三日後。百済に着くと、上役らしい男が増えていた。彼は石布に頭を下げ、「十日以内であれば停泊地はご用意できます」などとすんなり答えてみせた。

「それはありがとうございます。大変助かります」

 石布は続けてなにか言おうとしたが、一度考え込むと朝貢品の見張りをしていた使節団の一員を呼んだ。そして、上質な布を一つ持ってこさせる。

「一つ、お願いがあるのですが聞いていただけますでしょうか」

「ええ」

「この錦と米を交換してくださいませんか。しばらく足止めをくらっていたので、食糧が少ないのです」

「······それでしたら、足止めさせてしまったこちらの不手際ですから、錦は要りません。米はいくらでも出しましょう」

「いえ、お気持ちはありがたいのですが、この港も嵐の影響を受けたのでしょう。それなのに米を貰うのは申し訳ないですから。少しでも足しになるよう、受け取ってください」

 役人は一つ迷うような素振りをした。しかし、「ここの住民からの信頼を得るのも皆様の仕事なのでしょう。我々のために信用を失わせることはしたくありません」という石布の言葉を受けると、おずおずと錦を受け取って引き下がった。しばらくして、米の入った袋が荷車に乗せられて運ばれてくる。石布は丁寧に礼を言うと、荷物番の船員へ積み込めとの指示を出して大使の部屋へと戻った。博徳たちのことも連れて、である。居室の扉が閉められると、一番に口を開いたのは稲積だった。

「石布殿。錦を渡して良かったのですか? せっかくタダでくれると言っていたのに」

 稲積はずっと気になっているようだった。石布の側へ寄って行くと、隣合うように腰を下ろす。

「······タダより怖いものはありません。外交交渉においては」

 石布は先程の凛とした様子とは打って変わって、いつもより白い顔で下を向いている。

「我々が百済経由で唐へ行こうとしていることは、ひと月前、筑紫に返事が来た時点で既に中央へ伝わっていたでしょうから。状況に合わせて色々と策が練られていたのでしょう。その返事が、恐らく対馬にいた三日のうちにこちらへ来ていた」

 先程対応した役人がその使者か。皆が石布の方へ身を乗り出す。

「中央からの指示は、停泊地と支援物資の提供だった。しかも、交換条件なしに······です。これはきっと、タダにはならないでしょう。見返りがないとは限りません。恩を売られそうになったのです。我々は」

 そこまで言われると、博徳も彼らの真意が分かった。半島の情勢は刻一刻と変わり続けている。そして恐らく、百済は劣勢になり始めた。この一ヶ月で。

「最悪、戦に利用されるかもしれませんね」

 博徳が言うと、石布はこくりと頷く。

「唐がどう動くか分かりません。しかし、百済が押され続ければ必ず倭へ救助要請が来ます」

「そうか、その時に僕らへの恩を返せと言われるかもしれない」

 掴んだらしい吉祥がポンと手を打った。

「国の使節とはこういうことか。僕らへの恩も仇も、やがて国そのものへの恩と仇になる」

「それが厄介なのです、この任務は。その点、朝貢品である錦を勝手に渡した私の行動も頷けるものではないのですが、戦が始まれば皆が徴兵されます。それならば、錦やお叱りの一つや二つ、惜しくもない」

 稲積はそんな石布の言葉を聞いて、やられたと言いたげに笑った。快活な彼にしては珍しく、どこか泣き出しそうな笑みだった。

「やっぱり、石布殿が大使でよかった。僕なら何も考えずに米を貰ってたかもしれない」

 稲積は安心したように石布へもたれ掛かる。

「そう思うと、あの役人への返しも見事だね。百済が徴兵をしていると思うと、さらに米を出せだなんて言われるとね。ここの住民からも不満が出るだろうしね。そうやって逃亡なり反乱なりされれば困るのは百済の朝廷だ。役人として首を飛ばされたくもないだろうし、錦を預かって住民に渡しておくのは得策か」

「上手くいくでしょうかね。裏目に出なければいいですが」

「その時はその時ですよ。責任は分け合いっ子だ」

 稲積が笑えば、吉祥も「そうだそうだ」と肩を揺らす。

「大使を支えるのが副使以下の役目だからね。僕らの行動が大使殿の責任に繋がるように、大使殿の判断は僕らの判断にもなる。お互いに離れられないんだ。船から降りられないもの」

 吉祥は苦笑するように石布へ向き直る。

「僕は頭も良くなければ、副使に見合う器でもない。これまでだって大使殿に任せっきりだったじゃないか。そんな頼りない男だけどね、使いっ走りは得意だよ。姉に散々こき使われてきたからね。石布殿は優しいからあんまり命令なんてしないけれど、いくらでも使ってください。僕は貴方の判断と決断力を素晴らしいと思っている。ついて行きたいと思わせるのは才能ですよ。うん、間違いない!」

 吉祥はへへへと笑った。博徳は、彼を面白い男だと思いつつ、唇をゆるめて石布へ頭を下げる。

「石布殿の推測、確かだと思います。先日、百済から倭へ逃げていく小舟をいくつか見ました。乗っていたのは老人や女性、子供たちです。既に徴兵が進んでいるのも、戦が始まっているのもその通りなのでしょう。自信を持って唐へ参りましょう。貴方様になら、私もついて行きたい」

 石布は驚いたように皆を見ていたが、少し潤んだ瞳を隠すよう瞬きをして微笑んだ。葛城らが、石布を大使にした理由が分かった気がする。始めは自信なさげな顔をしている男だと思っていたが、観察眼も、判断力も、責任感も、人を想う心もある。彼にならこの船の全ての舵を任せても良いかもしれないと思った。

 

 


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言の葉に咲く 鹿月天 @np_1406

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