現在純文学が不可能である事由
9)ネット上のcontemporaneous criticsがネット上の文学を批評しないこと
これは文学に限ったことであり、エンタメ方面には一種専従的な批評家がいて、精力的に活動しているのを私はしばしば見かけている。
ネット上で専従的にliterary criticalな活動をする者は、なぜか遠い異国の、あるいは遥かな時代の、世界的に著名な作品の批評を展開しがちである。たとえばドストエフスキーのような。しかし同じネットという盤上で、同時代的に展開されてゐる文学的作品について、彼らは批評を展開しない。彼らcontemporaneous criticsに通有の特徴は現代文学を、況してやネット上に存在する現代文学をかなり自分たちよりも下に見ていることである。下に見ているのであれば、彼らこそ、現代文学の新興(復興?)のために、まさに目の前にしているネット上の現代文学をtete-a-teteに批評してゆくべきなのではないか、とつくづく思う。こと文学的方面に関し、自由という尤もらしい美名にまかせて、何が何だかもうわからないくらいに純文学という枠組みが用をなさなくなってきたのも、彼ら、ネット上のcontemporaneous criticsが仕事をサボっているからなのではないか? 読者による牽制機能が殊に文学的方面では働らいていない。一種専従的なcontemporaneous criticsが自分たちが向き合うべき現場から逃げないことを願いたいものだ。