第一話【口裂け女はジェンダーフリーの夢を見る】 第二章:誰かが言ってた
シャッター街の外れに、小さな店が一軒、ひっそりと建っている。
控えめな木の看板には、手書きで「古今雑貨 つづら堂」と書かれていた。通りに面したガラス戸の奥には、古い品々が積み重なっていて、中をのぞいただけでは何の店か分からない。軒下の季節外れの風鈴がかすかに鳴って、通りに短い風を知らせる。
店の中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、古い木の匂いが静かに満ちていた。ガラクタとも骨董ともつかない雑多な品々が棚に並び、音もなく時が積もっているような空間だった。
そこは、時田修平が営む昼下がりの「古今雑貨 つづら堂」には、いつも通りの空気が流れていた。
古い神棚の下には使われていないオルガン、レジ脇には明治期の鉄アイロンと、昭和アニメのキャラが描かれたグラス。天井から吊るされた竹籠にはなぜかレコード盤がぎっしり詰まっている。
古物とリサイクルと、ちょっとした気まぐれの寄せ集め。雑然としているのに、不思議と居心地がいい。まるで、拾い集められた“語られなかった物語”たちが、静かに棲みついているような店だった。
それらの“古いもの”たちに囲まれるように、店の奥の一角だけが妙にカラフルだった。ピンクや水色のポーチ、動物の顔をしたキーホルダー、にこにこ顔の文房具。まるで別の店のワゴンがそのまま迷い込んできたような光景だった。
そこに貼られた手描きのポップには「かわいいは正義!by空」と書かれている。
「……やれやれ」
修平はレジ越しにちらりとその一角を見て、苦笑を漏らした。あれは数か月前、空に「ちょっとだけでいいから!」と押し切られた結果だ。その“ちょっと”は、いつのまにか棚二段分に増えていた。
そんなファンシー空間の仕掛け人は、今まさに脚立に乗って棚のほこりを払っていた。
制服の上にエプロンを重ね、髪をシュシュでまとめた高校生の少女。明るい茶色の髪を肩口で結び、日に焼けた肌にくっきりとした目元と、よく通る声。せわしなく動く手つきと、ちょっと雑な言葉づかいが、自然と“元気”という印象を与える。
脚立から降りた空が、タオルを畳みながらぽつりと言った。
「あ、そうだ店長。昨日の話、覚えてます? あれでちょっと思い出したことがあって――」
「ん?」
「同級生で、ちょっと気になる話してた子がいて。たぶん、例の“口裂け女”の話なんですけど……“男の”ってついてました」
修平はガラス越しに差し込む午後の日差しを手でよけながら、口元に軽く笑みを浮かべた。
「おお、それはいい。“おもしろい話”ってやつだ」
「いま学校帰りで、近くまで来てるって言ってたんで、ちょっと呼んできますね」
「もちろん。あのイス、客用に空けといて。座って話してもらえばいい」
空は「ありがとうございます」と言って、スマホを取り出しながら裏手の勝手口のほうへ向かった。
修平は、棚から古い灰皿をどけ、椅子の背にかけてあった上着を片付けて、即席の“語り場”を整える。
「こういう話はな……向こうからやってくるんだよ」
誰にともなくそう呟いた声には、ベテランの現場捜査官のような、少しばかりの期待と手慣れが混ざっていた。
***
修平がイスを用意してから、それほど時間はかからなかった。
ガラス戸が軽く開く音がして、制服姿の少女が空と並んで入ってきた。肩まで伸びた髪をヘアピンで留めた、大人しそうな印象の子だった。どこか所在なげに目線を泳がせながらも、空に軽く背中を押されて一歩踏み出す。
「こんにちは……」
「うちのクラスの柚木です」
空が紹介しながら、彼女の背中をそっと押して椅子へと促す。柚木と名乗った少女は、小さく頭を下げてから、促されるまま修平の前に腰を下ろした。
修平は小さく会釈し、棚の奥から紙コップを三つ取り出した。
「コーヒーでいいかい? あとはウーロン茶か紅茶くらいならあるけど」
「じゃあ、私、紅茶がいいです。店長のコーヒー、濃いし」
空が即答する。柚木は少し戸惑ったように、それに便乗した。
「……あ、私も、紅茶でお願いします」
「はいよ」
お湯を沸かしているあいだ、空がカウンターの中からそっと修平に小声で言った。
「本人は、けっこう気にしてるみたいで。なんか、“見た”って言う子が急に増えてるって感じるらしくて」
「“感じる”、ね。そっから先が肝かもな」
そう答えながら、修平は湯気の立ち始めたポットに手を伸ばす。
カップを手にして席に戻ると、修平は笑みを浮かべたまま声のトーンを少しだけ落とす。
「まあまあ、そんな緊張しないで。こっちはただの、変な話好きの古物屋さ」
柚木は遠慮がちに笑ったあと、ちらりと空の顔を見る。空が小さくうなずくのを確認してから、おそるおそる口を開いた。
「……私が見たわけじゃないんですけど。昨日、塾で一緒だった子が言ってて。その子の友達が駅の近くで変な人を見たって……マスクしてて、傘を持って立ってたって言うんです」
「ふむ。どんなふうに変だった?」
「顔が、マスクの下から……裂けてるように見えたって。その子の友達も、別の場所で似た人を見たって言ってたらしくて……女の人だと思ったけど、声が男みたいだったとか、歩き方が妙に男っぽかったとか……そういう話が、いろんなところで出てるみたいで」
修平は黙って頷きながら、コップを両手で包むようにして熱を逃していた。
「最近、そういう話が急に増えた気がして……最初はよくある怖い話かなって思ってたんですけど、駅の名前も具体的だったし……だんだん、本当にいるんじゃないかって……」
柚木の言葉に、空がそっと言葉を添えた。
「本人は、だいぶ不安だったみたい。だから“詳しそうな人がいる”って言って連れてきたんです。店長が前に言ってたでしょ? “語りって、人を媒介にして形を持つ”って。よくわかなかったけど、こーゆーことなのかなって」
「なるほどね」
修平は少し目を細めると、空気を和らげるように言葉を選んだ。
「ちなみにさ、柚木さん……それ、最初に誰から聞いたの?」
「えっと……直接は、同じ塾の子から。でもその子も“友達が見た”って言ってて……どこが最初なのかはわからないんですけど、すごく近くで起こってる気がして」
「うん、それでいい。というか、それが普通なんだ」
修平は笑って、紙コップを指で回しながら言った。
「都市伝説ってやつはね、“誰かの友達の話”として語られるのが常とう手段なんだよ。怖い話って、“自分にも来るかもしれない”って思わせることで成立するから、ぜんぜん知らない誰々じゃなくて、“知り合いの、そのまた友達”くらいの距離感で話される。……だから、柚木さんが聞いた話も、そういうかたちで広がってるだけ。大丈夫、よくある構造だよ」
柚木は少しだけ表情を緩めた。
「……そうなんですね」
「そうそう。でも、逆に言うと――それって、“語りが形を持ちはじめてる”ってことでもあるんだ」
修平の声が一瞬だけ低くなる。
「誰かが語ったことで、形を与えられた何かが、少しずつ“怪異”として流通し始めてる。たぶん、その“知り合い”が語ったときには、もう“信じてもらえる空気”ができてたんだ。都市伝説ってのは、そういう“語りが根づく場”にしか成立しないからな」
柚木は、少しだけ息を呑んだ。その表情には、不安と興味とが微妙に混じっていた。ふと、通りに面したガラス戸の外で、風鈴が一度だけかすかに揺れた。何かが風に触れたような、けれど風は吹いていない、そんな気配だった。
「“語りが根づく場”って……」
柚木が言いかけると、修平は天井を仰ぐようにして首をかしげ、わずかに笑った。
「要するに、“語りたい人たちが集まってる空気”のことだよ。“マジで見た”って誰かが言ったときに、“うそだろ”じゃなくて“あ、聞いたことある!”って返す場所。そういう空気がある場所には、怪異は住み着く。そいつは場所じゃなくて、雰囲気に宿るんだ」
柚木は、ぽかんとした顔でうなずいた。言葉の意味は理解できても、その“空気”まではまだ実感できていない様子だった。
そんな柚木の反応を横目に、空は椅子の背にもたれながら、ぼそっとつぶやいた。
「……でも、たしかにちょっと変だよね。今回の話。語りの広がり方とか、“誰かがいた”みたいな空気とか」
「うん?」
「なんか、今までと“ノリ”が違うっていうかさ。もっと軽くて、“口裂け女ってヤバくね?”みたいな感じだったのに、今の話って、“いるらしいよ、マジで”って、ちょっと本気っぽい」
修平は、少し目を細めた。
「……空、お前、そういうの、気づくの早いよな」
「伊達に都市伝説好きじゃないんで」
空が肩をすくめた。
「じゃあさ、頼んでもいいか?」
修平はそう言って、椅子の肘に腕を乗せながら、わざとらしく軽い声で続けた。
「お前の学校あたりで、こういう話、他にも出てないか調べてみてくれ。“男の口裂け女”の噂、どこまで広がってるか」
空の目がわずかに輝いた。
「……いいよ。なんか面白くなってきたし。ちょうど昨日も、そういう話してた子いた気がする。駅の話とか」
「SNSも見てみろ。“語りが広がる”ってことは、“舞台”も必要ってことだ」
柚木が、それを聞きながらやや所在なげに身をすくめた。空はすぐに気づいて、笑って肩を軽く叩いた。
「ごめんね、柚木。店長こういうの、気になりはじめるとまわり見えなくなるタイプなんだ。研究熱心というか、語りバカというか」
「……いえ、全然、だいじょうぶです」
柚木は少しだけ笑って、カップを両手で包み込んだ。
「変な話だと思ってたのに、なんだか……変じゃない気がしてきました」
「それが“怪異”ってもんさ」
修平がコップの水滴を指でなぞりながら言った。
「日常のすぐ隣で、形を持たないまま、語られるのを待ってる。語られた時点で、“それ”はもう、誰かにとっては実在になっちまう」
空気の温度が、少しだけ下がったような気がした。ガラス戸の向こうでは、動くものの気配はないのに、なぜか“何か”だけが残っているような、説明のつかない静けさ。店の奥で、古びた柱時計が、ひとつだけ音を鳴らした。その音が、さっきまでそこにいた“語り”をそっと封じ込めるように、ゆっくりと空間の奥へ沈んでいった。
その話、どこで聞いた? ―構造怪異譚― 宮本ヒロ @kikutsugu
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