花蕾の径
朝尾羯羊
本稿
手の甲にそよそよと
見しらぬ女にさわられることは、見しらぬ女と目が合うより、もう少したしかなものがある。親しくない女に見つめられるよりも、親しくない女にふれられるほうが、ふれられた方は自分の存在を許しうるものに感じられ、咲き匂う
その手はしばしば、ワニスのはげて木理の浮いた滑っこい
と、周囲の空気がにわかに目方を
わざとならず机の面に
「行こ」
と目顔でうながした。彼のがわから強いてきた緊張に思わずに
彼は見られるようにさし出されたあの横顔の肖像画と同じものを自分の手の甲に見出した。ふだんおのれを
彼女の目に湛えられたいたずらっぽさに媚びはなかった。むしろ片がわしか見せていない月の面輪のほうに、彼はかたくなさという媚びを見出して彼女に
双子の姉は目もとが華やいでいる。磁気を帯びた湖のように、瞳が
美容室の光が隈なさに、鏡のなかの少女と目が合うたびに彼女は自分自身を見それていた。鋏がきわどく鳴り、切紙細工の透かしのように黒い
外がわに与える効果如何に、存在様態のすべてを賭けてしまう危険な傾斜にさしかかっていた。鏡を介しておのが姿に直面し心動かされる、まさにその
現状変更を髪型を変えることに求めるようになると、皮相以下のすべてが皮相の変化の目まぐるしさとうらうえに、硬直化してくる。髪型を変えることで状況は変化をこうむるが、ますます皮相以下の彼女の可塑性は凝り固まってくる。
食事時になって披露に及んだ。
三人がすでに席についている台所に、おくれて現われた彼女のほうを、促そうとして
家庭の話題の中心に自分がいたことは、ごく小さい頃には、もっと多かった気がした。が、帰宅匆々に、母がかけた一言は彼女の夢をおどろかして、空間的な感覚以外のものを、すでにすなおに受けとれない彼女になっていた。
母は髪の手入れについて口やかましかった。いっしょによろこんでくれたかと思いきや、みずからの思い出をさえぎろうとするすばやさで、
「こんな時代はそう永くはつづかないわ」
と言った。美しさをも経るべくして経るものだと言いたげなのがおかしくもあり、かくもすみやかに美しさから醒めてしまえる母が贅沢にも思えた。
花のにふゞに笑まぬとに、すでに喪った時のことを思う
夢みる部分をなくすことがかえって人を恍惚に導いた。
容姿によって人は行為しているかのような感覚に酔う。容姿そのものが行為に似る以上、容姿は消費されるものである。いわんや、容姿は自己自身によって消費せられるものにほかならんや。
朝はすでに考え深げな影の中にあった。
修学旅行を目近にひかえて、三年生は自分たちの躰のなかにこそ、ばねのような力がたわめられているのを感じていた。彼女の浮ついた唇はさなきだにこと問いたげである。廊下のあかるい窓辺に
いつからだろうか。わからない。彼のことは一年生の頃から知っているが、彼の存在がもつ意味が
彼女の場合、内面がさきに行く処まで行って、彼女自身の羽化に待ちぼうけを喰わされていたのではない。だから内面は待つ間の苦渋を知らなかった。内面はからだを引きずらないで、身の
「邨瀬君。修学旅行のしおりに落書きしちゃいけないんだに」
「邨瀬君、落書きとかするんだ。意外」
「見たの?」と彼がたずねた。
「見ちゃった」
「みんな知ってるよ」
「私たちが折角つくってあげたのに、ね」
廊下は雑沓しており、近づくにつれて話は耳に粒立って聞こえてくる。彼の友だちが、
「何の落書き?」と先をうながすと、
「身嗜みのところなんだけれど。二日目の宮島って私服でもよくって、但し『中学生らしい服装で』って書いてあるじゃん」
「うん」
「でね。邨瀬君がそれに続けて、ボールペンで、しかもすごい達筆な字で『中学生らしい服装とは…』」
と、その三点リーダも声に出して言った。
「書き足しちゃったのね」
「え、何、哲学?」
「『シャツ・インすればだいたい中学生』だって」
「それ偏見」
彼女はもうすぐそこに立っている。
彼はこちらを見るのをためらっている。それがわかる彼女は兎のように自由だった。いずれ彼がこちらを見向くことはわかっている。わかりきった結末にそなえて、死角において身をたわめることが面白さに、彼女は夢中になった。
野の花がゆれて、手の甲にしなだれかかるとき、男は誘われているような気持がしてその方をふりかえる。偶然触れ合ったにすぎないことを教えるかのように、花は依然として同じ振幅でゆれつづけ、今度は男の目に触れてくる。
まだ花の固く
「ねえ。
「まだ見てない」
「見せてもらいんよ。ほんと、印刷したみたいな字で、真面目に書いてあんだもん」
「そうね……。私にも見せてくれないかな」
と、女友達のほうへ言い入れながら、目線を引揚げた彼女のほうに、彼がほんの少し瞳を動かすだけで、目と目が合った。
彼の目に映るおのが姿を彼女は見まいとした。彼を鏡の代理に立ててどうするのか。唯彼だけを見るべくして、見られる目になるまいとする、挑むような目附になった。自分の目は姉のそれとはちがうのだと思った。姉の睫毛にかこまれた目は見られるための目であり、その実、凡ゆる場所におのが姿の反映をしか見ていないのだ。
姉のような目になるまい、とは、母がもたらしてくれた教訓である。見るための目と、見られるための目を両つながら持ち、交替を猫の目のようにほしいままにすることが彼女の身上になったのだ。
彼女はまた、別の
挑まれた方は、そのまなざしが、女が自分の影をつかまえる時のまなざしでないことを見て取った。まるで瞳の
各学級には
「いいよ」
また何か知ら黙契が成就して、二人は示し合わせたそ知らぬ顔で、次の結末までしばらくの間、春休みの娯しみに身を委せた。しかし、この
花蕾の径 朝尾羯羊 @fareasternheterodox
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