花蕾の径

朝尾羯羊

本稿

 手の甲にそよそよとさやるものがある。

 見しらぬ女にさわられることは、見しらぬ女と目が合うより、もう少したしかなものがある。親しくない女に見つめられるよりも、親しくない女にふれられるほうが、ふれられた方は自分の存在を許しうるものに感じられ、咲き匂う花圃かほにも負けず競い立つ薫り高い香草ハーブのように自分を感じることができる。その場をしきるかぐわしい風と同化することができそうな気がするのである。

 その手はしばしば、ワニスのはげて木理の浮いた滑っこい手摺てすりにふれるように、気もそぞろに、坐っているところへやってくるのを見ると、彼には坐っていてもらいたいのかも知れなかった。目の下にすっぽり納まる坐位の高さが、彼女には戯れやすいものに映るらしかった。そう思って、試みに彼が移動教室などで一ト足後れて出ていこうとすると、二人しかいない教室では、驟雨がざあっと来そうに、気圧が急降下する。稀薄になった空気を、二人は一トつづきの布地を引っぱり合うように呼吸した。

 と、周囲の空気がにわかに目方をしたかのように、ずんと来て、二人は示し合わせが成就したことを知った。急激な安堵に襲われるがまま、二人共それがなかば大事のあとの小事であるかのように、彼女の手がこちらに向って逃げるようにふれてくるのを、彼は恍惚として待っていればよかった。

 わざとならず机の面にてていた彼の右手を、彼女は握りこそしなかったが軽く重ねるようにふれて、

「行こ」

 と目顔でうながした。彼のがわから強いてきた緊張に思わずに狼狽うろたえてしまったのを、ごまかすためにその目に一途ないたずらっぽさを湛えていた。彼がちゃんと坐っていてくれないとやはり勝手がちがった。むしろこの型を破ってくれることをのぞんでいるかのように、型破りをこそ、彼の明確な意志と読むために、彼女は型を固執していた。

 彼は見られるようにさし出されたあの横顔の肖像画と同じものを自分の手の甲に見出した。ふだんおのれをむなしうすることで他の存在をたしかめることを是とする存在が、ただたしかめられるためだけに存在することを甘んじてうけ入れるともなれば、それはこんな月の面輪おもわのかたわれにすぎない横顔のとまどいを示しつづけるしかないのだった。

 彼女の目に湛えられたいたずらっぽさに媚びはなかった。むしろ片がわしか見せていない月の面輪のほうに、彼はかたくなさという媚びを見出して彼女にならぬ思いがした。女がふれてくるということは、青々としたいさぎよい姿の、白いあなうらから立ちのぼるあのにらのようなにおい――すなわち彼だけが知っている内部世界をよく閉じこめ、周囲に決して気取らせないでおける意志力を証してくれるものだった。しばらくはこんな目安として、彼は彼女のことを思うにとどめていた。


 双子の姉は目もとが華やいでいる。磁気を帯びた湖のように、瞳があししげく通うて、おとずれた人々に手植えの睫毛まつげをたむけさせた。これに比べると、妹のそれは、朝霧のなかにあるように、奥ゆかしげにかすんでいる。鼻すじがくびれて立ち上がると、言いしれずなだらかな眼窩に沿うて、まどかな額をのせた駕がそこで行きなずんだようにかかっている。そんな、ついさわってみたくなるような眉毛が涼しく生えていた。

 目鼻立めはなだちは薄いが、絵にきとらんはところ得で、当たりをつけるのにかなり気を遣うであろう配置の妙があった。いたるところに黒子ほくろが散っており、髪の黒さが、白飛びしたようなうすい顔だちを圧している。ひさしく伸ばしていた髪を切ると、彼女は自分というものの空間をかくする明快な輪郭にしっかりとめざめた。たまたま流感にかかったあとで瘦せていたこともあずかっていた。髪を切って、それが似合っているというだけで、彼女はそこらじゅうさばえすこまかなあぶくのような幸福感で世界を満たしてしまうのだった。

 美容室の光が隈なさに、鏡のなかの少女と目が合うたびに彼女は自分自身を見それていた。鋏がきわどく鳴り、切紙細工の透かしのように黒い房々ふさぶさが小気味よく落ちる。完成した切紙をひろげてみて陶然としていた彼女は、それを美容室の鏡の一角に置きわすれてきたような気がした。ところが帰ってきて、家内にさし入るかぎられた光り、一方向からさす偏狭な光りに顔をかげらせてみても、やはり彼女の顔がもつ輪郭から、目頭を結んだあたりにあつめられる距離にそびやかな均整そのものが築き上げられ、眉が、ふくらんだ鼻翼が、あるいは唇の結び目が、目許にただよう笑まひのにほひにどうじて微笑ほほえみを交わし合うかのようである。

 外がわに与える効果如何に、存在様態のすべてを賭けてしまう危険な傾斜にさしかかっていた。鏡を介しておのが姿に直面し心動かされる、まさにその自家おのれこそが、内がわからてうせられ、疎外されてしまう危険だ。これとてなおも人となりさえすれば、心の壁におのが姿が焼附けられてしまっているために媒介されることで二重写しとなり、恍惚となる。心ゆくばかり尖筆せんぴつを先立てて顔やからだの輪郭を試すように内がわからなぞることもできよう。

 現状変更を髪型を変えることに求めるようになると、皮相以下のすべてが皮相の変化の目まぐるしさとうらうえに、硬直化してくる。髪型を変えることで状況は変化をこうむるが、ますます皮相以下の彼女の可塑性は凝り固まってくる。


 食事時になって披露に及んだ。

 三人がすでに席についている台所に、おくれて現われた彼女のほうを、促そうとしてみむかえた目が、われを忘れてみはられた。たちまち父が、甘い声を出すのはいつものとおりであったが、双子の姉は、ほんの一瞬だが、比較可能な近さにまでせまってきたものに対する、あの、険のある目つきになった。それからすぐに、クラスメイトに対するときのやさしい姉に戻ったが、その場の空間的な感覚から言って、こちらのほうに、力関係にあずかるたしかな手応えがあった。

 家庭の話題の中心に自分がいたことは、ごく小さい頃には、もっと多かった気がした。が、帰宅匆々に、母がかけた一言は彼女の夢をおどろかして、空間的な感覚以外のものを、すでにすなおに受けとれない彼女になっていた。

 母は髪の手入れについて口やかましかった。いっしょによろこんでくれたかと思いきや、みずからの思い出をさえぎろうとするすばやさで、

「こんな時代はそう永くはつづかないわ」

 と言った。美しさをも経るべくして経るものだと言いたげなのがおかしくもあり、かくもすみやかに美しさから醒めてしまえる母が贅沢にも思えた。

 花のにふゞに笑まぬとに、すでに喪った時のことを思う邪推まわりぎ伝染うつると、彼女のかおばせには美しい陰翳がより添うた。濫費からほど遠いが、吝嗇なのでもない、男のナルシシズムとはちがう賢明さが培われた。彼女のおもてを通りすぎてゆく美しい面影おもかげのように窓の反射などに彼女自身を見送った。又の日、学友たちと顔を合わせる頃には、みな、スカートの折目が更互かたみがわりにつくる深いひだのように、彼女の存在を彫りの深いものに感じたのである。


 夢みる部分をなくすことがかえって人を恍惚に導いた。自家おのれとおのが姿とを、なかだちする鏡のあなたにおのが姿があり、おのが姿の外がわにはじき出された自家がある。この事態を回避するためにおのが姿を心の壁にえがくのだが、自家にとって恰好な姿がえがかれることはかなわない。さらば疑雲がたちこめて、必ずやた、形はおのが影を負わず、影はおのが形を追うて、鏡のあなたとこなたとにあいってしまうであろうから。

 容姿によって人は行為しているかのような感覚に酔う。容姿そのものが行為に似る以上、容姿は消費されるものである。いわんや、容姿は自己自身によって消費せられるものにほかならんや。


 朝はすでに考え深げな影の中にあった。濃青こあおの絵硝子のようにはりつめた、秋めいた空から、恩寵のように光りが音もなくひころひ落ちると、通い路にそばだつ物みなが、つややかに濡れたあの箱根細工のような、こちんとした質感を得てきた。風はそそのかすように募り、草生くさふはばねのような力をたわめていた。

 修学旅行を目近にひかえて、三年生は自分たちの躰のなかにこそ、ばねのような力がたわめられているのを感じていた。彼女の浮ついた唇はさなきだにこと問いたげである。廊下のあかるい窓辺にって、彼と、彼の友だちが、数人の女子たちとにぎやかに話しているのが見える。彼女の足は軽躁に動いた。いささかも渋滞しなかった。だから彼女はこれを勇気だとは考えにくかった。可愛らしさの自覚がもたらす存在の軽さがかゆみのように感じられて仕方がないのだった。

 いつからだろうか。わからない。彼のことは一年生の頃から知っているが、彼の存在がもつ意味がかわったというけはいはなかった。

 彼女の場合、内面がさきに行く処まで行って、彼女自身の羽化に待ちぼうけを喰わされていたのではない。だから内面は待つ間の苦渋を知らなかった。内面はからだを引きずらないで、身の置処おきどころない痒みにも似た飛翔の衝動にかえって引きずられはじめていた。つばさを得たかげろうが、かげろうの下へと飛ぶように、彼か、否か、行くか、否か、は撰びないものだった。

「邨瀬君。修学旅行のしおりに落書きしちゃいけないんだに」

「邨瀬君、落書きとかするんだ。意外」

「見たの?」と彼がたずねた。

「見ちゃった」

「みんな知ってるよ」

「私たちが折角つくってあげたのに、ね」

 廊下は雑沓しており、近づくにつれて話は耳に粒立って聞こえてくる。彼の友だちが、

「何の落書き?」と先をうながすと、

「身嗜みのところなんだけれど。二日目の宮島って私服でもよくって、但し『中学生らしい服装で』って書いてあるじゃん」

「うん」

「でね。邨瀬君がそれに続けて、ボールペンで、しかもすごい達筆な字で『中学生らしい服装とは…』」

 と、その三点リーダも声に出して言った。

「書き足しちゃったのね」

「え、何、哲学?」

「『シャツ・インすればだいたい中学生』だって」

「それ偏見」

 彼女はもうすぐそこに立っている。

 彼はこちらを見るのをためらっている。それがわかる彼女は兎のように自由だった。いずれ彼がこちらを見向くことはわかっている。わかりきった結末にそなえて、死角において身をたわめることが面白さに、彼女は夢中になった。絡繹らくえきるが如くんば、こちらをみむかうのが、事情なしには不自然なまでに近づくほどに、そこはたちまち死角になることの面白さだ。死角という最も危険な安全さのなかで、彼女はのびのびとはねをのばし、見られる前の身づくろいに余念がなかった。


 野の花がゆれて、手の甲にしなだれかかるとき、男は誘われているような気持がしてその方をふりかえる。偶然触れ合ったにすぎないことを教えるかのように、花は依然として同じ振幅でゆれつづけ、今度は男の目に触れてくる。


 まだ花の固くつぼめるおもむきに対して、彼は肉慾よりも未熟なくくちだ。日南ひなたに土が焦げついて、瘠せた肉慾がわなないているような匂いを、彼は清潔な白いシャツの下に籠めている。凝縮されて固さを帯びるにいたり、その肉慾がほどけてしまうすんでのところまで、目の前で自分自身をいろい、挑発する彼女は、そのようにして自分自身を一つの見る目たらしめるのである。


「ねえ。依子よッこちゃんも見てなあい? 邨瀬君のしおりの落書き」

「まだ見てない」

「見せてもらいんよ。ほんと、印刷したみたいな字で、真面目に書いてあんだもん」

「そうね……。私にも見せてくれないかな」

 と、女友達のほうへ言い入れながら、目線を引揚げた彼女のほうに、彼がほんの少し瞳を動かすだけで、目と目が合った。

 彼の目に映るおのが姿を彼女は見まいとした。彼を鏡の代理に立ててどうするのか。唯彼だけを見るべくして、見られる目になるまいとする、挑むような目附になった。自分の目は姉のそれとはちがうのだと思った。姉の睫毛にかこまれた目は見られるための目であり、その実、凡ゆる場所におのが姿の反映をしか見ていないのだ。

 姉のような目になるまい、とは、母がもたらしてくれた教訓である。見るための目と、見られるための目を両つながら持ち、交替を猫の目のようにほしいままにすることが彼女の身上になったのだ。

 彼女はまた、別の肖像にすがたをさがしはじめたにすぎないのかもしれなかった。おのが姿ではない別の肖像を。


 挑まれた方は、そのまなざしが、女が自分の影をつかまえる時のまなざしでないことを見て取った。まるで瞳の奥処おくかにある小さながんに彼の存在の全体をしまいこんでしまいそうなまでに貪婪にみはられたまなざしである。

 各学級には流行はやりすたりというものがあり、その子と仲良くしていると、学級の意志決定に深くかかわれるようになるハブが自然に生ずるもので、それが今年は彼だった。何かに乗り遅れまいとして彼の許をおとずれる女子が多いことを彼も知らぬわけではないが、彼女だけが、誰も船を出したがらない漁閑期の暗いさびしい沖から、燈台に向って閃光の秋波を送ってくる、あやしい一艘の船だと感じさせた。

「いいよ」

 また何か知ら黙契が成就して、二人は示し合わせたそ知らぬ顔で、次の結末までしばらくの間、春休みの娯しみに身を委せた。しかし、このくばせを正式にうけとることで、彼は硬い世界において何も得られなくなるのではという虞れをも感じていた。

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