そうして翌朝、船は港をたった。百済の役人は一つ安堵するかのような、しかしどこか縋るような眼差しで引き返す船を見ていた。

 博徳らの船に隠れるようにして、幾つか粗末な小舟も陸を離れた。そこにはやはり、老人や女子供が乗せられていた。今更になって、百済からの舟が増えていたという筑紫のことを思い出す。百済の朝廷が倭との接触を控える傍ら、健康な男子以外がひっそりと倭へと流れている。その意味を考えれば、やはり新羅と百済の国境付近で戦が始まっているのではないかと思えた。そう考えているのは、博徳だけでは無かったようだ。

「もはやどちらから攻め始めたなどという話は、勝った方に委ねられるのでしょうけれど」

 どうにか船を泊めさせて貰えることとなった対馬の一角。国司やあたい氏に貸してもらった館で、石布がぽつぽつと語り出した。

「恐らく、百済から新羅への侵攻も既に進められているのでしょう。今の百済がどこまで唐と交流しているのか未知数ですが、地の利で言えば圧倒的に新羅の方が唐に近い。『百済から侵攻された』との報告をしてしまえば、唐へ援軍を要請することも出来るのでは?」

 ここで、我々からも「百済が侵攻したらしい」との報告が上がれば、有利になるのは新羅である。先に国境を犯したのがどちらだったにせよ、実際に百済からの攻撃も行われているのであれば、やまとに内情を知られて半端な報告をされるのはまずいのではないか、と石布は言う。

「新羅との交戦が落ち着くまでは、我々を国に近づけたくない。加えて、我々が百済の現状を抱えて新羅の港に立ち寄るのも拒みたい。そんなところではないでしょうか」

「なるほどなぁ。逆に、新羅から見た僕たちは百済の港の様子を知る一種のご馳走なわけで。······いや、でもそうか。もし仮に、新羅から侵攻が始まっていたのだとすれば、唐への援助要請がしにくくなるか。百済に攻められたから助けてくれという口実が使えなくなるからね。加えて、僕らが帰る時は、新羅の港で得た情報を百済で流される懸念も生まれる。······あれ? もしかしてどっちからみても不安材料?」

 これは深刻だと言いたげに、吉祥が動きを止めた。

「でも、僕らは新羅の海岸沿いを通らなければならないよね。そうでなきゃあ、海の上を突っ切るしかないよ」

「風さえ上手く吹けば行けるんじゃないのか? 案外海の上の方が水夫たちの仕事がなかったね」

 稲積が言うのも確かにそうで、岸から離れてしまえば船を漕ぐ必要はあまりないようだった。水夫かこたちが船を動かしたのは発着時くらいのことで、他はほとんど風任せに次の岸を目指してきた。

「明日、舵師や水夫に相談してみよう。行けそうならばその方が安全かもね」

 そんな吉祥の言葉を受け、その日はお開きとなった。翌日話を聞いた水夫たちは、揃って難しそうな顔をした。

「いやぁ、副使さまたちの仰りたいことも分かるんですけどね」

「逆に風任せだからこそ、怖いんですわ」

「我々が舵をとれないってことは、どこに流されるか分かったもんじゃない。この前の白雉はくちの船だって······」

「お前っ!」

 そこで他の水夫が言葉を遮った。彼は日に焼けた顔を心なしか青くして「はは」と愛想を笑いする。

「何でもねぇんです、何でも。でも俺らは頷かねぇでおきます。余程星読みに長けた学者か、天に愛された神官でもいるなら考えますがね」

 誤魔化すようにして逃げていった水夫の背中を見ながら、博徳は長丹ながにの話を思い出していた。あの水夫が口にした「白雉の船」とは、恐らく高田根麻呂たかたのねまろらが乗っていた白雉四年の第二船だ。あの時、長丹は言っていた。根麻呂たちは「別の道」を模索させられていたと。先程の水夫は事の顛末を知っていたのかもしれない。根麻呂らが探していた別の道というのは南にあるらしい。きっとそれが吉祥の言う海道なのだ。島さえあるか分からぬ海原を、ただひたすら風を信じて漂うだけの一か八かの道なのだ。

 四人だけの会談で、長丹とのやりとりを皆に話した。誰もがあの悲劇を覚えていた。博徳のように、ただぼんやりと騒動を眺めていただけだったが、それでも記憶には残っている。根麻呂たちの次を行く結果になるかもしれない。正真正銘「自分たちが」である。彼らがどんな恐ろしい目にあったかなど分からない。しかし、報告したかねが言葉を紡げなくなる程に、恐ろしい旅路だったはずだ。彼らの親族が泣き叫びながら髪を振り乱すのを見た。あれを己の父母や妻子にさせるのかと思うと、簡単に「南を行こう」とも言えなくなった。

「······交渉しましょう」

 石布はそう決断した。

「もう一度、百済へ渡ってみましょう。長居はしません。詮索もしません。ただ、唐まで食いつなぐための米が欲しい。出立の日和を決めるまでの数日が欲しい。それだけは、皆を生かすのに必須です。米は対馬から分けてもらうことが出来そうですが、さすがに一船の分しか出せないそうです。半分と言わず、さらに半分でも良い。少しでも足しが出来るのならと、交渉だけでもしてみましょう」

 このことは各船員たちにも伝えられた。育ち盛りの少年たちはやはり米が欲しいらしい。とりあえずは追い返されることも想像した上で、船は再び百済を目指した。向こうは向こうで話し合いでもしているだろうから、到着は三日後となるようにしておいた。








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