただ、帰る機会をいつの間にか失っていたのだ。機会というのは生き物のようなもので、一度逃すと、もう戻ってはこない。


 だから私は、ようやくそのしっぽを掴んだような気持ちで、荷造りを始めたのだった。


 実家は京都のはずれ、山と住宅地の境目にある。母は入院していた。病院の白いシーツの上で、私を見つけると薄い笑みを浮かべる。


「来たの。えらいこっちゃねえ」


 その言葉づかいが、懐かしいというより、どこか照れくさかった。


 母は昔から、なにかにつけて「えらいこっちゃ」と言う人だった。炊飯器のスイッチを入れ忘れても、隣の犬が吠えても、テレビが急につかなくなっても「えらいこっちゃ」。万能感嘆詞である。


 大学を出て上京し、十数年も経つうちに、そんな母の語彙は私の生活圏から完全に駆逐されていた。だから、久しぶりにその口癖を耳にすると、その間の抜けた調子がどこか愛おしくて、思わず笑いそうになった。


 それからしばらくの間、私は母の看病の傍ら、病室でノートパソコンを開き、新人賞に出す小説の執筆に取り組むことにした。病院の消毒液の匂いと、電子音のリズムが、妙に創作意欲を刺激するのだ。


 母は時折、私の肩越しに画面を覗きこんでくる。


「そんなに打って、字は逃げへんのに」


「逃げるのよ、締切があるの」


「そらあんた、世の中に締切ほどあてにならんもんはないで」


「母さん、審査員の前でも同じことが言える?」


「審査員さんがあてにならんのか」


「ちがう!」


 病室は静かで、会話だけが滑稽に響いた。母は咳き込みながら笑った。


 それから数週間、母の容体はゆるやかに悪くなっていった。私はほとんど毎日、病院へ足を運んだ。


「今日も書いてはるの?」


「うん、まあ」


「どんな話や」


「世界の終わりを三回迎える猫の話」


「なんで三回も終わるんや」


「一回じゃ気が済まなかったから、だと思う」


 母は少し黙って、それからぽつりと言った。


「ようわからんけど、あんたらしいわ」


 母が眠っているあいだも、私は黙々と文字を打ちつづけていた。機械のキーボードの音だけが、病室の静寂を小さく刻んでいる。


 夢中で書き進めているうちに、ふと妙な違和感を覚えた。主人公が、いつのまにか「えらいこっちゃ」と口にしていたのだ。おかしい。私はそんな言葉を使ったことがない。だが、消そうとすると、どこか惜しい気がした。私は結局、何も直さず、そのままにしておくことにした。


 母は翌週、静かに息を引き取った。あの人の穏やかな声をもう聞くことはできない。けれども、病院を出るとき、私は奇妙なほど落ち着いていた。というのも、母の声がまだ、私の頭のどこかで響いていたからだ。


「忘れ物したらあかんで」


「夜、冷えるからもっと着込まんかい」


「その髪型、ほんまに似合ってる思てるん?」


 私は一人で頷きながら、帰路についた。


 それから半年が経ったある日。出版社からメールが届いた。新人賞の結果である。私はこれまで、幾度となく同じようなメールを受け取ってきた。大抵は「残念ながら」という一文で始まる悲しいお知らせだ。


 だが今回は違った。


「受賞おめでとうございます」


 私は読み間違えたのかと思った。だが何度見ても、同じ文字列がそこにある。私は思わず声を上げた。


「えらいこっちゃ!」


 ……しまった、と思ったが、もう遅い。


 私の受賞作は、小さな新人賞にしては妙に評判が良かった。雑誌には短い紹介記事が載り、批評家は「独特の語感と人懐こい文体」と評した。


 その「語感」とやらが、どこから来たのか、私は知っている。母の口癖、穏やかな声、語尾の伸ばし方、ため息混じりのイントネーション。全部、私の文に染みついている。まるで、母が私の体のどこかに居を構えて、いまも小声で文章を指図しているようだ。


「そこ、もうちょい優しく言いな」


「この人、ほんまに恋してるんか?」


「うーん、ちゃうなあ」


 私は机に向かって言い返す。


「母さん、もうすぐ締切なんだから黙って」


「締切ほどあてにならんもんはないで」


「うるさい!」


 それでも、母の言葉は止まらない。でも、悪くない。むしろ、安心する。


 あの人はもういないけれど、私の作品の中で、いまも確かに息をしている。

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母の口癖 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552

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