第2話
第二章
家族
再会
商人根性
過去の戦場
新羅一族
小夜様の本意
印を持つ娘
※ 熊本震災 2016年4月
◇家族
東京に着いた。自宅の前を覆っている築十年の新社屋には数十人のスタッフと、額が油光りしている父親が忙しく立ち回っている。活気があった。企画デザイン室の若い女子社員が増えていて、新しくデザイナーを募集する事を母親が話していた。長男が会社の後を継がずに証券会社に入ることで、大学生の弟と女子短大のグラフィック科に入ったばかりの妹が自社の企画室でアルバイトをしている姿があったが、理久男は弟と妹が会社を継いでくれればいいと思っている。
「お兄ちゃん、えらく長い旅行だったけど、何かいい事があったの?」と妹が探るような顔で聞いた、
「お化けが出た!」と返した理久男に父親が言った、
「何のお化けだ、狐か狸か?」、五十をとっくに過ぎたその顔が変に真顔だったことに理久男は気になった。久しぶりに我が家で夕食をとった後、両親とリビングルームで話をする事になったのだが、早速 父親が祖父のルーツの旅の様子を聞いて来た。父親は祖父と相性が悪く、経営方針で揉め続けて来たことで、祖父のルーツに付いては興味が無いか?又は母親や親しい近所の人達同様、焼け出されて一人生き残った不吉な物語のルーツを探るなどと云うのは、あまりいい事では無いとの意見に賛同しているとばかり思っていたが、実際はそうではなかった。それは過去の空間が今に現われ、それを其々が評価しているのだった。
「理久男、竹田の焼け跡はどうだった?あったのか?」
「あぁ、泊まった旅館の主人と一緒に尋ねたよ!竹田の昔の事を知っているお爺ちゃんとこで分かったよ!」
「そうか、どんな所だった?」
「川の上流で、小さな滝の傍で草ぼう 々 だったよ!」
「他に変わったことは無かったのか?」、理久男はいつものあっさりとした父親とは少し違うものを感じた。
「焼け跡に水がなくなった井戸があったよ。それと・・お祖父ちゃんが子供だった頃の少
年が現れたよ!」父親は驚く様子もなく平然としている。理久男は正直に祖父の亡霊のこと、"小夜様"の存在、そしてその子孫の娘との出会い、相手の歴史の壮大さに恐れと迷いが生じている事を、堰を切ったように打ち明けた。母親は呆然と少し震えていたが、父親は腕を組んで息子を見据えていた。そして徐々に話し始めた。
「実は俺も変な夢を見た事があるんだよ!杉の大木の根に中学生くらいの親父(祖父)さんが立っていて俺に語りかけ、そして焼け跡の事も教えられた。この南多摩地域の工業会クラブの総勢七十名の観光を兼ねた研修旅行で大分に行った時だよな。あれは親父(祖父)さんが九十五才で死んだ翌年で、理久男は中学生だったかな? 吉野梅園を見物して、あの天満神社にお参りした時、丁度花見の時期で、向こうの団体と合同の宴を催す事になって、俺は飲み過ぎてしまって天満神社のお堂に横になって居眠りした時の話なんだよこれは?親父さんに話し掛けられた時間がかなり長くなったと思ったので、眠ってしまって待たせましたね?・・と言ったら、周りが不思議そうな顔をしていたので、あれは確か?数分の出来事だったと思う。」と父親が言った。
「あっ!親父さんもそれ、経験したの?それでお祖父ちゃん、なんて言ったの?」
「最初から俺にはきついんだよ、・・息子よ!お前とは意見が合わなかったが、会社を大きくしたのは認める。潰したら化けて出るぞ!だって!だから俺も言ってやったんだよ!・・今も子供の亡霊として化けて出てるじゃないですか!って?」
父親と祖父との一問一答が始まった。
「実はわしが若い頃、好きな娘がおってな、悲恋に終わったんじゃが、その娘の孫を理久男と添い遂げさせてくれまいか?」
「えっ!それは?理久男はまだ子供ですよ!」
「誰が今、しろって言った!大人に成ってからじゃ!」
「相変わらず突拍子もない事を言いますね!親父さんは!」
「何が突拍子もないだ!お前が融通が効かないだけじゃ!まあ、黙ってわしの話を聞け!悪い話しでは無いんじゃから!」
「はい、ただ、早く言って下さいよ!連れの団体がいるんですから!」
「落ち着け!大事な事じゃから、・・元々、わしが好きじゃった娘は、遡れば岡城主の血を引いているらしくてな、その当時、絶世のお姿と智力に長けたくノ一で城主の寵愛を受けた女人の子孫でもあって、理久男の相手となる娘が五世代目の一番強い隔世遺伝を持っているらしいんじゃ!これがまた大変なじゃじゃ馬でなぁ!それだけ才を現わす可能性が高いんじゃ!」
「ほう〜!それはえらい事になりましたね!今時そんな女性がいるんですか?それはひょっとして、親父さんの想像の中の女性じゃないんですか?」
「そうじゃない!それは本当なんじゃ!」
「で、その娘は理久男といつ?引き合わせるんですか?」
「まあ、慌てるな!理久男が二十歳を超えてからじゃ!わしが引導を渡すから、お前も頭に入れときなさい!」
「はい、わかりました!」と言ってやったんだが!そしたら
「それとな、わしの家の焼け跡が○○川の上流の小さな滝壺の傍にあるんじゃが、お前、行って見るか?」
「団体旅行で来てるから、時間無いから行けないですよ?それと先祖の人たちが焼け死んだ所だから怖いし、可哀想だし、勘弁してください?」
「お前が気が小さいのは誰に似たのかな?婆さんだな?・・それじゃさっき言った事は頼むからな?」
「はい、わかりました、その時は宜しく!」、と最後に言ったんだが?と父親は話しを終えた。
母親は落ち着きを取り戻していたが、
「貴方のは夢なんですか?いやですよ!夢だって!・・夢のことを教えて貰ってもですね?」
「まあ?酔ってうとうとしてたんだから!お前に言ったら、頭おかしくなった!と言われそうでね、黙ってたよ。でも今回、理久男が経験したことで、あの夢も満更では無かったんだ。」
理久男は父親も言う事が少しおかしいと思った。
「お祖父ちゃんがね!僕に語りかけて来たとき、聞いてみたんだ。千夜は岡城のくノ一だった〝小夜様〟の血を引いているのかな?って、そしたら、わしはそんな前のことは知らん!わしが知っとるのは人形浄瑠璃の娘と出会ってからの事だけじゃ!って」
「それはな?お前がくノ一の忍者の血を引いている娘と知ったら怖がって逃げ出すんじゃないかと気を使ったんだよ!お祖父さん?俺はそう思う。」
「貴方のは夢だから余り信憑性は無いんだけど?お祖父様は貴方とか理久男に強い愛情を持ってらっしゃたんですね!私にはどうなのかしら?生前は私、心からお世話させて頂いたんですよ。お祖父様も私の事、本当の娘のようだ!と言って気に入って貰っていたんですけど!それに私、お祖父様の事、好きでした。だって佐田啓二にそっくりでしたもん!優しくて品があって、晩年も素敵でしたよ。婦人会の皆さん、言ってたわ!貴女んとこのお祖父様、素敵ね!一緒に並んで歩くと幸せな気持ちになりそう!って」母親は二人の話の方向を変えさせようと必死になっていた。
「お前なぁ!佐田啓二 々 って、俺は似てないよ。悪かったな!額が丸くて」
「隔世遺伝じゃなくても、血の繋がりが無くても、お祖父ちゃんは家族には皆に愛情を持っているんだよ。弟や妹にも母さんにも?」と理久男が言った。
「ちょっと、それはいいんだけど、相手の娘さん、岡城のくノ一忍者だった人の子孫って?」母親の表情が怪訝そうになっていた。
「どうなの?理久男」
「うん、その子は最初、暴走族のリーダーの妹でオートバイに乗ってて、阿蘇で崖から落ちたのを僕が助けたんだ、ロッククライミングのロープを使って、・・全身革の服を着てたから重症にはならなかったけど、」
母親の顔が引きつった!
「えっ!暴走族?女の子で?怖〜い!」
「くノ一の〝小夜様〟に似てるって云うから、オートバイくらい乗るだろう?」
「恐ろしいわ!私、殴られそう!」
「〝小夜様〟は智力も高い人だったらしいぞ?」
「頭もいいって事よね?何んだか、悪い方にいいんだったら、益々怖い!」
「理久男、お前はどうなんだ?何度か会って話したんだろう?」
「お祖父様はどうしてそんな娘を薦められるのかしら?理久男に、」
「理久男がどう?思うかだよ?」
「理久男は大学を出たばっかりですよ!証券会社にまだ出社もしてないんだから、そんな忍者みたいな子と一緒になれって!」母親が興奮状態になって来た。
「理久男!どうなんだ?お前は?」
「う~ん、僕も良くわからないんだ。その子のイメージが強すぎて、心の中から離れない事は事実なんだけど、お祖父ちゃんに一度怒られた。その子と一緒になる自信がないって言ったら!」
「可哀そうよ!理久男が、そんなの押し付けられて!」母親は涙ぐみそして抗議した。
赤の他人から見ると喜劇のパロディーになるのだが、母親の額には脂汗が滲んでいて、男たちは一種の神秘的女人に対する憧れもあって安閑として拒否意識は無さそうだった。・・
「お祖父様は自分が果たせなかった出会いを、孫の理久男に押し付けてらっしゃるんですよ!」
「まあ 々!親父(祖父)さんはその子は立派な女性に成っていくと言ってたけども、今は淑やかになってるのか?その娘は?」
「事故に会って少しは変わったかも?・・まだ、暴走してるところもあるかも?・・」
「で、その子の兄貴はどうしてるんだ?暴走族のリーダーは?」、
「リーダーの兄は暴走族をやめて、企業のアスリートにスカウトされて福岡に行ったんじゃないかな?病気の母親を面倒見るって言ってたから!」、
「ほう!やっぱり、身体能力の血統だな!その血筋は、 まあ、一度会って見ないと、その娘に」父親の言葉に母親は不安そうに手を頬に当てていた。・・・
翌日早速、一日遅れで証券会社に出社した。出社と言っても本社に出向いて受付に記名捺印して、向かうは関東の研修施設だ。理久男は父親の会社の企画室に数台ある軽自動車に乗り込んだ。ドアの外側に小さな「後藤オーバープリント(株)」の文字が貼り付けてある。理久男は学生時代に、よくこの車を父親に注意されながら私用に使った。其れを真似て弟と妹たちも使いだした。流石に企画室から苦情が出て、社用の賠償保険の問題を指摘されて、弟と妹は臨時社員(アルバイト)として登録したようだった。弟は
「小遣いも入るし、車も使えるし一石二鳥だ!」と要領の良さを強調していたが、一度父親と室長からこっぴどく怒られた事がある。それは弟が彼女を載せて何処かに遠出した時、会社の文字の上に緑のテープを貼って運転していて、〝盗難車〟だと警察官に疑われたことから、警察からの電話を受けた室長は現地まで出掛けて行って疑いを証明して、平謝りをしたのは室長で、弟は一ヶ月の只働きの厳罰を父親から受けた。その事があって理久男もその車に乗らなくなったが、今日から一ヵ月父親の許可が出た。それは理久男の社会人となる餞(はなむけ)だとの言い方だったが、もうひとつ、父親と祖父との確執に対する詫びでもあるのかと理久男は思った。
二人の確執は三十数年前に起こった。祖父は長い労苦を背負いながら、活版と併用してオフセットを導入してやっと中規模に成ろうとする印刷会社を築き上げた時、二十七歳の父親が〝(有)後藤印刷所〟から〝(株)ゴトーオーバープリントコーポレーション〟に社名変更し、活版部を無くして外注としたのだ。還暦を過ぎて、体調不良で二ヶ月ほど検査入院していた祖父は怒りに怒って病院から入院着のままで駆けつけ、言い争いの末、父親(息子)を殴ってしまったのだ。祖父が一番ショックを受けたのは印刷所の基礎を作った活版部を無くした事で、数十年の苦労を共にした年配者の仕事を取り上げてしまった事だった。その跡には高速回転のコンピュータ付き最新鋭オフセット機が置かれていた。それも1台数千万の輪転機が二台、試運転が始まっていた。祖父は営業車に会社の名前を付けることも嫌っていた。
「技術以上の社名をひけらかすな!」の職人気質の一つだった。怒りが収まらない祖父は心筋梗塞気味の胸の痛みを押さえてそのまま病院に再入院したが、改めて家に帰った時は、社名ロゴのゴトーオーバープリントコーポレーションが(株)後藤オーバープリントに戻されていた。祖母に
「お祖父さんのいない間にあんまりじゃないか!お前、お祖父さんは心臓が悪かったんだから、それが心筋梗塞気味になったのはお前のせいだ!」とゴム付き肩たたきで後頭部を殴られたらしい。ことを理久男は最近になって母親から聞いた。
理久男は乗り納めの営業車を使って東北自動車道に入った、軽自動車で高速を運転したのは初めてで、数車線ある中で一番左側の低速車線をゆっくり走るしかなかった。後続車からどんどん追い抜かれて行くのを少し焦る気持ちが有って、
「狭い日本、そんなに急いで何処へ・・・?」と呟いたが思い直した。空気を切り裂く断続的なエンジンの唸り、耳鳴りがして気分は落ちていた。過去の空間が今に現われ、暫く留まりそして其れは過去に戻って行った。理久男は大分を去る時、宇佐神宮の駐車場の陽だまりの中を遊ぶ千夜の眩い光り輝く一つの美しい肉体の衝撃を胸に留めてはいたが、それは、より良き未来に繋がって行くのか?近寄りがたい“小夜様”の流れの中の現実を得ることは出来ないかもしれないとの思いが強くなっていたし、諦める事が現代人として当たり前だとも思った。やっと大人になり社会に出るのは今からであって最初から凄いものを捉えるのは時期尚早で地味な己には不向きであるとも思われた。時間が逆流したとしてもそれは同じだった。あれだけの深い神仏への帰依の告白をした住職のストレートな猜疑心が理久男の精神を下降線に導いていた。
「研修期間は一ヶ月くらいだと聞いている。今日、早く着こうが、遅れようが問題ではない」と自分に言い聞かせながら、ハンドルを握った。高速道路はやはり怖い!しかも軽だ、コンテナを積んだ大型トラックが唸りをあげて追い越す瞬間は車諸とも引き込まれる気がして、竹田の焼け跡で味わった恐怖とどこか似ている。宿泊庵の主人のラングラージープならば全く平気だと云う気がして、泥棒を追いかけた時の優越感とスリリングなデッドヒートが頭の中に再現された。理久男は腹をやられて蹲ったのだが、戦国自衛隊のオーナーは凄かった!世の中で頼りに思える人物は番オーナー(庵の主人の名)、太い筋だった腕の筋肉が目の前にあって理久男は傍にいると癒された。ついでに怪しい男だと思っていた木元先輩も重要な過去を探る道標となっていて、今では自分にとって大事な人間となっているのを思い出した。他人から見た感じとして、祖父も佐田啓二に似ていると言われてどのような気持ちになっていたのか?ひょっとして、同じ優男同士、筋骨隆々としたワイルドな男に惹かれていたんではないかとも思った。しかし優男は野生の男になりたいと思っていても簡単になれないのだが、理久男は優男と見られていてもワンダーフォーゲル部に入って少しは筋肉が付いているので引け目はなくて外見的な野性味に憧れただけなのだ。俳優も見た目は荒々しくても内容は女々しい性格だったり、逆に優男が実生活はハードで男っぽい趣味を持っていたりする事もあるという、意外と真実論を戦わす父親がいて、パラドックス(逆理だけではなく奥に隠された真実を示唆していることもある)という言葉も父親から聞いた。しかしそれは印刷物の中のある原稿だったようで、現在大学生である弟と父親が長いことブツブツ話しているのを目撃すると二人は本当に馬が合って確かに弟が従業員五十数名の会社の跡継ぎに最適だと思われるのだが、数年前デジタル印刷機を設置したのも弟の発案だった?と本人から聞いた。しかし祖父びいきだった母親は格好が似てるので跡継ぎは長男の理久男が安心だと今でも思っている節がある。父親の真意は全く解らず、ただ一人の祖父のルーツを辿る旅の理解者だと云う事だけが判っていて、証券会社勤務に付いても厳しい世界だから、いつかは続かなくなって辞めるかも知れないから、その時は印刷会社で引き取ればいいと、まさに迷い犬をもらい受けるニュアンスで両親が話していた事をグラフィックを目指す妹から耳打ちされたことを思い出した。親子愛を感じない訳ではないが、そんな事を竹田での経験とこの乗り掛かった舟の前では一文に付すのか?一笑に付すのか?判らなくなった。・・・
研修施設は鬼怒川温泉の手前で、東北自動車道を一時間ほど走って、宇都宮ジャンクションで日光宇都宮道を一時間ほど走り、今市インターで降り、そこから国道百二十一号線を三十〜四十分行くと到着、の案内図を助手席に置いて、しかもナビゲーションをセットしてるので、その双方の時間的なものがピッタリ合うかどうかの?何でも無い下らない事を試して見ようと思った。理久男は証券会社に就職を決めた事に付いて考え、混迷する世の中で信じられるものが見当たらず、また見つけようとする努力もしなかったように思えた。印刷会社の跡継ぎをするのは決められた軌道をそのまま進むだけで、それに満足するのは両親には申し訳なかったのだが、耐えられないと思ったからだった。証券の世界と云う経済戦争の真っ只中に入り込んで人間の金に対する一喜一憂を眺め、破産者や自殺者に遭遇し、それを乗り越えながら己の生き様を露見させる自虐的で開拓者的でもある若気の至りを、心理学を専攻している弟に話したら
「兄貴は頭が変だ!物理学と哲学を専攻した手前、もっと正当で普遍的な考え方をした方がいい!きっと何処かの研究所か企業の製作室を選ぶと思っていたのに未来永劫金券が渦巻く世界に入るなんて!」と言われて苦笑いしながら
「真面にそんな事は思ってなくて、お前の心理学を試して見たんだ?」と心で思い、再び鼻で笑って、再び弟から
「やっぱり兄貴は変だ?印刷会社は俺が貰う!」と言われた。しかし弟とは仲が悪いわけではなく下の二人の妹たちも含めて喧嘩した事は皆無だった。特に妹たちの事は小さい時から心から愛していて何故か?色んな事で心配な気持ちになることが多かった。父親から
「お前は目標を持たない人生の流れ者で、成るようになっても、それでもやって行く人間かも知れない?」と、理久男はその事に異存はなく反論もしなかった。自分を変わり者だと数回思った事もあった。それに変わり者の自分が歴史的に凄い血筋の千夜と仲睦まじい関係になれるのは千載一遇で似つかわしくないと誰かに言われ、自分もそのように思っていて、それでも頑なに諦めない自分がいた。・・・
予定通り到着した研修施設はホテル並みだった。赤茶けた岩肌が露出する峡谷の先には右左に鬼怒川温泉の大ホテルが建ち並んでいる、理久男は気分を新たにしなければと思った。研修施設の駐車場には十数台の車しかなかったが、研修に赴く新人は殆んどが電車を乗り継いで来てるものと思われる。受付で名前を言って独身部屋の鍵を貰い、荷物を部屋に置き大ホールに向かった。中はかなりの新入社員でごった返し、講師も数人いて、和気あい 々 ムードで大学の授業に戻ったような感覚、一瞬、昨日までいた竹田の宿泊庵の裏の黒い岩肌が見える峡谷と重なったがよく見るとかなり違っていた。が、何かが違う、開かれた社会への始まりなのだ。理久男はカリキュラム冊子を貰い、女子社員の一団の隣の席に腰を下ろした。一日遅れだが内容は解っていた。最初はビジネスマナーと証券に関する知識の繰り返しだ、後方の席から見渡すと四割は女子社員と見た、数人の女子が笑いながら後ろを振り返り、序(つい)でに遅れて来た理久男に目線を投げている。竹田の風景が過去で、此方の女子たちが現在?逆に竹田が未来だとも考えられる。亡き祖父の生まれ故郷、竹田の跡地を辿る二週間の旅が何故か?長い年月に思えた。“小夜様”から五世代の空間の中から祖父を通して千夜(チヤ)が突然!現われ、理久男を見据えたのだ。それは一瞬の内に崖下から担ぎ上げたうな垂れた黒髪の臭いと陽だまりの中で遊ぶ小麦色の肉体が理久男の画面の中で一つになった。その時、広大な時空の中の時間のズレは錯覚であって世の真の姿は不動の現実である事がぴったりと当てはまった気がした。怯えていた人間の修羅が逆襲することがむしろ懐かしくさえ思われ、しかし尚、何れかの新羅フリーメイスンの騒めきが今後も心を脅かす存在としてあるのだった。・・・
講師が大口径の液晶テレビのスイッチを入れた。そこには株価ボードと丸い原子炉の様な、立ち会いマシーンと立会人の姿が映し出され、理久男の頭にタイムマシーンのイメージが浮かんで来た。
「タイムマシーンの現実化はある訳は無いのだが、“電脳(コンピューター)”とタイムマシーンの絡みはそぐわないか?“霊脳 ”とタイムマシーンは絡むかも?」と呟くと隣の女子社員がチラッと怪訝そうに理久男を見た。周りで、昼から新入社員のバーベキューによる親睦会が行われる話が囁かれていた。
「来たばかりで研修もまだ受けていないのに!」と思ったが、理久男は就職の内定が決まった直後に“証券外務員 ”と云う営業を行うための必須資格を取得したので、周りの新入社員に遅れを取ることは無いだろうとも思った。現在を進めば過去(竹田)が消えていくのか?このフレッシュな新入社員と、あの千夜やキャバクラのモデルたちは全く別次元の人間で、種族まで違うような気がする、そして同じこの時代に生きているとはどうしても思えなくなった。研修施設の裏庭の芝生でバーベキューが始まり、気が合いそうな新入社員と輪を作った。話はもっぱら証券外務員 の資格を取得したか?と赴任先がどこに飛ばされるか?が話の中心となった。理久男は不思議な虚脱感を払拭するためにビールをかなり飲んだ。
「 証券外務員 は一応、取得したとして!南は九州から北は北海道の果てまで、どこにでも行きましょうか?皆さん!」と酔狂した事を覚えている。傍にいた女子社員が
「貴方、夜もカリキュラムがあるのよ!大丈夫?そんなに飲んで?」の声が微かに聞こえた。二時間ほど経って集団の一部が鬼怒川温泉の方角に向かったり、纏まりが崩れ始めた頃、理久男は自分の部屋に戻った。酔いもあって昨夜の寝不足がたたり、水を飲んだ後、理久男は固いベッドに寝入ってしまっていた。
“千夜の括れた腰に両手を回して阿蘇のやまなみハイウェイを疾風する二輪車の後ろに乗っている。二五〇CCの二サイクルエンジンが無理なく唸りを上げて、何故か、ヘルメットを脱いだ千夜の黒髪が理久男に絡みついて周りが見えなくなっている。前方に二台の屋根無しクーペが現れた。千夜はアクセルを回して、二台の間をS字型に一気に抜き去った。クーペに搭乗している数人のリーゼント風の若者が口を尖らせている。狂ったクーペが後ろから迫ってくる。千夜は更にアクセルを回して草原の急カーブをジェットエンジンを吹かしたように走り抜けた。理久男は千夜の腰にしがみついた。後ろのクーペはみる 々 間に見えなくなった。
「どうして?そんなに、スピードを出すんだ?」
「バイクはスピードを出さないと醍醐味がないの!」
「僕は千夜のスピードについて行けるかな?」
「大丈夫だと思うよ?私と一緒に居れば」
「君の予想通りにうまく行くかな?こんな事は少し幼稚過ぎる気もするけど?」
「幼稚過ぎるって?貴方は私が離れて行っても平気なの?マシンとの関係性は幼稚過ぎるとか?そうで無いとか?そう云うの全く関係が無くって脳と体で感じることなの?この疾風感が判らない人は感覚的に魅力がない人!」、
「僕は平凡であまり取り得もない人間かも知れないけど、僕としては一応ワンゲル部に所属していた事で君を崖下から助け上げられたのだし、物理学と哲学を専攻もしていて“時間と空間”に付いてもかなり考えたことあるんだ!良く理解出来ない部分も多いけどね、アインシュタインも言ってるけど想像すればするほどぶっ飛んで行く世界観を感じることが出来るらしい!これは凄い事なんだ!」
「何それ?想像すればぶっ飛んで行く世界観を感じることが出来るって?変なの?・・高校の先生がね、“時間と空間の誕生”それは生身の人間にとっては永遠に解けない難問でナンセンスに近い!なぜなら、時間と共にこの空間の中で生きていること自体が物理的に色んな制約に晒され続けるということだからだって、あぁ~!わたしもよくわからない?所謂わからないことだから無意味なんだよ!そんなこと!・・・但し助けて貰ったお礼は言いたいだけ!」
「だから、僕も良く理解出来ない部分も多いって言ってるだろう!君みたいな小娘に言われたくはないけど?・・でも君の生い立ちは歴史的に凄くて、並みの少女には無い魅力を持っているし、僕はかなり気になるんだけどね!両親にも、それとなく話したし・・」、
「ふふっ、大丈夫!貴男がわたしの事、永遠に興味ありってお見通しなの、ある人が何でも教えてくれるんだから、」千夜の悪魔的な横顔が見えた。理久男は魅力的な娘を捕まえたんではなく、己が捕らえられているのを感じた。それと疾風するバイクの後ろ座席からしがみ付くのは楽ではないのだが、第三者から眺めるといかれたヤンキーの二人に見えるだろうと思った。しかし実際は苦しかった。後ろから口笛が聞こえる。二人を乗せたバイクはスピードを少し落とした。振り返るといつの間にか庵のオーナーが運転するラングラージープ、助手席に眼鏡の団体職員、そして元造り酒屋の女性が怒ったように此方を見ている。千夜が笑いながら振り返った!その瞬間、
「ヤバイ!」千夜が叫んだ!二五〇CCの重い二輪車は阿蘇の大観峰のガードレールを突き破り、数百メートルの崖の空間に躍り出た!
「この千夜とつき合ったお陰で、僕は今、この時、一生を終えるのか?・・引力の法則で数秒後には固い岩盤に激突し全身が砕けるのか?痛いかな?」・・・”
理久男は真っ白い壁の、固いベッドの上で目覚めた。目覚める瞬間に
「これは夢だ!夢であったらいいのに!どっちだ?」の、零点三秒の意識があった。頭痛がする、額に脂汗を掻いている、時計を見ると二十二時を回っていた。
「寝過ごした!夕方のカリキュラムは終わったか?」理久男は仕方なくシャワーを浴びた。そして研修施設の外に出て、鬼怒川温泉の明かりが見える方向に少し歩いてみた。
翌日早朝、理久男は電話をした。相手は宿泊庵のオーナーと千夜の兄(リーダー)だ、庵のオーナーは冒頭、千夜の事は心配ない旨を伝えて来た。庵で面倒を見ており、怪我も治りつつあって、既に退院した事を。リーダーには二度かけたが出ず、折り返し女性アスリートから返事があって、リーダーと共に近いうちに大きな大会に出る旨を伝えて来た。庵の主人の最後の言葉に千夜に何かの目標を持たせる意(おもい)があることが気になった。恐る 々 参加したホールでの研修は一時間早く始まっていた。聞くところによると昨日の夕方からの研修は酒気帯び者が多かった為に、予定のカリキュラムは実施されなかったことで、理久男は唖然とした後、気が抜けた。カリキュラムの単位が取れないと新入社員としてのスタートが遅れ、将来後輩にも遅れを取る事の噂話を聞いていた。理久男は姿勢を正した。新人研修は此れからの己の進む道の 始まりであることの意識が次第に強くなって来る。金融商品を扱うための心構えは腹を据えてかからなければならない現実の問題が迫って来る。株式は生き物なのだ!指導員からの〝 詰め 〟と云う〝愛の鞭〟にも遭遇することも教えられた。しかしまだ〝数字〟と云う概念に追われることもなく、関東の鬼怒川温泉や他の観光スポット、そこでのバーベキューで親睦を深める一時は学生から社会人へと移行するほんのちょっとの間の充実感を味わい、それから先は戦場と云う人生の修羅場に一歩踏み出すのだとの思いと共に以前の竹田〜吉野が少しずつ薄れて現れては又消えた。
研修も中盤になった頃、証券マンとして赴任する最初の希望する配属先のアンケート用紙が配られたが理久男はそれとなく「大分」の文字を書いた。・・・
やがて過去の何もかも忘れてしまったような一ヶ月の研修が過ぎ、鬼怒川温泉のとあるホテルで入社式が行われ、代表取締り以下全ての幹部が集まった。披露宴が終わりホテルのロビーのソファーに腰を下ろしていた時、テレビの屋内スポーツ中継が目に入った。そこには阿蘇で出会った女性アスリートがバドミントン女子ダブルスの試合で活躍している姿があった。理久男は感嘆の声を上げた。字幕が〝本年度の西日本屋内競技大会〟と出ていた。画面が変わり、男子シングルスの試合に何んと千夜の兄(リーダー)が出場していた。理久男は我を忘れてテレビを凝視した。試合は拮抗していたが、リーダーの身体能力には目を見張るものがあり、二十一歳の若い力が弾けていた。理久男は新人社員の同僚が引き上げる中、一人手に汗を握っていた。結果はリーダーが勝利した。その瞬間、勝利の雄叫びを上げる姿に狼のような眼光を見た。連々と引き継がれて来たくノ一の絶えない血の流れがここにもあった。過去からの時間の中で肉体が共に流れて来たのだ。理久男は来た道と同じルートで帰途についたが、千夜の兄の狼の残像が脳裏から消えず、一か月の間、研修した証券マンとしての心構えと決意が崩れ落ちそうだった。数日後、証券マンの配属先の通知が来て、希望通り大分に決定されていた。
「理久男!あんた、希望の地は何処にしたの?・・大分、大丈夫ね?」母親の怯えたような表情があった。
◇再会
三日後、理久男は大分に向かった。歯に指を当てて見送る母親がいて、父親は素知らぬ顔で、弟たちは見当たらなかった。大分赴任は数年は覚悟しなければならない。勿論アンケートで希望したのだからその通りになったのだが、胸の内は複雑だった。博多まで新幹線で行き、特急に乗り換え大分に夕刻前に着いた。しかし以前の大分とは景色が違っていて、新鮮で懐かしくそれでいて人間たちが住む澱みのような靄が立ち込めていて理久男は自分の肌に合っていると思った。実際は季節が変わっていただけなのだが。駅には連絡しておいた竹田の宿泊庵のスタッフが待っていて、証券大分支店の近くに適当なアパートが見つかるまで宿泊庵に厄介になる事にした。それは支店長の意向でもあった。竹田には結構、投資家がいて継続した顧客がいること、故に通勤の途中で訪問できることが電話での説明だった。大分市から中九州自動車道を走ると一時間で竹田に出る。理久男は竹田がほぼ一ヶ月ぶりだったが、何故か故郷に帰った気がした。祖父は東京で最後を迎えたが、魂はやはり竹田に戻っていると思える。庵に着くと相変わらずの顔ぶれと見知らぬ従業員か判らぬ人間もいて、L字型に十部屋の増築が進行中で、広い駐車場の宿泊テントは取り払われ、代わりに山小屋レストランと言わんばかりのアウトドアの櫓が組まれていた。庵の中の厨房には鶏の蒸し焼き機だろうか?長くて大きなステンレスの機器が据えられていて、
「事業拡大か?」理久男は呟いた。スタッフも更に増えたようで、理久男の存在は見向きもされないほど、動き回る慌ただしさがあった。理久男を迎えに来た若い女のスタッフも何処かに消えていない。理久男が居場所が無さそうにしていると、厨房の中二階から眼鏡の団体職員が疲れたように降りてきた。
「あっ!理久男君、又、戻って来たんやね?助かったよ!」
「何んか、忙しそうですね?」小太りの団体職員は額に汗を滲ませ、領収書の束を持って近づいて来た。汗の体臭が鼻について、彼の勘定髙い性格にも目を背けたくなった。
「オーナーはいますか?」
「あの人はおらへんよ!あの人は色々あって、大分の自宅から来はるんよ、わしに何でもかんでも押し付けて、お陰で夜も眠れへんよ。部屋も増えるし、山小屋レストランも出来たんや、」、ぼやきながら腹の中ではオーナーの懐に入り込んだ事を喜んでいる節があった。
「任されたって?先輩も連合組合の勤めがあるんでしょう?」
「組合はいいんや、ここに出向見たいなもんや?食材も組合との取引もあるし、それに俺もいつも此処にいる訳じゃないんや」
「なら?先輩がいない時は誰がやるんですか?」
「京都のこれやがな?」団体職員は小指を上げた。理久男は頷いたが、スタッフの一人である元造り酒屋の女性が庵のオーナーと怪しい仲に成っていたことが分かって、公務員の妻との関係が悪化したのだろう?それを修復する為にオーナーは自宅で生活することになったのだろうと彼は言った。そして更に厨房の中二階は二部屋あるので、そこに理久男も一緒に寝泊まりするようにとの事だった。理久男がバッグを部屋に置き、フロアーに降りて来ると、例の元造り酒屋の女性が現金出納帳を持って、売上金の入金預りの銀行員と話していた。
「あら!理久男さん、此方の証券会社に勤めはるようならはったんやてね!」と言った。その顔は清々しかった。
「又、お世話になります!」理久男は頭を下げた。そして外に出た。七月の初旬、夏の青空が拡がり、夕方の蝉が泣き止まない誰もいない山小屋レストランに腰掛け、自動販売機の冷茶を飲んだ。ふと、蝉が飛ぶ木々を見上げると山際から繋がる小道をスレンダーな若い女が歩いて来る。白いTシャツにジーンズ、長い黒髪だ!理久男は目を見張った!千夜が理久男の方に真っ直ぐ歩いて来る。無表情で、理久男は何故か?胸騒ぎが起こった。いつもそうだ。相手は少し大人びている気がする。一つ年が増えたせいなのか?一九才になった千夜は少し笑みを浮かべて理久男の隣に腰を下ろした。野性の臭いがした。。
「来たの?」
「うん!」
「私、このレストランの責任者よ!信じられる?」
「オーナーから聞いてたよ、君の面倒を見るって」
「お兄ちゃんが頼んだんでしょう?」切れ長の目が明るく見開いて眩しいような女子力に圧倒された。数日前に見た勝利した兄の血族の流れを思い出した。どこかが似てる節もあるが、基本は違っていた。
「山の方に行ってたの?」
「うん、水源地の管理も私なの」彼女は初めて自分への決まった仕事を貰って張り切っているようには見えたが、表情の底に深い影が残っていて、理久男はその雰囲気を払拭して見ようと思った。・・
「あっ、そうか!僕も行った事ある」理久男は自然に振る舞って落ち着こうとした。そしてわざと言って見た。
「千夜ちゃん!陽に焼けたね?」
「あっ!わざと言ってる!私の肌が小麦色だって事、知ってるくせに!理久男さん!」理久男ははっ!とした。初めて二人が相手の名を呼び合ったのだ。
「千夜ちゃん!体はもういいのかい?オーナーから聞いてはいるけど?」
「うん!もういい、色んなトレーニングもやってるよ」
「自宅に独りでいるのかい?」
「そうだよ!お兄ちゃんは行っちゃったから、・・遊びに来る?」千夜は明るく振る舞っていた。
「遊びに行ってもいいの?僕が?」理久男は緊張しながら言った。そして胸が騒いだ。
「いいよ、だって貴方とは?・・」理久男はそれとなく頷いたが、実際、半信半疑だった。岡城陥落の折、間者として暗躍した女人の血を受け継ぐと思われる特別の存在の娘が自分という平凡でどちらかと云うとお人好しの男に馴れ初むのがどうしても信じられなかった。研修のホテルの夢の中に“貴男がわたしに永遠に興味ありってお見通し”だと、
「千夜は誰にマインドコントロールされているんだろう?」と思った。山小屋レストランの夜の客の為の準備に暫く千夜はそこを離れたが、その夜は結構な数の客の為に理久男は助手をした。レストランがひけた後、千夜はカーキ色のウィンドブレーカーを羽織り、前足の長い二輪車に乗り大分市内の自宅に帰って行った。月夜で見送った彼女は以前の俵山から降りて行く集団の中の黒髪のライダーの姿はなくて、その間の空間が抜け落ち、二つの時は重なっているように見えた。
理久男が部屋に戻った時は疲れた団体職員が高いびきで眠っていた。途中目覚めた時に暫く会話をしたところによると、庵の客の回転が良いことでオーナーが殆んどここに来ない事、そして何かのスポーツジムの経営を始めた事、それは自衛官のOBの立場を利用して防衛省の傘の下で動いている事、最後にこの庵の手伝いの頻度によって理久男の家賃を決めることを団体職員が請け負っている事だった。
「先輩はいくら払ってるんですか?」
「わしは君〜!食材の仕入れやら、肉切り、金の出し入れもやってるんや!まぁ、食事代くらいやな、」
「僕もやりますよ!休日は殆んど出来るし、」
「買い出しも頼めるんかいな?」
「いいですよ、会社の帰りに買ってくればいいんだから、」
「そんなら、わしと同じにしとくか、」
「お願いします!」独身だと思っていた団体職員は実は県外に妻と子供がいて、毎月の生活費を送金すると云う。ゆえに自らの生活費は切り詰めているらしい。翌日、理久男は早朝に団体職員が連合組合に出勤する序でに会社まで送ってもらった。証券大分支店には男女五人ずつの新入社員が揃っていた。退職する人、中途で転職する人、FXでトレーダーとして自ら投資する人の代わりだ。十人は難関を通過した若者ばかりで、さすがに理久男を除いて、皆燃える目をしている。それどころか、東京出身で物好きにも九州の果てに近いこの地を希望した理久男に対して怪訝そうな目線が投げ掛けられている。おまけに竹田の山荘に住むと云う、上昇志向があるのかと?しかし新入社員は株式、投資信託、債権や為替など客の質問や要求に答えて、さらに確実に利益を出せるよう金融の膨大な知識を身に付けなければならない事で朝から晩までテレビや新聞の情報を捕まえる事とか、上場企業の業績や今後の見通しをチェックすべし!の厳しい訓示があった。周りの新人は自信が有りそうで無いような表情が見え隠れする、自分も同じ狢(むじな)だ、それに庵の手伝いもある。更に本筋は電脳(株価・コンピュータ)の世界はおろか?霊脳(〝小夜様〟から千夜まで)の世界をも掴まねばならないのだ。
「こいつ等と同じ歩調で歩けるか!」と理久男は妙な優越意識を出しながら、反面どちらにも自信が無かった。男性五人と女性三人は一般顧客向けの営業に回され、残る二人の女子は経理と事務に回された。兎に角この飛び込みの営業をすることが証券マン(メン)としての第一歩であり登竜門でもある。飛び込みはアポイントを取ることが難しく、精神的にも肉体的にもタフでないとやっていけないらしい。このことは研修でも殆んど毎日のように、耳にたこが出来るほど聞かされ、そのことがマンネリした言葉として皆も頭にあるようだ。
「あんた等の時代はそうだったかもしれないが?今は時代が違うのだ!」、と、相場の世界の誰でも知っている運・鈍・根が、今は運・まぐれ・勘ではないかと新入社員は思っている節があって、しかし理久男は最終的にはやはり運があって腹を据えて、そして根気と粘りがある者に女神が微笑むのだと、どこかで思ったが、当たり前のことを当たり前に考えて、当たり前に進んでも、大半は鳴かず飛ばずで、誰に大運が転がって来るか?どっちに行くと落とし穴に落ちるか?この不確定時代に朦朧と成って、迷走しながらやっていくことが自分には一番合っているのではないかとも思われた。
「十歳の祖父から引き継がれてきた運命的な血縁の流れには逆らえないし、成るように成るしかない!」と云う諦めにも似た思いがあって、それが又以外にも何とかなって行くんじゃないかと優男と言われるところの理久男の本領発揮だと思うと楽な気持ちになれるのだった。・・・
◇商人根性
理久男は予定通り、個別のリテール営業として竹田を任されることに成った。退任者の代わりだ。その人物は五十を少し超えた小太りの男で当の昔、上昇志向を止めたどちらかと云うと地味な人間の部類で、四十歳前後の支店長の下で長年平社員として働いてきた静かな年輪をその表情に刻んでいる。しかしかなりの数の顧客を竹田に持っていた。一緒に訪問した時に感じたことだが大口が多い、それも今は衰え気味だが、昔からの庄屋階級や店の大店だった所だ。殆んどが配当金狙いで、稀に小使い銭稼ぎに小分けの株を売ったり、買ったり遊び心の積りでエントリーする。理久男は退任者の名刺の下に自分の新たな名刺を重ねて回ったが、その合間に聞いて見た、
「手堅い客ばかりですね?」
「これはね!私が教えたんだよ、私自身の立場を守るために」
「先輩の立場を守る為?」
「そうだよ!素人の大部分は勝負にエントリーすると、殆んどが負ける、損得が無いにしてもダブルの手数料で資金は目減りして行く、退職金なんかを思いっきり賭けると、すってんてんになって、それこそ自殺もので一家の大惨事だよ!この竹田の人たちは私の知り合いが多くて、親族もあるし、大損させたら申し訳ないし、私も竹田に居づらくなるんでね、毎年のノルマも達成できないし、万年平で過ごしてきたが、これが私のやり方でね!会社に居残る為のね!配当金狙いでも大口を持ってると会社としても私を簡単に切れないんだよ、」退職者の奥の手を伝授して貰ったが、・・
一週間くらいかけて竹田一帯を退任と新任の挨拶をして回った。その後、理久男は単独で飛び込み営業を試して見たが、簡単にあしらわれ、すべて不発に終わった。新人の仲間も一喜一憂している中で大分市内の三人がそうでもなくて、平然として、得意顔の奴もいる。多分、親族のコネクションや強力な当てがある部類だろうと思った。ひと月ほど経った朝の朝礼で理久男たちの運・鈍・根が試される時が来た。支店長の訓示で
「前任者から譲り受けた顧客の内、現物買いの顧客は支店長預かりとします!頑張って下さい!」と、理久男はいよいよ来たか!と思ったが、一年間新規が取れなければ、辞めざるを得なくなるのでは?との不安がかすめた。新人が編み出した運・まぐれ・勘が通用するか?迷走する自分が見えてくる。開き直りの姿勢だ。朝、宿泊庵を出る時に気分一新、久しぶりに思い出の阿蘇の方角に営業車の軽を走らせた。それは新車で軽快な走りはあっという間に草千里に着いた。そこは一年前とはまるっきり違った風景を湛えていて、少し進むと阿蘇山の岩肌が遠くに見えるのだ。考えて見ると過去と原風景の違いが全く分からない筈だ。ハイウェイを走ると時が麻痺した。時間と空間は堂々巡りになって、過去の竹田が未来になってしまうような?・・数十年を通り越し、阿蘇の岩肌が太古から現在になって又、未来の太古に戻り、それぞれの太古は同じ岩肌であって、それをこれから眺めに行くのだ。時の流れが消えて、時間が必要では無くなった。理久男はずい分楽になったと思った。一年前の人間の修羅の逆襲を取り去らねばならなかった。そして世の真の姿は不動の現実である事の理解を肝に銘じて、・・
午後一番に阿蘇から降りて来た。姿勢を正して一介の証券マンとしての立場でむやみやたらに飛び込むのではなく、理久男は今まで知り得た相手を訪問する事にした。まず庵のオーナーを訪問した。竹田に戻ってからまだ二回程しか会ってなかったが、初めて自宅を訪問した。大分市内の閑静な住宅街にあり、割と広くて古風だ、スポーツジムセンターの経営にも手を拡げた事を聞いていたので見学に行った。そこは海岸近くにあり、休止した専門学校をリファインしたものだった。野外コートもあってコーチらしきスタッフもいる。青色の《バン・スポーツジム・センター》の 標識が掲げられている。グレーのジープも数台停まっていて防衛省OBの人脈を使い、優先的に地域の為のスポーツジムとして申請を取った気配があった。助成金も少しは出たかもしれないが、港地区の準工業地域の三百坪の土地、旧専門学校の建物と体育館、四面のテニスコート等のリファイン費用、数億円は必要で、とても助成金と自己資金からは捻出できる代物ではない。
「オーナーは何処からこの大金を調達したのだろう?」屋内の体育館には完璧なトレーニング設備も整っている。理久男の自然な疑問は後から少しずつ解明された。理久男は与えられた会社の車で、朝早く庵を出て、夜遅く帰宅するので、入れ違いで千夜とも殆んど会っていないのだが、屋内から出て来た数人の若いアスリートの中に八頭身の千夜を見たような気がした。結局オーナーとは自宅で会ったのだが、公務員の妻には頭が上がらないオーナーは喜んで理久男を迎え入れてくれた。意外な事に株式に付いての配当性向と利回りを簡単に説明した時点で、かなりの額の投資を約束してくれた。それに付いては妻が積極的だったので、何か?狐に摘ままれた気分になって、何かあるのだろうと思いながら引き上げたが、千夜らしき人影を見た事の方が気になった。祖父が小僧を務めた寺にも行った。住職の猜疑心の記憶があったが、その時は雰囲気が全く違っていて、その原因は理久男にある事を認識させる事になった。それは己の意識が証券マンとしての新しい心構えに切り替わった事に由因していて、陶芸家の妻が生活設計の為の貯蓄に熱心で、理久男は大いに熱弁を振るった。企業が発行する株式の配当性向が低いことは、利益を投資に回す事で企業の成長が期待出来る。ゆえに企業価値が上がり、株価も上がるので当初の配当金が低いことに惑わされない様に!と説明した時点で、焼き物が売れた分を投資に回すことで契約が取れた。住職は話に加わらなかったが妻が理久男の証券マンとしての初々しさを高評価した形だったが、以前の住職の理久男を落ち込ませた言葉に対する償いのような気もしたが、後にそれが正にその通りになったことを知った。毎日顔を付き合わせている団体職員は他県にいる妻の了解が取れたら買って見るとのことだったが当てにはならないとの予想と彼の本意が全く別の方向に向かっていた事だった。河宇田湧水の親爺と吉野梅園の代表管理者はいくら説明しても株式その物を理解出来ず、天満神社の若い宮司は興味は示したが、神道者として徳を積まねばならず投資に頭が回らないと言われたが、後日、電話があり生活の為にある事業所の経理担当を請け負っていて小金を持っているので何とか株式で増やしたいと、元造り酒屋の女性は余裕が無い事で全く無視された。これで第一戦は三勝四敗に終わったが、実際は庵の三人のスタッフにも断られたので三勝七敗となった。
二週間後に、庵のオーナーの自宅に契約に行った時、その投資額の大きさに理久男は驚いた。まさか?防衛省の助成金が加わっているのではないかと、それとなくオーナーに尋ねたが、オーナーは笑って、
「理久男君!心配せんでいいっちゃ!」オーナーの太っ腹の所以なのか?それともジムの経営方針なのか?・・次第に理久男は証券業務に本格的になり雑念が消えてきた。財務に真面目な天満神社の宮司の紹介があった事を思いだし、宇佐神宮を訪問する準備にとりかかった。理久男は大分県全体の人口動態を調べてみた。すると竹田は何んと少ないことか!確かに昔の山林地主は存在するが、今は時代が違って山林の価値が極端に低い。竹田の二万三千人に対して大分市が四十八万、別府が十二万人と少しの数、宇佐は竹田の二倍以上だ!担当地域の竹田の人口は余りにも少い!さすがの理久男も経済の競争意識を本格的に燃やさなければならなくなっていた。八月に入って、営業の方向を変えて見た。別府を抜け、宇佐神宮に来てみると、その敷地が兎に角広い!夏の真っ最中、石畳みと白い砂利の照り返しに頭が朦朧となる。巨大な赤い鳥居を潜り、本殿に向かう石段の手前に案内場があって、中に若い宮司らしき人と数人の巫女らしき女性がいて、
「 吉野梅園の天満神社の宮司様からご紹介を頂いて参りました。」と証券会社の名刺を差し出すと、その人達は驚いた様に顔を見合わせ、全員が手を横に振った。構わず理久男が証券について説明しようとすると、
「私達高校生のアルバイトなんです!」と、女性の一人が小声で答えた。若い宮司らしき人は奥の方に行ってしまった。巫女姿は高校生くらいになると大人の女性と判断できないくらいで、理久男は場違いだった事を後悔し踵を返して戻りかけたが、神宮の駐車場まで来た時、参道に沿って並んでいる土産物店の一つに日陰を取る為にベンチに腰を下ろした。植栽した人の立札があるイチイカシの木陰は微かな風があり、汗ばんだ首をハンカチで拭いた。店の中にはうら若いきれいな店主らしき人が菓子を包装している姿があった。理久男は十五歳でこの宇佐神宮のお庭番となった祖父が、神宮近くの茶店の娘と出会った話を思い出していた。八十数年前の、まだ現代風に整備されていない参道と古ぼけた茶店、周りの長閑な田園風景が浮かんで来る。ひょっとしたら、祖父が出会ったと云う娘はこのきれいな店主の祖母に当たるのではないかと想像しながら、持っていたファイルで上半身を扇ぎながら涼んでいると、その店主が冷茶と試食用の輪切りにした菓子を持って来た。
「今日も暑いですね!お仕事ですか?うちの虎巻きのお菓子です。宜しかったらどうぞ」見目麗しい女性だ。理久男より一回り歳上かもしれない?理久男は礼を言って頭を下げた。素朴な和菓子のアンコが旨かった。宿にしている庵のスタッフへの土産がわりに〝虎巻き〟を二本注文した。ついでに理久男は店主に祖父の話をした。最初は微笑みながら客の昔話を聞いていた店主の表情が次第に真顔になり、店頭の長椅子に腰を下ろし話に聞き入った。何か心当たりがあるのか?あるいは店主の母親か祖母からの言い伝えに聞き覚えがあるのか? 言葉は無かったが、きれいな店主の瞳の奥に懐かしそうな憂いが表れていた。理久男は菓子のパンフレットを貰った代わりに証券会社の名刺を置いた。・・・
庵のオーナーの投資額は大口で第一期の営業報告は何とか恰好が取れたが、これを継続して行くことのプレシャーは並み大抵ではなく、“頑張ったけど、ダメだったんです。”は通用しない世界なのだ。これじゃ、休みも祭日もあったもんじゃない!と理久男は思った。団体職員の木元先輩と家賃のことで内輪揉めが起こった。
「理久男君、あんたね!証券会社が忙しいんは解るんやけど、庵の手伝い全然せ〜へんやないか?」理久男は突然 言われたので咄嗟に新米社員だとか、暇がないとかで言い繕うとしたが、実際は証券業務の煩雑さに着いて行けない程のたうち回っていて、時間が足りなくて庵の手伝いどころの騒ぎでは無かったのだ。しかし木元先輩は金に関する約束に付いては本気のようで負けてやろうとはしなかった。毎月仕送りをしている手前、家賃の不公平感に敢然に異を唱えたかと思っていた。
「それは仕方ないんやけど!あんた、手伝い出来る言うから家賃下げたんやで。買い出しもせ〜へんし、厨房の手伝いしてるの見た事あらへんよ。夜もごっつう遅いし」思い付きと何とか記憶を引っ張り出して言い訳を考えたのだが、
「あっ、部屋の掃除手伝ってますよ。休みにはたまにですけど山小屋レストランの料理とビール運びもしたし、先輩の見えない所で、結構、やってるんですよ。・・あっ!この前、先輩が二~三日いなかった時があったでしょう?あの時は僕は営業に行かないで、力仕事独りで、したっけ!」
「わしにはそうは見えへんけどな?こっちはほぼ毎日!あんたは月に三~四日!これはどう見てもおかしいやんか?それでいて、家賃は同じ」理久男は優男でも劣勢を跳ね返す術を少しは身に付けていた。
「先輩!言葉返すようですが、先輩は組合からここの食材を仕入れているんでしょう?鶏肉とか?と云うことは先輩はここで商売してる訳ですよね?僕はやってない!先輩が手伝うのは商売の一環ですよ!」理久男は畳み返した。・・その時、金融機関から帰って来た庵の事務長職を与えられた元造り酒屋の女性が
「あんた等!何をちまちま、小さい事言うてはんの?男の子でっしゃろ?家賃が少ないとか?多いとか?それに理久男さん!貴方もここで商売してはるじゃないですか?私は投資せ~へんやったけど!」木元先輩はそれに便乗したように
「そうや!そうや!わし理久男君の商売に付き合おうとしてるんや!理久男君も商売してるやんか?」理久男は黙って頭を垂れたが、女事務長が鋭く王手を打った。
「そう言えばオーナー、凄い額の投資をしたって言ってはった。理久男さんに」
他のスタッフも全員が唖然とした。
「あぁ!それ・・・、」理久男は耳をふさいで参ったの姿勢を取った。誰かが、
「この人若いのにパフォーマンス目立つ~!」と言う声が聞こえた。ここにいる全員が金にはシビアで優男などは弾き飛ばされる気がした。どうにか家賃の件はうやむやになったが、木元先輩と二人だけになった時、真顔で相談を受けた。木元が理久男の家賃に問題を呈した理由が理久男の想定とは違っていた。
「理久男君!君の家賃にケチを付けたんは悪かった。実はあれは君に対するわしの僻みだったんや」
「僻みですか?なんで?」
「千夜や」
「千夜がどうしたんですか?千夜を自分のモノにしたいとか?」
「何を言ってるんや?君は?」
「だって!僕に僻んでるって?」
「ちゃう!ちゃう!〝小夜印〟や」
「〝小夜印〟?・・〝小夜印〟って?」
「君はほんとに鈍いな」
「鈍いって、何ですか?」理久男はむっ!とした。
「実はね、君にだけ言うんやけど、うちの組合である物を売り出そうと云う計画あってな。それに強力なインパクトを与える為に、まだ世に出ていない〝小夜印〟を何とかお願いしたいんや!」
理久男はこの団体職員の意外な商魂を感じた。
「あの、〝小夜様〟が持っていたと云う?それ、何処にあるんですか?」
「千夜が持ってるんと違うんか?」
「知りませんよ!聞いた事ないし。で、それ!残ってるんですか?先輩とこの家の過去帳に書いてあったんですか?」
「一子相伝なんよ!母から娘へ、受け継がれているんよ」木元は真顔だった。
「しかしですね?〝小夜様〟は確かに其の印を持っていたかも知れませんけど、其を譲り受けて持っていても、〝小夜様〟の威厳とか格式とかは、もう無くて、まぁ、形見と云うだけですよね?だから、血縁は引き継いでも、そして又、その印を受け継いでいるかの事実関係も全く分からない訳ですよね?五世代前ですよ!血の流れも本当にあるかどうか?」
「わしの家の過去帳には確かにあるんや。岡城の御用商人を仰せつかりし落城後〝小夜様〟のお供をし宇佐に落ち延び、姫様を抱いて吉野の神社でお別れし時、大判三枚と朱の〝小夜印〟を頂き涙のうちに退いた。と、だから、君んちのお祖父さんの火事になった小さな滝の近くの民家にも〝小夜様〟の療養でお供してるんや」彼の目は赤く充血していた。
「あの〜、僕の祖父が語りかける時にですね、祖父が娘と出会ったその以前の事は知らないと言うんですよ。だから〝小夜様〟の流れが、千夜の先祖に繋がっているかははっきりしないんですよ。」理久男は父親から本筋の流れに付いて聞き及んではいたが何故か?そう言ってしまった。それは〝小夜様〟の本流そのものに恐れがあったのかも知れなかった。
「そこでやな、千夜がその朱印を持ってるか確かめて貰いたいんや?持ってれば本物っちゅう訳や!其を君に頼んでるんやないか?」
「千夜が僕に教えるでしょうか?まだ、そこまでの仲ではないし、聞けないですよ!」
「だって?君は、将来を約束された、・・千夜と!」
「あれは祖父が勝手に言い出した事で、まだ若いし、僕もやっと社会人に成ったばかりで。・・そんな大そうな血の流れを持った娘とは自信ないと云うか!」と理久男は素直に言うのだが。・・それにまだ少女の片りんを残している千夜の血族の流れをあれやこれやと弄りまわすのが不憫な気がした。
「何んなんや?あんたは!どんくさい奴っちゃな!そこまでお膳立てされてるんやないか?情けない!あれだけの娘は中々おらへんよ!言っちゃ〜悪いけど、あんたみたいな、平凡な兄ちゃんに〝小夜様〟と城主との血の流れを持った娘が授かるなんて!大海の中で金魚を見つけるのよりも難しいわ?」理久男は人格を否定されたような言動に、むっ!とするどころか頭に血が上りそうになったが、当たってる節もあって、そうはならずに冷静に何とか抑え、そして凪いだ心になって見ると自然と頓智が生まれて来た。
「そうであれば、先輩が直接千夜に聞いて見たらどうですか?先輩の先祖の御用商人が
〝小夜様〟のお供をして、苦難の旅をされたんでしょう?そうであるならば、僕より先輩の先祖の方が〝小夜様〟のラインには近いですよ。」
「わしもそう思う点はあるんやけど!わし千夜にはよう言えんわ、恐れ多いやないか!」、「それは僕も同じですよ、先輩!」
「わしね!理久男君、〝くノ一小夜様〟に纏わる壮大なドラマをテーマにして大分の連合組合の製品を世に出したいんや!それはこの地域の為でもあるんやね、是非協力して~な!」岡城の炎の中に暗躍した妖艶のくノ一を媒体として商品化しようとするドライさ、商魂という人間の情感を飛び越える現代の狡猾さに僅かな反感を覚えながら理久男は自分への矛先を変えさせようとした。
「それは分かりますけど、・・オーナーに頼んで見たらどうですかね?」
「オーナーはダメだって言いよったんよ!そないな事は言えへんて!・・おかしいんやで?
あれだけ千夜の面倒を見てるくせに?」木元はやつれる程この数日間並々ならぬ思いで神経を消耗している姿があった。
「ここの山小屋レストランを任せてるんでしょう?」
「あれっ!知らへんの?あんた!オーナーがスポーツジム作ったんは?千夜の為と言っても可笑しくないくらいや、あれだけの施設や!(指)二~三本、億は使ってるで?」、
「えっ、二~三億ですか?千夜の為に?・・そういえば整備されたスポーツジムは確かにありました。」
「そうや!千夜の為や、大部分の資金は〝小夜資金〟や!・・オーナーの先祖が預かってると云うやっちゃ!オーナの家系はずっと一人息子の一子相伝で預かってるんやて!備前長船は貰ったらしいんやけど。この前は昔の舶来の宝石が入ったガラス細工の冠みたいなのをわしに持って来たんやで。先祖がわしの先祖に渡し忘れていたとか言って、わしの家のお宝はみんな兄貴が管理してるんや。これくらいはわしが貰ってもいいんやないかと思って、嫁にあげたら喜んでな!あれも数十万の価値はあるんやないか?いや?もっとあるかもな?・・ちょっと話が逸れたけど、オーナーがあの資金を使ったんは、みんな千夜をテニスの世界で世に出す為や、そして賞金を稼ぐんや、順位を上げて、名を売る、ジムも儲かる、最後は〝小夜様〟の血の流れも使うんじゃないんか?ウィンブルドン辺りで?日本の〝くノ一〟世界に羽ばたく! CMのオファーも凄い事になって?」
理久男は状況がここまで発展していることに驚きを隠さなかった。
「と云うことは!オーナーも先輩も〝小夜様〟のラインを商売に利用しようと?」
「お互いがいいんよ、名も上がるし、金も入るし、わし〝小夜印〟の商標を受け持って、オーナーは〝くノ一忍者の末裔〟の商標を担当する事になるんや!」
「驚きますね!先輩達の商魂には?」
「だから、わし御用商人の末裔なんよ!」理久男はそれ以上、言い返す言葉を持たなかった。そして千夜からは一言も聞かなかったテニスプレイヤーの世界がこれから広がりつつあることに内心不安と驚きを隠し得なかった。
◇過去の戦場
大地と自然の原型が残り、人は生きる事に一生懸命でストイックな時代、江戸の末期、狩りを生業としていた千松は大型の柴犬を連れて竹田の山里の獣道で、つがいの猪に狙いを付けていた。鳥や狸などの比較的小さい動物は散弾を使うのだが、今日は猪だ!大きめの鉛の一発弾の薬莢を装填した。住みかに置いてある二丁の鉄砲のうち、銃身が長い一連発の鉄砲を肩に担いでいる。猪は離れた距離を狙うので、長い銃身で射止めるのだ。数日前に猪が遊んだ水溜まりに栗の実を置いてある。夕暮れ前、獣が出没する時刻を待った。・・その時、獣道の上の笹林の中に動きがあり、猪らしき大型の黒い獣が争っている光景が藪の中に見え隠れする。千松にとっては初めての事だ。擊鉄を引き起こし、大型の獣に狙いを定めて引き金を引いた。それは低く呻いて揉んどり打って倒れた様に見えた。傍の柴犬が走った!千松は薬莢を入れ替え、もう一頭の猪に狙いを定めようとした時、鋭い高い声が放たれた。
「敵か?味方か?」その瞬間、柴犬の喉笛がかっ斬られる泣き声が聞こえた。千松は銃身を構えながら呆然と立ち尽くした。後ろの方から声が聞こえ、
「お前はこの地の者か?」振り返ったそこには黒装束の黒髪を横に束ねた女人が抜いた小刀を下げながら、切れ長の妖艶な眼光を向けていた。
「私は岡城の間者で〝小夜〟と申す、敵を倒してくれたに関わらず、そなたの猟犬の喉をかっ斬った詫びを申す」千松はその眼光を仰ぎながら鉄砲を横に抱いて座り込んだ。・・・
岡城の門番兵となった千松が〝小夜様〟と出会った瞬間だった。当時、千松は十八歳、〝小夜〟の七つ下で天涯孤独の身だった。五歳の頃、幕末の内乱で国東地方から両親と共にこの竹田の山里に落ちて来たのだが、父親は国東の農民武士で鉄砲隊に属していて、勤王派だった為に国を追われることになった。二丁の鉄砲を携え、狩猟で生計を立てていたが、八年前に両親が次々に肺の病であの世に行き、十五歳で近隣の仲間と一緒に生きて来たのだった。
岡城の間者として屈強な敵と刃を交えている時、千松の放った一発玉によって、命を拾ったくノ一は、野山を駆け巡り、竹田の山間の地形に詳しい、獣の様な目をした若者を岡城の門番兵として取り立て、敵を見張らせることにした。
柴犬の横に倒れていた屈強な武士の太刀を抜き取り、千松に与えたが、備前長船の名刀だと分かったのは後に成ってからであった。〝番〟の姓を与えられ、〝 番千松〟と名乗った。千松には山間の仲間がおり、敵の動きを察知することに精通し、〝小夜様〟の一番の手足として認められて行った。岡城のくノ一は周辺の情報を集める事だけではなく、石高が低い為にひっ迫した財政を立て直す使命をも預かっていて、姿だけではなく智の高さにも城主の寵愛を受ける所以があった。その頃、城に出入りを許されていた木元屋定吉は南豊後の材木商だったが、竹田引いきで岡城の御用商人となっていた。〝小夜様〟は定吉と結託して全国の地鶏を集めさせ、それを千松の山間の仲間に飼育させ、更にその肉を燻製で保存食として各地で売りさばき、更に竹田の湧水を利用した醸造酒を作らせ、四国ルートの商人を使い、商いの拡大を図った。御用商人の定吉は広く長崎にも出向き、地鶏の燻製と西洋の品々との交換でそれを城内に集めた。これによって岡城の財政は好転し、竹田一帯に隠れた小夜グループが出来上がって行った。岩山に建っている岡城には、幾つかの井戸があり、その中に水無し井戸があり、出口は切り立った崖の中腹にあり、城主たちが城を抜け出すために極秘に作られたものだったが、後年一度も使われることは無かった。
明治の初め、福岡・熊本連合の政府軍によって攻撃され、城が焼け落とされる寸前にくノ一と門番兵の千松・商人の定吉、三人は三晩、水無し井戸の横穴の出口付近に城に蓄えた金銀と西洋の高価な品々を隠したのだ。城が焼け落ちた時、水無し井戸の入り口はふさがれ、中にいた三人は上から火の粉や焼けた材木が落ちて来るのを目撃した。三人は出口から切り立った崖を伝って深い谷に降りたのだが、そこには闇の中で薩摩軍か?政府軍か?判らない数十人の兵士の乱闘が行われていて、三人は挑んでくる十数人を切り抜け脱出を図った。その時、武闘派でない定吉を守る為に〝小夜様〟は背中に深い刀傷を負われたのだ。逃げ足が遅くなった一行の目の前に敵の軍勢が立ちふさがったが〝小夜様〟の命がけの晒された神々しいまでの裸身の姿に敵の隊長はあえなく道を開いた。どちらの側とも判らない兵士の屍を乗り越え、千松の先導により暗闇を走り、川の上流の小さな滝のある水辺に着いたのは明け方近くだった。
夜が明けて、朝霧が消え、空が白み始めた頃、近くの民家の理久男の曾々祖父(四世代前)と出会ったのだ。竹田の為に尽くされた〝小夜様〟の恩に報いるために曾々祖父夫婦と供の二人は昼夜を問わず、手厚い看護を尽くした。肩口から背中にかけての深い刀傷が数日間は生死をさ迷う状態になり、足手まといになった定吉商人は飲まず食わずで石仏に参り続けた。民家の主人は貯蔵していた壺いっぱいのムカデを溶かした膏薬を塗り重ね、ヨモギを煎じた汁を飲ませ、背中の傷を洗い、夜も寝ずの看病をした。その甲斐があって十数日後、やっと回復の兆しが現れる二十七才の美しい女身がそこにあった。
ひと月程して、城が焼け落ちる時に熊本軍の陣地で立ちはだかった妖艶なくノ一を仰ぎ見た隊長が、薩摩軍探索の為に、そこを訪れたが、〝小夜様〟の存在を知って黙って退いて行った。その頃、民家の主人の妻が気づいたのが女人の懐妊の事実だった。妻は夫も含めて周りにいる三人の男たちの存在を想ったが、本人の口から城主に寵愛された事があったことを聞いた。数ヶ月後、妖艶なくノ一が甦ったが、腹には姫君の兆しが現れていた。この家には正体が解るのを避けるため〝小夜印〟は記されなかったが小判の礼金が支払われた。民家の主人は引き留めたが、三人は獣の衣を身にまとい、狩猟族に姿を変え、鳥の燻製の行商を生業とする一行として、落武者狩りを避けながら、一路宇佐に向かった。途中、二〜三度、落武者狩りに遭遇したが千松の鉄砲が威力を発揮した。一行は岡城が消えた喪失感と疲労のため、別府温泉で一ヵ月の逗留を余儀なくされたが〝小夜様〟の進む道に迷走が生まれ始めていた。二人の共は必死に支え、主人のただ一人の師匠である宇佐神宮の中の寺院の僧侶の元に向かった。しかし宇佐にも落ち武者狩りの探索が度々行われ、住職の計らいで東側の山の上の神社の祠に移り住む事になった。宇佐に一年逗留して迷いを解いて戻る時、千松の腕には姫君が抱かれていた。 豊後の国も西南戦争が治まり、新たな状況が生まれようとしていたが、一行は故郷に近い吉野梅園を目指した。天満神社の近くに寝所を建て、金銀を上納し、長い逗留となったが、実際は目標を失った三人がいた。その中で商魂だけは根が生えたように燻ぶり続けていた定吉は木元屋の屋号を再興するため〝小夜印〟の記しと大判数枚を頂いて新たな商人の道に旅立った。番千松は心底〝小夜様〟を崇めその心に傾倒し傍を離れようとせず、梅園の手入れをしながら尚も警護にあたった。女人はそこで宮司と並ぶ巫女として天満神社に尽くしたが、十年後、背中の傷が悪化し、三十八歳の生涯を閉じた。枕元に付き添った千松は〝小夜印〟の朱の記しを肌着に頂き、翡翠(ひすい)の原石で造られた印が十歳の姫君に託されるのを見た。吉野の天満神社は女人の寄贈により、大きな舞台堂が建てられていて、能や神楽の催しと共に人形浄瑠璃一座が逗留し姫君の感心を買った。天涯孤独になった姫君は千松の加護を振り切って、宮司の計らいで人形浄瑠璃一座と共に淡路島に渡ったと云う。己の加護を振り切られた千松は去って行く人形浄瑠璃一座の一行を見送りながら、大地に額を擦り付け、男泣きに泣いた。・・・・・。
その後、千松は竹田の山奥に戻り、仲間と共に狩猟と地鶏の生産を再開したが、数年たっても、〝小夜様〟との最後の別れの言葉を忘れることが出来なかった!
「番千松!そちには世話になった!後、身寄りがない姫を頼む!」、の幻が消えない。意を決した千松は姫を求めて淡路島への旅に出たが、それは長い々 旅となった。・・・
四国に渡る船上で千松の胸に三十年前の懐かしさが込み上げて来る。千松の父親は国東の下級藩士だったが、国を追われる身となった。幼少の頃、母親と三人で四国の八十八ヶ所を参拝して回った事が微かに記憶の中にあって、船酔いで背中を優しく擦って貰った母親の手の温もりが走馬灯のように浮かんで来る、親子で竹田の山奥に逃げ込み、幼少を過ごし、両親があの世に行き、天涯孤独の身で運命の〝小夜様〟に拾われ、一緒に戦い、今また姫様を追っている。千松は己の生きざまに後悔の念は微塵も無かった。神々しい〝小夜様〟の姿が現れては消え、絶える事がない。
「これは俺の天命だ!」、千松は呟いた。海は荒れていた。突風が吹き、船が横倒しになりそうな状況で浮かぶのは姫様の安否だ!あれから数年経っている。十三〜四歳の少女であれば普通両親がいて、貧しいながらも尋常小学校に通っているはずだ。城主の血を引きながら、さ迷う娘に
「何んと?不憫な!」、あの時、自分を振り切る姫様を力ずくでも引き取って、手元で育てるべきだった。ことの後悔が荒れる海原のように心を揺らした。・・・
人形浄瑠璃は淡路島発祥の芸能で盛んに地方巡業も行われていて、豊後の国の伊勢神宮や吉野梅園にも度々訪れて人々を楽しませている。庶民の人情を独特の語りと三味線の音に合わせて操る人形の動きは、見る側にとっては人の哀れ・悲しさが直接伝わって来る異次元の世界だ。十歳の姫は母との別離、己の境遇をこの人形の中に見たのかもしれない。そしてそれは心の支えとなって、離れられなくなったのではないかと千松は思った。
四国は開通したばかりの小さな汽車で横断した。人形浄瑠璃の発祥は淡路島だが一座が当地に滞在しているとは限らない?豊後(大分)には来ていないことは確かめた。他の地域の神事に加わっているかもしれない?四十路に成ろうとする千松は鳴門の船宿で一泊し、湯船で身体に付いた無数の刀傷を洗っていると、その傷に見入っている数人の男たちと少年がいた。
旅芸人の一行らしい?千松は湯船を泳いで近づいて行った。
「ご免なっせ!もしかしてあんた方は人形浄瑠璃の人達じゃないっちゃ?」男たちは
「そうだ!」と答えた。
「豊後の吉野梅園は知っちょるな?」
「行った事がある」との返事に千松は我を忘れて言葉を放った!
「あの天満神社の姫が人形浄瑠璃一座と一緒に旅立った事を、知っちょる者は?」
「いた!いた!がいな(わがまま)娘じゃった。」と男たちが言った。少年が
「父ちゃんがあん娘は海賊(海のブローカー)に貰われたと言よった!」と言った。昔の水軍(豪族)は新政府によって海運業者としての経済人になっている。姫の気質と品格を買ったのだろう?姫に似合った処に落ち着かれたのかもしれない?と思い直した千松はすぐさま引き返し、ルーツは名古屋だが、当時、筑前国(福岡)で物産会社を立ち上げたと云う木元屋定吉に会いに行った。十数年ぶりの岡城の戦友だった。千松は竹田一帯の養鶏場と交換に定吉から小さな船会社を譲り受けた。その時の二人だけの内輪話で、
「わしがヘマをせ〜へんかったら〝小夜様〟は刀傷を負う事なしに、まだ長生き出来たんや!・・・ところで岡城跡のお宝はその後どうなってるんや?」
「金銀は〝小夜様〟が亡くなられた時、俺が預かってるっちゃ!残りは姫の為に使おうち思うちょる。穴の中には西洋のお宝が残っちょるが、しかし、あの深い谷から穴の出口まではよう!登れん。お主が欲しいんじゃったら、取りに行ってもいいっちゃ!」
「いや、いや、命はまだ欲しいわ、」
「宝石が付いた冠なんぞもあったんじゃ?
「あった!あった。あれはわしが長崎から仕入れて来たんや!今、両替屋に持って行くと可成りのもんかもしれへんぞ?」
「そうかもしれんな?・・この前の地震で穴も狭くなっているっちゃ?」
「全部埋まってしもうて・・もう入れんかも知れへんな?」・・・・・・
その後、千松は船会社を国東に移し海運業を始めた。瀬戸内〜淡路島には無数の海運業者が行き来しており、業界に入り、じっくりと姫の消息の手掛かりを掴もうと思っていた。
三年が経った、海運業は当初、材木、砂利、石炭の海上運搬から始めた。明治政府の富国強兵政策によって事業は拡大していった。人も雇った。それまで独り身だった千松は四十歳を超えて経理兼秘書の中年の女性を妻に娶った。健康な女で木元屋定吉の紹介でもあった。幾つかの海運会社に姫の事を打診してみたが、中々はっきりした返事が返って来ない。あの船宿の湯船で会った少年の言葉は嘘では無かったは筈だ?と、千松は気を取り直して呟いた。それから数ヵ月経ったある日、木元屋定吉から連絡が入って、取引先の海運会社に其らしい娘がいることを伝えて来た。その海運会社は瀬戸内にあり、客船から輸送船まで持っている昔の水軍上がりで社名も知られた中規模の海運会社で、東南アジアまでのルートも持っていると云う。社主は高齢で若いときは幾つもの海を荒らし回った強者で千松は初対面で好きになった。その社主も岡城の〝小夜様〟のことは詳しく、その娘子ならば、次男坊の嫁にと引き取ったらしい。交換条件にその浄瑠璃一座の年間の路金を受け持つと云う熱の入れようだった。ただし、十八歳に成った姫は留学中で、帰国されたら立派な淑女として迎え入れる事で、千松は胸を撫で下ろしたが、何故か、一抹の寂しさを感じながら帰途についた。途中、胸を突き上げるものがあり、
「俺は何のためにここまで!」〝小夜様〟から託された姫の援護を果たせぬままの無念さを噛みしめ、涙を腕で払った。・・・・
それから十数年経ち、番千松は貿易商に転身し、木元屋定吉と共に海と陸の経済人として成長して行った。千松五十一歳の時、定吉を同行して商用の為、瀬戸内の海運会社を訪ねると母親となった姫との再会に二人は感極まった。驚いた事に大人になった姫の切れ長の目に
〝小夜様〟の影が見えるのだ。もう二人が守ってやる相手では無くなっている。更に驚いた事に、十歳の娘、美夜が人形浄瑠璃に興味を持った事が話の中心になった。
「私に似て頑固者で仕方が無いので、二人には頼まれてはくれまいか?」との願いに千松は再度感極まった。
「これは、〝母様〟の願いから繋がった私の天命だ!」と、但し五年間だけ!娘にも約束させてあるとの事、千松はとてつもなく大きな契約を取り付けた思いで、五年間の浄瑠璃一座の路金を担う事を願い出た。定吉は呆れていたが、〝小夜様〟から預かった金銀の使い道を果たすことで一致したのだった。二人は十歳の美夜に同行し鳴門の船宿に向かった。三十年前この腕に抱いて宇佐から戻って来た姫が三十歳の妖艶な母親となって見送る姿を眺めながら、目に見えるような〝小夜様〟の朱の糸が脈々と息づいているのが胸に染みた。その後、鳴門の船宿に滞在し、美夜を浄瑠璃一座に引き合わせ、大枚な路金を渡して弟子入りを依頼した。・・・・・・
◇新羅一族
二〇一八年 春の西日本室内競技大会のバドミントン、シングルスの部で奇怪なトラブルが発生し、その新聞記事が話題になっていた。シングルス・ダブルス共に準決勝が進んでいて、会場には其々の後援会、支援者が詰めかけ白熱した試合に大声援が巻き起こっていた。会場の客席の一角に応援団旗が振られ、黒革ルックの一団が奇声を上げている。第一コートではリーダー(千夜の兄)が最終セットで互角の戦いを繰り広げていて、強靭な身体能力を発揮していた。相手は静かな動きだが強弱のタイミングを図った頭脳プレイで応戦している。プレイ毎に割れんばかりの大歓声が起こり、日本語では無い言葉が入り混じる中、客席の上部で不測の人間の動きがあり数人の乱闘が始まった。応援団旗で叩く者、それを奪おうとする者、黒革ルックと迷彩ルックの一団同士のぶつかり合いだ。警備員がそこに集中したが、乱闘のエネルギーがそれをはるかに超えていた。罵声が体育館いっぱいに反響し、試合が止まった。選手も呆然と見上げている。やがて十数人の警官隊によって鎮静化され、試合は続行されたが、リーダーがその時点で試合を棄権した事で、その相手が決勝まで進み、最終的に優勝してしまった。
表彰式が終わった後、記者会見が行われて千夜の兄の棄権した理由についてのインタビューがテレビで放映された。
「貴方は実力から言って優勝候補の一人だと言われていましたが、客席で乱闘騒ぎがあった事で試合を棄権されましたが、その理由をお聞かせ頂きませんか?」
インタビューのマイクを差し出されて、
「そうですね、ええ~!あまり言いたくないんですが?」
「そりゃ~!ないと思いますが?棄権した事の理由を言わないなんて?貴方には沢山のファンがいますよね?お願いしますよ?一言!」リーダーはだまっていた。
怪訝そうに眉をしかめて、記者は尚も詰め寄った。兄は尚も俯いて無言を決め込んでいる。
「貴方には沢山のファンの他に貴方の所属する事業所がありますよね?組織に所属してる以上、貴方には理由を述べる義務があると思うのですが?」
「私の所属する組織と貴方(インタビュア)は関係ないでしょう?理由を言わねばならない義務が基本的にある訳ではなくて、貴方が貴方の局に対して“言わせる”義務を負ってるんではないですか?それは貴方の為ですよね?私は貴方の為には致しません?」
「私は記者ですから実際あった事をその通りに正しく報道するだけですから、貴方と“義務合戦 “をするつもりはありませんのでこれで質問するのは止めますが、貴方が棄権したことは、大衆は勝手にその理由を作り出し,創造し、それが独り歩きしてしまいます。それについて我々報道する側としては一切責任は負いませんので悪しからず」
「結構です!兎に角、ノーコメントです」
記者たちは呆れ返って、憤懣やり方ない様子で勝手に引き上げてしまった。この一部始終を見ていた視聴者は男女ダブルス、シングルスの優勝インタビューよりも、この不可解でショッキングな“義務合戦”が数倍も視聴率が上がった恰好になった。翌日、これに付いての新聞記事が興味深く取り上げられ、理由云々が勝手に作り上げられていた。
“企業の室内競技部に所属する選手が試合を途中で放棄した理由は、試合中客席においてファングループ同士による乱闘騒ぎが、神経質な本人の感情にショックを与え、試合を続行する気力が萎えてしまった為である。或いはスポーツの世界でしかも将来のオリンピック出場を目指している選手が客席の乱れくらいの理由で試合を放棄するか?それくらいのショックで試合が出来ないなんて考えられない。何か?別の理由があったんではないか?乱闘したメンバーは暴走族風だったようで、その連中と関わりがあったとか?スポーツの世界で非常に後味の悪さが残った。”と、
コーチと同所属の女性アスリートが千夜の兄に個人的に聞いた。
「メディアで大変なことに成ってるけど、貴方には連絡が取れなかったし、私たち所属事業所としてのコメントを新聞社が求めに来たのよね、乱闘したあの連中、アンタの暴走族時代のダチでしょう?相手側がその対抗勢力?アンタはもう、族を辞めてるんだから関係ないでしょう?乱闘しようが。こっちでちょっと、調べたんだけど、アンタの対戦相手ね!あの子も元暴走族出身者よね?あの子は試合をやめようとはしなかった、優勝しちゃったけど、貴方をうちのチームに推薦したのも私たちだし、責任があるのよね、どうすんの?これから?メディアの今後の成り行きでは?うちのチームとしての何らかの?処分があるかもよ?・・コーチどうですかね?」
「ううん!今のところ事実関係が不明だし、こいつの才能は天才肌だし、・・」、コーチは考え込んだ。
「違うんじゃ!先輩!違うんじゃ!俺はあいつ等の為にやめたんじゃ!乱闘をやめさせる為に試合を放棄したんじゃ!相手の族の奴らも知ってるんじゃ!俺が勝ったら、奴ら、大乱闘になるっちゃ!奴らも世間では悪う言われちょるけど、色んな辛さ背負ってるんじゃ!それも大昔から!同じ種族なんじゃから争う事はお互いが消滅することになるんじゃ!」、兄は涙を浮かべていた。
「馬ッ鹿ね!アンタ!自分の試合、棒に振ってまで!あんな子の為に」
「あいつ等のこと、やっぱり!可愛いっちゃ! “新羅一族!”の誇りが掛ってるんじゃ!潰したらダメなんじゃ!」
「わかった!わかった!こいつは身体は並外れてるが、脳みそは成長してねえよ、上には俺から説明しとく!マスコミ対策もな、こんなことでこいつを潰したくねえよ、オリンピック強化選手にするまではな!ところで新羅一族って何だよ?」コーチは少し安心したように呟いた。
「大昔の世迷言じゃから何でもないんじゃ!」リーダーは慌てて口をふさいだ。
千夜の兄と二人の女性アスリートは連れだって事業所の宿舎に向かった。
「ところで、アンタ!連絡が取れなかったけど、何処行ってたのよ?」
「警察じゃ!」
「えっ!警察?」
「あいつ等、受け出しに・・相手の奴らも全員じゃ!帰りに飲みに行ったけど、金スッカラカンや!」
「呆れた!お馬鹿さんね、アンタ」
「すんません!姉さん方」・・・・・
三日後、メディアの記事に “期待される、元暴走族のアスリート、仲間のために試合放棄!今後のオリンッピック強化選手への道はいかに?”、と良くも悪くも取れる見出しが出された。その頃、理久男たちは宿泊庵にいた。記事を読んだ庵の主人は、
「やっぱり!あいつは〝小夜様〟の血は引いてねえな。ただのひねくれ者んだ。女アスリートから連絡が来ちょったが、 “新羅一族”の誇りじゃと言ったらしい。・・馬鹿か!アイツは?」、
周りにいた庵のスタッフ、団体職員、千夜たちは無言でオーナーを見つめていたが、理久男は気になる事を尋ねた。
「オーナー、地震でごたついていた頃、この庵の客の荷物を盗んで車で逃走した泥棒集団がいましたよね?あの中に “ハンサンチョギン”と繰り返す男がいて、大昔、新羅の国から渡って来て、帰化した種族だと言ってましたよね?」
「ん・?・・アイツが何で?新羅一族の誇りなんて言ったのか解らねえが?・・アイツの家系の中に新羅が入っとるんかいな?・・となると千夜もか?」
「私、知らないよ!」と千夜が不思議そうに言った。
「それが本当だとすると、遡って、“小夜様”は武士の娘だから違うような気がするし、とすると途中で入ったか?嫁に貰われて行ったところの海賊(水軍)は元々武士じゃからやはり違うな?となるとアイツの父親だな!スポーツ関係の監督だったという?・・兎に角、新羅は竹田一帯の湧水群とか霧の中の岡城を神秘的だと湛えるところがあるんじゃが?・・防衛省の幹部に歴史学者みたいのがいて、話の中で遠い々 大昔の朝鮮半島の新羅の国からやって来たと云うか、奴隷として送られて来たと云うのが史実なんだが、その種族ちゅうのは状況がそうであったように、甘えが許されない受難の歴史があって、そう云う彼らの悲惨さと酷(きび)しさの中から生まれた歴史的なアイデンティティーがあるのかもしれね~な?・・それをアイツは表明しようとしたのかもしれん?・・それともう一つ、ひょっとすると西南戦争時に新羅の血筋がある者たちが薩摩軍と政府軍(熊本軍)とに別れたのかも知れん?となると“小夜様”にとっても敵と味方の新羅がいたと云う事になって、そうなると殺戮された者と助けられた者がいて、それを今だに引きずっていて、恩を感じた者が、“小夜様”の存在を神秘的だと言い伝えて来たのかも知れねえ~な?・・それがハンサンチョギン?・・しかしやられた新羅は、“小夜様”に怨念を持ち続けている事になる?・・これは怖いぞ!」理久男たち周りのスタッフは再び無言の内に一四〇年の歴史の中をさ迷って、朦朧となって、そして疲れ果てたように座り込んでしまった。
◇小夜様の本意
ひと月程して千夜たちの母親、妙夜が六十三歳の生涯を閉じた。妙夜は女手でアルミ工場を支え続けた過労がたたり、五十を超えた頃、神経症と頚椎損傷で長期療養生活を送って来た。彼女は太平洋戦争が終わった十年後に生まれたが、両親が営むアルミ工場は敗戦の痛手はあまり無く、むしろ軽くて腐らない安価なアルミニウムの弁当箱と洗面器が飛ぶように売れた、敗戦の惨めな暮らしとは裏腹に、妙夜はきれいな着物を着せられ、大事に育てられた。物心つく頃は書道を習い、将来は国語の先生にでもと、父親は考えていたらしい。戦時中は軍服のボタン、軍刀の鞘、その他軍事施設の軽い部分の納入が続いて、後ろめたい様な財務内容でかなりの蓄財を重ねた。妙夜が二十歳に成った時、人の良い父親が莫大な保証をした事で、財務内容が急降下し、今までの蓄財が底を付き、大幅な業務の縮小を余儀なくされた。そして逆境に弱い父親が心労のために急死し、母親は療養の為に業務から外れてしまった。跡を取った若い妙夜は教師の夢を諦め、経営の立て直しに奮闘した。辞めて行く従業員を最小限度に抑え、何とかやり繰りをしながら操業を続けていたが、あまりの保証額の大きさに破産申請をするところまで追い詰められ、楽になる為の自殺まで考えた。・・・ある夜の丑三つ時、脳裏に〝小夜様〟が現れた。
「私の四世代の子孫よ!情けないことである、私の血縁がここまで薄らいで来たとは?」
焼け落ちる城とそのかがり火を背に、長い黒髪を横に束ねた黒装束の女人が、切れ長の燃えるような眼差しで幻の中から妙夜を見つめている。妙夜は一瞬、心臓が止まりそうな息が出来ない恐怖心を覚えた。そして震える声で、
「あっ!貴女様は四世代と言うと“大祖母様”(〝小夜様〟)ですか?母親から少し聞いていましたが、こうして目の前に現れて来られるとは思っても見ませんでした。」
「お前は妙夜と云う名だな?私の姫~美夜~香夜までは皆運よく豪族である水軍の妃として一生を安寧に過ごしたが、私の血の流れの中で、死のうなどと思う不届き者は、お前が初めてじゃ!」妙夜は罵られることで、少し落ち着きを取り戻して来た。
「わ、私は貴女様から見ると不詳の子孫かもしれませんが、私も私なりに一生懸命やっているのです。で、でも無理なのです。私は父親から大借金という大きな負の遺産を引き継ぎました。教師の夢も結婚も諦めて、家を何とか守ろうとしているのです。でも!もう出来ません!」妙夜は涙声で答えた。
「諦めるという選択は私の血縁には無いのじゃ!お前はまだ若い、そのくらいの苦しみはまだまだ人生の序曲じゃ!その内に旋律が高まって来る時もある。よいか、諦めてはならぬ、・・ところでお前は結婚を諦めたと申したが、未だ、男を知らぬのか?又、独り寝の身を持て余すことは無いのか?」恥じらいをする余裕は無かった。
「い、いいえ!女学校を出て、師範学校に通っていました時に、ある立派な男の方に二~三度抱かれた事があります。」
「ほう!そちも女なのだな?兎に角、血を絶やしてはならぬ!」の言葉を最後に〝小夜様〟の姿は霞の彼方に消えて行った。妙夜はかっ!と目を見開き飛び起きた。全身汗をかき、暫く放心状態で座っていた。〝大祖母様〟の姿を瞼の中に初めて見たのだ。あの切れ長の燃えるような眼を、妙夜は胸の震えを抑えるために水を飲みに台所に立った。・・・
ある日、ひっ迫し従業員が数少なくなった妙夜のアルミ工場に賃金は安くても良いとの条件で朝鮮半島からの引揚者と見られる一団の労働者が訪れた。数日してその中の一人が師範学校時代に知り合った男だと分ってお互いに驚愕したのだが、男は元体育教師で経済的な事から一時的に学校をやめ、流浪の末、一族と巡り合い、妙夜のアルミ工場の募集の張り紙を見たのだった。十数年後、懸命に働いた従業員共々、アルミ工場は復活し財務内容は順調に回復して行った。その時点で元体育教師は本職に復帰し、その傍ら夫として化粧っ気無しの妙夜の片腕として工場経営を支えた。しかし不幸な事に夫は出張先の神戸の港で暴動に巻き込まれると云う不慮の事故であの世に行った。その時、千夜は小学生で、その兄は一五歳に成ったばかりだった。妙夜は〝小夜様〟の気丈な誰にも頼らないもう一つの面を引き継いでいて、未亡人として弧軍奮闘する頑なな女だったが、新羅の一族であった夫が他界した事でその関係者の従業員もいなくなっていた。そんな時、ある占い師に家運を占って貰ったことがあって、その不実らしき祈祷師が言うには、
「貴女の先祖に凶運の女人が見えますが、心当たりはありますか?」
「はい!ずっと、前の先祖に岡城のくノ一だった人がいたと母親から聞いています。」
この一言が金儲け主義の祈祷師にヒントを与えたようだった。
「見えます!黒装束の女人が、幾多の謀略と殺戮に身を染め、お城の宝を我がものにして、城が焼け落ちる前に、何処ともなく消え去った。このような非道な先祖の血を引き継いでいる貴女は、その女人の血を洗い流さねば、貴女の不幸は永遠に続く。故にこの祈祷台に多額の浄財を納め、わたしが行う女人との縁切りの儀式に臨まねばならない。」と、この不実の占い師を妙夜は信じてしまったのだ。次第に工場の経営は下向きになり、ストレスを溜め込んだ彼女の身体も病魔に侵され六十歳を超えたその晩秋に更に症状が悪化して心筋梗塞を併発して最期の時を迎えようとしていた。兄と千夜は其々、関西と東北に遠征中で間に合いそうに無かったが、闇の中から〝小夜様〟が再び現れた。
「お前もそれなりに頑張ったがこれが定めじゃな。惜しい事に智が足りなかったし、少しひねくれてもいた。そして私の血の流れから外れたいとの意志があったようじゃな?」
「血は繋がっているので仕方が無いのですが?私が外れたいと思うのは〝大祖母様〟の呪縛からです。私は〝大祖母様〟のように智力も容姿も劣っています。劣性遺伝かもしれません。だからもう!普通に暮らしたいのです。誇り高き〝大祖母様〟の血を引き継ぐのは荷が重すぎるのです。」
「お前は自分では劣ってると思っているようじゃが、意外とそうでは無いのではないか?
何故ならば、お前以前の子孫の中で、親から引き継いだ負の遺産を立て直そうと自ら、事業経営に挑戦したものはおらぬぞ!そして教師に成ろうと師範学校にまで通ったではないか?」
「今更、そんなに、褒めて貰っても、智が足りないとか、ひねくれてるとか、上手く行かない時は誰でも、少しひねくれたく成りますよ!」
「智が足りないと言ったのは、変な祈祷師にお前が惑わされて、私の血が謀略と殺戮に身を染めた忌まわしい血の流れから、外れねば、幸せは掴めないとか何とか?あの祈祷師は金儲け主義のペテン師なんじゃよ!あんなのに引っかかるところが智が足りないと言ったんじゃ!」
「でも、〝大祖母様〟は実際、謀略と殺戮をされたんでしょう?そんな人の血を引き継ぐのは恐ろしいです。」
「妙夜よ!時代と状況があるのじゃ?あの時はそうする事が正義だったんじゃ!戦争は謀略と殺戮を持って勝利を掴むのじゃ!日清日露戦争を考えて見なさい!謀略と殺戮によって日本が守られたのじゃ!謀略はいわば戦略・智力なんじゃ!」
「私はもうそんな世界は嫌なんです。怖いんです。静かに暮らしたいんです。」
「あぁ!何と云うか?・・お前も今、経済戦争の真っただ中にいるんだぞ?負けたら首を括らにゃならん!お前の父親も経済戦争に負けて過労で死んだんじゃ!いわば戦争で殺されたのと同じじゃ!人間の世はいつになっても戦争なのじゃ!過去も未来も同じ堂々巡りなのじゃ?」
「私はもう、疲れました。辛い事ばかりで!・・〝大祖母様〟はいつも私が苦しい時に現れるんですね?死ぬ時でしょう?そして死にたいと思った時もですが?」
「情けない事を言うな!助け人もいるじゃろうが?歳は少し取っても、初恋の相手と夫婦になれたではないか?私にはこれでも、正式な夫はいなかったんじゃぞ!」
「〝大祖母様〟はお殿様の寵愛も受けられたし、薩摩軍の大将とか政府軍の総大将にも見初められて、男遍歴もお盛んだったんではないんですか?私なんか枯れてしまった初恋の相手だけしか知らないんですよ!」
「四世代目を苦しい中、繋ぎ切った事は認めるが、妙夜も一過性の人格障害症候群に陥っているだけじゃ!」
「だって、〝大祖母様〟の仰る通りにしたんですよ!娘にも千夜(千の夜)と名付けましたし、夫と二人で経済戦争にも再度挑戦しましたが、夫は急に死んでしまうし、私も心身ともに疲れて此処まで来てしまいましたし、何にもいい事が無かった。こう成ったのは〝大祖母様〟の負の遺産を引き継いでいるからだと思うしか無いじゃありませんか?・・・いや!違います!これは私の僻みなんです!本当は、〝大祖母様〟が羨ましかったんです。絶世のお姿と高い智力が!そしてどこかで〝大祖母様〟の事を尊敬していたからだと思います。」
「妙夜もそんなに劣った女では無いぞ?お前は私を羨ましいと言うが、私は三十八歳でこの世を去ったのじゃ!十年間は吉野の神社の片隅で不憫な生活をして、落武者狩にも会った!私が華々しかったのは、ほんの三〜四年じゃ!あとは全部地獄の放浪じゃった。今も
さ迷っているがなぁ?・・」
「天国にはいらっしゃらないんですか?」
「私はな!お前が言う様に岡城を守る為じゃったが、謀略と殺戮を繰り返したのだ。岡城の小判も一部私物化した事もあった。あの世に行って閻魔様の門を潜る時、私は地獄に落ちると思っていたのだが、竹田の民の為にも尽くした事を取り上げられ、もう一度門の外に出てお前の子孫を見守って来い!其れがお前の功徳だ!と言われてこうして子孫のお前たちの前に現れて説教をし醜態をさらしている訳じゃ!」
「冥府をさ迷っておられる訳ですか?」
「そう!さ迷っているんじゃ!もう長くなるなぁ、・・そろそろ門を潜りたいんじゃが?・・あっ!そう云えばこの前、千夜に会って来たぞ!中々、根性は有りそうじゃが、恥ずかしがり屋でもあるなあの娘は。器量は中々良い!」
「貴女様に良く似てるのではないですか?小麦色の肌で、背も高く成りましたし、でも、
何を考えてるか分からないところがあって!暴走するところは今は、どうなのかな?少し心配ですね?」
「其れでいいのじゃ!其れで、しかしつい最近、私から離れたいと言っていたが・・・?」
「 “大祖母様”に付いて行ける者は誰もおりませんよ?・・私も最後ですから、もう楽になれます。何もかも忘れられる。あの世に行ったら宜しくお願いします。」
妙夜は思い描いていた。岡城の燃え落ちる炎の中に “小夜様”と二人の供が現われては消え、幼子を背負った流浪の旅で赤ん坊をあやす供の姿が甦る時空の中にいつまでも続いていた。くノ一小夜が生きた時代から百二十年の時が経過し、ここまでの流れが一瞬で訪れたように思えた。・・・.
「妙夜はすぐ天上界じゃよ!人様に悪さをしたわけじゃ無く、己で苦しんだだけじゃからな?天国じゃ!・・私も四世代を面倒見たからな、そろそろ閻魔様が裁きを下さるじゃろう?・少し疲れてしもうた!」〝 小夜様〟の姿が黄泉の国に消えて行くと同時に、妙夜は安らかに息を引き取った。・・・
◇印を持つ娘
週末に千夜が珍しく理久男を誘った。吉野梅園と宇佐神宮にお参りする為だ。千夜が突然そう言ったのは、今後の進む道に何かを感じ入ったのかも知れないと理久男は思った。
宿泊庵の周りの山々はすっかり春めいて樹木の若葉が燃えいずる緑の世界に引き込まれてしまっていた。その中をスエットスーツを着た千夜が理久男の車に乗り込んだ。柔らかい表情の娘が隣にいた。・・・
吉野梅園は入り口付近から既に梅の開花の真っ最中だった。祝日、園は多くの行楽客や家族連れで賑わっていた。老人会の一行がいて、年寄りの会話があっちこっちで交わされている。
「今年は梅の開花が遅れたようですね」・・「梅も少し暖かくならないと咲かないんじゃ?」・
・「実の収穫はいつ頃なんですかね?」・・「そりゃ~、花が落ちて、実が色づかないと! 」・・「で、いつ頃なんじゃろか?」杖をついた老人が、
「今年は六月の下旬から七月じゃな?しかし、一度には実は取らないんじゃ、青いのは残して色づいた頃取るんじゃな」、・・・
「梅は昔からある食材でもあるし健康食品でもあるのよね、また梅干し漬けて見ようかな?」聞き耳を立てていた千夜が意外な事を言った。理久男は千夜が薄化粧をしているのを始めて見た。
「理久男さん、梅干 食べる?」
「えっ、梅干し?あまり食べないよ、」
「私、梅干し漬けるよ!十五の時から、母が入院してから毎年やってるから」千夜は梅の花を眩しそうに見上げながら黒髪を掻きあげた。
「千夜ちゃん、意外だな?梅干し漬けるなんて、おばちゃん見たいだ、」
「うちの家はね、ずっと、女がやるの、ずっと、ずっと、昔から」
「そう!一つコツがあるの、最後に山椒の実を入れるんよ、味が良くなるの」
「ほう!山椒とか、・・そんな知ってんだ、やっぱりおばちゃんだ!」千夜は理久男の冷やかしを無視した。
「今度、食べてみる?」
「・・・いいよ!」と理久男はとっさに答えた。外見とは違った古風な事を言う千夜、梅干しの相伝に代わる〝小夜印〟の相伝の事を聞いて見ようと思った。団体職員から頼まれていて気にはなっていたのだが、
「千夜ちゃん!あの~、ところで、大昔、岡城で凄い活躍をされた〝小夜様〟と云う人の血を千夜ちゃんが受け継いでいると色んな人から聞いたんだけど、血を引いている証として、代々、翡翠の印を引き継いでいると云うのは本当なのかい?」理久男は冷や汗をかきながら一挙に聞いた。千夜は軽いフットワークで近くの大きな梅の木を片手で一回りして理久男に振り向いた。長い黒髪が揺れて、小麦色のスレンダーな肉体が弾んで移動した。少女は輝いていた。
「それ!ノーコメント」と言いながら理久男の肘に腕を回して来た。理久男は目からうろこが落ちたように、そして少し気が抜けた。千夜は楽しそうに、以前の沈んだ暗い乙女とは別人のようにはしゃいでいる。空は青々と晴れ渡っていて、目には見えないその先には只ならぬ世界が拡がっている様な、気持ちが溶け合って、時間と空間が続く中、そしてこの大宇宙の真っ只中で、この時この一瞬の千夜のほとばしる吐息と愛しさほど崇高でかけがえのないものはないと理久男は思った。
「向こうにあるのが天満神社だなぁ?能楽堂も横の方にあるよ」理久男が指さした方向に、千夜は大股でゆっくり歩きだした。何かに惹かれるように、千夜は小さなめがね橋を渡り、そそり立った杉の巨木を長い間見上げていた。神社にそっと触るようにお参りして、能楽堂に目を向けた。二~三人の観光客と家族連れの子供が走り回る人影とは別の異次元の世界に千夜が立っている。流浪の嵐の中に、薄れ行く記憶に切れ長の目を研ぎ澄まして!・・・そして巨杉の根から立ち上がる大きな幹のカーブに両手を伏せて千夜は抱かれるように身を預けた。理久男は近くにいるが、彼女は別の世界にいるのを知った。そしてそこにはいにしえの女人の影があると思った。交信しているのかも知れない?千夜は眠ったように動かない、理久男は少し恐怖を感じた。このまま黄泉の世界に連れて行かれるのではないのか?・・・逆に現世で苦難の道を進むかも知れない千夜がこのままいにしえに抱かれ、時を超えて向こうの世界に行ってしまう事が幸せかも知れないとも思った。千夜が好きなように傍にいる間は大事にしたいとも思った。良い出会いを成すことがなく、幸せを掴むことが出来なかった理久男の叔母たちの姿が浮んだ。理久男は頭痛がして思考が出来なくなった。そして思わず巨木に寄りかかる千夜をそっと抱いた。人影が途切れた境内に一人の幼児が立っていて、こちらを指差し
「お兄ちゃんがお姉ちゃんを抱っこしてるよ?」、と言って母親を見た。千夜が目を開け、
「私、眠っていたのかな?色んなところに行って、遠いところまで?」
小麦色の娘の瞳の奥の世界が垣間見えた。幼児の母親が
「あれはね、良し々 してるのよ」と言いながら手を引いて石橋を渡って行ってしまった。数本の巨木が立ち並び、昼間でも薄暗い境内の二人を誰かが見つめている。千夜は理久男の手を取って境内の外の梅林に引いた。所々に石碑が立ち、再び千夜が見据える。
時間が止まった様に、手は痛いほど固く結ばれ、理久男は引き摺られる様に千夜の後を追う時、女の心の中の激しい息使いを感じた。梅園の入口付近に戻った時、理久男は枝葉を広げた八百年の老木 臥龍梅(がりょうばい)の奥に、十五歳くらいに成長した祖父が佇んでいるのを目撃した。・・・・・・
「お腹空いたから、何か食べよう?」と車の助手席から千夜が言った。梅園の周りは行けども 々 人家がない。やっと見付けたのが地鶏の看板だった。ドアを開けると其処は焼き鳥の工場で、鶏のおにぎりは出来ると云う。四個買った。沢庵付きだ、自動販売機でお茶を買って、向かうは宇佐神宮だ。千夜は助手席で瞬くの間におにぎり二個を頬張った後、鼻唄を歌っていたが、理久男がナビゲーションを操作してる間に眠っていた。千夜は理久男の肩に黒髪を散らすように寄りかかり、右手を添わせて甘い香りを放っていた。
「この娘は本当に俺に全てを預けているのか?・・・そうだとしても、この美しいじゃじゃ馬を、俺は実際、守って行けるのか?」理久男の迷走が顔を出し始め、そして壮大な幻が脳裏をかすめた。
「この吉野一帯は昔はどんな景色だったのか?何の変哲もない、のんべんだらりとした草っ原の丘があっちこっちに横たわっているだけの土地だったのか?・・・いや、そうでは無いような気がする。遠い、いにしえに白装束を身に付け、烏帽子(えぼし)姿の人夫が太宰府のお宮から、育った梅の木を運び入れる行列が見える。霞の彼方に能楽や浄瑠璃の一座が行き交い、相撲甚句の掛け声が草原の丘に響いている。〝小夜様〟と供の一行が何度この道を往き来した事か?幼子を抱き、流浪の嵐の中を!そしてこの草原の小道を何千何万の足跡が過去から続いていることか?ビデオフィルムの代わりに黄泉の国からの交信とインスピレーションでそれは表わされるのだ!」と、あれこれ思い浮かべる理久男の脳幹が今は整然と配列され、時間と空間の合併・過去の実在性の意味が解るような気がした。大学の講義の中で“現実的に永遠の中で事の継起はあり得るか?・無限の中で物の配列又は物体の並びはあり得るか?と問われれば理久男は手探りの靄の中で、それは人間の頭脳では未だ解き明かされていなくて、せいぜい地球の寿命である六十億年後、すべてが無になるのでその問いは必要では無くなるのでは?と逃げ、勝手に決着を付けてしまって、肩の荷を降ろして、世の壮健な人達と同じようにいつの間にか忘れられてしまうと云う結論で終わっていたのが、そんな訳には行かないのではないかと思い始めた。頭が混乱しても、時間と空間、黄泉の国がどう関わっているか?その中でも自分は何かをしなければならないのだ?と考えても良いのであって、手が届かないものではないと理久男は思い直した。・・・・・
「私ってここの温泉に入った事ないの?」目が覚めたのか?別府の立ち上る湯煙を眺めながら千夜が呟いた。
「温泉は入り過ぎると頭も身体もふやけて、ボ〜ッと成ってしまうんだよね!シャワーがいいね!俺は、」理久男は温泉が好きでは無く、ひょっとして千夜の入湯で足止めされるのを避けるつもりでそう言って見た。
「私は湯船にじっと入るのが好きなの、身体が温まるから?」理久男は慌てて
「男と女の違いかな?」と言い直したが、千夜は不機嫌そうにそのまま黙ってしまった。
車の中に重苦しい沈黙が流れ、熱風呂嫌いの理久男は
「レディーファースト・思いやりの心を無視した不徳の致すところ、失敬!失敬!」と心の中で呟いた。その瞬間、沈黙はどうでも良くなって、女としての千夜をイメージした。理久男の脳裏に千夜の入浴する姿が浮かび、湯気の中にスレンダーな乙女の裸身が揺らぎ、千夜の恥じらいが見えた。横を見るといつの間にか理久男に寄りかかるのを止めて、うたた寝をして様子で目を閉じていた。この年代の娘は移り気で思考のメカニズムが一定せず、ちょっとした言葉で不機嫌になったり、こんなものかと思えば全くそうでは無く、基本的に女を守って行く事はその女の内面を知らねばならず、見守るのか?付き従う様引っ張って行くべきなのか?千夜は普通の女ではない。まったく特殊だ。一子相伝の厳しさの中に優美さを持っていて、野生の血を内在するこの娘はいつ平凡な自分の元を離れ、新天地に羽ばたくかもしれない?その時は静かに送り出してやろうとも考えた。元々この娘と共に過ごすのは無理な話で荷が重すぎるのは判っていて、かと言ってここまで与えられた立場をみすみす逃がしたくはなくなっている己がいる。今後も迷走を繰り返すのは分かっていた。・・・
別府温泉を過ぎ、暫くして宇佐神宮の広い駐車場に着いた。そこで状況は一変した、千夜が中々車から降りないのだ。何かを考えているのか?不機嫌さが続いているのか?何かに決断がつかないのか?理久男が車から降りると相変わらず整備された参道に立ち並んだイチイガシの緑の新芽の風情の中で、紙風船を追いかけている二人の子供が、掛け声と共に参道を走り回っているのが目に飛び込んで来た。早春の冷ややかな微風が少し肌寒い。昨年の古い枯葉が舞っているのが不思議と過去に戻った気がした。理久男は夏に証券マンとして営業に来た時の、流れる汗の蒸し暑さの中で、神宮の案内所の巫女を顧客と間違え、高校生に名刺を渡そうとした事が思い出されて苦笑いをした。千夜が意を決したように車から出て来た。何か強張っている。二人は駐車場の端を横切り、参道に沿って黙って歩いた。やっと春になった動きやすい季節だけあって、行楽客や若い人たちの参拝者の群れの中で千夜が突然、一軒の土産物店に近づいて行った。昨年立ち寄った見目麗しい女性がいる店だ。この女性もあれからダイレクトメールだけで、まとまった額の証券を購入して貰っている大事な顧客に成っている。丁度、お礼の挨拶をしようとしたら、それよりも先に千夜が店の奥に招かれた。理久男は一瞬呆気に取られたが、千夜の後に続いて中に入った。そして女性に一応の挨拶をして、女性も軽く会釈をしたが、千夜の両腕を握り、
「来たのね、千夜さん!」二人はかなり深い間柄のようで、店主は理久男たちをゆっくりと見上げた。そこには黒ずんだ年季の入ったテーブルが設置され、世代が引き継がれた跡があった。千夜は改めて理久男を紹介した。
「この前、言っていた人です。私の」
「真面目そうな方ね、この人去年、うちの店に来られた時、いろいろお話して、私も証券を購入させて頂いたんですよ」千夜は頷いて理久男を見た。
「こうした、きちんとした人じゃないと貴女の相手としてはダメよね!」
二人はテーブルに並んで腰を下ろした。女主人はレジの方に行って一人のスタッフに何か指示をしながらお茶と試食品の菓子を運んで来た。理久男はすぐさま千夜との関係を聞いた。女主人曰く、
「この人(千夜)とは一年くらい前だったか?お店に来られた時に知り合ったんですよね。貴方もご存知かと思いますが、大変な方のご子孫でいらっしゃる。実はこの土産物店は、本店が宇佐市の商店街にあって、創業は明治の中期頃なんですが、それ以前は当時の先祖が旧商店通りで粉屋を始め、黄な粉餅とうどん屋を営んでいて、西南戦争時に吉野から落ち延びて来られた女人の世話をすることになり、毎日、黄な粉餅とうどんを届けた事、そして女人が身重だったことで、女手も差し向けた事、その期間が一年に渡った事、無事に女児をお産みになって、又、吉野に帰られる時には小判三枚と和紙に朱の〝小夜印〟を頂いて、お見送りしたそうですが、頂いた小判と〝小夜印〟は家の家宝として今も大事に取ってあります。この事は世を忍ぶ身なので口外無用と念を押されたことで、その当時は公にはしておりません。そしてこちらに滞在されておられる間も政府軍による薩摩の落ち武者狩りとかで、最初おられた神宮の中のお寺から東側の山の上の大尾神社にお隠れになって、そこにうちの先祖も担い棒で飲み水やら食べ物を運び入れた事を過去帳に細かく書き記されてあります。お供の人の中に鉄砲を扱う方がおられて、その山でも乱闘もあったようです。全員無事で女児様を抱かれて去って行かれる後姿をお見送りする時、心から胸を撫で下ろしたと記してあります。」と、そこまで話し終えた女主人は深いため息をついて運んで来たお茶を自ら飲んだ。初めて聞く話に千夜と理久男は身動きが取れなかった。女主人が言った。
「びっくりしたでしょう?貴女方のご先祖様の話を聞いて、でも私はもっとびっくりしたんです!何故かと言うと千夜さんが、翡翠の印を持っていて、この〝小夜様〟と云うお方のご子孫だった事が?・・それに貴方(理久男)のお祖父様が昔、神宮の中のお寺にいらっしゃって、うちの祖母が娘の頃、お会いになった事を母から少し聞いたことがありますが?優しくて役者のようなお方だったって!昔の人は色んな繋がりがあったんですね。」
少し硬くなっていた千夜が打ち解けたように話し始めた。
「私も最近、病気の母親から聞いてびっくりしました。そんな凄い人が先祖にいたって、そして色んな人との関係も出て来て、頭が変になりそうだった。理久男さんのお祖父さんと私のお祖母ちゃんが若い頃、何か関係があったって事は聞いてたけど、こちらのお祖母ちゃんともいい仲だったって聞いて少し呆れたというか、理久男さんのお祖父さんて、ハンサムでモテモテだったんだ。本妻の人でしょう?私のお祖母ちゃんでしょ?それにこちらのお祖母ちゃんとも?・・理久男さんも似てるのかな?」
「知らないよ!そんな事?こちらのお祖母さんと会ったって言っても?この店は神宮のすぐ目の前だし、十五~六歳だろう?そりゃ!お菓子も買いに来るだろうし、同じ年頃であれば話もするだろう?本当にそうだったかは分んねえよ?」理久男は抗議した。
少しからかったつもりが理久男が赤面したので千夜はそれ以上は言わなかった。
「僕はね、祖父が色白で優男だったと言われてた顔は知らないし、僕が会った時はもうしわくちゃな顔で優しいお祖父ちゃんだったんだ。竹田で祖父の事を調べた時に思ったんだけど、祖父は色んな意味で疎まれていたんじゃないかと思うんだ?だから色々悪口言われたりして?」 千夜は神妙そうに目を伏せていた。
「少し、じゃじゃ馬だけど?千夜ちゃんの事はお祖父さんもいい女になると言ってるし、俺は嫌いじゃないよ!兎に角、俺は余裕が無いんだから、祖父に似てるとか優男だとか?そう云うの勘弁してよ!」理久男は中学生レベルになって自分の過去を眺めながら少し慌てた。
「お二人とも若くてまだまだ純粋ですよ?」女主人は微笑んだ。
「理久男さんて呼ばれてるのね?貴方は正直な方ですね、でも貴方だからいいんですよ!千夜さんの相手として、・・千夜さんと初めて会ったのは暴走族がこの店に大勢で来た時だったですよね!貴女が首にかけていた皮袋をお店の前のベンチの下に落として、後から探しに来られたんですもの。私は子供が落とした小さなおもちゃか何かと思って、中を見たら翡翠の原石の裏に何かの文字が掘ってあって、皮袋も凄く古いものだった。これは昔のちょっと何か貴重な物じゃないかと思って、朱肉をつけて紙に押して見たら〝小夜印〟の文字が浮き出て来たんです。祖母から聞いていた家宝の〝小夜印〟と同じなんです。あの時、私、体が震えました。だから母と二人でここで待っていたんです。多分あの時の暴走族の誰かの物だと思ったものですから、怖くてね!そしたら千夜さんがオートバイで来られましたよね。ヘルメットを取った姿がきれいな娘さんだったので驚きました。昔の〝小夜様〟もこんなに背が高くてきれいな方だったんだなと思いました。」
話し終わった女主人は体全体でその思いを表していた。見目麗しい大人の女性だった。・・
そのことがあってから千夜は度々この店を訪れたのだ。〝小夜様〟の面倒を見た先祖と互いの子孫が出会ったこの一瞬も朱の糸で繋がって来た合縁奇縁だと思われた。千夜はこの女主人をお姉さんと呼ぶようになっていた。女主人が言った。
「あそこに行って来るのね?二人で!・・帰りに私のところに来るのよ!」
姉は妹の目を覗き込んだ。千夜と理久男は店を出た。蒸気機関車のオブジェを左に見ながら、小さな橋を渡り、宇佐神宮の表参道に向かって歩き出した。真っ白い砂利を大勢の参拝者が踏み歩く音があっちこっちで聞こえる。前方に巨大な朱の大鳥居が現れ、柱の横で、幼稚園児の一行が思い思いに整列し、保母さんがデジカメを向けている、千夜はそちらを見ながら微笑んではいるが?・・理久男は先ほどから何か得体の知れないものが現れるようで落ち着かなかった。理久男の母親だったら多分逃げ出すだろうと思った。砂利を踏む音が自分だけの耳にこだまする、精神が動揺している証拠だ、大鳥居を潜ると広々とした表参道に出た。右側に静かな湖をたたえた宝物館が見える。左前方には能舞台らしき所を中心に周りを花菖蒲の池が取り囲んでいるのが垣間見えた。理久男は気を落ち着かせる為に、右の湖か左の花菖蒲の池に行きたいと思った。先には大勢の参拝者が歩いていて、この前立ち寄った案内所がある筈だ、その時、千夜が
「こっちよ!」と言って参道を左折した、理久男は踵を左に向けた瞬間よろめいたが、態勢を立て直し千夜の横に従った。その道は参道だろうか?と思われる程、少し狭くて真っすぐどこまでも続いていて、砂利が敷いて無くて草刈りしたばかりの道だった。
「どこに行くの?」、理久男は聞いた、
「〝小夜様〟がいたところ!」と答えた千夜の声が心持ち震えている。途中、黒ずんだ板切れに“大尾山参道”の文字が記してある。人影は殆んど無くて、グレーの縁無し帽をかぶった中年の植物採集家のような男性と、走るランニング姿の若者とすれ違った。参道の周りは手入れの跡がある雑木林で、二回ほど狸か何かの小動物と目が合ったが、それはすぐ消えた。
「あれ、狸かな?」、と呟いたが千夜は反応しない!ただ無言でかなり歩いたところは何も無くて草っぱらと参道の区別がつかなくなった神宮の敷地の外に出た感じがした。その先に一般道路の舗装された道が横たわっていて、その道路に踏み込むと、その先にはこんもりとした森が現れ、尚も参道らしき細道が山頂に向かって延びている。そこには両側に尖ったピラミッドの様な石灯篭と、片側に長方形の厚い石をくり抜いた水槽が置かれていて、石段を登ったところに、赤っぽい鳥居が建っている。それを潜るとうす暗い狭い石段が、ずっと上の方まで続いていて、まさに黄泉の国へ上る通路のように、
「ここを上るの?・・」
「うん!・・」千夜が理久男の二の腕を捕まえて来た、石段を登り切ると、又石段が現れ、両側にも古風な石灯篭が建っている。樹木に囲まれ、空は見えず、森の洞窟を上って行く、
確かに黄泉の国への階段だった。千夜がしがみついて来る!更に上ると次の石段があり、両側に獅子の形の石が彫られて、石段の手入れは無く、枯葉と雑草が蔓延っている。千夜が足を滑らせた!顔を覗くと目を閉じている。震えてもいる!しがみついている腕が硬直した。
「〝小夜様〟が見えるのか?」理久男は呟くように尋ねた?
「・・・私を呼ぶ声がする!」千夜の消え入りそうな声!理久男は土産店の女主人の、
「貴方のような男がついていなければ!」の言葉が、やっと、精神を支えている気がした。心臓がバクバク音をたてていて!更に次の石段を登り切って草だらけの道を曲がりながら進むと大尾神社らしき祠に辿り着いた。尚も目を閉じている千夜を促すと、
「くノ一の大叔母様が目を開けよ!と言ってる!」と泣き声で理久男の胸に顔を伏せた。目を開けたら千夜には見えるのだろう?黒装束に長い黒髪を横に束ねた切れ長の眼光鋭い
〝小夜様〟の姿が?・・理久男は恐怖に駆られながらも逆にわくわくするような戦慄感を味わい、逃げ出したくなる気持ちをやっとの思いで押し隠していた。そして千夜の髪をそっと抱いた。目を閉じた頬には幾筋もの涙が滲んでいた。理久男は遠ざかって行く風の中に
「若者よ!千夜を頼む」の声音を微かに聞いた気がした。・・・暫く足が竦んだまま立ち尽くした後、理久男は激しい動悸と恐怖のどん底の中でやっと呟くように言った。
「千、千夜!“小夜様〟はもう行ってしまったよ!僕に千夜を頼むと言って!」
それでも千夜は理久男の胸から顔を上げなかった。・・・
顔を上げたのは山を下り始めた時だったが、それでも理久男の腕にしがみ付いて、優美どころか?顔はくしゃくしゃで薄化粧が完全に取れている。下りは石段を使わずにバイパスの曲がりくねった草道を歩いた。途中、学者らしき高齢の人物が記録帳と若いスタッフとを携え、登って来るのを見て、千夜は腕を離した。出会い頭に二人は軽い会釈をした。白い口髭を生やした老人だった。理久男は直接 感じた“小夜様”の衝撃で尚も身体の一部が硬直し、棒になった足で歩いた。
「あんな人、いいね!私、父親を良く知らないから?」と、気を取り直した千夜は呟き、柔らかい布地の裾に着いたひっつきむし(草の種子)をしなやかに外しながら横顔は平常心に返っているようだった。理久男は千夜の変貌ぶりに驚いた。
平坦地に出て、草の参道を歩いていると又、ランニングの若者とすれ違ったが、この参道を往復しているらしかった。
「私も走らなきゃ!」元気を取り戻そうと思ったのか?千夜が言った。
「テニスで走ってるんだろう?」
「ううん、屈伸運動だけ!室内で短距離走法はするけど?」
「ランニングもいいんじゃないか?」と答えるだけで理久男は思考が消えていた。
「私もそう思うんだけど、オーナーがね!それ以上色が黒くならないように外は走るなって言うのよ!」
「・・・・」笑ったら良いのか?とにかく情けないほど言葉が出なかった。
「変なオーナー!」チラッとこちらを見ながら千夜が又、腕を回して来た。表参道に差し掛かった時、理久男は心の中にこの神宮の端っこに祖父がいたという寺跡を思い出した。と同時に大勢の参拝者の中に古風な少年が手招いているような錯覚があって、その方向を見た時、やっと硬直した身体が溶けた気がした。
「お祖父ちゃんだ!」まぼろしの少年の背中は案内所の方にゆっくり歩いている。千夜を引きずる様に、表参道を南に向かって歩いた。しがみつく様に腕を回した千夜の息使いが聞こえる。表参道を突き当たって右の方向に寺跡の表示の杭があった。苔むした敷地があるだけだったが、杭の横に何かがぼーっと立っている気配があった。理久男は会釈をした。暫くして影が消え、近くの紅葉の葉が僅かに揺れた。
「誰かいたの?」千夜が聞いた、
「祖父だと思うけど?・・微笑んでたよ。」
「私たちが仲良くしてるから?」
「僕たちが喧嘩したら又出て来るかも?・・ “小夜様”も」
「怖~い!・・キアヌリーブスが好きになったら貴方と喧嘩?」
変なトークを理久男は無視した。千夜は完全に元に戻ってると思うと同時に己の心が少し慌てた。参道を戻る時、理久男の腕を離れて軽くステップを踏んで先を行く千夜の姿に手が届かない奔放な野生を見た。
「こいつと一生を過ごすなんて!骨が折れるかも?大変だ!しかし俺は間違いなく惹かれているのだろう?・・」と心が呟いた。土産物店に着いた時、千夜はテーブルでお茶を飲んでいたが、しんみりとうな垂れた様なしぐさがあって、女同士は判るのかもしれないが、特に年上の聡明な女主人には青い千夜の心はお見通しなのだ。お姉さまと言われる所以、わがままで、本能で動くところがある娘にはこんな指揮官がいてくれると良いと思うし、理久男では多分、上手く扱えないと思った。千夜は本当に能力があるのか?テニスプレイヤーとして今後どのように進むのだろうか?オーナーの指導は大きいが、あの人はスケールが大きくて、計算髙くもあるし、割と女好きでもある。ネコ科の娘を順調に育て上げ、トッププレイヤーにして、大きな賞金を稼ぐように成ったら、欲が出て自分の女にしてしまう可能性も無きにしも非ず、なんて心配もしないではない。山の上の大尾神社で千夜の臆病で可愛い弱みも見つけ、一緒になっても尻に敷かれることは無いと云う自信も少しは付いたが、オーナーが育て、本物の有名プレイヤーになったら、しがない田舎の証券マンなど放り出される心配が絶対にある。そして一番心配なのは八頭身で伸びきった体は成熟すると益々魅力的な肢体を大衆に披露することに成り、力のある男どもが放っておかなくなるのではないのか?とまで考えると、取り留めが無くなってしまうので理久男は考えるのを止めようと思った。・・・しかしながら千夜と女主人の女子会を眺めながら、理久男はこの小娘は自分にとって玉として大き過ぎないか?と再び思ってしまった。選定をした黄泉の国に存在する祖父と〝小夜様〟は一体どう云う分析をしたのか?百戦錬磨のくノ一と佐田啓二張りのモテ男の二人が決めた事に間違いは無いとしても?・・と又ぼんやりと考えた。吉野と宇佐を一日廻り回って二人は帰途についた。理久男は宿泊庵へ、・・以前千夜が家は独りだから遊びに来る?と言った言葉を密かに期待もしていたが、今となってはオーナーによってそれは絶たれていた。千夜は大分市内の港にある“番スポーツジム・センター”の中の宿舎に戻ると言う。帰りの車の中で宿舎には何人くらい寝泊まりしてるか?聞いて見た。彼女は一番海に近いⅠLDKの広めの部屋で何でも揃っていて快適な部屋で他のアスリートが寝泊まりしているのか判らないと言う。外泊する時はオーナーに許可を貰う事になっていて、福岡の病院に転院した母親の持ち物を整理するために自宅に帰ることがあって、自分の部屋に飾ってある大きな熊さんの縫いぐるみを理久男に見せたいとも言った。そしてその縫いぐるみが理久男に似ていると言ってからかった。理久男はふくれっ面を千夜の顔面に付き出してやったが、千夜の幼さが残っている部分が理久男にとっては手が届かない野生を見るのだが、千夜が持っている事が明らかになった〝小夜印〟を公に出来るか?と尋ねて見た。・・答えはこうだった、首に巻いたプラチナの鎖に皮袋を通して乳房の間に乗せている、運動をする時は外す、大尾神社で理久男の胸に顔を伏せながら〝小夜様〟と交信した内容では、きちんとした相手と契りを結んだら印の公表をしても良いとの事だった。・・・
翌日、理久男が証券会社に出勤しようと車に乗り込もうとしている時、庵に朝帰りして来た木本団体職員が息を切らしながら千夜の母親の葬儀に番オーナーだけが招かれたことを伝えて来た。
その年の七月の初旬、千夜がテニスの世界に足を踏み出した。スケールの大きい庵のオーナーらしく、大きな出場枠を確保して来た。林緑スタジアム広島で行われる女子テニス世界大会に向けた花キューピットオープンだ。周りは驚いたが、千夜の実力は出場するだけの力は備えている事をオーナーが大会委員会に認めさせた。防衛省OB関連で押し込んだのだ!
千夜は兄の影響で中学の時からテニスに才能を発揮している。初めはバドミントンから入ったが、マリア・シャラポワに憧れてテニスにくら替えし、あっと云う間に県内で中学NO⒈になった。中三の時は高校NO⒈と対戦して二勝二敗で引き分けている。その後、県内では負ける相手がいなくなった。高校卒業時に家庭の事情で一時やめて、暴走族の一団に入ったが、先祖から引き継いだ類いまれな智力と身体能力を有し、意外にもオートバイの離れ業でその能力は上がっている。イコール これがオーナーが大会委員会に宛てた調書だった。大会委員長から質問があって
「先祖から受け継いだものとは何ですか?」に対してオーナーは答えた。
「ほら!あの西南戦争時の岡城のくノ一の〝小夜様〟の子孫てすよ?」
「えっ!そりゃ!何と云うか!・・是非とも!」で通過したのだが、庵のオーナーにとっては序の口で本人はまだまだ大いなる野望を持っていた。この広島の競技場は花キュウピットと名付けられているように花いっぱいの競技場で、テニスの試合を観戦する以上に色とりどりの花畑を楽しむ客も多いのだ。観戦者は二千人に達している、この大観衆の前で千夜は初めての公式のテニスボールを打つのだ。出番が来た、第二コートのコーチボックスに白い帽子を被った、がっしりした体格のオーナーと二人のトレーナーらしきスタッフが身を乗り出している。千夜が登場し、相手と練習のボールを打ち合っている。ゲームが始まった!千夜は立て続けに二本をブレイクした。日本人離れをした八頭身の身体を真っ白のテニスウエアーに包み、黒髪を鉢巻きで結わえている。小麦色の身体が躍動する!その試合は予想に反してストレートで勝利した。
二回戦は場所を変えて第一コートで行われたが、相手は日本人ではなく千夜と同じくらいの背格好の西洋人だった。激戦の結果、二対一でやっと勝利したが、これは今大会一番の番狂わせとなった。まだ二回戦で盛り上がりに欠けていたが、客席の上段で、その時だけ黒革ルックの一団の歓声が上がった。理久男と団体職員は仕事の合間にテレビ中継を見たが、殆んどの場面は深夜のビデオ中継を庵で観戦した。テレビの画面の中にコーチボックスが映し出された時、当然オーナーとコーチの姿は見えたが、その横に作務衣姿の住職と陶芸家の妻が盛んに手を握り締めて勝ちどきを上げている姿があって、これには理久男は驚いた。とっさに団体職員が言った。
「あれ~!あの住職たちは千夜の血筋を疑ってたんじゃないんか?」
「そうですよ!千夜が“小夜様”の血筋を持っている娘かどうか?猜疑心があったんですよ!陶芸家の人はそうでもなかったようなんですが?」
「住職たちはそんな事よりも千夜のプレイヤーとしての魅力を感じてるんやないか?」
「僕はあの住職の言葉にとても傷付いたんですよ!宿泊庵の会計主任の女姓にも詰られたし、殆んど折れてしまって東京に帰ったんですよ!」
「そりゃー君の全身全霊に因る事なんで、よう知らんけど、君は寺で自棄を起こして開き直ってたと京都女の会計士さんから聞いたで?」
「先輩!それは酷い言い方ですよ!多少はそうですけど、千夜みたいな八頭身の娘は現代人には多いって、だから“小夜様”のラインは眉唾物じゃないかって?」
「まぁ、え~やないか?もうそんな事は?」
確かに千夜は進化していた。中学からのテニスの基礎は勿論だが、番ジム・センターではオーナーが男子選手とマッチプレーをやらせていたらしい。男子並みのストロークに反応する能力を身に付けようとしていた。それと、くノ一から引き継いだ天分には確かに類まれなものがあった。宇佐の大尾神社での臆病な千夜の姿とはどうしても重ならなかったが、或いはあの時、怖がっていたが〝小夜様〟からちゃっかりと特別のエネルギーを貰ったのかもしれない?知らぬは我なりだ。女の執念と下心には到底勝てない気がした。オーナーと団体職員の考え方は又違った。番オーナーは木元団体職員が睨んだ通り
「そうや!千夜をテニスの世界で世に出す為や!そして賞金を稼ぐんや!順位を上げて、名を売る!ジムも儲かる、」だ、大分の田舎オーナーから、くノ一千夜を世界に羽ばたかせ、育て上げた立役者としての社会的地位を確立する大いなる野望を持っていた。番オーナーも千夜や兄の存在を知ってから、実家の過去帳と叔父や叔母が知りえる限りの番家の先祖の記録を調べ上げた結果、〝小夜様〟の警備を成した番千松の本流の過去帳を見たところ、かなり具体的な記録が記してあった。先祖が〝小夜様〟に拾われ、番の姓も与えられ、ここまで脈々と番家が続いて来た事のその恩に報いるために現代に繋がった千夜と共に栄光を掴み、掴ませたかったのだ。千夜が花キュウピットオープンの二回戦に勝ち残った事は番オーナーにとって何よりも涙が出るほど感慨深いものだった。一方、木元家の屋号は木元屋だが現代の姓は木元になっている、木元の実家は名古屋で祖父の時代に福岡から移住していて、(有)木元屋物産は建材をはじめかなりの取り扱い量をほこっていて、木元団体職員は弟で専務取締役だったが、兄と性格の違いで会社を飛び出したのだ。それはビジネス優先で人間味の乏しい兄に対して経営の考え方が全く違った。飛び出した決定的な理由が、兄は家の遠い先祖の歩いて来た道に対する尊厳の念が全くない。過去帳に脈々と書き綴られている〝小夜様〟についても、過去の夢物語だと軽く一蹴するところが、どうにも我慢がならず残念だった。そこで会社と取引があった組合団体に加入し、大分に赴任してきたのだ。そして埋もれた
〝小夜印〟と云う大きな遺物を物産と共に世に出したいと云う商魂を兼ねた目論みが強くなって来た。木元は理久男と庵でテニスのビデオ中継を見ながら、いよいよ時が訪れたことを思った。〝小夜様〟の子孫が世間に姿を見せ始め、注目される事を開始したのだ。今この時を逃したら遅れをとる。何故ならば地域の産物を売るには商標のイメージを早くから仕込まなければならない。イメージキャラクター〝小夜印〟が表沙汰になってしまってからは取って付けた感じでイメージ効果が出ない。このキャラクター作りは木元に取っては一世一代の大仕事として人生をかけている感があった。先祖から引き継いで来たものを、ここで大きく旗を揚げるのだ。手に汗を握りながら千夜に声援を送る内に一つの焦りが顔を出して来た。頼るのは隣にいる理久男だ。ビデオ中継の途中、興奮状態の理久男にそれとなく尋ねて見た。
「千夜はやっぱり本物やな!〝小夜様〟の血を引き継いでいるって、凄いわ!」
「えぇ、そうですね!でもなんか、複雑ですよ、」
「複雑ってなんでや?」
「兎に角、複雑なんです。千夜が遠ざかって行くようで、」
「何、言ってんのや?あんた!それじゃわし困るんや!」
「どうして?先輩が困るんですか?」
「この前、あんたに言っとったやろ!〝小夜印〟のこと?千夜が持ってるん、もう、わかったんじゃ無いんかいな?」
「えぇ、持ってました、首にかけて、」
「えっ!持ってるんかいな?」木元は弾けたように眼鏡をかかえた。そして、商標のキャラクターとして使わせてくれる事を懇願した。
「この前、一緒に宇佐に行った時、聞いて見たんですけど、良い相手と契りを結んだら、
〝小夜印〟を公表してもいいと云う事に成ったんですよ!」
「契りって、結婚するって事かいな?」
「そう、そうでしょうね?」
「契りって言うんは昔の言葉なんやけど、お互いが抱き合って、要するにセックスをするって云う事と違うんかいな?」
「えっ、どうですかね?契り?」
「頼むよ!理久男君!早くどうにかしてくれよ!」
「今、そんな状況じゃないですよ!それに千夜も簡単にはセックスさせない気がするなぁ?」
「この前、宇佐に行ったんは一緒になる事を確かめに行ったんじゃ無いんか?あの辺は静かな所もあるし、ヤッテくれば良かったじゃん、」
「あの時は怖い事もあって絶対無理!」
「怖い事って?」
「〝小夜様〟が出て来たらしいですよ?私には見えなかったんですが、」
「えっ!〝小夜様〟が!そらぁ、恐ろしいやろな?」
「体がガタガタ震えましたよ!」
「・・・で、〝小夜様〟が許してくれたんやろ?」
「まあ、そう見たいですね!」、
「だったら、ええやないか!それ、もう!契りをしたんも同じやないか!・・頼むよ!千夜にお願いしてくれよ!この試合終わったら抱きしめてやってさ、」
「参ったなぁ!」理久男は怪訝そうに頭を掻いたが、此の根っからの商売人とやらの欲の張った他人の情愛の中に勝手に入り込む手口に少しだけ嫌気が刺した。・・・
結局、広島でのテニス世界大会の予備戦の決勝に千夜は進めなかったが、大分に引き上げて来たその日にスタッフ共々宿泊庵にて慰労会が行われた。夏場の熱戦で全員が日に焼けて観戦に行った僧侶の妻(陶芸家)は日頃日光を浴びない額と腕が真っ赤になってヒリヒリと痛いという。県の体育協会からも御祝儀が届いていて総勢二十人を超えたパーティ―形式で盛り上がりを見せた。バン・スポーツジムの出場選手は男女合わせて五人いたが地元の大学生だという雲を衝くような長身の男子が只一人優勝をさらっていた。本人は西日本でたまたま勝っただけでまぐれだと控え目だったが、話題は特に彼の一メートル九十センチを超える身長に集まっていた。千夜は気落ちする間もなく、任されている櫓を組んだ野外レストランで大忙しだった。客は他にもたくさんいて、理久男はバーテンダーを手伝いながら千夜に、
「初めてなのに凄いよ?千夜ちゃんは!」
と言葉を掛けようとしたが、忙殺と奇声と雑音に掻き消されてしまった。千夜の負けた試合も放映されていて、何かがあったなぁ?と思ってはいたが、様子を聞こうと思って千夜の耳元で何かを言ったが、聞こえないのか?同情などは意に介さないのか?無表情の顔で通しているようだった。夏の真っ最中で蒸し暑く、木元先輩が蚊取り線香をもっと増やす事を提案した。理久男はビールジョッキを運びながら腕に止まった蚊に刺されて赤く盛り上がった跡を掻きながら惨めな気持ちになった。その惨めさは平常心を通している千夜への思いと相なって、コートの内側の情報を知らされないまま重苦しさを共有したいと思ったが入り込めなかった。オーナーは何も言わずポーカーフェイスを決め込んでいる。内心は気を使っての事だろうと思ったが、応援に行った作務衣姿の僧侶と妻の陶芸家との三人が歓談しているのが目に入った。姿勢を真っ直ぐにしたスキンヘッドの人物が理久男と木元先輩の感じたのと同じような事を言っていた。
「やはり“小夜様”と千夜さんは隔世遺伝で強い繋がりがあって、その厳しさの流れの中でお二方とも眩いほどの優美さを彷彿とさせますが!・・・」、住職は千夜が小夜印を持っているのを知ったか?単に千夜の身体能力を認めたのか?しかし大会に応援に行くと云う事は事前にオーナー辺りから小夜印を引き継いだ事実を聞き及んだとも思われる。理久男の傍に近づいてきた陶芸家の妻が理久男に小声で耳打ちした。
「千夜さんは貴男が傍にいないと心が不安定になる時がありそうよ?試合の後半落ち込んだみたいになって棄権しちゃったんだから1・・」
理久男はギクリ!とした。そして状況を把握した。見渡すと試合期間中、激しく疲労したであろう千夜がレストランのスタッフとして動き回っているのに誰一人慰めの言葉を掛けない!労いの肩を抱く事もしないオーナー、そして準決勝で途中棄権した事を知らされ、
「これは当てが外れたかも知れへんな?」と言った木元団体職員に対して、理久男は腹が立って来た。皆かなり飲んでいてレストランの店じまいが近づくと理久男は千夜の傍に行って
「あれだけ試合をして疲れているのにどうして,皆と一緒に休まないんだ?君の代わりは他のスタッフがいるんだよ!」
「わたし、疲れてないから、途中で試合止めちゃったから、ご褒美何もないのが当たり前!」
「いいんだよ!そんな事は!試合に出た子は休まないと駄目だよ!・・」
「・・・・!」何も言わない千夜は理久男が寺で自棄になって落ち込んだように自暴自棄になっているのか?と、しかし周りの雰囲気から云って何かがおかしいと思われた。遂に理久男はスタッフや僧侶と歓談しているオーナーの傍に進み出て、千夜の花キュウピットオープンでの事を聞いて見た。近づくとオーナーの帽子の下には包帯が巻かれていたが、意に介す様子もなく、
「千夜は精神的にまだ未熟だな?場数を踏めば先に進めると思うんじゃけど?理久男君のエスコートがかなり必要だ、じゃじゃ馬はきっと行ける!」
「あの世の僕の祖父と同じ事を言いますね?オーナー、」
「そうか?・・千夜は自分勝手に動いてるんだからな!俺が何度、休んでろ!と言っても聞かねえんだからあの子は?棄権した後、ずっと部屋に閉じこもりっきりで俺も今日になって久々に顔を見たって感じだ!頑固なのは兄貴以上だ!ありゃ?」
「そうなんですか?オーナーの言う事を聞かないのに僕の言う事聞きますかね?」
「棄権した理由がはっきりしない?本人もダンマリだ!君がしなきゃ誰がする?」
「そう、言われても?荷が重すぎるんですね、僕には!それにテニスの事も良く知らないし、母親なんかはいつもそわそわして不安な顔してますから、・・」
「印刷会社の親父さんは何て言ってる?」
「父親は変に千夜の事、気に入ってる見たいで、・・」
「今夜は君が千夜を家まで送ってやれ!そして君なりに慰めてやれ!話も聞いてやれ!俺は心底、君を頼りにしているんじゃ!やはり君しかいない!」理久男は二重三重に褒められ頼りにされたことで何処からか空勇気が出て来た。強い男との一心同体の錯覚、筋肉が繋がった気がした。
「兎に角、やって見ます。・・オーナー頭はどうかしたんですか?」包帯が滲んでいる。
「ああ!チンピラとちょっと、やり合ってな!ヌンチャクの有段者がいた、」
「大丈夫なんですか?額は!」理久男は本当に心配になった。オーナーの様子から誰かを守る為に負傷したのだと思った。
「前頭部がズキン!とするが大した事は無い、例のハンサンチョギン(神秘的)だよ!君と二人でジープで追いかけて行った、竹田湧水群の駐車場での立ち回りの一件の関係者で大昔の新羅一族の末裔だよ。千夜の兄とも関係があるのか?解らんが、大会に行く前だったが、千夜と一緒にいる時、そいつ等が二派に分かれてやり合ってたんだ。一方のそいつが、ハンサンチョギンと叫んで千夜に近づいて来て、千夜が怖がったもんだから!俺は夢中で!制止しようとしたら、そいつは逆に身振り手振りで友好を示して来たんじゃ!・・で、ホッとしたのもつかの間、もう一方の奴らが突然!攻撃して来たんじゃ!五~六人を叩き伏せるのに簡単では無かった!・・」
オーナーのこめかみが筋だっていた。理久男は番オーナーの酔いの中での鋭い眼光が、遠くの世界を眺めていて、いにしえの岡城の女人を警護する門番兵の血が脈々と流れている姿を見て身体が震えた。
「で、その友好の奴と暫く話したところによると、実はそいつ等の家の過去帳には “小夜様”に恩を貰った記録があって “小夜様”の絵が千夜に似ていたんだろうな?切れ長の眼辺りが?・・思った通り、新羅にも敵同士がいて“小夜様”と俺の先祖の門番兵に殺された新羅もかなりいて怨念は現世も続いているらしいが、まああれから百年以上も経っているんじゃけど怖い事じゃ!・・」理久男は得体の知れない巨大な魔物が襲って來るようで背中に寒気がした。この一帯に住み続けた新羅一族の血族の流れが、遠い過去の焼けてしまった祖父の家にもあったであろう過去帳にひょっとしたら?それは千分の一の確率で新羅の血の流れが記録されていたような気になった。その事は物心ついた理久男が抱かれた祖父の優しく口ずさむ鼻歌の中に“ハンサンチョギン”に似た歌詞があったような記憶が微かな幼いぬくもりとして甦っていたからだ。西暦五百年、気が遠くなるような時間と空間の中で新羅民族の流れは長い々 倭国(日本)への流浪の旅の中で虐げられ続け、それを宿命とし背負わされ、それが再び理久男に因って試されるのだ!会話が途切れ遠くを思う理久男にオーナーが
「頼むぞ!兄ちゃん!」太い腕が背中を押した。スタッフたちは殆んどが庵に泊まった。
理久男は証券会社の社用車の助手席に千夜を乗せ、国道五十七号線から一〇号線に入った時、千夜が吉野梅園の星空を見たいと言った。理久男はハンドルを右に切って臼杵上戸次線に乗り、その線から吉野梅園には一〇分後に着いた。夜も更け外灯に照らし出され静まり返った駐車場には薄い靄があって、あの世の心霊が浮遊している気配があった。二人で星空を見上げた時、満天の星粒の輝きの中に、誰にも邪魔されない澄みきった銀河の世界が広がっていた。首が太い理久男は上ばかり向くと肩が凝って身体がぐらついて来る。千夜は両手を後ろに組んで長い間、何かの星影を見つめていた。
「千夜ちゃん!キュウピット大会ではどうして部屋に籠ってしまったの?」理久男は小さく聞いて見た。それには答えず、怖い!と言って千夜はいきなり、わざとらしく理久男の肩に顔を伏せた!咄嗟に両手で支えたが大人になり掛けた髪の匂いが漂うワイルドで時として幼さが残る未熟な精神が気になった。宇佐の大尾神社で理久男の胸から顔を上げなかった千夜のくしゃくしゃとなった涙顔とは幾分違って何か自信が無さそうで迷いが感じられた。理久男は十九才の娘の髪に月光が反射してるのを見た。それは千夜の絶対的な存在が心の中に入り込んで来て、離してしまうとやっと整列している枠組みがバラバラに壊れてしまうような不安が起こって、それ故に頑なに守りたい愛しさが流れた。
「僕は一生千夜ちゃんを守って行く事になるんだよね?」と理久男はそう言って見た。
「大叔母様がそう云う風に言うし!たてついたら怖いし!でも本当は理久男さんしかいないの、私には。そしていつも怖いの?・・」理久男は胸が締め付けられた。千夜の幼さはガラスのように脆く壊れやすく、反面、疾風の如く駆け抜けて行く野性の鋭さがあって、此方はそのギャップの中に埋没しバランスを崩して腑抜けなダメ男になる未来が見えた。時間と空間は堂々巡りで竹田の未来が現在に戻って来る。そうなると腑抜けなダメ男を再生することが出来ると思うし、時の流れが消えて時間が必要では無くなればと、理久男はそんなふうに楽になりたいと思った。
「千夜ちゃんは僕がいないとダメなのかい?」
「判らない?でもいいお嫁さんには成れないかも知れないよ?」
「お嫁さんなんて早いよ!まだ?でもそれでもいいよ!僕は、お祖父ちゃんがね、じゃじゃ馬娘はいい女に成るって言ってるから?」
「・・・・・」その事は何度も聞いたと言わんばかりに千夜は鼻を鳴らして理久男の間合いから飛び出し、一回転して後ろから寄りかかる様に両腕を理久男の首に回して来た。理久男は千夜の玩具として、心の中の溶けない塊をほぐす為の媒体にもなっている気がして男として変な気分だった。千夜はそれを感じたのか?理久男から離れ、再度身体を回転した。
「お家に来る?」と耳の後ろで千夜の声がした。
「気落ちしているようだから家まで送ってやれって!オーナーが、」理久男は千夜を再び車の助手席に乗せドアを閉めた。車は元来た道を戻り、一〇号線を右折し、大分市内を抜け一路、宇佐に向かった。千夜は理久男の肩に寄りかかり目を閉じていたが、
「私のお家に行って私が作った梅干し食べてくれる?」小さな声で恥ずかしそうに言った。
「梅干し?千夜ちゃんが作った?ああ!この前言ってたね?毎年作るって?」
「そうよ!先祖直伝の、明日はお休みだから福岡の納骨堂に入ってる母さんに持って行くの!だから巧く漬かってるかどうか?理久男さんに食指して貰ってもいいかな?」
「いいよ!わかったよ!でも梅干しはしょっぱく無いの?」
「直伝だから失敗した事ないから多分大丈夫だと思うけど?」これに付いては理久男は返す言葉が見当たらなかった。突然、千夜が切り返した。
「ああ!この人、梅干しなんかには興味無いんだ、そうでしょう?」
「いや!そうじゃなくて?梅干しの事、良く解らないから?」理久男は慌ててそのように言ったが、このように会話する事が面倒くさくなって黙ってしまった。チラッと此方を見て千夜は目を閉じた。考えてみると歳はそんなに離れていないし、理久男も大人に成りきってはいなかったのだ。千夜に気を使ってばかりいられなかった。それに確かにこの娘はじゃじゃ馬だった。この年齢は少女になったり大人になったり心のメカニズムが理久男にはさっぱり判らなくなった。 “小夜様”の隔世遺伝を引き継いでそれなりに凄い女人に変身できる訳で、京都女性が言うようにチマチマした屁理屈は通用しない相手なのだ。そのくせ理久男を試しているところもあって、幼さが前面に出てもそれは問題ではなく、故に小女になった千夜の心に逆行する事は絶対に出来ない気がした。祖父から与えられた使命を全うしなければならない境遇となった一抹の重苦しさを、一点の曇りもない神秘の純真な、そして甘い髪の香りのビーナスが脳裏で微笑んだ。それを素直に受け入れれば良いのだ。理久男は深いため息を吐いた。いつの間にか千夜は薄目を開き、何処かを眺めていた。千夜にはちょっとした人の心が解るようでやはり気を遣わねばならない事もあるのだが、後背に立ついにしえの “小夜様 ”の存在を思うと理久男は恐怖と共に逃げ出したい衝動が起こって、又それと同じくらい、この娘に惹かれ愛しさが襲って来る。しかし今の立場から逃げる事はもう出来ないと思った。理久男は最近手を付けなかったメンソールを吹かそうと思い、ポケットの何処かにある筈のケースを片手で取り出し車に付いているシガーライターで火を付けた。そして運転席のドアを少し引き下げた。夜風がどっと入り込んでくる代わりに煙が攪拌されて臭いが薄くなった。千夜は煙に順応しているのか判らなかったが、一度、軽い咳をしてそして言った。
「フランスのギャング映画で如何にも満足しながら葉巻を吸う男の表情とは全く違うね?お兄ちゃんもそうだったけど?」運転手はリアクションの感情さえも沸き上がらなかったが、代わりに思いっきり煙を吐き出した。喉の奥から人工的な苦い涼しさが脳幹に伝わって行く。若い女をものにしようとした伊達男が途端に強い男に取られてしまった気がした。幾分速度を出した車が宇佐に近づくと一年前バスの中から見送った千夜の姿と犬の遠吠えが車が作り出す風の中に聞こえた。深夜に近く、千夜の住まいに行くのは初めてで、彼女の言うがままにハンドルを切って、そこは宇佐神宮の西側の住宅地にあって屋敷は樹木に囲まれていて、割と広そうだった。千夜が母親から聞いた話によると、アルミ工場を売却する前に、落ちぶれて跡継ぎがいなくなった小庄屋の屋敷を購入したもので、家は古いが敷地は広くて庭だと思われる所は雑木が立ち並んでいる。故に日光が入らない部分には苔が生えているのが、人感センサーライトに浮かび上がっていた。脇には前足の長い赤いオートバイが立て掛けてある。頑丈な玄関から入り、うす暗い廊下を進むと居間らしき広い部屋があった。
「理久男さん!ビール飲むでしょう?」と五百ミリリットルと三六〇ミリリットル二本がテーブルの上に置かれた。伊達男は緊張と喉の乾きがあって三六〇を一気に飲んでしまったが、帰りの運転がある事で一瞬後悔したが、千夜は少し笑った後、ソファーに疲れ切ったように半分横になってそして本当に眠ってしまった。自宅に帰りついた事で緊張が解れたんだろうと思ったが、傍にあったバスローブを千夜に着せてやった。安らかな寝息が聞こえた時、大人に成りきっていない野生の少女が夜のしじまにこの世のものとは思えない存在となって横たわっている。理久男は落ち着かない状態で対面のソファーで持っていたピーナッツと缶コーヒーを飲み、再びケースから抜き出したメンソールを吸った。ゆっくり揺らぎ昇る煙を目で追うと四角い二連の蛍光灯の周りの白い天井が煤のために薄茶色に変色していた。十数人のバイク族が吐くもうもうとした煙に巻かれた千夜がイメージされた。ひょっとしたら千夜も喫煙の中心にいたかもしれないが、それを詮索しても既にナンセンスな過去となっていた。そしてその過去から喫煙者理久男がただ一人、今にここにいる。二本目を吸う時、十畳近い居間は煙が充満し蛍光灯の光に照らされ靄のように白く浮いていた。千夜の眠るソファの光が届かない壁に “硫黄と重なる赤いマグマの絵、農業機械か車かまったく判らない抽象画 ”もあって、ごつごつした額縁に嵌められた明らかに昔の“女人の人物画”が濃い鉛筆だけで描かれていた。理久男は気高くて優しい微笑みを持ったこの人物画が、かの “小夜様”ではないかと勘ぐったが、優しい微笑みの印象はまったく違った人物だと思い直した。本当に味わっていない煙草に吐き気がし始めて、さすがに缶コーヒの中にもみ消したが、更に朦朧となった思考は死んだように眠っている千夜の身体が斜めに額縁にはめ込まれ、舞い上がる煙の中の立会場で絵画の売買の競りが行われ、千夜の斜めの絵が高値を呼んで、古い女人の額縁の中の微笑みが消えた気がして、不穏の兆候が感じられ、理久男も昨晩も寝ていないのに気づいてとにかく眠る事にした。ビールが効いていたのだから煙草やら缶コーヒーをやめておけばもう少し気持ちよく眠れたのにと、後悔したが、いつの間にかクッションを抱いて眠ってしまっていた。朝方、理久男が目覚めると千夜が床に座り理久男の膝に寄りかかる様に眠っていた。迷える乙女は慈しみの懐に抱かれたかったのか?長い髪が理久男の太ももに被さり女の香りが臭って来る。理久男が促すと眠気眼を擦りながら
「ごめんなさい!重かったでしょう?でも貴方の傍は安心できる!この印んが無くても大丈夫なような気がする 」理久男は何かに気づいた。
「千夜ちゃん!ひょっとしたら?キュウピット大会でその小夜印をなくしたんじゃないか?」
「うん!」千夜は頷いた。
「だから、心が落ち込んで試合を棄権したんだ!そうだろう? なる程、わかったぞ!」千夜は理久男の腰に縋りついて顔を埋めた。そして小さな声で
「失くしたら大叔母様が悲しむから?もしかしたら怒るかも?・・私は怖いの!大叔母様が!そして私の引き継がれた運命が、私を大祖母様がいないところに連れて行って!お願い!」
千夜の身体は宿命に震えていた。そして天満神社で感じた彼女の激しい息使いが増幅されて、理久男は無情の愛しさが込み上げると同時に二人を取り巻く世界に何処からか、ゴ~ッ!という耳鳴りがして恐怖の轟音が響いて来る気がした。
「千夜ちゃんは疲れてるんだから、僕の傍で良かったらずっといいよ!少し汗臭かったかな?」と腰砕けになりながら逆に胸の高鳴りを聴いた。そして思わず口走った!
「ハンサンチョギン!(幻想的!)・ハンサンチョギン!(神秘的!)」理久男は新羅の末裔でも何でも構わないと思った。・・
暫くして千夜はいきなり起き上がって浴室に向かい、出て来た時は青っぽいバスローブを纏っていて、二人分の朝食を作った。理久男も起きて並べられたトーストと目玉焼き、ウインナ―ソーセージを食い、熱いコーヒーを飲んだ。千夜はもう一寝入りすると言って、自分の部屋がある二階に上がって行った。だが間もなく下りて来て、何処かの棚から梅干しを出して、
「味見して貰う約束だったよね?」と言いながら小さな皿に梅干しを二個のせて差し出した。
「理久男さん!ゆっくりして行って。それとも私の部屋に来る? 」と千夜が言った。一瞬、胸の鼓動が鳴ったが、千夜の横顔を見てハッとした。それは妖艶でもあり、いつか鬼怒川の研修施設の夢の中に現われた疾風するバイクに乗った千夜の妖女的な横顔?・・・「頭がボーッとしているので神社を一回りしたいから外に出て来る!」と咄嗟に言った。千夜は寝室に誘って理久男に処女を捧げるつもりなのか?その時、自分はしなやかな大人になり掛けた女身を抱くことが出来るのか?自信が無さそうで欲しい気がしたが、やはり背後が怖かった。
「帰ったら嫌よ!」と千夜が命令的に叫んだが、
「それはない!」と手で合図して梅干しを一つ口に入れて玄関を出て、宇佐神宮の方角に歩いた。夜と昼の景色は全く違っていて、人の心もその時に因って様変わりする。千夜の横顔が今まで二度、悪魔的に見えたのは何故だろう?“小夜様”の血を引く所以なのか?・・三つ年下のこの娘は少女時代から現在までどのような生活を送ったのだろうか?魔人のような “小夜様”の霊に見守られながら育って来た少女は油断大敵予断を許さずの厳しさの中で一時も安らぎの情を持てなかったのでは?張り詰めた緊張の中で生きて来た少女の背中はぬるま湯にはそぐわない!故に突然、幼子に戻る千夜の生まれ出た野生の呪縛から理久男は解き放たれる事は生涯ないだろうと思った。しかしそれは嫌ではなく、むしろ喜びでもあって、逃げ出したい衝動は愛しさで包み込まれ、心の安寧も恐怖の中から生み出され、確固たる未だ見えぬ、掴まる事が出来る塔が現れて来るような気がした。
梅干しは甘からず辛からず、何かがピリッ!としてこれが千夜が言っていた山椒だと思ったが、理久男は梅干しの味がわかる年齢ではないと思っていて、千夜には何と言おうか?迷いつつ、宇佐神宮を歩き回る間中、一コの種を口の中で回しながら人と話す事もせず、種を吐き捨てるのも千夜に憚られ、赤い大鳥居の傍のベンチに座り、顎に力を入れ奥歯で梅干しの種を思いっきりかみ砕いた。いつまでも在る種を口の中が持て余し、かみ砕いたのだ。尼酸っぱい汁と柔らかい千夜が教えた仁なる物質を味わって見た。悪い味ではなかった。空を眺めると日差しがかなり昇っていて午前十時頃に成っているのでは?と思われたが、あれから一時間くらいしか経っておらず、ソファーで目覚めたのが九時を回っていた事になる。理久男はかなり眠ったと思った。ひょっとしたら千夜と博多まで車で一緒に行く羽目になるかも知れないと思ったが、半時して家に帰りつくと居間のテーブルの上にあったメモに、此処にいてもいなくても構わないが、夜八時に日豊本線 宇佐駅に迎えに来て!があってテニスプレイヤー千夜嬢の生活マネージャーか従順な執事にされた気分になった。理久男はその日の殆んどを宇佐神宮と千夜の家で過ごした。例の土産物店に立ち寄ってお茶を貰い、聡明な女主人に株の配当性向の話をし、東側の大尾神社には独りで登ったが蝉の音の騒めき以外は何もなく、帰りにもう一度、美人の店主と会い寅巻の菓子を三箱買って、千夜の家に帰る前に焼き鳥とノンアルコールビールを買った。理久男は夕方になって少しソファーで眠った。夜になって宇佐駅で待っていたが、少し遅れて来た千夜を乗せ、目と鼻の先の住まいで降ろし、千夜と張り詰めた気持ちのまま短いハグをした時、確かに胸の辺りに何か固いものがあった。小夜印は割と大きい物だと思われた。
「誰でも独りなんよね?でも今日はありがとう!」掠れた冷たい響きがあった。福岡の母親の納骨堂を訪れて来た千夜の表情は行く前と違っていた。理久男は寅巻を一本やって千夜の目の奥を見た。切れ長の瞳が深く遠くにあった。誰も侵すことが出来ないこの娘と出会ってから二年の時が流れたが、その流れは一瞬に思えた。彼女は明日から宿泊庵での山小屋レストランの仕事と番ジムセンターでの厳しい練習が待ち構えている。理久男は時間が交錯して千夜とは殆んど接触しない週の始まりがやって来る。・・
竹田への帰りの車の中で理久男の胸はこれまでの様々な思いががんじがらめに詰まり過ぎて、それを解きほぐして気持ちを鎮めようとしたが、それは逆に不安を掻き立て、かなりの速度で急降下し又飛び出して来る感覚があって、車を停め息を吐き深呼吸をしたいとも思った。襲って来る不安は証券業務に付いては皆無で出世しようが、首になっても一向に構わないのだが、千夜と添い遂げ一緒に人生を歩いて行く事に付いて支障が出て来ないとは限らない?予期せぬ異常事態が起こり青天の霹靂が小夜印を介して、木元先輩が言う、平凡な兄ちゃんには余りにも荷が重すぎると共に取り返しがつかない事態が起こり得る事は確実で?元々釣り合わなかった間柄の行く先は破綻し惨めに寝込んでしまった己の姿が現れては消えた。夜もかなり更けてそろそろ丑三つ時になって来て“小夜様”の燃える様な切れ長の眼と怒った祖父の亡霊が出て来そうで、理久男の正直な心境として早く頼もしいオーナーの所に帰り着きたかったのだ。・・・
春から夏に変わり、蝉の声が宿泊庵に木霊するようになった。木元団体職員は理久男の筋が頼りないと思ったのか?実家に帰り、過去張の中に挟んである古い和紙に押されてある小夜印を写真数枚に収めて持ち帰った。そして、木元屋小夜印、として商標登録を開始した。それを連合組合で新しく売り出す商品に添付する準備にかかった。元々先祖が
〝小夜様〟に従い、命懸けでお世話をした報奨として貰い受けたもので、それをただ引き継いでいるだけの千夜に遠慮する必要は無いと考えたのだ。ただ無断で公表した事で “小夜様”がお怒りになって出て来られると少し怖い気もしたが、多分、懐が深い女人なので、赦して貰えると思ったからでもあった。・・・
戦乱の岡城に暗躍したくノ一を媒体として商品化しようとする商魂という人間の情感を飛び越える現代の狡猾さに僅かな反感を覚えながら、堂々巡りの空間の中で、理久男は心の不安と迷走を繰り返し、外から迫り来る新羅の脅威を先送りにしようと思った。・・・
竹田から吉野へ愛を込めて・ハンサンチョギン(幻想的)
終わり
133ページ=約148`000文字・400字詰め原稿370枚
竹田から吉野へ愛を込めて・ハンサンチョギン(神秘的な) シゲキ @hiraoka2026
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