竹田から吉野へ愛を込めて・ハンサンチョギン(神秘的な)

シゲキ

第1話


第一章



過去への出発



門番兵と御用商人



湧水と梅園の中の祖父



くノ一



陶芸と和尚



◇過去への出発

後藤理久男は二十二才になっていた。大学の四年を終え、大手の証券会社から就職の採用通知が届いていて出社するまで二週間の期間がある。その間、以前から気になっていた亡き祖父の生まれ故郷、大分県竹田の跡地を辿ってみることにした。そして一人リックを背負って旅に出た。東京駅から東海道新幹線~新大阪駅から山陽新幹線~博多駅から九州新幹線と乗り継ぎ、熊本駅に降りたった。すぐさま近くの乗り捨てレンタカーを借りた。中学の時、修学旅行で熊本城~水前寺公園~カルデラの阿蘇山に登ったことの真新しい記憶が残っていて、それを基に目的地の竹田には阿蘇の草千里辺りから下ろうと路線地図を描いていた。

理久男は鈍く黒光りする分厚い木の階段を上り始めた。横板はいにしえの踏み込まれ手入れされ固化したような質感で僅かな弾力を伴って戦国の時代に誘われる。普通の家の三倍はあろうと思われる大きな横板を二段、三段と手摺につかまりながら上って行く。堅固な造りの巨城の内側は広い空間となって、二十メ―トルはある焦げ茶の梁が一角に伸びていて、白い壁に絵図、鎧、兜、槍が間隔をおいて整然と並ぶ陳列物を唖然と眺めて一巡する。過去に遡らされながら三階、四階と上がって行くと重厚な床板が微かに軋んで大昔の音が響いてくる。

豪華絢爛な数着の裃、一点の曇りもない鋭い大刀と小刀の両端が半円を描いて天に向かって反り上がっている様に光っていた。中年の婦人が二人、ひそひそ話をしながらその場を避けるように通り過ぎて行った。背中から一刀のもとに斬られるような感覚を覚え、理久男がとても近づけない結界がそこにある。息を切らして最上階の天守閣らしき所にやっと辿り着きほっとしたその部屋はこじんまりと狭められ、細長い絵図とお城の建築様式の立体モデルが現れた。四方はガラス張りで腰の高さに頑丈なフェンスが通っている。理久男はリックの背中とこめかみに汗を感じていて少し動悸がした。ガラス張りにくっつくようにしてフェンスに手をつき大きく深呼吸をした。途端、目の前は否応無しに霧雨の眼下に広大な町並みがひれ伏し、幻影にも似た霞む山麓の方角は備え付けの方位盤からすると阿蘇の煙が微かに立ち上っているのが分かった。若者は東京から西に千キロ移動した事に因るのか?重ったるいような目眩を感じていて、傍に立っている鎧兜の主と対峙するのは気後れがして、避けたいという衝動に駆られたが、逆にひと晩睡眠を十分取ればこの武者と対等に話を交わす気になるのではとも思い、七年前の中学生は今より遥かに素直で好奇心旺盛でこの兜などはテレビゲームの武者の闘い、宜しく指先でチョンチョンとつつくくらいは出来る筈だったが。・・・

その時、巨大な木の櫓(やぐら)が縦に少し動いた気がして我に返った。一瞬体が宙に浮いた感じだ、理久男はお城の最上階に上った事で引力の差が発生して、体の感覚が狂って来たのではないかとも思った。若者は城を降り、石畳の坂を下り始めた。霧雨は止み、僅かに足元が濡れている。四月の半ば、まだ肌寒い小風が石垣の谷間を抜けて来る。マウンテンパーカーのフードは視野が狭まるので後ろに垂らしていたが、来る時は気づかなかった石垣のあちこちに黄な臭い争いの弾痕が無数に残っているのを見た。時がさかのぼり、未だ経験した事のない召集令状を背中に貼られて戦地に赴こうとしている錯覚が襲ってくる。服装が少し違うのと、話声が大きい韓国人らしき観光客とすれ違ってハッとした。親近感があるアメリカ人とは違って日本海のすぐ隣なのに何故か遠い分断された特別の緊迫感があった。山門を抜け、未だ過去に入り込んだまま右手に見える城内の加藤神社の旗の方向に自然と足が向いた。通例の健康と旅の安全祈願は勿論のこと、戦乱と共にその中で生き抜く精神を与え続けた実に厳粛な神仏の足元に自然と引きずられて行く感覚はどうも祖父が背中を押している感じがした。歩道を歩くとサクサクと砂が鳴く、神社の境内は白砂利が敷き詰められウォーキングブーツが少し沈んだ。近世から始まったであろう社屋は意外と新しく数十年前に大改修されたものと思われる節があって、他の古い苔むした神社と同じく厳粛さは漂っていて、まさにその苔を擦り取って洗って磨き上げた感じに見えた。新年度が始まり若者の参拝者が多い。城門付近にいた服装が少し違う観光客はあまり見当たらず、いてもぎこちなく参拝を眺めている景色があった。国の違いは神仏への儀式の違いがあるのだろうかと理久男は思った。ピンクの羽飾りの上着にミニスカートをはいた二人の若い女が一〇センチヒールの踵を白砂利にめり込ませて、苦労しながら引いたおみくじを楠木の枝に結び付けようとしている。エロティシズムが嫌でも目に飛び込んで来て御立ち台の上で踊る若い女の下半身に観衆とエロスの神が寄り添い合う。若い理久男は交差する四本の太股に避けがたい衝動を覚えながら五〇〇円玉を賽銭箱に投げ入れた。そして鐘を鳴らし手を打って旅の目的を果たす祈願を強引に引き出した。無人の桐の長い木枠に並べられた紫のお守りを買って財布の中に入れ、踵を返し境内の入口に駐車していた乗り捨てレンタカーに向かった。途中、絶対的な存在感を誇る楠の巨木の周りを円形に石盤がはめ込まれ、その白砂利との間にハイヒールの踵が引っかかり、悲鳴を上げた女が勢いよく理久男の左肩に倒れ込んで来た。エロスの神が更に今度は直接、好まざるとに関わらず肉体を絡め合って来たのだ。咄嗟の事で甘美な肝を冷やした理久男は羽飾りが顔に押し付けられたような格好で瞬時に仰け反りながら両腕で女を受け止めた。羽飾りの後に柔らかい感触があって肌の香水を吸い込んだ。どちらかの足のウォーキングブーツが白砂利を抉りながら支えた。切り取られた空間で互いがスカイダイビングで突然絡み合った場面の中で言葉が押しつぶされ、物理的な抱きかかえに遭遇し、連れの女が盛んにこちらに詫びを言っているのが遠くで聞こえた。

「ご免なさい!すいません!大丈夫ですか?・・・貴女!足首折れたんじゃない?」、

「う!・・何んだよ?これ?・・」軟体動物の感触と女の上半身の重さの支えが解除されるまで理久男は中腰のままでスチール撮影のように止まっていた。倒れかけた娘は空中で自分の身体が分解されたと思わんばかりに猫のような声で泣きかけていた。この絡みは一瞬のようでもあって、連続写真の動画として纏めれば額縁に入る感じではあったが、周りの観衆の注目とはならず、真近で見た彼女たちの顔は理久男より二つ三つ年下で、あどけない女子学生らしき所作があったが事実そうだった。香水とは別の少女から大人の女へと脱皮する始まりの匂いがあり、理久男が後に思った事だが、受け止める側として大きな物体を支える負担は肉体と物体とではその負担割合がかなり違っていて肉体の場合は自然と融合のクッションが生まれ、後で身体の一部の筋肉が痛くなったと云う事は無かった。シルバー人材センターから雇われたであろう老齢の二人の警備員が惨劇の状況に対して一〇センチヒールが砂利の敷地に合わない事やら神社が掛けている参拝者の為の保険やらの事を言ったが、理久男の顔をじっと眺め、損傷が無い事を確認すると若者の肩をそっと二度叩いた後、納得したように顎をしゃくりながら、煩雑な駐車場の誘導に戻って行った。苦笑いの理久男には旅の初っ端からちょっとしたこの身体的な女難の相が何となくエロスの神と亡き祖父が示し合わせて理久男を冷やかして笑っている姿が浮かんだ。羽飾と一緒に抱きとめた女子学生とは一瞬、顎とか首筋の皮膚の細胞同士が擦り合い同化し、血が繋がった妹と同じ近親細胞になった気がしたが、頭の何か?髪に刺した櫛で首筋を引っ掻かれたような鈍い痛みを感じた時、この女性は全くの赤の他人だと脳幹に伝わった。乗り捨てレンタカーは二人の女子学生に見送られ肩越しに目線を送りながらハンドルを切って加藤神社を後にした。・・

祖父は若い頃色白でいい男と言われ、女性に注目されて来た噂話しを聞いていて、当然、女難の相もある筈が、実際、女性の事で苦労した噂は聞いた事は無くて、理久男が似ていると近所のおばさんから何度も聞かされた事から、かなり前後はするが、周りの人間から祖父から同じ女難の相も受け継いでいる孫だと思われていたのかも知れないが、先ほど起こった女性の身体そのものが突撃して来たことから自分の女難はこういう種類のものかも知れないと思ったりもした。レンタカーは熊本のもう一つの名所である水前寺公園に向かおうとする。櫛に因る首筋の擦過傷とは別に頬とか耳の付け根とかに相手の髪の毛が巻き付いたような感触が僅かに痺れたような感覚で響いてくる。圧迫を受けたような下顎を横にしゃくりながら理久男は車を走らせた。路面電車のレールと石畳にタイヤをバウンドさせながら十五分くらい走ると左前方に公園に向かう道路が分かれているのが見えた。中学の修学旅行での無邪気なドタバタ劇が脳裏にまざまざと浮かんで来る。公園入口横の有料駐車場に車を停め、土産物店が立ち並ぶ公園通りを歩くと、昔来た景色が果たしてこの形だったか?はっきりと重ならなくて、こじんまりとして違っているような?脳裏の裏側にあった景色とをもう一度重ねて少し納得しながら歩くと、一軒の茶店に団子を蒸す湯気が立ち上り、五~六人の中年の女性観光客がその周りにたむろして、幾つかの円卓に腰掛け、蒸した団子をほおばりお茶を飲んでいた。理久男も素朴な湯気の匂いにつられてフラフラと空いている長椅子の隅に腰を下した。動き回る年寄りがいて前掛け姿の愛想のいい老婆が冷茶を乗せた盆を持って来て言葉を掛けた。

「いらっしゃい!どれにしますか?」白髪の小綺麗な老婆の紺色の絣(かすり)が風流さを出している。

「それ、二つ下さい!」理久男は湯気の中の茶色の団子を指さした。・・・懐かしい味がした。冷茶のお代りもした。絣の老婆は代わりの冷茶を盆で運びながら

「お兄さんは何処から来なさったとな?」掠れた声色の老婆に声を掛けられると何故か心が温まった。いにしえの幼児体験、祖母そして祖父、抱き上げられ頬ずりされ愛しみが何度も重なって風化しそうな居心地の良い温もりの中で理久男は昔を眺めていた。

「東京から来ました。明日は阿蘇の方に行こうと思って・・・」

「あぁ、阿蘇の方にね、お一人で来なさったと?・・冷茶のお代りは何杯でも良かですけんね、・・この団子はそこの紫唐芋から作っとるんですよ」子供の頃の優しさが此処にもあって同じ心根がくり返される。理久男は軽く頭を下げて、横にぶら下がった籠に数個の園児の頭ほどの巨大な赤紫の芋が載っているのを見て驚いた。近くの円卓で団子を食っていた数人のやはり韓国人らしき女性もその巨大な芋を眺めて呆気に取られながら笑っている。城の山門の場面とは違ってその女性たちはこの茶店の風景に不思議と馴染んでいて、肌違いの特別の緊迫感は取れてスーパーなどで出会う主婦にも見えた。理久男は老婆に五百円玉を渡し、

「団子、美味しかったよ!又来るね!」若者は空腹を半分満たしリックを担ぎ公園に向かって歩きだした。四百円の入園料を払って池を見渡すと修学旅行での記憶もこの景色だったのかと?・・思い出に残っていた形とはかなり違っていて額縁にはまった白っぽい平面的な画面と現実の目の前の風景はまったく遭わなくて、あの頃友達とふざけ合って景色なんて良く見てなかったんだと述懐した。手入れされた新緑の水辺の松が目に飛び込んで来た。理久男は立ち止まらず通路を逆向きに足元の砂利を見ながら歩いている時、真新しいある記憶が蘇って来たのは、通りの土産物店に形の良い木刀が並べられていたのを剣道部のやんちゃなクラスメートが「一本買って帰る!」と言い出したのに対して、担任の女教師が、「旅行中にそんな物を持ち歩いたらダメです!」で押し問答を繰り返し、男性教師が間に入って、「お前な!それ持ってると暴力中学生に間違われるぞ!東京にもいっぱいあるんだから、帰ってから買うようにしろ!」で治まったのだが、その夜、宿でその生徒が話していたところによると、「先生、あの木刀はめったに手に入らない代物なんですよ!大昔から官山という国有林に生えている樫の木で、豊臣秀吉が槍の柄に使うために肥後藩から調達するくらい硬くて強い樫なんですよ!・・その官山という原始林は人が迷い込むと出られなくなる所で、更に胴体が直径二尺ある大蛇がいて、全てを飲み込んだと云う伝説もあるんですよ!事実、昔、その大蛇を見て逃げ帰った村人が何人か?いたそうですよ!」「ほう!そうなのか?お前、歴史やら、逸話を良く知ってるじゃないか?」と褒められていたのをはっきりと鮮明にスチール写真の映画のように繰り返し見ても同じで、多分、店の何処かにその謂れが綴られてあったのは間違いなかった。・・・

理久男は思い出を巡らしながら池の周りを一周した。職人が剪定している太い大蛇のような松が濃い緑の色彩を放ちながらくねっている。石の半円形の眼鏡橋の下の赤白黒の大鯉が水面を波立たせ、昔来た時よりも巨大になっている気がしたが、すれ違う観光客の一人が

「最近は地震が良くあるので、地下水の流れが変わってきて、池の水が減ってるんじゃないか?」、の声がふと気になったが、見渡すと何かの不安材料が曇り空から降りて来て一面に広がり、小さな波形が不自然な動きをしているような気にもなった。公園を出る時、カルチャーショックの為か?新幹線で熊本に到着してから、ちゃんとした食事を取ってなかった事を思ったが、少しくらい食わなくても別に死にはしないとの若気のアイデンティティが働いたが、祖父のルーツを探る旅だから念のために今後の保存食になるやも知れぬと若気の閃きが起こり、さっき食った紫芋団子を五個、絣(かすり)の老婆に頼んで追加で買ったが一個をおまけに貰った。

「阿蘇は、今は噴煙を上げとるからね!気を付けて行きなっせよ?」老婆の眼の奥が光って暗闇の中の導きにも似ていた。理久男は代金を払って、皺枯れた声の老婆に別れを告げ公園通りを抜け駐車場に向かって歩道を歩くと武家屋敷跡と思われる堀があって濃い緑色のどんよりとした水路があった。一世紀前の風景が醸し出されて、ウォーキングブーツが石畳を擦る音がした時、軽い頭痛と耳鳴りがして突然!記憶と共にある感覚に襲われた。茶店の枯れ木のような身体の、生命力がみなぎった涼しい目の老婆が、理久男の先祖に入れ替わり、それは理久男の祖母でもあり、茶店の長椅子に腰掛けた時、奥の方で立ち振る舞っているもう一人の老人が、祖父の姿と同じになった瞬間がまざまざと浮かんだ。祖父は料理人では無かったのだが、時空を超えた東京と水前寺がすぐ隣同士にあって、灰色の水平線で繋がっているような錯覚から始まり、古い写真帳の中の人物とその周りに蠢く誰か判らない人間の影が脳裏に現れて来た。こんな時、頭痛が起こるのは祖父譲りだと分っていた。祖母から聞いた事だったが、二十歳を過ぎた祖父は毎日のように頭痛に見舞われていて、その時は必ず竹田の景色があって、家が燃えて自分一人が生き残ったこと、寺と神社の小僧をしながら苦難の道を辿った過去が迫って来て、眠れず忘れようと必死に学問に没頭するしかなかったこと、頭痛持ちは通常女性が持っている筈なのにお祖父さんはそれだけ神経質であって、自分も大学生になった頃から耳鳴りがする!頭痛がする!と言って妹たちに、お兄ちゃんは女性の変な体質を持っている!と冷やかし気味に言われたこと、母親が心配して神経科の病院に一緒に行って脳幹には異常がなかったこと、こりゃあ、お祖父さんの隔世遺伝だな!と父親が言ったこと、更にはっきりと以前、祖母に見せられた寺の境内で撮られたらしい、なで肩のランニング姿の少年が写った茶色の焦げたような一枚の集合写真が頭に浮かんだのだった。新幹線で九州の熊本まで南下して、頭の中が朦朧と重く時間が何処かで止まったような?そして時の流れの隙間に、執拗になで肩の少年が再び現れようとしている気がしたが、駐車場でエンジンをかけた時、モーターの重厚な連続した回転音に因って気分をスッキリさせようと思ったがそうは行かなかった。・・・

気がつくと旅はまだ始まったばかりの筈なのに何かに追われるような重苦しい感覚は追い詰められた逃亡者のようなこわばった感覚、風邪を引いたわけでもなく何処かの空き地で体操でもすればスッキリするかな?と思ったり、就職試験が終わってかなりの日数をダラダラとした生活を繰り返したツケが来たのかとも思ったが、パンフレットの写真にある一面の草原が広がる阿蘇の草千里で思いっきり自然の空気を吸うと気分も何とかなるだろうと思ったりもした。レンタカーの旧型のナビゲーションを予約していたビジネスホテルにセットし、路面電車通りに沿って車を走らせた。夕方近くで西の空に陽が差し、オレンジ色の光を放っていて、小さい頃、母親と観た洋画の如く一兵卒とその恋人が戦場の帰りに眺めた血で赤く染まった夕空に似ていた。ホテルはお城の近くだったが、一度、城の周りを一周してホテルに着いた。ホテルは六階建ての小さめの建物だったが、チェックインし前金を払った時、フロント嬢から

「ご宿泊ありがとうございます!あの~お客様、現在、熊本で小さな地震が続いておりますので、避難誘導図をどうぞお持ち下さい!」、と赤く記した図面を手渡された。

理久男は一度ホテルの外に出て夕食を食いに行った。アーケードを少し歩いたが人通りが割りと多い。しかもハイヒールの女が多い。何処の街でもそうだか、背が高い女が多くなっている、足元を見るとヒールが高い、若者の胸に憂いに似た満足感が広がった。それは前向きの姿勢、自分をアピールする颯爽と闊歩する姿、理久男はそんな女性を応援したい気持ちを持っていた。祖父は別として、苦労して早く死んで行った叔母たち、もの心着いた時からずっと肌で触れ合い続けて来た懐かしさ、女性が虐げられ続けた不幸な時代を感じるのは叔母たちの哀れさに輪を掛けてその哀れさが他の不幸な女性にも飛び火して理久男の脳みそは可哀そうな女性一色のトラウマ頭として現在もまだ続いていて、それは理久男を小さいときから、両親以上に可愛がってくれた叔母たちの姿が常に脳裏で回転し続けていた。控えめで優しいだけの、主張しない、そして幸せになれなかった二人の叔母たち、母親はいつも言っていた。

「あの人達は運が悪かったのね!いい相手に巡り会わなかったの!」母親の言葉を少年の理久男は寂しいと思い、やるせなさの心情を始めて感じたのだった。理久男は長男で妹たちはドライに育ってはいるが、本来はあの叔母たちに似ているのではないかと思う節がある。本音は優しくて主張しなくて、彼氏が出来ても控え目な姿が目に付き、このまま行くと結婚して亭主関白になられ、虐げられ使われ寂しい一生を送るのではないかと変に心配になって、考え過ぎだと思って、顔立ちはいいのだから今流行りのもっと現代女性を演じて欲しいと願うのだった。そう云った一抹の不安を颯爽と闊歩するハイヒールの若い女を見ると何故か?安心するのだ。女系家族に育った者の宿命なのかもしれない。少年時代に人知れず心を痛め、ずっと心の中に秘めているモヤモヤがあって、故に理久男はこのことを誰にも言わず誰にも語ったことも無く、それはそう思う心の中を覗かれるのが極端に嫌で恥ずかしかったのだが、その事を今でも自己の感情の一部として大事にしていた。それは何となく自身の外見が草食系だと見られていて如何にも優男で内向的な感じ!と言われてもいるが、理久男はそうでは無いと強く心で押し返している所があった。

アーケードの真ん中くらいに地下の洋食屋があって理久男はそこに入った。丸一日半、ちゃんとした食事を取らず、胃からの滋養がまさに消えつつあって、脳が力を失くして妄想が始まる原因だと思われた。久し振りに理久男は上のカツ定食を注文した。地下の店というのは静かで余計な言葉が飛び交う事がなく不思議と落ち着くのだ。客も理久男くらいの歳で汚い服装の若者もいて同世代の若い連帯感を熊本の洋食屋で感じてしまった。ピリ辛のソースで肉汁が上品なカツを食い終わった時、ちゃんと、悪かった体調は持ち直し、冷たいこおり水を飲んだ時、満腹感が満足感となり自分のお腹と脳みそは見事なくらい単純な造りだと云う気がした。・・・

支払いを済ませ、元来たアーケードを真っ直ぐ戻り、ホテルでシャワーを浴び、備え付けのバスローブを纏いベッドに横たわった。リックのポケットに忍ばせていたメンソールを取り出し一本抜き取って久々に吸ってみた。立ち昇る煙が弧を描いてゆっくりと揺らめいて換気扇近くでばらけて見えなくなった。お城の神社で倒れ込んで来た女学生の名前と住所を聞いとけば良かったと、今になって心に浮かべた。あの時はそんな余裕は無かったのだが、でもひょっとしたら地元の女子大生は先ほどのアーケードの路上パントマイムを見学に来ていて、此方に気づき向こうから走り寄って来るかも知れない?などと旅の一日目にしてはまあまあの手応えがあったのだと思いながらも水前寺での祖母や祖父らしき幻の影はとんだ妄想であって、以前の記憶を引っ張り出して思い起こしてみたが全く答えは出て来なかった。はっきりと思い出したのは以前祖母に因って見せられた茶色の剥がれ落ちそうなランニング姿の少年の写真は当時、活版印刷屋の娘が大人に成った祖父を婿養子として向かい入れた時に手渡された物だと聞かされた事だ。

バスローブ姿の若者は二本目の煙草に火を付け鼻からゆっくりと出しながら更なる思いに馳せた。・・・

阿蘇から大分にかけてあれやこれやと地図を眺めていると新しい土地を訪ねる緊張が解れてなにやら睡魔が襲って来た。どのくらい眠っただろうか?目が覚めて少し胃がもたれている。おもいっきり食ったカツが胃の上に乗っかっている感じだ、理久男は洗面のコップで水を飲んだ。そしてテレビをつけたら歌番組が終ったところで、次に理久男がたまに目に飛び込んでくる年取ったタレントが田舎を巡り歩く番組で、何処かの沿線の食堂で注文したものを普通に食べる、おべっかを言わない、そこで自然な会話が生まれる番組だ。暫くその場面を見てると突然!ベッドが陥没したようにドスン!と下に落ちた。体もつられて落ちた。そして跳ね上がり、又落ちた。三度目は浅く落ちた感じだ、理久男は腰の関節が外れた気がした。次に斜めに振られたような衝撃がきた。テレビの画面が乱れて音声も途切れ 々 だ!一度停電して暫くして又ついた。ホテルの部屋は倒れる物がなく、ハンガーに掛けた服が揺れている。テレビの画面が横を向いている。理久男は東京の自宅で何度か地震を経験しているが、ドスンと下に落ちたのは初めてで、かなりショックを受けた。ホテルの自分の部屋だけが残って、あとは皆、廊下も何もかもが崩れ落ちているのではないか?という気がしたが、揺れが完全に治まるまでじっとしているのがいいと思って・・・暫くしてそっとドアを開けると廊下はあった。殆んどの客が廊下でウロウロしていて、誰かれが

「非常階段は向こうですかね?」「中の階段で行った方がいい、」「エレベーターは動かないか?」、とか叫び合っている。理久男は素早くパーカーとジーンズの旅行着に着替え、リックを持って中の階段を降りて行った。客たちは中の階段を使い終えていて、理久男は五階にいたので階段を八段降りればいいと計算して、数えながら素早く駈け下りて行った。一階に到着すると既に二十数名の客が不安そうにロビーに集まっていて、女性以外は皆バスローブ姿だった。全ての人間が慌てていたが、同じように不安を隠さない支配人が

「大変な地震が発生致しましたが、当ホテルでは今のところ、倒壊は免れましたが、今のところ、自家発電に切り替えております。今のところ、揺れの山場は過ぎたのではないかと?・・ピークは過ぎたのでは?・余震が少し有りますが、・・外も危ないですから、・・窓のガラスが落ちて来ると危ないですから、・・今のところ?皆様、ここで様子を見ましょうか?・・今のところ、ええ〜、今のところ、」 “今のところ”の連発は当然で、盛んに口調が上擦っているのも当然で、そこで全員の緊迫した連帯感が生まれ、危険な状況に対処しようとする意識が高まっている。日本人であれば一度か二度は防災訓練に臨んだ事がある所以かも知れない。全員がテレビにくぎづけで

「熊本地方に震度七強の地震発生!」の横文字が映し出され、

「建物の外には出ないように!倒壊した建物からは速やかに離れ、近くの安全な所に避難してください!・・・!」のアナウンスが繰り返されている。泊り客も必然、心穏やかな客がいる筈がなくて、また必死に自制心でもって抑えてはいるが顔が引きつっているのも当然だった。

「揺れはまだ、続くのかな?」「このホテルは本当に大丈夫かな?」「建物のひび割れは無いよね?」「支配人!ガス漏れは大丈夫ですか?」質問が飛び交った。

「このホテルは建築されてから、まだ数年しか経っておりませんが、オール電化になっておりまして、厨房の一部以外はガスは使用しておりません。ガスの部分は安全な漏れ防止管理となっておりますので、そのご心配はご無用かと、・・・」、客たちは皆、あちらこちらを見まわし、時たま外を覗いたりロビーの中を行ったり来たりしていたが、次第にソファーに座り始めた。小一時間経って微震も収まり、客たちも少し落ち着きを取り戻して来た。ホテル側も落ち着いた受け答えに変わって来ていたが、顔色は客以上に依然として蒼白さは取れず、責任が最後まで伴うものであってその姿勢はまさに当然であった。地震と云う地球規模の人間の手が届かない脅威が少しづつ薄らいで、不安という文字は残したまま、客たちは自分の身の行先を取り戻そうとしていた。・・

最初の地震で、理久男が部屋のドアを開けた時、通路で一人の若い少し派手な女が右往左往しているのを見かけたが、今はロビーのソファーで中年のバスローブ姿の男性客と並んで何か話している。ハイヒールとドレスで旅行客とは見えないし、明らかにルームサービス嬢だが?理久男と同年齢くらいだろうか?その一組のカップルが理久男の傍に座っていて、

「私、帰ります!」の言葉が聞こえた後、カップルの会話が途切れて男性客はそっぽを向いた。暫くして、そわそわし始めた女が隣の理久男を見ながら

「お腹空いた〜!怖〜い!」明らかに理久男を捉え始めている、顔を見るとあどけなさが残る瞳で見返して来る。理久男はぞくっ!とした。ロビーの客たちの動きが始まって、いつの間にか先隣の男性客は何処かに行ってしまっていた。女が聞いた、

「貴方、学生?・・地震、怖かったね!私、死ぬかと思った!でも、お腹空いた!」恐怖の為に恥じらいが消えていた。

「うん?」理久男は独りであてもなさそうなその女に一抹の同情心が芽生えた気がして、「良かったら、これ食べる?」、リックの中から水前寺で買った紫芋団子を差し出してしまった。学生時代に経験した災害時の連帯感の意識にも似ていた。

「あっ!これ、私!大好物!いいの?」少女の瞳を輝かして女は芋団子を一個ならず二個頬張った。遠慮が無い無邪気さと腹の虫が叫び、喉を詰まらせ握り締めていた缶コーヒーを煽っていた。多分、夕飯を食っていなかったのは事実だったのだろう。恐怖と空腹は隣り合わせなのだ!又、外に出るのは怖いとも言った。ルームサービスをするはずが、突然の地震の脅威のため中年の客がその気を無くしたのだろう?理久男がその立場だったとしてもやはり同じだったかもしれない。理久男も過去、ルームサービスを呼んだことがある。

大学の登山部のサークルの合宿の帰り、ある温泉街のホテルに一泊した時、其々の部屋に呼んだのだが、同年齢のキャンパスの女子学生と比べると何かが違う!一個の人間として世の中に体を張って立っている意地らしさを感じるのだ。祖父の長い受難の時代を通して、それから引き継いだ遥かな宿命と受難の中で消えて行った叔母たちの血を引き継いだこの身体の中に渦巻く感情がこの少女の瞳を持った女に愛しさを向けるのだ。理久男は自分の事を変わり者だとも思っていた。・・・

午前0時近くになり、時おり微震は続いていたが、ざわついていたロビーの客も理久男たちを残して部屋に引き上げ始めた。隣の女は外には出たくないとも帰れないとも、結局部屋に連れて行く事にしたと云うよりも理久男が部屋に向かうと着いて来たのだった。紫芋団子絡みだ。フロントマネージャーが怪訝そうに見送った。部屋に入った女は生き返った様に背伸びをして、ベッドに腰を下ろした理久男に

「お風呂いい?」見上げる理久男の目の前で素早く服を脱ぎ、バスルームに入って行った。お湯を使う音が聞こえ 鼻歌らしきさえずりもあってホテルの機能は支障なく動いているのだと思われた。ホテルの外はどうなっているのか?テレビでは何処かの水道管が破裂して水が吹きあがっているとか、大きな看板が落ちて車が通れなくなっているとか日常が急に止まった区域の情報が流れていてそしてそれは新たな情報毎に深刻さが広がっていた。理久男も二十年生きて来て地震の経験は小さい時から聞かされていて皇居の付近が震度幾つだとか下町はマグニチュード幾つで震源は東京湾の沖数十キロの海底で一週間続いているとかの記憶も幾つかあってお土産をくれた叔母にしがみ付いていた姿を思い出した。そして近年は次第にその頻度が激しくなって来ていて大震災の予兆と防災訓練の必要性が嫌というほど行政やマスコミから流れていて、それが今度は遠く離れたこの地で、祖父のルーツを探し求める途中の地で実際に起こりその脅威に突然遭遇したことへの不思議な驚きとで残っていた重ったるい頭と怠惰な目眩が打ちのめされる様に消えていた。理久男はドアの外の通路の端っこにあった自動販売機から缶ビールを買って来た。二~三枚の服を詰め込んだリュックサックの別のポケットからピーナッツを取り出し摘みながら喉を潤した。浴室から女が呼んでる声がして、

「このバスローブ着ていい?」黄色い甘い声がして、安楽の場所を手に入れ今夜を無事に過ごす為、若者の親しい同伴者となろうとしていた。理久男が着替えたバスローブはハンガー掛けにぶら下がったままで、改めて着る気にはならなかった。

「クライマーにバスローブは似合わない!、などと呟いていると床に落ちていたメンソールケースが目には入って吸う気はまったく起こらず拾ってリュックのポケットにねじ込んだ。バスルームから白いバスローブを纏ったスレンダーで盛り上がった胸の谷間を露にしながら女が近寄ってきた。

「貴方、お風呂は?」

「さっき入ったよ!また、地震来るかもしれないだろう、準備しとかなきゃ!」

「ふ〜ん、ビール美味しい?・・貴方とは年同じくらいだし、本当の恋人みたい?」軽い商売詞だと判ってはいたが相手は理久男の横に肩を並べて勢いよく腰を下ろした。尻の柔らかさと括れた腰が脳裏に反応した。濡れたような睫毛で理久男を見つめながら女は最も愛らしく可愛い顔をした。若者は飲みかけの缶ビールを渡し、彼女は細い首筋を上に向けて小さな喉仏をエロチックに動かした。そして寄りかかって来た風呂上がりの濡れた髪と女の香りがすぐ横にあった。

「貴方、親切だから好きよ!」女の唇が動いた。自動的に理久男は慣れない手つきで女を抱いた。こんな時そうしなければ男の恥だと二~三度思った事がある若者の体は痺れたように夢中で女体に埋没して行った。

「くすっ!」と甘い吐息が聞こえ、女は演技ではない声を出した。本当の恋人になったように、・・・

早朝、彼女は理久男にハグをして別れを告げた。

「またね!」ピンクのマニュキアの指を立てながらドアの外に消えていった。昨夜、理久男が寝入ったのは午前二時くらいだっただろうか?その間、微震は殆んど感じなかったと云うか、神経が悦楽の境地をさ迷っていたせいかも知れなかったのだ。女が帰った後、理久男は再び寝入ったが、チェックアウトぎりぎりに飛び起きて、大変な事変で何処かが破壊されたかも知れないその朝にこれは仕方が無いと思われる程度の品揃えが足りなくなった簡素なモーニングサービスを済ませてホテルを出た。外は大した被害らしい状況は無いように見えたが、昨夜のあれだけの地震、外からは判らない内部に秘めた亀裂や致命的な歪みは絶対あるという気がした。・・・

向かうは阿蘇だがこの有事の時、果たして進むべきか?進む判断は馬鹿か阿呆だと別の理久男が囁いたが、もう一人の理久男が進むも地獄、戻るも地獄だと言い張った。本人は仕方なくレンタカーのナビゲーションを阿蘇にセットすると国道五十七号線の赤い道路線が浮き出てきた。理久男はその赤い道路線に導かれて車を走らせた。車は市街地を抜けようとしていたが、途中あちこちで人だかりがあって何か解らないざわめきが気になった。火山灰が変色したと思われるこげ茶色のだだっ広い穀倉地帯のど真ん中に差し掛かった時、前方に阿蘇の峰々がうっすらと横たわっていて火山に近づいて来た意外とひんやりとした実感があった。道路の片側だけに巨大な杉の木が先端を切り落とした形で立ち並んでいるのだがそれは強風で倒れないように、そして熊本城の横の神社にあった巨大な楠木と同じ年齢ではないかと理久男は思った。肥後藩時代の名残が現代も続いているのだ。ふと、道路沿いの民家の所々に騒然とした動きがあって、一軒の家の前に数人の人が集まって何かを話している。それはあっちにもこっちにも出現し、理久男は昨夜地震があった事がじんわりと大きな被害に増幅されて、それは地上だけではなく地下から地震獣が牙をむき出して上の物を捻ったり歪めたりと基礎から壊して行くシュミレーションを頭に描いた。カーラジオをつけると余震が続いているというニュースがひっきりなしに聞こえて来る。車を運転していると小さな揺れがわからなくなる。理久男は良く考えると頭の端っこが変にジ~ンと痺れている事に気づいた。昨晩ルームサービス嬢と一緒にいた時点から地震の脅威から図らずも遠ざかって情欲の世界に身を任せていた事になる。情欲の世界は天地大事変に臆することなく慌てることなく感情の赴くままに行動するらしい、・・・一〇センチヒールの女の闊歩する姿が浮かび、足首から太股を伝って括れた腰の女体が現われては消えた。

「女好きの性格は誰から受け継いだか?・・俺はこんな大地震の最中に、不謹慎極まりない男になり果て、両親には知られたくない!しかし、死んだ祖父はあの世から孫をどのように見ているか?・・不届き者だとは思っていないような気がする。俺は最初からあの女を抱きたかったのではなくて、逆に人助けをしたのではないか?そして愛しさをあの女に向けたのだ!」理久男の頭の中で何かを自分勝手に回転させた歯車がスムーズにかみ合わない部分が残って後悔という文字が見え隠れして嫌な気持ちになった。走る車から人だかりの民家をよく見ると古そうな玄関の梁が斜めに落ちている。青いシートと共にその被害が飛び込んで来て、その瞬間ホテルでの女との絡みが何処かに沈んで行って、真っ新な酷い現実が現われた。昨夜の地震は被害をどのくらいの程度起こしているのか?・・噴煙を上げている阿蘇はどうなっているのか?・・風車は回っているのか?理久男は呟いた。尾根の向こうに十数基の風車がおぼろげに見えたが数基は止まっているようにも見えた。そしてナビゲーションを南阿蘇の風車に向けスロー運転をする。荷物入れから出して助手席に置いている紙袋に入れただけの紫芋団子の冷えたほのかな香りが匂ってくる。昨夜のホテルでのアクシデントで寝不足気味なのはハッキリしていた。大学のクライマーサークルで鍛えた若い肉体の自負が少しはあったが、緊張の連続なのか?身体の凝りが残っている。紫芋団子を食おうと思ったが飲み物が無かったので食うのをやめた。・・・昨日、新幹線で熊本に入り、熊本城と水前寺を見て、今日は五七号線を走り広い田園地帯の大津付近まで来たのだが、脳みその怠さと共にここまでのルートが何か異様な空間に陥った気がした。泊まったホテルで地震に遭遇し、ルームサービス嬢と褥(しとね)を交わし、しかしながらここから噴煙を上げる阿蘇を通過し祖父のルーツである竹田に赴くのだ。・・・時間に添いながら目的に向かって進むと何故か女に当たられ続け、困惑するのは己の特質なのか?その空間に存在するものは好むと好まざるとに関わらず胸いっぱいの情感に囲まれて、それは自分自身に向けられたものでもあって、身動き出来ずに煩悩と放縦な歓喜に親しむ頓着のない情けない男に成りそうで?しかしそうは絶対にはならないと?それは理久男が新たな愛しさと哀しさの祖父の世界に向かおうとしているそのものの導きと頑なさだった。この祖父のルーツの旅を実行する時も自分の現状に付いて周りからバカとか利口とか言う賛否両論の評価が起こっている事も知っていて、しかしその人達と次元の違いがあるのも解っていて、問題は時によると以外にも完全な幻想的な位置に自分がいるのを自負した時もあったが、やがてそれは萎んでしまって、後には頭痛を伴う不安感が忍び寄っていた。・・・・

南阿蘇の外輪山の尾根に小さく見える風車が立ち並んでいるのを遠くから眺めた。確かに止まっているのがあった。理久男は阿蘇の火口は知っていたが、風車は本物を見るのが初めてだったので、ナビゲーションに沿って立野付近でハンドルを右に切った。南阿蘇の緑の草原に立ち並ぶ壊れかけたレストハウスを両サイドに見ながら車は坂を上って行く。巨大な風車が前方の丘に重なりながら現れた。俵山の立て看板があって十三基の風車の位置が示されている。理久男は車を降りて風車の近くまで歩いてみたが二組の若いカップルが前を歩いていて暫く歩くと家族連れの子供だけが走り降りてきて理久男とぶつかりそうになった。少年は前髪を風に飛ばして小鹿のように跳ねていた。

「おっと!あぶないよ!」理久男は両手で少年を受け止めた、額に汗した少年はにっ!と笑って駆け下りて行った。風車の真下に近づくとその巨大さに圧倒される、タワーの直径は優に三メートルは超えている。高さは五〇~六〇メートルくらいか?羽の直径もデカい!風の方向が変わり、風車が向きを変える時、軋む重厚な金属音が鳴る!巨大な鉄人が歩いている音だ!羽が回転し、鉄の板が頭上から振り下ろされる瞬間、恐怖感は頂点に達する。理久男は暫くその付近に留まり、落石避難用のドームの中のベンチに座り目の前の赤茶けた阿蘇山を眺めた。その壮大な地獄の山は地底から滲み出た赤さび色と黄色の硫黄が混じりあった鉱物の群れが地球の内臓の臭いをまき散らす異次元の世界で、一瞬恐怖に駆られながら叫び出したいような戦慄を覚え、理久男はその圧倒的なものの前から動けない絶体絶命の中で気持ちを押し通そうとする、それは北東の方向に祖父のルーツである竹田が繋がっている盤石の目標が存在することを心に巡らした。・・・

恐怖が去った後、赤茶けた岩肌の山麓の彼方から太古の時代へと時間が流れた気がした。俵山の高い位置から阿蘇山と理久男一人が向かい合うと、こちらも堂々とした理久男山となった気がして一兆前に大学の講義の中の記憶 “時間と空間について ”などとセッティングして見たくなった。普通人の脳は時間と空間と云うものの区別が直ぐには解明に向かわず、次第に回転する地球の日数と公転する一年が浮かび、少し混乱しながらもう考えるのを止めるのは、そこまで必要では無いのだ、という結論になってしまうのは自然な事なのだが、講義の中で教授が言った原風景と太古の火山との時間的なものは錯覚などと言うこと自体、現にこの山が噴火して火山弾が二つ三つ此方に飛んで来て付近の草が焼け焦げるのを目の当たりにすると一発でそんな世迷言は妄想と化し捨てられてしまうのではないかとの新たな世迷言が頭の中を掻き荒らしたが、世の真の姿は現存する不動の現実であるという言葉が解ったようで実は解っていないのではないかと思った。理久男は己に少し落胆し力なく息を吐いてベンチから腰を上げ、意を決して俵山を下り草千里に向かってナビゲーションを動かした。俵山を降りる道路はらせん状になっていて壮大な眼下を眺めながら運転していると、うっかりして目がナビゲーションから外れ、レストハウスの所に再び来てしまっていた。三差路で右と左を間違ったのだ。旧式のレンタカーの強い消臭液の臭いと尻マットが無い事で尾てい骨がいつの間にか痛くなって、それは弦を張るように背骨まで感電していた。時間をロスしたついでに理久男はそこで一休みすることにした。四月の未だ肌寒い草原に車を停め、近くにポツンと立っていた自動販売機からウーロン茶を買って喉を潤した。車の中で体を静止させると、やはり微かな疲れが下半身にあって痺れる様な怠さが残っている。ルームサービス嬢の甘い吐息が頬にも残っていた。紙袋に残った紫芋団子を口に入れながら、窓を開けて座席のシートを少し倒して、脳裏に浮かぶ祖父のルーツを辿る旅が、火山の原風景と地震という大自然の驚異の二つに遭遇した現実に、未熟者の心が戸惑いを覚えずにはいられなかった。理久男は目を閉じた。数年前から祖母によって紐解かれた祖父の生い立ちが、この赤茶けた阿蘇山の先で語られるのだ。・・・

世迷言とは違って遡る時間と空間は確かに存在していて理久男の祖父は七年前に九十二歳であの世に行ったが、丁度、中学の修学旅行から帰って来て一週間位して、理久男が学校から帰宅すると、父母が経営する印刷会社の全従業員が黒い喪服を着て、自宅に集まっていて、理久男もそのまま通夜の席に座らされた記憶がついこの前の事のように蘇って来る。生きていれば百才に近い。所謂、大往生だった。

祖母は理久男が高校生の時、長い時間をかけて、繰り返し 々 同じ話をした。その祖父が生まれた所が大分の竹田で不幸な事に祖父は一〇才で孤児になった。それは祖父の父親が夜、村の集まりの酒の席から帰って見ると、なんと藁屋根の自宅が燃え上がっていて、慌てて中に飛び込むと火の廻りが早く、全てが焼け落ちんばかりに成った炎の中で、僅かに板の間に這い出ていた息子(祖父)に米袋を被せて抱き上げた。そして全身火だるまに成りながら、近くの川まで走り、飛び込んだが、朝方発見された時、一〇才の祖父は米袋を抱いて岸辺に倒れており、その横で全身焼けどの父親が息絶えていた。家屋は全焼しその中に母親と妹達が倒れていた。息子(祖父)は軽い火傷を負っただけで生き残ったのだが、身寄りがなく当初は竹田のある寺に預けられることになり、不憫に思った住職の慈愛によって小僧として育てられ、幼い手で寺の掃除と庭の落ち葉掃きをした。

祖父は形ばかりのお経も唱えさせられたが、時折、住職に連れられて大分の吉野梅園に行った時の催しの中で、人の哀歌を歌った和歌が子供の心に滲みた。小学校を出る頃、住職の推薦によって宇佐神宮の掃除番となり高等科に通うようになった。理久男の中学生の時の年齢だ。理久男は高校に入った頃から祖母によって語られ始めた祖父の歴史を中学校の修学旅行の思い出の景色に重ね合わせ、祖父の生い立ちのイメージの絵図を自分なりに作り上げていたが、現実はかなり違っていて、それは赤茶けた阿蘇山に因って更に衝撃的な模様に成りつつあった。・・・

宇佐神宮は日本三大八幡宮の一つと云われ、その勢力範囲は九州一円まで届き、特に吉野梅園の園内にある吉野天満社とは切っても切れない交流が続き、梅太鼓・吉野棒術・佐柳獅子舞・相撲甚句・茶会・郷土神楽の催しには年間を通して祖父は吉野へ駆り出された。一〇才を過ぎた祖父はそれらの催しの中に悲しさと虚しさの感情が秘められている事を身に染みて感じ取っていたのだった。少年はその獅子舞と芸能が誰よりも秀でるようになり、後半は演舞のリーダーの役目を貰って、宮司から将来、神官資格を勧められたが、当時の日本は第一次世界大戦が終わった頃で、富国強兵・殖産興業という現代の経済成長の始動を人づてに聞き、一〇才から筆舌に尽くしがたい苦しみを味わって来た反動からか、自分の力で働きたいと云う思いを、宮司に打ち明けた。同じ神社の用務員をしていた老人から、縁者だと云う東京の下町にある小さな印刷屋を紹介して貰うことになり、初めは引き留めていた宮司も必死な祖父の立身の心に折れ、破格の路金を渡して見送ったという。・・・

十五才の少年の旅は困難を極めた。始まりは大分の佐賀関の港から四国に渡るのだが、港には神社の用務員の老人と孤児の祖父を可愛がってくれた宮司の妹さんが見送りに来て、船宿で妹さんが祖父の上着の内側に二ヶ所、財布入れを縫い付けてくれた。内ポケットには宇佐神宮宮司の親書なるものと、用務員の老人が書いてくれた東京の印刷屋の住所と、かけたことがない電話番号が書かれた便箋を折りたたんで入れた。厚い麻で作ったカバンには両端に麻のベルトが取り付けてあり、中には少しの衣類と十個のにぎり飯と沢庵が入れられた。その両端のベルトを背中に斜めに背負うのだ。妹さんから厳しい注意事項があった。

「学生帽は寝る時以外は常に被っている事、上着は寝る時も脱がない事、道に迷ったり、乗り物がわからなくなった時は交番で聞く事、その時は内ポケットの宮司の親書を見せる事、」十五才の少年はその注意事項を数回、言葉を出して唱えてみた。更に

「あんた!色んな街通る時ね、大通りを歩かにゃ~いけんよ!裏通りとか、暗い横道に入ったら、絶対にいけんよ!宮司も一番、心配してるんじゃけぇ!」一〇才で消えてしまった母親の温もりが妹さんと重なった。港の桟橋から中型の木造船に乗り込み、四国の佐多岬に向かう時、少年は手を振り続ける老人と妹さんの姿が見えなくなるまで、小さなマストに掴まりながら歯を食いしばって見つめていた。妹さんの白いハンカチを振る手が時折、顔に当てがわれるのを、胸いっぱいの母親の温もりを感じながら。・・・

四国に渡った少年に更に試練が待っていた。四国鉄道で鳴門まで行き、淡路島に渡る為に船宿に一泊した時のことだった。少年が風呂に入っている間に上着がなくなっていた。宿賃と小銭は帳場に預けたのだが、上着の内側に縫い付けた百円札の事まで帳場に知られたく無かったのかも知れない。翌日、上着は船宿の植え込みに捨てられていて、百円札の縫い込みは外され、内ポケットの宮司の親書と住所を書いた便箋は残っていた。

東京迄の路金を無くした少年は路頭に迷ったが、淡路島から巡業の旅を続けていた人形浄瑠璃の一座に拾われて、二か月後に、宇佐神宮に戻って来た。戻る途中、一座の中に同年代の少女がいた。媚びを売らない、凛とした少女に少年は心を奪われた。少女も少年には微笑みを返した。名を香夜と云う、宇佐に帰って来たときは心が通じ合っていた。立身の意志が変わらない少年は二か月後に神社の用務員の老人に連れられて、遠い空の下にいるであろう一座の香夜に未練を残しながら、汽車を乗り継ぎ東京の印刷屋に辿り着いた。

そこはほったて小屋に造られた活版印刷屋で主人夫婦で経営をしていたが、若い人手を欲しがっていたのだ。幼少を寺と神社で勤勉に過ごした祖父は印刷屋に勤めながらも、更に勉学の意欲を買われて、印刷の仕事の合間に学問好きの主人の協力があって独学で数年で高等学校から有名大学に進み、惚れ惚れするような青年に成長した。その頃映画俳優であった若い佐多啓二にそっくりだとの評判が立つくらいで、小学校に通っていた歳が一回り違う印刷屋の娘が、いつもくっついて離れなかったと云う。・・・

その後、成長した娘の婿養子となり、拡張した印刷会社の後継者となったのだ。そして子供が生まれ、半世紀がたち三十五人の従業員を抱える小企業となり孫の理久男が生まれた。・・・

理久男は確実に八十歳のお祖父ちゃん子になり、隔世遺伝の為か理久男が十五才になった時に祖父はあの世に行ったが、周りは口を揃えて

「理久ちゃんはお祖父ちゃんに良く似ている!」と言われた。その頃、二人の叔母が立て続けにあの世に行ったが、

「二人とも不幸な事ばっかりで、可哀想に思った祖父が一緒にあの世に連れて行ったんじゃないのか」と漏らしながら、うな垂れていた理久男の父親の姿を記憶している。・・・

二人共父親の妹で若い時は、大きく成りつつあった印刷会社の営業と事務を手伝っていたが、東京近郊のある町の町史の印刷を受けたことが縁で、その地域の資産家の息子と同族の若き町長との縁組がたて続けに持ち上がり嫁いで行ったが、町の汚職と選挙違反が重なり、二軒の家は瞬く間に没落して行った。逆境に弱い家柄の夫たちは廃人同様となり、妻たちの苦労が始まったのだ。理久男が幼少の頃、庭先で遊んでいると、二人の叔母がハイヒールの音を鳴らしながら、必ず理久男の頭を撫でて出かけ、帰りはチョコレートとガムを買ってくる。母親以上に可愛がってくれたことが、記憶に染みついている。・・・不幸になってからの叔母たちは物乞いでもする様に祖母と長い間話している姿があった。その時、哀しく優しい微笑みは残っていたが、颯爽と闊歩するハイヒールの音が消えて、踵の低い靴に変わっていたことが寂しいと理久男は思った。その後、二人とも病気と事故であの世に行ったが、祖父が二〜三年療養生活を送ったのは、二人の娘たちの安否の気苦労が原因だったようだと父親が話していたのを聞いたことがある。・・・

その頃から理久男は祖母によって祖父の生い立ちを聞き、苦難のルーツである竹田から宇佐神宮への想いを馳せて来たのだった。理久男が大学を卒業する時、噂が伝わっていた近所の年寄りの人達から、

「後藤さんとこの理久ちゃんはお祖父様の元あった竹田の屋敷跡を探しに行きたいって言ってるんだって、昔、丸焼けになって家族の人たちは皆、亡くなったのに?・・怖いわね、そんなとこ、・・お母様がそんな所に行ってどうするの?って、心配なさってたのよ、・・やっぱり理久ちゃんは、本当にお祖父様に良く似てらっしゃったから、何か?お祖父様の霊が呼び寄せてるんじゃないかって誰かが言ってたよね、・・」と、間接的にそんな話が聞こえて来たことがあって、

「理久ちゃん大丈夫?そんな所に行って、・・」と直接言われたりもしたが、近所に昔から親しく付き合いのある事業所があって、そこのお祖母さんと理久男の祖母が老人会の仲間で、リーダー格のそのお祖母さんに母親が相談相手として頼っていたことを考えると自然と伝わり方のルーツが見えて来る。

「お祖父ちゃんの昔の秘密を何で他人が知ってるんだよ?」と、父親に言ったら、

「その事はお前が生まれる前から世間には知られているんだよ!特にあの事業所のお祖母さんにはかなりうちの会社も助けて貰ってんだよ!これは内緒なんだが、あの祖母さんは若い頃、うちの事務所に入り浸りで、ハンサムな祖父さんが目的だったらしいが、」と、世間は自分よりずっと先に行っていて、何かすべてが通り過ぎて、小さい存在の己が一人空回りして腹立たしい気分になった記憶がある。見覚えのある祖父の顔は皺くちゃで、自分に似ているのか分からなかったが、テレビの “懐かしの俳優一覧”で佐多啓二と云う俳優を見た時、自分に似ているようにも感じられたが、しかし、理久男は草食系の自分の顔があまり好きではなかったし、佐多啓二よりももっと男らしいワイルドな俳優が好みだった。その事を中学の国語の先生に尋ねたら、老祖父と孫は只似ているというだけではなく、それは両者の共感と肉体的同質性に基づくものであると思われること、先生も理久男少年の家族の秘密を告白されて抽象的な言い方でその場をしのいだと思われたが、祖父の葬儀の時、囁くように聞こえて来る声は親族とお近づきであった近所の参列者や特に年輩の女性たちの自信ありげな合言葉―佐田啓二張りのハンサム男が果たしてそうだったのか?小学生の理久男の目には活版の年輩のおじさん達との集合写真にある、打ち解け合った皺のある苦労人の祖父の姿が焼き付いていた。インクの臭う寡黙な老人たち、幼い理久男の前にいきなり皺くちゃな痩せた優しい老祖父が現われ、抱き上げられるのであって、時と時代の違いは勿論だが、皺のない伊達男の姿は無かったし、そんな顔は見たいとは思わなかった。

それとひょっとしたら祖父は一五才で東京に出てから苦学し大学を出て印刷会社の経営に着手し一定の年齢になるまで竹田と宇佐での尋常では味わうことの出来ない苦しみを意識の中から消し去ったのではないかと?その苦しみを持ち続けることは精神的に耐えられなかったこと、忘れなければ先に進めなかったこと、頭痛から解放されたかったこと、そして人生の末尾に差し掛かった時、自分そっくりの一〇才の孫(理久男)を見て消し去った意識から哀しみとより深い懐かしさが溢れ出て封印した記憶を貪るように追い求める姿があって、老祖父の他界後それが幽体となって竹田~吉野~宇佐に出没する、やはり本音で祖父の霊魂は竹田に飛んでいるのだと思われた。このことは終盤、ある僧侶から伝えられたのだが・・・。

祖父の葬儀のあと父親が仏壇の下に納めてある過去帳を眺めているのを一五才の理久男は傍で見ていて真新しいつづら折りの和紙に長い戒名が書かれてあってその左下に後藤と祖父の名が書き込んであるのを見た。其れから遡る一〇年くらい前にも老祖父が座敷の応接台にキチンと座り、過去帳に筆で何かを書き込んでいるのを、お祖父ちゃん子でもあった五才のくりくり頭の理久男は祖父の膝に手を置いて一日中、それを眺めていたおぼろげな記憶があって、勿論五才の幼児が筆文字に興味が有ろう筈はなくて、引っ張ると面白いように長くなるつづら折りの和紙と表と裏に張り付けられた角を削った真っ黒の光った板状のものをオモチャにしたがる幼さと、しかしそれはオモチャにしてはならない何か不思議な優しい祖父の威厳があって、仕方がないので祖父の膝を枕にして遊んで眠ってしまった昼下がりの遠く忘れられた記憶、・・五才の時優しい祖父を知ってから別れるまでの一〇年間に集約された思い出と大学卒業間近に祖父の七年忌の時点で見た過去帳の中の配列された先祖の名がずっと以前まで書き連ねてあった事で、この真新しい過去帳はあの時(理久男五才)祖父の手に因って作られ、先祖の名前を調べ書き連ねたものであって、祖父は生きている間に丸焼けになった跡地をそっと見に行ったのか?どこかの縁者に頼って名を写し取って来たのか?曾々々祖父まで書いてはあったが、後藤という姓は曾祖父までははっきりと曾々以前は書かれてなかった。当時は後藤という姓は与えられて無かったのだ。丸焼けであの世に行った曾祖父の名前を眺めて思い入れを送るとそれがほんのこの前に思えて、そうなると祖父は未来に移動し?どこが過去か?現在か?判らなくなりそうで時間は堂々巡りしていると考えれば理窟が合って来るのだと思ったりした。・・・

祖父のルーツへの旅を開始した理久男は南阿蘇レストハウスの草原で祖父への物思いにふけっていたが、昨夜のショックと寝不足がたたり、急激な睡魔が襲って来た。かなり長く深い眠りに陥ったが、夢の中で身体の何処かに余震の振動を感じていた。何かに憑かれたように目が覚めた時は夕方近くになっていて、雲なのか火山灰なのか?空が薄暗い靄(もや)で覆われていて、俵山のレストハウスから竹田に向けてナビゲーションをセットすると五七号線の赤い表示が浮かび上がる、その線に沿って理久男はアクセルを踏んだ。いきなり目覚めて目が充血しているのが気になった。途中俵山を下る時、後ろから十数台の爆音を轟かして理久男の車をゆっくりとすり抜けて行くバイクの一団があった。かなり重厚なマシンだ!黒革のルックスが多い!ヘルメットの後ろから束ねた長い黒髪が出ている者がいる。世迷言になりがちな理久男の頭が我に返り引き締まった。

女もいるのかな?、と思いながら理久男は車を左側に寄せ、スロー運転に切り替えてバイクの一団をやり過ごした。十数台のマシンがゆっくりと通り過ぎた。暫くナビゲーションに沿って走り、殆んど車がいない道路を通り、白っぽい草千里に着いた。よく見ると緑の草原に灰色の粉が一面に被っていて、手前に “火山活動の為にこれより先の侵入を禁ずる”の標識が立っている。理久男は現状を把握した。熊本城の天守閣から見えた噴煙がこの為だった!のだと、 草原の進入禁止の中に赤いパジェロと十数台のバイクが停車していて、甲高い女の声が響いてくる。理久男もなぜか?禁止の中へゆっくりと車を進めた。ヘルメットを脱いだ黒革の女とパジェロから降りたらしいスポーツウェアの二人連れの女が何か言い争っている。三人の女は盛んにパジェロの車の角とバイクの側面を指さしながら怒鳴り合っている。赤いパジェロの二人の女は十数台のバイク族に囲まれながら憶する様子がない。長身のアスリートのようでもある。車同士が接触したことは間違いないと思われた。理久男の車に一台のバイクが近づいて来た。

「なんちゃぁ?お前!何んか用か?関係ねえ奴が見てるんじゃねぇ!」、リーゼントの暴走族風だ!

「関係ないって?君たち何やってるんだ?あの女の人に、」二台目が近づいてきた、

「関係ねえ奴がうるさいっちゃ!パジェロが悪いんじゃきい!お前はうせろ!」、理久男は顔を背けて女たちの方を見ていた。この手のヤンキーに真面な話は皆目駄目で無視した。感情に任せての一方通行に真面に構ってはおれなかった。草原の窪みの先で黒革の女が最初、手を出した様に思えたが、それに加勢いをした少年達とパジェロの二人の女が揉みあっている様に見えた。ヘルメットと共に男が転がった。騒然となった。理久男は思わずドアを開けて外に立った、その時だった。・・・轟音が轟き!地響きが鳴り!地上が動いたような感覚、全員が座り込んだ!転がっている者もいる!バイクが倒れ、赤いパジェロが揺れている!

「来たぞ!地震が!火山が爆発しちょるんじゃないか?ここにおったら!どんこんならんわな!逃げるぞ!みんな!」、・・・若者たちが叫んだ!

「此処を下って竹田の方に行っちゃろ!」・・・パジェロの女が叫んだ!

轟音と共に東の空に物凄い黒い雲が吹き上がっている、地獄と魔界からの使者が来たような?そして黒い魔王に覆われて行く。余震の縦揺れでバイクがサーカスのように上向きになったり下向きになったり!暴走族のテクニックは流石にバイクは横倒れしそうになりながら、軌道修正して走って行く。理久男もそれらの後に続いた。車が突然、幾つもの大きな石ころに乗り上げたような!前のタイヤがいきなり落ちて、続いて後ろが落ちる。ガラクタの車に乗ってる感じだ!早く五十七号線を下り降りて火口から離れねば!・・・理久男は赤いパジェロの後を追いながら、数百メートル走っただろうか?空から砂粒のような火山灰が車にバラバラと当たるのがわかる、そのずっと先の急カーブをコーナーリングするバイクが見えた。

逃げ足が速い連中だ!、理久男は呟き、横柄だった奴らに妙な親近感を覚えた。数キロ走った所で大きな岩場に差し掛かった。左側から岩山がせり出ていて右が崖だ、そこの大きな左カーブを曲がりきった所で突然!赤いパジェロが停車していた。その前方から数人の黒革ずくめの男達が駆け寄ってくる。Uターンして来るバイクもいる。理久男は車を降りた。先頭を走り来る若者が

「落ちた!ヤバイ!千夜が落ちた!ヤバイぞ!」と叫びながら崖下を覗いている。パジェロの女が

「引っ掛かってるよ!あそこに!あの子引き上げないと!」髪を後ろで束ねた少女がヘルメットを脱いでバイクの傍でもがいている姿があった。

「崖を斜めに滑り落ちた形だな!生きている!・・何故!落ちたのだろう?」理久男は思った。大学のサークルで少しは経験があるロッククライミングの虫が疼いた。

「お姉さん!ロープある?」

「ある!ある!貴方、やれんの?」と、パジェロの女達は荷台から二巻きのロープを取り出した。

「一本を車に結んで!」と指示した理久男はもう一本のロープの端を若者たちに握らせて、

二巻きのロープを肩に担いで、パジェロに結んだロープを伝って崖を降り始めた。

「あんた!出来んのか?」リーダーらしき若者が言った。空は火山灰が覆い尽くしていて、バラッ!バラッ!と小石が岩肌に当たる音がする。

「早くしないと溶岩弾が飛んで来るっちぃ!」若者たちが右往左往しながら叫ぶ姿は己の為、又グループを守る焦りが迸っていた。十五メートルは降りただろうか?ハンドルが曲がったバイクのエンジンが鈍くまだ動いていて、左肩と左足の外側の太腿から膝まで黒革が擦り切れて、血が吹き出ている!気丈そうな少女の目が理久男を見上げて喘いでいる。横を向くとリーダーらしき若者が同じロープを伝って下りて来た。理久男より数段バネが有りそうな体に見えたが、焦っていたせいか指だけが露出している皮手袋の中指の爪を剥がし血が滲んでいて、革の袖がずり上がった腕も外側が擦り剥けていた。理久男は培った技で、手早くロープの一方をバイクの後輪の軸と荷台の金属部分に巻き付け、もう一方を少女の上半身の脇の下を緩めに巻いて、少女を背負うのをリーダーらしき男に手伝わせた。そして繋がったロープを右肘に二巻きして引き上げさせた。パジェロで引き上げるバイクと岩の擦り合う鈍い音が、確実に上昇している感覚が伝わって来る。理久男のロープを数人の若者が引いている。引き上げられて行く時、

「大丈夫か?」と少女に声を掛けたが、少女の返事は無くて、痛みの為に気を失ったのだと思った。リーダーらしき若者はバイクの縁に捕まりながら自力でよじ登って来た。傷ついた少女とバイクが引き上げられた時、空は真っ黒な雲で覆われ、視界がきかない状態で世界は既に黒い魔王の懐に抱かれていた。暴走族のリーダーらしき男が傷ついた少女をバイクの後ろに乗せようとしていたが、パジェロの女が

「あんた!バッカじゃないの?大怪我してる子をバイクに乗せてどうするんね?」

「これは俺の妹じゃけぇ!俺が連れて行くちゃ!」リーダーの男が叫んだ!

「ダメ!死ぬよ!」、二人のアスリートは構わず、バスタオルで少女の身体を包み、パジェロの荷台にゆっくり乗せようとしている。

「出血を止めないと!」理久男とアスリートは薄手の広い布地数枚で肩口・膝・太股付近を縛り上げた。

リーダーの男は少女の頬を撫でながら、礼を言うつもりはなく、ただ目の前の火山の脅威だけを訝っているように見えた。

「たまがったなぁ!阿蘇山が怒ったんか?女はだめじゃ!バイクは?・・・あんた、どっから来たんな?助けてもろうたちっ、礼は言わんで!こげな時はお互い様じゃけな!」

理久男はひねくれ者にムッとして、

「君らに礼を言われても嬉しくも何ともないよ!」リーダーの鋭い眼光が一瞬内的に緩み、再び険しくなった。

「なんちゃぁ!お前、俺たちが田舎もんちゅうて、バケェ(バカに)しとるんか?・・まぁええわ!」と吐き捨てる言葉を理久男は横を向いて無視した。赤いパジェロがライトを付けてゆっくり動き出した。十数台のバイクがそれに従った。壊れたバイクは岩の突き出た窪みに立てかけてある。理久男はため息をついて、黒い火山灰から抜け出る為にアクセルを踏んでハンドルを切ったが、視界が霧の中のようでスピードは出せない。火山灰を払うためにワイパーをあげて時々ウォッシャー液で流す、視界が益々悪くなる、灰色の世界だ。前日の地震で揺れも終息に向かうと思われたが予想もしない余震が又、起こったのだ。二十二才の青年の心は現実の衝撃の連続で折れそうになりながら大自然の驚異の中に自らを招き入れた事を思った。そこには時間と空間などは世迷言として何処かに消え去っていた。暴走族のリーダーが発した

「たまがったなぁ!」が何度も脳裏の中で繰り返される。カーラジオのチャンネルから、速報!余震、依然、続く!が流れて来る。その中に

“熊本城の石垣の一部に隙間が出来ている “の報道がなされた。理久男は改めて背筋が凍った。ほんの昨日、熊本城の天守閣に登ったばかりだったのに、・・

「あの時の揺れは余震で昨夜のが本震で、今も余震が続いてるのか?・・しかし、今は火山の傍から何とか、離れなければ!ここも危ないのだ。石垣に隙間が出来たのであれば、街のビルにも影響があったんでは?泊まったホテルは何処かにヒビが?・・地震と噴火!噴火と地震!人間の叡智が敢然と無視され破壊されたような?ましてや己の若僧のレベルでは何とも如何せん?・・・」理久男は呟き、そして考えるのを止めた、今、考える事は無駄な気がした。この火山灰と何時飛んで来るかわからない溶岩弾から一刻も早く、安全地帯に逃れるだけだと!・・・赤いパジェロと暴走族の一団は何処に行ったのか?影も形も火山灰の彼方に消えてしまっていた。



◇門番兵と御用商人

灰色の牡丹雪が地表を覆う速度は車のスピードより早く、小一時間、車を進めると“これより竹田”の標識が見えた。脳裏にはたった今起こった黒革の長い髪の目を閉じた少女を担いだ柔らかい感触が消えないでいて、肩に背負ってロープを引いた手の平の固まった指の痛みが痺れたように残っていた。

「何だったのだ?あの一団は?」黒革の集団の強烈な剥き出しの気配が理久男の脳髄に強烈な刺激を与えていた。右の手の平を見ると豆が幾つか出来ている。この時、理久男は今回の旅が祖父のルーツを求めていた事を思い出して我に返ったが、その先には怪しげなひょっとすると危険な暗闇の中に突入して行くような気がして、地震をも含んだ幾重の難所に迷い込み、折れそうになった先には身も心もボロボロになり己が壊れてしまいそうで、ルーツを探る旅は時期尚早で一瞬引き返そうかと思い、引き返すのはまだ遅くはないと保守的な理久男が囁いた。次第に火山灰は少し薄らいで来て、日暮れにはオレンジ色の火山灰に変わって来た。木々の間に民家が数軒見えて、車をスローに落とすと、道路わきに、“宿泊庵入口”の小さな看板が立っていて、その横から砂利のわき道があって、その道を下った先に、屋根が末広がりの寺に似た宿泊所が見えて来た。背景に大きな杉の木が数本聳えていてその後ろは多分崖になっているのだろう?谷川の流れの水音が聞こえる。砂利をバラまいた雑然とした駐車場に車を停めると、だだっ広い玄関の横に大きな木の板が立てかけられていて“宿泊庵 ”の墨文字が書かれている。理久男は 車を降りて中を覗いて見た。寺か道場のような、少し魔の世界の迷いが消えて道場の他流試合宜しく、現実にその道場のような玄関を両手で押し広げると、そこにもだだっ広い居間があり、男が一人いた。理久男はいきなり “頼もう! ”と言いたい雰囲気だったが

「あの〜?泊まれるんですか?ここ?」

「泊まれると思うんやけど?わしこの宿の者じゃ無いんで!」

「えっ!・・と言うと?」

「わし泊まり客で、ここに一人なんや!」その男は関西弁の中年の団体職員で休暇を使って湯治に来たと云う、

「宿主は?」

「昨夜の地震で湧水が止まったんじゃ無いかって?水源地に出掛けたまま帰って来ないんや?留守番ですよ!私も一人だけじゃ不安なんで、どうぞ!どうぞ!もう、暗くなるし、今夜一晩くらい何とか成りますよ!」理久男はバックを車に取りに行き、火山灰が車にうっすらと積もっているのを横目で見ながら、大きな地震が再び来ない事を祈りながら宿に入って行った。そして居間らしき所でその客が入れてくれたインスタントコーヒーを啜りながら、一通り周りを見渡すと、宿泊所らしからぬ広い居酒屋風の居間で左奥に大きな木のカウンターが繋ぎ合わせてあり、十数人は座れそうだ。部屋の真ん中に暖炉が掘ってあり、周りに木の長椅子がバラバラと置かれていて、南側と東側、北側の広縁を使って一〇室くらいの部屋のドアノブが並んでいる。西側は広い土間になっていてアウトドア形式の厨房が外の庭と繋がっている。 “居間の雑魚寝は半額 ”なんて、の紙が柱に貼ってある。理久男は聞いた、

「地震の影響は無かったんですか?」中年のぬーぼーとした客が待ってましたと言わんばかりに話始めた、

「わしここに一週間近く泊まっているんやけど、それが貴方!もう、大変だったんや!」

「揺れたんですか?」

「いや!そうじゃなくて、地震は大したことは無かったんやけど、この通り、大きな材木を使ってある庵やから丈夫なんよね!・・縦揺れはニ~三度来たけど?どこも壊れへんかった、びくともしないんや、・・ところが、その前の日にやね、十人くらいの暴走族が泊まったんや!ここに、雑魚寝ですよ、腹が減ったって言って食べる!々 ! 他にも客がいたんやけど、皆、怖がってね~!そのカウンターにヤンキーがずらーと並んでた!ビールも何本も飲んで!・・そして、その暴走族の中にお姉ちゃんが二人くらい居て、映画に出てくるような黒革の長い髪の娘がいたんや!・・で、その子(娘)がね、

[おじさん!世話になるからお酌してあげる、って言うもんやから、わしつい!その子の口車に乗せられて酌して貰ったんやけど、・・わし酔っぱらって良く覚えてないんやけど!おじさん!私に触ったでしょう?お触り代、一万円払ってよ!って事になって、夜中まで二波乱くらいあって、・・何とか宿のオーナーが押さえたんやけど、兎に角、寝不足で!翌日、他の客は皆帰ってしまって、私一人残って、その夜が又!地震でしょう!昨晩から今日一日全く寝てなくて、オーナーは何処かに行ってしまうし、帰る訳にも行かへんし、あんたが来てくれてほっ!としたんよ!」

目がしょぼくれたその客は良くしゃべり、怠そうに息を切らして一気に話終えた。暗くなって髭面に鉢巻きをした宿のオーナーが帰って来た。宿の飲み水に使う水源地は大したことは無くて、大分市内にいる家族の様子を見に行ったらしい、地震で瓦が落ちた家も多いとの事、その日の夕食は鍋焼きうどんとヤマメの塩焼きで三人でビールを飲んだ。理久男は祖父の話をしたが、竹田の出身ではないので、全く分からないとの事だったが、ヤマメをたらふく食い、焼酎で出来上がった主人がふと思い出したように言った、

「そう云えば!俺がこの山荘を造った時なあ、この建物の元の持ち主から聞いた話やけど、高齢のその爺さんなぁ、河宇田湧水の近くに移ったんじゃけど、昔、こん地域の川の畔で、火事で家が全部焼けてしもうて、小さな男ん子が生き残ったようなことを、聞いた事があるんよ」とアルコールで虚ろな目で呟くように言った。

「えっ!本当ですか?」理久男は声をあげた。

「あぁ〜、火事で男ん子が一人生き残ったちゅう事がなぁ、俺も記憶に残っとったんじゃ!」庵のオーナーは理久男の真剣な問いに目を見開いていた。

「すいませんが、明日でもそのお爺さんの家を教えて貰えませんか?」

「そりゃぁ!いいんじゃけど、地震、もう、収まるんかな?」もう一人の客(団体職員)も酔いが覚めたように二人の顔を覗き込んでいる。鍋焼うどんが底をつき、三人は暖炉がある居間で雑魚寝した。酔った三人が高いびきで寝入った頃だった。家が大きく揺れた!床が縦揺れにドスン!と落ちたようだった!電気が一瞬消えて又ついた! オーナーが

「来たぞ!」、と叫んだ!這ってバケツに入れた水で暖炉の火を消しにかかった。火に水を投げ入れる焦げ付くような消化音が上がり、灰と蒸気が舞い上がって、二人の客は床に両腕を広げて祈るような気持ちでじっとしていた。大きな揺れは十数秒続き、テレビの画面が何度も乱れたが、

「本日、未明、熊本地方に最大級の地震が発生して!家の倒壊と電気水道の供給停止の被害が増大している!」と繰り返し伝えていた。庵の主人が

「まだ!まだ!また来るか?」を朝方まで繰り返していたが、理久男は一睡もしないで夜明けを迎えた。青年の胸に抗えない恐怖に似たものが生まれ、それは簡単に終息しないと思われた。団体職員の客は二晩寝ていなかったらしくて何が有ろうと死んだように毛布を抱いて眠っていた。見渡すとカウンターの棚からコップやグラスが滑り落ちて割れていて、テーブルの箸たてが倒れて床に箸やスプーンが散乱している。二人で恐る々 外に出た時、傘立てが倒れていて、軒先の瓦が四〜五枚落ちて割れていたが、大きな梁を組み合わせて造られている建物の被害は無さそうだったが、湧き水の水道が濁っている事と今日は泊り客は来そうもない事をオーナーが言って、二人はオーナーの大型のジープで竹田の中心部に向かって見た。殆どの人が外に出て、屋根を指差したり、崩れた山の斜面を眺めたりしていて、古いトタン屋根の小屋らしき建物が倒壊していたり、梁の桁が外れて左右のバランスが崩れた建物もあった。昨夜話に上った河宇田湧水近くのお爺さん宅を訪ねて見ることになって、庵のオーナーのラングラージープは大型の重装備で前にウインチが付いていて、多少道が悪くても、急勾配でも進んで行く。一度、谷のような低地に下りると右側に川があって湧水群に流れ込んでいる所にジープを停めた。そこから少し上った所に其らしい家があった。古い大きな家だ、庭石に腰かけている老人がいる、二人は車を降り、頭を下げながら近づいていった。庵のオーナーが更に頭を下げながら元の売主に挨拶をした。眉毛まで真っ白な仙人のような老人は庵の主人の事を覚えていた様で懐かしそうに手を挙げて少し微笑んだ。家の中から、かなり腰が曲がった老婆が茶桶に二個湯飲みを乗せて近づいてきた。老夫婦のお茶だ、

「お爺さん!今朝はお茶だけにしときましょ!あとは何が何んだかね?」

「よか!よか!あとは役場の連中と消防団が来てくれるっち言うんじゃけ、」二人は理久男達を眺めながらお茶をすすり始めた。屋根を見ると古い瓦が二〜三列ずり落ちている、「役場の人が来てくれなさったとね、」老婆が理久男たちを見上げながら言った。

「役場の者じゃないとですけど、家の中もどうか?なっちょるんですか?」と庵のオーナーが老人に聞いた。

「見てみい!何んもかんもめちゃくちゃになっちょる!」理久男達は家の中に入って見た。古い大きな家の内部は簡単な造作で作られているが、茶棚や置物が倒れていて、中の品物が散乱している。古い畳の上に置いてあることで安定感に乏しく倒れてしまったようだ、

「これは只では帰れんな、」とオーナーが呟いた。二人は先ず茶棚を立て直して割れたコップや茶碗を分別した。理久男は斜めになっていた人形棚を元に直し、小さな人形たちを整頓し、倒れている物を全て立て直し、歪んだ掛け時計や額縁を元の位置に戻し終った頃、三〜四人の消防団員が来て、屋根の瓦を修繕し始めた。家の構造体は異常無いことで、皆一安心だと言い、一応、その場で理久男達は引き上げる事にした。宿の客の団体職員は昼頃目覚めその日に竹田を離れたが、理久男は宿にもう一泊し、翌日もう一度、河宇田湧水の家を訪ねることにした。テレビ、ラジオでは盛んに地震の被害の状況を中継している、理久男は一昨日登った天守閣の石垣が崩れ落ちた事が信じられなかった。十歳で火だるまに成りながら、一人生き残った祖父のルーツを訪ねる旅が、天地が引っくり返るような事態になったことが、何か?運命めいたものを感じずにはいられなかったし、時間の流れが逆流し、そして酷い世界に戻って来たようだった。翌日の昼頃、理久男は河宇田湧水の家に行くことにし、オーナーがラングレージープで付き合ってくれた。ところが竹田の中心地に行く国道五十七号線がやけに混雑している、オーナーがその理由を説明した。

「熊本の方が酷かったんじゃろうな?皆んな食料品やガソリンを買いに来てるんじゃ、向こうは地震で潰れてしまっちょるかもな、マーケットやガソリンスタンドが、」

「そうなんですか?お城とか熊本市内は大変な事になってるんですかね?」

「どうも?そうらしかな、震源は益城町から熊本市にかけての活断層とか言っちょったな、」、竹田の中心地のマーケットやスタンドには人が溢れて、今まで見たこともない人だかりだとオーナーが言った。河宇田湧水の家は落ち着きを取り戻していた。庵のオーナーはヤマメの串刺しの一度焼いたのをお土産に用意していた。ジープを降り庭を見渡すと広い敷地に川から運んできたと思われる大石が置かれている。昨日は 気づかなかったベンチ用もあれば長いテーブルの形もある。そこが老人達のお気に入りらしいが、今は火山灰が降るので、片づけたばかりの居間に通された。真っ白い長い眉毛の老人は引き締まった口元を動かしながら昨日のお礼を言った。理久男たちは丁重に頭を下げながら、老人が百歳に近いことを庵のオーナーは説明しながらも、理久男の祖父についての話を、おもむろに老人に投げ掛けて見た。老人は目を閉じて、少し頷いている様に見えた。腰が曲がった恵比寿様のような老婆がお茶とラッキョウを差し出しながら

「お爺さん!それは、あそこの、後藤さんとこじゃないとですかね?」、理久男はハッ!として老婆を見た。老人は呻きながら頷いて

「うぅ、火事になった家は何軒かあるんじゃが?・・後藤?・・わしと同じ位の男ん子、・・そう云えばいたな、寺の小僧になった、・・」理久男は生唾を飲み込みながら老人の口元を凝視した。その時、老婆が

「ラッキョウ食べなさらんね、体にいいとじゃけ、」二人は尺取虫のように何度も頭を下げた。更に老婆が

「お爺さん!それはあそこでしょう?」そして二人に向かって

「この地域じゃのうて!あの、ずっと向こうの○○川の上流じゃち思いますよ、ねえ!お爺さん?」、老婆の記憶は確かなようだ。

「うむぅ!・うむぅ!」老人は呻いている。二人は差し出されたラッキョウをガリガリと音をたてて、強い酢が効いていて理久男は顔を窄めてお茶を一気に飲んだが、オーナーは懐かしい味だと云う顔をしていた。老人が思い出すように呟いた。

「いつじゃったか?あの辺に老人会で薬草を取りに行っとって、一〇才くらいの後藤少年に会ったのう、」理久男達は顔を見合わせた。老婆が

「又、お爺さん!夢ですよ!それ?」

「ううっ!夢?・・ニ~三度、会ったんじゃ!中学生の後藤にも会ったぞ!わしが薬草を取った時なぁ!川の傍に立っとったんじゃ!わしがじっと見とったら、帽子を振って消えてしもうたわ!わしは涙が出てのう!・・ああっ!わしも尋常小学校で一緒に遊んだんじゃなあぁ?あれと!」老人は一気に喋った。そして目を閉じて俯いてしまったが何かがうごめいていた。落ち窪んだ頬の皺の中に百年の時の流れと、哀しさと懐かしさが残っていた。九〇歳前後と思われる老婆が

「お爺さんもボケてしもうてなぁ、昼でも夢を見るようになっちょってなぁ!」圧倒され頷きながら時空に乗り込もうとするが出来ず頭を斜めにしゃくるだけのオーナーがいて、理久男は今は物言わぬ老人の遥かな時の間合いに取り込まれていた。そしてぼそぼそと地震が今後続くかどうかの話になり、二人は老人宅を出て○○川の上流らしき所までラングレージープを進めた。そこは道の草が荒れていて、小さな滝があり、その左上の方角に屋敷跡があって井戸が残っていると云う。焼けてから九十年前後経っているのだ、・・・とその時、オーナーの携帯が盛んに鳴り出した、一度、二度、三度、と宿への着信が転送されて来るのだ、ラングラージープは引き返した。オーナーは

「震災で家が倒壊した熊本側の人たちが宿と食料を求めて来てるんじゃないかと思うんじゃけど?」と言った。理久男は帰りのジープの中で、自分の為に尽くしてくれている庵の主人に対して、ここで恩返しをしなければと思いたった。地震について繰り返されるメディアの情報によると、震源は益城町という地域から熊本市街にかけての断層のプレートが動いたとの分析で竹田〜大分側は震源を外れていると云う。ただ大分も阿蘇からの伏流水の流れが変わった事で温泉や湧き水の出方も止まったとか変わって来たとの情報だ。

庵のオーナーは宿に戻ると三人の着信者から事情を聞いたところ、やはり、熊本側の人達で直ぐにでも宿を借りたいと言う。一〇部屋ある宿は、後から来る客で、間もなく満室になりそうな情報が来た。主人は受け入れ態勢を整える為に食材の買い出しに走った。暴走族が宿泊したことで食材が底をついていたようだった。理久男は目いっぱいここぞとばかりに寝具、ベッドの整理と掃除を受け持った。一人の女子スタッフがいて二人で一〇部屋を整える事は大変な労務だったが、兎に角そのように動いた。水道が繋がる水源地へも教えられた通り、ろ過網に溜まるゴミや葉っぱを取り除きにも行ったし、水の流れを良くする調整も買って出た。時々、停電になる為に、電気温水器から灯油ボイラーへの切り替えも迅速性が要求される。LEDの懐中電灯の電池もすべて確認した。理久男達にとって一日目は目にも留まらぬてんてこ舞で、夜遅く泊まり客が訪れた時は、初めての接客では気を使い過ぎて頭がふらついた。十数人くらいの雑魚寝組の簡単なメイキングで遂に体力がなくなって、終わった時は死にそうだった。風呂にも入らず翌日、理久男は中々目覚めなかった。主人は既に新たにスタッフを二人増やしていて、理久男には本来の目的地を探すことを勧めた。理久男はレンタカーのフロントガラスに水をかけて火山灰を洗い流し、昨日行った場所に自分の車を走らせた。昨日引き返した荒れた道に差し掛かった時、一台の大型のバイクとすれ違った。黒革のユニホームの男がスロー運転でゆっくりと去って行く、理久男はこの前の暴走族の若者に似ていると思った。その道は草が何度も踏まれて荒れてはいたが、車のタイヤで踏み荒らした後もあった。川に沿って暫く進むと右側に小さな滝があって、左の少し高くなった所に屋敷跡らしき平たい雑木林があったが、果たして河宇田湧水の老婆が言った屋敷跡であるのか?理久男は脇に車を停めて林の中に入って行った。入口で車が何度も回転した痕跡があり、草が円形になぎ倒されている。草木の奥に向かって掻き分けて行くと木々の間に石積みが見える、奥の角辺りにそこだけは草木が生えてなくて、近づくと確かに井戸があって中は浅い。もはや水は無くなって枯れた葉が積み重なっている。そこからの後背は次第に坂の山林となって巨木の枝に蔦かずらが垂れ下がっている。

「ここかもしれない!・・いや!ここだ!」理久男は確信した。この場所が過去、真っ赤な炎をあげて燃え上がって曾祖父達が焼け死んでこの世から消えてしまったのだとイメージすると、理久男はただ事ではない過去と繋がるこの現場に、暫く呆然と立ち尽くした。時間が止まり空間が過去に戻った。それは双方が完全に固まって一つの事物に成った事を確信した。この数日間、その時々、情感が受ける衝撃と感知の繰り返しで目眩と頭痛が酷くなって行くのを感じながら、理久男は水無井戸の石積に腰を下ろし、長い間空を眺めていた。雲が形を変え流れて行くのをただ目で追っているだけで何も無かった。脳幹がろ過されて涼しくなって曇り空の薄日が真上に来た頃、若者は立ち上がった。

草林を下った向こうに小さな滝が見える。念のために車の中からバッグを取り出し、背中に背負って川に下りてみた。草だらけだったが、小道が僅かに斜めに残っている。丸い石ころが散らばった沢に出た。段差があって小さな滝壺が現れ、流れ落ちる水音が聞こえる。滝の壁面が切り立っていて、辺りが少し薄暗い、やはりまだ少し目眩がする。理久男は大きな岩石に腰を下ろしバッグで膝を温め、辺りを見渡した。せせらぎの水音と遠くで水鳥の低い鳴き声が木霊した。ぼおっ!とうす暗い影法師が網膜に現われ、突然、理久男はその方向を凝視した。滝の横に突き出た岩の下に一〇才位のランニングで半ズボン姿の男の子が無表情で立っている。男の子は川辺の方を見ていたが、理久男は何かに引き付けられたかのように目を背けることが出来ないでいた。首が動かない。自分の一〇才頃の姿に似ていて、まる長の顔とほっそりした体格で、撫で肩は理久男の体型だ。それは人影のようでもあった。

理久男は祖父の若い頃にそっくり!と伯母たちが言っていた事、

「祖父だ!」理久男は心の中で叫んだ!それは他の誰でもなかった。立っている少年が何かを語ったように思った。

「少年の口元は動かないのに何処から聞こえるんだ?」理久男の脳内を通って鼓膜にはっきりと声が響いた。

「私はお前の祖父じゃ。この場所で私一人生き残ったんじゃ!父親は横で死んでいた!母親と妹も焼けた瓦礫の中から見つかった!私は三日間何も食わずに泣き明かしたんじゃ!悲しゅうて!寂しゅうて!一人ぼっちになった侘しさにとても耐えられんかった!」理久男は驚きと共に心の中に涙が溢れた。目の前に幻の少年が立っているのか?単なる影なのか?解らなくなった。ただ火事で祖父だけが助かって川辺に倒れていた一部始終は高校生の頃、祖母から聞いていて、しかしこの場所で本人らしき幽体からの交信に因って語られた過去の現実は心臓が張り裂けるほどの衝撃を受け、心が折れそうになった。少年の口元は閉じられ、しかし少年の声は続いた。

「この三日間、ここに私を訪ねたのは中年の団体職員と暴走族の若者と理久男の三人じゃ!しかしこの事はお前だけしか知らないんじゃ!」理久男は驚いた!そして問うた、

「何故?あの二人が?」

「暴走族の若者はわしの元彼女の孫で大昔、朝鮮から渡って来た新羅一族の末裔でもある!団体職員はよう解らんが、多分、火事の事を知っている関係者の子孫じゃろう?・・・・

・・・・」その時、何か雑音が入り祖父の言葉が途切れた。その雑音は何度か鳴り、理久男に不安感が走り、過去の、そして己の何世代前の不思議な事件に、とても把握出来ない!知ってはならない動揺が起こり、怖くてそこを逃げ出したい衝動に陥った。半面、幻想的なものへの興味が無くはなかったが、自分の基本的な性格が臆病者の烙印を過去押されたようで、とても過去の現実を探索しようとする精神は露程も持てなかった。その瞬間、少年の影と声が消えて、滝の音と川のせせらぎだけが残り、水鳥がカワセミだとわかった。理久男は大きな石に長いこと座っていたような気がしたが、空が曇っていて太陽の位置がわからないまま呆然としていたが、薄日が真上に来ていた事に気付いた。

「今は正午くらいなのか?時間が過ぎてたな!」理久男は持っていたスマートホンで時刻を表してみたが、スイッチが切れてたのか?暫くして表示され、小さな通信機器が動き始め、着信の跡があった。

「この場所は時の流れの磁場の空間に陥っていて、庵のオーナーが言っていた不思議な言い伝えの場所?・・・」理久男は気持ちが悪くなって頭痛がし、吐き気がして、その場所を引き上げる事にした。土手の斜めの小道を登り上がった時、雲の隙間から薄日が強くなり一帯が明るくなって、沢も滝も普通の景色に戻っていた。理久男は車に戻りエンジンをかけながら、動揺と気分の悪さの中で浮かんだのは

「過去の現実が時空を超えて現世に蘇り、俺はその不動の現実を垣間見たのか?・・しかし何か?してはいけない事をしているのかも?祖父のルーツを辿って見ようと安易にこの地を訪れ、探りを入れることが歴史の歯車を狂わせ、眠った人間の凶運を引き戻そうとする結果になるのでは?」と、弱気な乱れる心が囁く、更に新羅一族の子孫の若者とあの団体職員の客がこの地を訪れた事も迷走感と共に新たな闇が始まる気がした。理久男がたまらずため息を吐いた時、けたたましい携帯の着信が鳴った。理久男は心臓を木槌で叩かれた程の驚きで我に返り発信者を見た。宿泊庵のオーナーだ、

「目的地の探索も終わった頃じゃろう?ええかな?ち思って何度か電話したんじゃけど、うちの宿に大勢の客が来て溢れとるんじゃ!スタッフは女ばかりなんで、力仕事が出来んし、悪いんやけど、戻って来て手伝って貰えると助かるんじゃけど?・・」

オーナーの慌てた声が聞こえた。理久男は驚きと哀しみの世界から一瞬にして現実に引き戻され、力強い庵のオーナーの傘下に身を置きたい心が襲って来て、そして、ほっ!としながらも何故か後ろ髪を引かれる相反する己の心弱い性分を恨みながら宿泊庵に向かって車を急がせた。スマートホンに同じ着信記録がいくつかあって、それは滝のある沢に小一時間居たことになるし、庵のオーナーの数回の着信音が聞こえなかった異様な空間の中で固まっていた己の脳幹を知った。又は携帯の性能は機器の受信性に因って同じ発信者からの数回の送信は一回に集約されるのかな?とも思い、理久男は得体のしれない世界に閉じ込められていた事への心の震えを改めて感じ、そこを出た事の安堵感に満たされていた。

宿に着くと駐車場に十数台の車がバラバラと停車している、軽トラックやワンボックスカーも多い、言い争う声、哀願するような、収集がつかないざわめきが聞こえて来る。熊本側の震災に会った人達だ、着の身着のままの姿、悲壮感が漂っている。あまり被害が無かった竹田の入口の宿泊庵に集中するのは当然だと思われた。タオル八巻のオーナーがチラッと理久男に合図を送って、広い居間の真ん中で身振り手振りで盛んに客を誘導しながら、声を上げている。理久男はとっさにケガ人がいないか?気になった。既に部屋は全部埋まっていて、残りの数組を居間の雑魚寝スペースに区割りするのだ、オーナーが理久男に言った、

「俺は食材を仕入れち来るやけ!水の管理を頼む!それと電気温水器は能力不足になるっちゃ、灯油の管理もやね!それと部屋のベッドメイキングや!」

「居間の雑魚寝の客も枕くらいは用意せねば!」と理久男は勝手に思った。そして水源地を確認した後、仕入れてあった豚肉のデカいやつを、始めて顔を見る中年の無口な料理人らしき男に指示されて細かく刻む仕事に取りかかった。こんな状況の客には暖かい豚汁が一番だと説明された。焼き鳥もありったけを焼くように言われた。物珍しい客が厨房の中に入って来た。丁度、学生時代のワンダーフォーゲル部合宿の光景と重なった気がした。二人の若い女のスタッフはとにかく走り回っていて、無駄な動きが多くて逆にそれが愛嬌となっていた。間もなく予約の家族連れの三組が到着した事で、彼女たちは更にてんてこ舞いになった。腹が減ったと泣いている子供がいて、飴玉か何かであやしている雑魚寝組の中の異様な一団がいて、ヘラヘラ笑って、被災者とは少し違うよそ者がいた。隣の雑魚寝組の若い女性の観光客らしき三人組が怪訝そうな表情をしているのを理久男は気づいていた。・・・

おにぎりと豚汁だけの簡単な夕食はさすがに震災の為、皆盛り上がりに欠けるのは当然で、その中でヘラヘラ組だけが変に盛り上がってアルコールを周りに勧めている。案の定、火事場泥棒は真夜中に起こった。

「それ!私のよ!ドロボー!泥棒!」甲高い声が響いている!前もって庵の主人と理久男はラングラージープの中で休んでいた。薄暗い街灯の中に四人の男たちが黒いワンボックスカーの荷台に十数個の荷物とバッグを放り込むのを確認した。荷物を奪われた客が裸足で玄関を飛び出して黒いワンボックスカーに追いすがろうとしている。ラングラージープはエンジンを始動させライトを点けた。ワンボックスカーは一旦バックし、車体を軋ませながら五十七号線に飛び出し、竹田市街地方面に向かった。数キロ走っただろうか?黒いワンボックスカーは右折、左折を繰り返し、何とか後続を振り切ろうとしたが、ジープはピッタリとついて行く。理久男はシートベルトをしてフロントに両手をついて前を走るワンボックスカーとオーナーの顔をハラハラしながら見比べていた。

オーナーの表情は少し薄笑いをしているようにも見える。理久男は初めての車と車のデッドヒートに遭遇して恐怖感が襲って来た。道路わきの深い谷に舞い落ちたら命が無いと思われた。次第に排気量とドライブテクニックの違いが出た。右側に並んだラングラージープの圧力に屈してワンボックスカーが左折した。しかしそこは道路ではなくて駐車場になっていて手前に大きな石碑が建っている。ワンボックスカーは急ブレーキをかけて停車した。オーナーはジープを後ろに横付けし、運転席から飛び降りてジープに装備されているウインチのフックをワンボックスカーの後部バンパーの隙間に引っ掛けた。ワンボックスカーは一度、バックで体当たりし、前進しながらハンドルを右に切り、半回転して逃げようとしたが、繋がったワイヤーで後部車輪がスリップしている。重量に勝るジープは左右に揺れるだけでびくともしない、オーナーは立ち往生しているワンボックスカーのドアを引き開けて、

「こらっ!お前ら観念せー!」図太い声が恫喝した。中から四人が飛び出して来て、一旦逃げ腰になったが、こちらが二人だけだと分かったのか?

「返り討ちや!野郎!」、二人がオーナーに、後の二人がジープの中の理久男に襲い掛かった。理久男はいきなり車から引きずり降ろされ、転がったところを何度か足蹴にされ、反撃する間もなく胸と腹、横腹に強い衝撃が走って気が遠くなった。袋叩きだ!両手で頭を押さえ、エビのように体を丸めて死ぬかもしれない思いでいると、相手の攻撃が止んで逆に二人がうずくまるのがヘッドライトに浮かび上がった。オーナーの太い腕が理久男の脇に差し込まれ引き上げられた。

「大丈夫か?腹、やられたんか?」理久男はかすれた声で

「大丈夫だと思います!」とやっと声を出した。

オーナーの額に一筋の血が垂れていた。庵のオーナーは最初の二人の攻撃に手刀で払いのけ、蹴りと肘で一瞬のうちに倒し、更に理久男を攻撃していた二人に対応した時に相手の器物を頭に貰ったらしい。タオル八巻が何処かに飛んでいた。一人は首の後ろに強い肘鉄を受け、気を失っていたのをオーナーが元に戻していた。そのままにしておくと意識が戻らず死ぬ事もあるらしい。オーナーはうずくまっている四人を一か所に引きずり集め、背中合わせに座らせて、ロープを首に二巻きずつして、四つの首を繋ぎ、身体を束にして三重四重五重にぐるぐる巻きに強く縛り上げた。理久男は腹を押さえながら、二台の車のヘッドライトが交差する中に、俊敏そうなサバイバルルックの庵のオーナーと四人のす巻きの泥棒の姿が浮き上がる場面を見て、以前、映画で見た “戦国自衛隊 ”を想像した。自衛隊員が敵とジープもろ共、まばゆい光の中で数百年前にタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。時間と空間が交錯したのか?、縛られている一人が

「ハンサンチョギン!」、と何度も叫んでいたが、理久男は従来の日本人ではないと思った。庵のオーナーは慣れた仕草で煙草に火をつけて思いっきり煙を吐き出しながら言った。

「こう云う状況下では被災者はありったけの金を持ち出して来るんじゃけ?それをこいつらは狙うんじゃ!」理久男は驚きの連続で疲れ切っていたが、頼もしいオーナーに恐る 々 尋ねて見た。

「オーナーは以前、何か?やっていたんですか?」

「うん!自衛隊のレインジャー部隊におった事があってな!その時の杵柄よ!」、理久男は驚きながらも納得した。そして日本人とは少し違った言葉を発する気になる男の事を聞いた。

「ハンサンチョギン!と言うんは大昔この豊後の国に朝鮮半島の新羅の国から渡って来た種族が帰化して長い間、この一帯で文化とか言葉を持ち続けている輩がいて、興奮した時に発する不思議な?とか幻想的と言った意味なんじゃろうけど、霞の中に浮かぶ岡城の姿や霧に沈む湧水群を表現したものとも思うんじゃけど?実際のところ何で叫んでるのか?よう分らん!新羅一族の友愛結社と言うべきものなのか?」、理久男は遠い昔の三国時代と倭国(福岡と大分の一部)を思い浮かべながら、この一族が秘かな捉え難い敵意を抱きながらも、この一帯に蔓延っている怖さがあって、もしかしたら祖父のずっと先祖もこの一族と関係があるやも知れぬという漠然とした不安を感じた。数分して竹田市街方面から二台のパトカーが到着した。

「また々!お手柄ですな!」警官が興奮したように言った。

オーナーは警察の到着に礼儀を示した。観念したようにうな垂れている窃盗犯たちの中でハンサンチョギンと叫んでいた男だけが警官に身振り手振りで何かを訴えていて、理久男は不思議とその男の拝むような姿にひょっとしたら真意が通じない哀しい境遇の一族の幻を見た思いがあった。全員が引き上げて行く時、ヘッドライトに浮かび上がった分厚い石碑に “名水・竹田湧水群”の文字が掘り込まれていた。宿に帰りつき、奪われた荷物が全部戻ったことを確認した警官が宿泊客に

「今は非常時ですから雑魚寝する時は荷物は身体に括りつけて眠って下さい!」と金切り声の訓示をしたが、その夜は多分、ショックで皆一睡も出来なかったのだろうと思われた。理久男は泥棒から蹴られた横腹が疼いて眠れそうになかったが、土間の中二階にあるオーナーの小部屋に一緒に寝たことで安心感があった。深夜になって理久男がやっと眠りについた時、昼間、小さな滝壺で会った祖父の言葉の続きが脳裏に浮かんだ。

「わしがなぁ〜、一番堪えたのは、やっぱり、あの火事の時だった!あの時わしは夢を見てたんじゃ、妹と花火をして火の粉がわしの顔に当たって、チカチカしてなぁ、目を覚ますと天井から本物の火の粉が降っていたんじゃ、周りは火の海に囲まれて逃げるに逃げられない状態じゃった!母様はわしと妹を抱き寄せて布団を被ったんじゃ!わしは息が苦しくなって布団の中から転がり出たんじゃ!妹の泣き叫ぶ声が今でも耳にこびり付いちょる。転がり出た所が廊下で、そこに親父が飛び込んで来て、傍にあった麻袋の米を火消しに撒いて、わしに麻袋を被せて担ぎ上げたんじゃ!わしは空中を飛んでいる感じじゃった!そのあと川の中に投げ込まれた!岸に這い上がって、わしは気を失ったんじゃろうな?夜明けに人がよけ〜集まって来てわしは気が付いたんじゃ!親父は火傷もしちょったけど、飛び込んだ時、岩で頭を打ったんじゃろうな?それが死因じゃったらしい!わしは男衆に背負われて家を見に行ったんじゃが、燃え落ちて何も残っちおらんじゃった!」

理久男は心が締め付けられた。

「わしは悲しゅうて!寂しゅうて!たまらんじゃった!一週間泣いちょった!孤児になったわしを慈悲深い和尚様が引き取ってくれたんじゃ!最初のうちはなぁ!天涯孤独になった事が十歳のわしには理解出来んで、母様が恋しゅうてなぁ!でも和尚様が言っちょった!

『お前は一人になってしもうたんじゃから、これはお前の運命じゃち諦めにゃぁいかん!そして仏様をこの和尚を母親じゃち思ってついて来なさい!・・』

「和尚様はオッパイがないけに母様にはなれん!・・」

『この和尚にも小さいがオッパイの乳首はあるぞ?欲しけりゃおしゃぶりしてよいぞ!』と、

お祖父さんは本当に可哀想だったんだ!と理久男は思った。

「和尚は優しかったが、修業は厳しかった!和尚が紙に書いたものを壁に貼り付けて、わしは毎日それを読んで頭の中に叩き込まれたんじゃ! 一に掃除・二に勤行(ごんぎょう)・三四がなくて五に勤行(ごんぎょう・釈迦の歴史を学ぶ)の三つをな! わしは朝早く起きて雑巾を水で絞ってお堂の拭き掃除をして、次に境内の掃き掃除をして、お経を一通り練習して、学校に行ってたんじゃ!帰ったらお経を一回読んで、和尚様の話を聞いてお釈迦様の勉強をした。夕御飯を頂いた後に学校の宿題をしよった。わしは小学時代をその寺で過ごしたんじゃが、お経にしてもお釈迦様の勉強でも漢字を覚えにゃならん!そして同じ漢字でもお経の呉音は読み方が違うんじゃなぁ!学校の漢字の書き取りよりも遥かに難解じゃった!最初の一年間は出来んかったが、和尚様の言葉を真似て覚えようとしたんじゃが!仏様と和尚様がわしの本当の親だと思ったらお経が好きになってのう、そしたら意味が少し解るようになって、仏様の世界は不思議なものじゃ!あの頃学校は日曜日は休みじゃったがお寺は三百六十五日休み無しじゃ!まぁ、葬儀がなければ毎日休みなんじゃが?ある時、和尚様のお供をして葬儀に出かけた折りにのう、三部教と云って長い長いお経があってのう、わしは和尚様の横に座っておって、そのまま眠ってしもうたんじゃ!気づいた時は座敷に寝かされとったわ!」理久男は夢を見たのではなく、あの沢に立っていた祖父の少年の魂が追って来て過去のことを教えているのだと呆然となったが、既に恐怖感は消えていた。

『十歳の子供でも寺に入ると云うことは仏に使えると云うことじゃき!甘えは許されんのじゃ!』理久男は肌着がびしょ 々に成るほど寝汗をかいた。

夜明け前に窓からほの暗い暁の光が差し込む中でこの竹田の一帯に祖父の少年時代に遭遇した過酷な境遇と、遡る時間と空間の中で新羅の国の古人の苦難の道のりが巨大な透明のパイプで繋がっているような?これは庵のオーナーが言った事だったが、その不思議な想念が脳裏から離れなかった。理久男は翌日の正午過ぎに 宿泊庵を出る事にした。オーナーは新たな男子のスタッフ二人と打合せをしていたが、理久男に近づいてきて、名残惜しそうに太い腕でハグをした。

「君は永遠の友に成りそうっちゃな!そいで此からも何度もこの竹田に足を運ぶ事になるんじゃろ!それは君のルーツがこの竹田だからなんじゃ!君との遭遇は必然だったんじゃ?会ったのも必然なんじゃ!」

「オーナー、ありがとう!この宿泊庵に来なければ祖父のルーツのきっかけさえも掴めなかったんじゃないかと思います。そしてあの屋敷跡の滝のある沢で、きっと僕がうたた寝して夢を見たんだと思うんですが、少年の祖父が現れて、色々話をして、その時僕は因縁めいた祖父の話が怖くなって、このルーツを探る事は止めようかと思ったんですが、昨夜のオーナーのバイオレンスアクションが僕を映画の"戦国自衛隊"の過去の世界に引き戻したんです!だからあの少年の祖父の出現も満更、夢じゃ無かったんじゃないかと?・・・僕は怖くなって逃げようと思った事を恥じています。オーナーの爪の垢を煎じて飲みたいですよ!」、

「あっははは! 爪の垢は良かったな!・・俺もねぇ!”戦国自衛隊 “のタイムスリップじゃないんじゃけど、この地域はこの前も言ったようにこの竹田を点として、過去の世界と己とを結ぶトライアングルが有るんじゃ無かろうかと思っとるんじゃ、実は俺の曾々祖父は岡城の門番兵をしとったらしゅうてな!西南戦争で西郷軍と共同戦線を張った時、大分名物の地鶏の焼き鳥と冷やで美味い “鷹来屋”という酒を西郷軍に勧めて大変喜ばれて、お礼に薩摩焼酎を沢山貰ったらしいちゃ!その後、政府軍に攻められち西郷軍は後退しおって、城は焼け落ちたんじゃけど!その時、曾々祖父は政府軍に殺されかけたんじゃが!持っていた"鷹来屋"の酒と焼き鳥と交換に命を助けて貰ったらしい! 科学者が良く言うじゃねえか?・・時間と空間の流れの中で・・と、その遥かな時間の帯の中で俺の先祖たちも右往左往して来てるっちゃ!俺も若い頃、自衛隊のレインジャー部隊に配属されて、あるジャングルで訓練があって、俺は一人迷ってしもうて七日間生死をさ迷ったんじゃ!体力は無くなるし、毒蛇に噛まれて朦朧となって、それに蟻の大群に襲われて、気が狂いそうになって!喉をサバイバルナイフでかっ切ろうと思ったんじゃが!その時、サバイバルナイフの面に、とうの昔死んでしまっとる曾々祖父が映って嗄れた声がするんじゃ!・・

曾々孫よ!死んだら行けんぞ!お前が死んだらわし等の家系は耐えるんじゃぞ!わしは戦争で味方が虐殺される中で酒と焼き鳥と交換で命を永らえたんじゃ!必死の思いで続けてきたわし等の家系をお前の代で終わらせる事は絶対に許さんぞ!・・と脅されたんよ!そこで俺は死ぬのを思いとどまって、ジャングルを進んでいたら、水溜まりがあって、その泥水に身体を浸して蟻を追い出して、蛇の毒も泥水の効果で鎮まったんか?次の日に助けが来てな!で、我が家には苦難の時でも、如何なる方法を使っても生き延びよ!という格言があるんじゃね!」

タオル八巻に髭面のオーナーは憂いに満ちた表情で話を終えた。理久男は胸に込み上げるものがあって、再度、オーナーにハグをした。オーナーは火山灰が積もった車にバケツで水をかけてくれた。理久男は三日間の宿代を払おうと思ったが手伝いをした事で一日分だけを受け取って貰って、車のエンジンをふかした。理久男は単独で思うように動いて見ようと思ったし、オーナーもそのように助言してくれた。

「此処へは又戻らなければ?」と思ったが、祖父のルーツを一時避けようとしていた弱気を最高の友との出会いが人を強くする事に感激しながら宿泊庵を後にした。



◇湧水と梅園の中の祖父

理久男はその足で河宇田湧水の老人夫婦の家を訪ねて見たが、すっかり震災の修復は終わっていた。あの時、老人の口から漏れた祖父の当時の恋人の存在と火事が放火だったらしい事が消えない記憶として残っていて、近くの河宇田湧水をゆっくりと見渡すと東側に大きな湧き水の溜池があり、伏流水の豊かな自然の恵みが広がっている。天国はこう云う所ではないかと思えた。庵のオーナーが言っていた大昔に新羅の国から何らかの因縁を持ってこの一帯に移って来た一族の言葉―ハンサンチョギン(幻想的な)とはこのような景色の中から生まれたのだとも思ったが?河宇田の老人は祖父と同期だったらしく祖父の恋人の事は良く覚えていて、旅芸人の娘で歳は同じくらいで吉野梅園の中にある天満神社で神楽や獅子舞いなどのイベントなどで二人で仲良く踊っている姿を見たこと、その後悲しい別れがあった事、一方放火に関しては同じ地域で曾祖父が人妻を自分の物にしたことから、その夫が怨恨で付け火をしたんじゃなかろうか?との噂があったが、曾祖父は若い時から色白の美男子で、思いを寄せる人妻が多くて、実は老人の母親も思いを寄せた一人だった事を笑い話のなかで聞いたが、真相ははっきりしていないとの事だった。理久男はその事よりも百歳に近いこの夫婦がこの年まで矍鑠とした生きざまを続けている事に驚いた。

理久男は老人の話にあった吉野梅園を目指す事にした。到着する頃は日暮れになるので、五十七号線の一本道をアクセルを強く踏みながら老人の最後の言葉が気になっていた。

「あの曾祖父はなぁ!言い寄って来た人妻や女ご衆の何人かに、あちこち子供まで産ませとったちゅう事じゃけ!わしの親父たちが呆れ返っとったちゅう話も思い出しっちょ!」、理久男は自分に曾祖父の女たらしの血が流れていないことを祈りながら吉野梅園にナビをセットして一時間ほど走って、目的地らしき所に到着した。周りは田園と雑木林が多くて、ホテルや旅館らしきものは、おおよそ見当たらない、夕暮れ近くになっていたので、理久男は市街地の方にハンドルを切った。大分の中心市街地近くまで車を進め、やっとビジネスホテルの看板を見つけて、シングルの部屋を確保した。理久男はこれ迄、幾つかのアクシデントに会い、ショッキングな出会いの連続でかなりのストレスが溜まっていると自分なりに感じていたので、飲みに出る事にした。ホテルから大通りに出て、大きな丸い両下がりの看板に“商店街通り”の文字が飛び出すようにくっついている。理久男はこっちの方角に行くと飲み屋街に辿り着くだろう?と直感した。東京の理久男が住んでる下町にもこんな街並みがあって、田舎街の都市計画は東京を見本とすることが多い。案の定、商店街を通り抜けると両サイドに巨大な蛍光管が立ち並んでいる歓楽街が見えて来て、焼き鳥・居酒屋・スナックが軒並み続いていて、やたら鳥を焼く煙が漂って来る。キャバクラらしい重厚なタイルのドームがあり、わき道にピンクのスナックバーの看板が並んでいる。歓楽街の広がりは限りがあるが、中身が濃いのか?ここでも理久男くらいの年齢の男女が多く、どちらかと云うと、女の方が多くて、後ろから眺める腰と尻の形が気になる。理久男は居酒屋に入った。カウンターに座り、大分名物の地鶏の焼き鳥を数本注文して、一杯目はビールの中ジョッキで喉の渇きを潤したが、宿泊庵のオーナーから聞いた冷やで美味いと言う"鷹来屋 "のラベルの一升瓶が目の前に並んでいる、とにかくその酒を飲んで見ようと思った。

理久男は日本酒を飲む事は殆んど無くて、ワインは飲んだ事はあるが、何だか?解りもしない内に冷やをコップで注文した。一口飲むと甘くて飲みやすい舌ざわりで、

「ワインのようだ!」と思いながらコップを傾けていると一気に飲んでしまっていた。喉の奥から蒸し暑い香りが吹きあがり、頭がくらっ!と半回転した。

「これが冷やで美味い酒か?」、と呟いて,カウンターの中のマスターと二言三言話しているとカウンターの角の面に座っていた中年の女が大分は初めてか?と聞いて来た。そしてその"鷹来屋"と云う酒はそんなに一気に飲むもんじゃなくて、チビリ 々 と味わって飲むもんだと言った。いきなり飲み方を注意されたが以外にもむっ!とはせず、知らない者からの筋の通った情報を被ったと思い、理久男は素直にその婦人に顔を向けた。銀縁の装飾メガネと金糸の透けたカーディガンを着た五十才前後の女で貫禄ある顔役の雰囲気があった。理久男は今まで日本酒を冷やで飲んだ事がなくて、飲んだらす〜っ!と入ったが何か?ワインのようで?そうで無い水っぽい味でもあって頭がくらっ!とすると素直に答えた。素人っぽい言い方に女は豪快に笑い、何処から来たのか?と聞いて来た。

「あの〜!東京からです!」

「旅ね?」

「まあ?そう言ったもんです!」

「大分はどうね?」

「えぇ!竹田を回って来たんですが、その前に熊本で震災にあって!」

「あぁ、熊本は震災で大変だよね!こっちも少し揺れたけどな、あんたも大変な時に来よったな!」理久男は祖父のルーツを探りに来た事と途中アクシデントの連続に遭遇した事の今までの経過を一応説明した。女は銀の鎖を絡めたブレスレットを巻き付けた腕でワイングラスを傾けながら話を聞いていた。その時、五〜六人の若者が入って来て理久男と中年の女との間のカウンターにドカドカと腰を下ろし、ビールのジョッキと地鶏の盛合せを乱暴に注文し始めた。二〜三人の黒革ルックの若者がいる。数種類の地鶏の焼き鳥はかなりの人気があるようで串に刺したのもあるが、バラバラに焼いて大皿に盛って皆で食うのも醍醐味があるようだ。若者の一団のリーダーらしき男に見覚えがある。相手もこちらをチラッ!と見やりながら、リーダー格が口火を切った。

「おっ!東京のお兄さん!こげな所にもお出ましか?」

「来ちゃ悪いか?」理久男はあの時の崖下から助け上げた少女の兄の横柄な姿が甦っていて、仲間の今にも切れそうな視線がこちらに向けられているのが妙に癪にさわった。

「あの状況下で、こちらに敵意を向けるこのガキ達は真ともじゃない!こいつらに嘗められる気はしない!」、と呟いて理久男は串に刺した鳥を全部口の中にむしり取った。本当は飲めない冷の日本酒が効いて来たのだった。そして育ちの良い優男風ではあったが、登山部で多少は鍛えた身体が宿泊庵の主人のレインジャー部隊の格闘技に染まって力を貰い、乱舞する鉄拳が映画の中に登場した。直ぐ横で理久男に挑むような目の若者に

「何なんだ!お前は?」、と睨み返した。一発即発だ!理久男は拳を握りしめた。三人隣のリーダー格の若者がおもむろに言い放った。

「お、おぃ!おぃ!違うんじゃ!お前等もな・・東京のお兄さん、違うんじゃ!」リーダーは立ち上がって理久男の傍に来て、理久男の二の腕に触れながら

「兄さんに礼言わにゃいけんと思うて探しとったんじゃ!」と理久男の右隣に座った。理久男は呆気に取られた後、気恥ずかしさで酔いが醒めた気がしたが、それを隠しながらビールの追加注文をした。 カウンターの角面から眺めていた銀縁メガネの女が興味を示したのか?

「東京のお兄さん、旬のマコカレイ、私がおごっちゃる!天ぷらが良かかな?煮付けがいいか?」理久男は女に頭を下げながら、リーダーに聞いた、

「妹さんはどんな具合なんだ?」中指と腕に包帯をした若者が言った。

「左肩と左太股の打撲と擦過傷はハッキリしたんじゃけど骨はまだ診断中じゃ!あの崖は勾配が緩いけ!衝撃が弱かったじゃろうち医者が言うちょった。やっぱ〜、バイクは革ルックや!身を守るっちゃ!」理久男はこのリーダ格の鋭い目をした兄と言葉がやっと通じ合った事で内心胸を撫で下ろした。

「良かったじゃないか?酷く無くて!妹さん、よく見ると綺麗な子じゃないか?」

「妹は俺の宝じゃ!けど俺の言うこつ聞かん!」理久男は思い出した。

「ところで君はさ、二日前くらいだったかな?竹田の小さな滝がある沢の近くで会わなかったかなぁ?バイクに乗って」と、その途端リーダーの目が険しくなった。

「行ったよ!滝のある沢の近くに!・・アンタは知っちょるのか?あそこを?」

「ああっ、あの上に僕の祖父の家があったんだ!燃えちゃったけどな」

「そ、それ!本当のこつな?」、鋭い鷹のような目が人間的な丸みを帯びて理久男の横顔を覗き込んだ!右の二の腕を痛いほど握り締めて。・・・・

カウンターにはいつの間にか銀縁メガネの女の連れらしい客が加わっている。女はこの一帯の若い連中の面倒を見る立場の人間らしい。正体はわからないが太っ腹である事は確かで、銀縁メガネの女の采配で連れの女達と理久男、リーダー格と他の若者数人は、次の店に行く事になった。リーダーは背が高く理久男を優に超えていて、夜の街を肩で風を切る姿は反骨とキナ臭さが残る雰囲気を思わせた。大理石の階段を上ったその店はどうやら銀縁メガネの女の持ち物で長女が仕切っているキャバクラに思えた。娘は母親似なのか?はっきりしないが、長身で落ち着いていて、母親と娘と職場の関係が理久男には今一つ良くわからなかったが、理久男だけが初顔で周りはそうでは無いようだった。店の子も数人席にいたが全員にジントニックが振る舞われ、それぞれが歌うことになって、理久男は学生時代登山部で良く歌った変わったロックメドレーの曲を歌った。ロックのリズムにつられて若いオカマが理久男を誘ってきたが、リーダーたちによって遮られた。酔ったリーダーと理久男との話になって、

「俺の母親から聞いてる事じゃけど、祖母が若い頃なぁ、火事で一人残った男ん子にえらい世話になったっち、そん人ん事は絶対に忘れちゃいけん!と云う言い残したこつが俺ん家にあってな!それがあんたの祖父さんと云う訳や?・・俺の妹が最近になって、変な霊感というか?何かにマインドコントロールされてしもうて、俺から離れて行きよる。俺にとってはたった一人の妹じゃ!・・俺ん祖母はなぁ、淡路島から来たっちぃ人形浄瑠璃の一座にも身を置いたこつがあるっちぃ聞いとるんじゃけど、そう言うんが何か?関係しとるんか分らんが?」、迷走しているリーダーの話に理久男は呆然となった。その事は理久男の祖母からも聞いたような気がして何処かで繋がっているような?リーダーを凝視し、理久男は酔いに冷えた水を二杯飲んだ。

「幻想的だねぇ?遠い、いにしえの愛が現代に繋がってるなんて!ハンサンチョギン!」一人のキャバクラ孃から聞き慣れない言葉が漏れたが、これに反応したのはリーダーと理久男だった。誰かが冷やかし気味に囁く中で銀縁メガネの女の眼が光った。

「妹さんの体はどうなのさ?東京の兄ちゃん、見舞いに行って見なよ、ねぇ?」リーダーは俯いている。銀縁メガネの女の長女が理久男に問うた、

「あんた、年は幾つ?」理久男は指で返事した。・・話は元レインジャー部隊にいた宿泊庵のオーナーの話題になり、この地域の有名人になっていて、銀縁メガネの女と同期で何か繋がりがあるようだった。一同は餃子・麺類の店でお開きとなって、深夜ふらつく足取りでホテルに帰り着いた理久男は銀縁メガネの女とリーダーの兄との携帯番号を交わし合っていた。ホテルのベッドで目を閉じるとワイルドな魅力を湛えたリーダーの妹と、新たに長身の銀縁メガネの娘の姿が脳裏から消えないのは曾祖父の女たらしの血を引き継いでいることが原因ではないかと気になった。・・

翌日チェックアウトしないまま、理久男は吉野梅園を目指した。そこには碑のような標識があり、広い駐車場に停車して車を降りた。昨夜の酒の余韻が残っていて酷い頭痛がした。片目で眺めると一つの丘全体が梅園になっており、上り口には老木の樹齢八百年の臥竜梅(がりゅうばい)が横に伸びて奥深い空間を作り出している。四月の中旬、花の開花時期は過ぎて小さな実が生まれている。行楽客はまばらで家族連れが数名いるようだ。梅園の中に天満神社があると云う、理久男はコンクリートで固めた参道を登って行った。途中家族連れの少年がかけ下りて来て、母親らしき女性のかん高い我が子を呼び止める声がした。道がカーブしているが、神社まではかなりの道のりだ、理久男は足早に歩いて少し息切れがした。梅園の中頃に進むと杉の巨木の奥に神社が見える、荘厳なたたずまいだ。横には舞台のお堂が見えた。

「あれか?」と丸い石橋を渡って近づいて行くとその辺には十数人の老人会らしき団体と行楽客が行き来していて、付近に数本の立派な梅の木があり、その一本に人集りがしている。梅の管理者が何かを老人たちに説明している姿があって、その説明者の横に周りの老人より遥かに高齢の人物が杖をつきながら梅を見上げている。やがて老人会と行楽客が去り説明者とその老人だけが残って、明らかにその人物は管理者の長らしい。理久男は近づいて丁重に頭を下げた。二人の管理者は不思議そうに若い理久男を眺めていたが、

「こんにちは!あの〜、僕は東京から来たんですが、祖父のルーツを辿って此方にやって来ました。」管理者が

「ほう〜!東京からね、お祖父さんのルーツと云うと、この梅園の?」

「はい!少年の頃、孤児になって宇佐神宮の下働きをしながら、この天満神社で神楽とか獅子舞いの踊り子もしたらしいんですけど?」理久男は単刀直入に正体を述べ、管理者は呆気に取られている様子で、杖をついた高齢の人物が

「ううん、あんたのお祖父さんと云うのは?・・・?」老人は長く立っているのが厳しいらしく、神社の横にある舞台堂に案内された。理久男は舞台堂に行く前に神社に賽銭を入れて鐘を鳴らして祖父の事を祈願した。二人の管理者は理久男をじっと、見つめていたが、出された茶を三人で飲みながら、早速、高齢の管理者が口を開いた。

「あ、あんたの、その!お祖父さんと云うんは竹田の家が燃えて可哀想な子供で、この天満神社で奉納の神楽とか獅子舞いをやっとった後藤と云う人じゃなかったかのう?」

「そうです!私も後藤です!火事で孤児になったのもそうてす!」嬉しかった!

「おう!おぅ、あんたは孫さんで!・・わしゃ、歳が少し下じゃが、わしも獅子舞いを踊ったぞ!あんたの祖父(じい)様ほど上手うなかったんじゃがな、わしゃ、それが縁で青年になってからのう、ここの梅の管理者にしてもろうてのう、・・あっ!そうじゃ、そうじゃ、あんたの祖父様の親父は火事で亡うなるまでここの梅の管理者じゃったんぞ!腕が良かったらしいちゃ、・・祖父様は後から東京の都に行ったっち聞いちょった」梅の樹医らしい矍鑠とした老人の一気に昔の記憶を語り出す生命力に圧倒されながら、理久男はもう一つ気になっている事を聞いた、

「ところでお爺さん?私の曾祖父がここの梅園にお世話になった事は今、初めて聞きましたが、あの〜、ある竹田のお年寄りが言ったんですが、曾祖父がとても女好きで何人かの人妻に身ごもらせた話を聞いたんですね?それって?本当だったんでしょうか?」老人はもう一人の管理者と顔を見比べながら、

「な、何じゃと?人の嫁に腹ませた!何じゃ、それは?誰が言ったんじゃ?・・そげんこつは?・・」もう一人の管理者が

「この吉野梅園の梅の管理者は宇佐神宮のお墨付きがないと出来んとじゃき、人妻に腹ませちゃり、うそんじょう(うそつき)な人間、悪さをする者んは切腹させられるじゃき」老人が

「それゃ〜、あの爺が言ったんじゃにゃあか?あん、竹田の?わしと同い歳じゃ、あん爺は、」、

「はい、河宇田湧水近くの」

「あん、爺はあんたの祖父様と好きおうとった浄瑠璃の一座の娘に横恋慕しちゅ、祖父様が東京に行った後もモーションかけよったんじゃけど!、反故にされての、腹いせに祖父様が女っ垂らしじゃとか、曾祖父様が人ん嫁に腹ませたとか、うそんじょうじゃき!あん爺が人様ん嫁いじくって、よからんこてぃ(大問題)なったこつは知っちょーが、あんたの祖父様とか曾祖父様がそげなこつしたっちぃ聞いた事はないじゃき」

会う人、語る人の話の食い違いに理久男は愕然としたが、曾祖父の悪癖がそうではなかったことに人生がひっくり返るほど胸を撫で下ろした。

天満神社の新しく就任した若手の宮司が近づいて来て、管理者と理久男を神殿に誘った。

ピンク・白・みどりの落雁が出され、理久男は砂糖を固めたようなその菓子を初めて口にしたのだが、不思議な触覚を味わいながら、ふと、神殿の横を見ると杉の大木の陰に少し成長した理久男に似た少年が、濡れ衣が晴れたかのように微笑んでいる姿をぼんやりと見た気がした。

理久男は宮司と管理者からここの梅園の梅がいにしえの昔、大宰府天満宮から移植された事、それに伴う様々な由来を長々と聞いたが、若い宮司が説明する中で、自分自身の歴史に対する復習をしているような初々しい語りが可笑しかった。

理久男は一人で梅園を全て歩いて見たが、幾つかのお堂や梅を管理する農具の納屋、梅の収穫所があり、管理の為の継続されてきた人の力の繋がりと、過去の祖父と曾祖父の青春がこの吉野梅園の中で流れて来たことを、そしてその宿命がどうしようもない感情として理久男の胸の中に襲って来た。怖さと気味の悪さが消えて哀しい懐かしさに変化する己の心を眺めた。理久男はもう一度祖父の少年の亡霊に会って話がしたくなって、天満神社の横にそびえ立っている大杉の傍にも行って見たが、少年は現れなかった。理久男は夕方近くまで梅の林をさ迷い、時々涙が溢れ、ここでも受け継がれて来た血が継続され、吹き上がる思いの数珠状の塊りとが絡み合い感情が込み上げた。あの頃の時間と今の時間との狭間がなくなって二つの空間同士が一つになれば良いと思った。人間の悲哀を例えば都市伝説的にドライに片づけてしまう現代っ子には理久男はなれないし、そのように出来る若者は何処かでいつか琴線が切れて正常さを喪った人間になってしまうのではないかと思いたいのだ。・・・

ホテルに帰り寝ようとしたが落ち着かず、天井に嵌め込まれている四つ型の蛍光灯の紐を引くと、いきなりの暗闇の世界に変わり、揺れる蛍光灯の紐に付いてる蛍光ボタンから始まり、テレビの電源の赤いOFFの灯り、緑色の冷蔵庫の入電灯、そのミラーに映るポットの灯り、少し上のオレンジ色のコンセント灯りが魔物の眼のように全体の暗闇を見張っているような不気味さを振り払うように、廊下にあった自動販売機からサイダーを抜き取り飲んで頭を冷やすとある疑問が襲ってきた。

「俺は祖父のルーツを探りに来て、果たして良かったのか?探れば探るほど嫌なものも見えて来る、そして人間の修羅が逆襲してくる!知らなければそれも無いのに?・・人を恨むこともないし、恨まれていることを知ることもない!祖父の少年時代の亡霊も理久男に来て欲しくはないのではないか?いまさら、そっとして欲しいのではないか?そして河宇田湧水の老人は何故?曾祖父がどうしようもない女垂らしだと嘘をつくのだろう?・・人間には修羅と云う悍ましさが目いっぱい詰まっているのだろうか?そしてそれは己にも?・・人の心があるはっきりとした形・物質に変わるならばそれは解り易く、判断が早いと思うのだが」と、・・理久男は卒業する前に、特に通った大学の講義でなかなか理解出来なかった物質と精神の変換という項目で、思考と精神を陶芸品という固体物質の形に変換してみた、のと、逆に塔の形をした自然石の固体物質に感化された男は遥かな独立心を心に描いた、と解釈して見たのだが?これは正解なのかと?・・自分なりに訳の分からない解釈をして見たことがあって、・・・

しかし遠い過去である祖父のルーツを探る旅の中で、過去と同じものを探し当てたならば、そもそもそれは嫌なものでは無くて又、当たり前のようでもあり、しかし他の事例と比べなければ意味が通らない、ややこしい問題だったりして、益々頭が混乱するのだが、例えば、シーサイド(海の近く)ホテルに宿泊したように頭の中の場面が海岸に接し 、バルコニーから顔一面に吹きつける塩風の匂いにハッとさせられ、寄せては返す波が砕けて沸き立ち泡を吹き出すのを見ると、それは本格的に物理的な音を響かせ、あらゆる雑音と迷い物をかき消し本来の現実に立ち返ってしまう。そこにはただ安堵感と、忘却が漂うだけなのだが?・・・。

二日後、理久男は竹田に戻って来た。いの一番に宿泊庵のオーナーに会いたくなって、訪れるとあいにく不在だったが、人が溢れて座る場所もないくらい混雑していた。オーナーが帰って来るまで、手伝いをしようと水道の源泉水に向かおうとすると、源泉水への山道から、宿泊庵で最初出会った中年の団体職員が首にタオルを掛け、歩いて来る姿があった。二人は単なる懐かしさの挨拶をしたが、相手は

「やっぱりここが一番ええから戻って来たよ!」と軽く笑っていた。部屋がないので主人に頼み込んで一緒の部屋に同居させて貰っているとの事、オーナーは実家の用事で暫く帰れないので、食材の買い出しを頼まれて困っている事を嬉しそうに話していたが、気のままに動き正体が解らないこの団体職員に対して心が触れ合わない、親近感が沸かない、まさに理久男は気が抜けた気持ちで宿泊庵を後にした。

向かうは二ヶ所、嘘をついた河宇田湧水近くの老人宅を再度訪れるのが気乗りがしなかったが、引っ掛かるものがあると先に進めない、と思いつつ、団体職員が竹田に舞い戻っていることも何か腑に落ちない気持ちで煮え切らない意識に無理に気合いを入れながら老人宅を訪れた。老人夫婦は相変わらず愛想よく迎え入れてくれたが、吉野梅園の管理者である老人の話とつじつまが合わないことを述べると、老人は暫く昔の記憶を辿ろうとモグモグと音をたてていたが、横から老婆が

「お爺さん!他人の嫁孃をかどわかしたっちゅうお人はこん人の曾祖父さんと一緒にあん梅園で仕事しよんなさったあん人じゃちぃ思いますが?ほれ!仕事出来んごとなったお人?」

「ああっ、そうじゃったかなぁ?・・そうじゃ!そうじゃ!あれは別の人間じゃった!」

「この、お爺さんもあん梅園で仕事しちょって、宮司さんと折り合いが悪くてなぁ、どこかの女ごさんをだれかと取り合いっこになってしもうて、宮司さんに咎(とが)められち、辞めたっち、私の母親から聞いとります!」

「婆さんにはすまんこつしたのう!婆さんの方がうんと!ええ、女ごじゃった。ところであん梅園でずっと管理者ばしちょる同い歳の奴がおってのう!これが又、女ごに癖が悪るうてなぁ、何でもわしん責にしちょる!まだ、管理者ばしちょるんか?」

理久男は酷く朦朧感が強くなって、土産に持ってきた佃煮を差し出して、丁重に頭を下げて引き下がった。いにしえを言う人、語る人、其々が五十年以上も遡る記憶が、何が真実か確認する事が不可能に成っている。・・空間も時が違えば品が違うという当たり前の構図になるのが当然だと考えられるのだが、先日思った探れば探るほど嫌なものも見えて来て、そして人間の修羅が逆襲し、そう云う真実ではないものがごっちゃ混ぜになって精神を狂わせるような事態に遭遇して、遂には彼はルーツを探る後悔の意識を大きくしてしまった。そしてもう一つの滝のある沢の屋敷跡に向かった。理久男は何がなんだかわからない?老人たちの円熟した語りに翻弄された二十二才の壊れ掛けた意識を、祖父の少年の亡霊によって立ち直らせて貰うことを一つの希望としていた。



◇くノ一

其処には少年の亡霊はいなかった。滝のある沢も何の変哲も無かった。代わりに宿泊庵で別れたばかりの団体職員の姿があった。団体職員は屋敷跡と滝のある沢の方角とを見比べていたが、理久男は車から降りて言葉をかけた。団体職員は軽く笑って調べたらしいこの屋敷跡に付いて身振り手振りで話し始めたが、明るい表情が消えて額の皺が目立っていた。理久男はこの団体職員を何か裏がありそうな本音を悟られまいとする欲得が潜む人物として好ましからざる人物のリストに入れそうだった。

「実はね、わし君と一緒で、あるルーツを探しに来てるんよ」

「火事で焼けたこの屋敷跡と何か関係があるんですか?」、理久男は人様の哀しみと苦悩に土足で踏み込むようなその男に対して憮然とした表情の自分を見たが、其れは大きな誤認となった。団体職員は意外な系図を漏らした。

「それがよく分からへんのやけど?実はね、わしの先祖はこの竹田の岡城に出入りする御用商人だったらしいんやけど、酒類とか鶏肉、そして女衆の白粉、紅、香水なんかを納めていたらしいんやね?その納める時に賄賂と云うか、袖の下を要求される事もあって、ある時、その不正の濡れ衣を被せられて手打ちに成るところを〝小夜様〟に助けられた、と家の過去帳に書いてあるんよね、」関西弁が丸出しのその団体職員は更に、

「その〝小夜様〟と云うお方は常に城の外にいて情報を直接城主に伝える役目をしていた女人とも書いてあるんやね、」理久男は唖然となり己の無知さに恥ずかしさで真っ赤になったが、それを悟られまいとしてサラッと言ってのけた。

「くノ一みたいな人だったんですかね?・・その女人の人がここの屋敷跡と何か?繋がりがあるんですか?」理久男は新たな人物の存在に圧倒されつつ、意識の中の見識の狭さと一瞬!卑屈な餓鬼の仲間入りをしたが、次第にそんな事は消え失せ、歴史上に登場しているべき神秘の女人の影が意識の中に広がった。

「〝小夜様〟の情報伝達の仕事は西南戦争で岡城が燃え落ちた時点で終ったらしいんやけど、その時にやね、〝小夜様〟が大ケガされて、わしの先祖の御用商人と一緒にこの小さな滝のある沢で近くの民に助けられた、とあるんやね、わしが知りたいんは先祖が世話になった〝小夜様〟の事なんよ、だからここに来れば何か分からへんかぁなと?・・そしたら君ん祖父さんの屋敷だった訳や」完全に下座に下った理久男は上擦った声で問うた。

「その〝小夜様〟と云う人はどんな人だったんですかね?」

「それは〜!美しい方で切れ長の目は天女のような、と印してあったし、逆に律儀で道を貫くには鬼にもなる大そう怖い人でもあったらしい。そしてその人の証印も貰ってるんや!朱の小夜印」理久男は神秘の女人を味方にし、小夜印をも、ものにしたこの団体職員に平伏せざるを得なかった。

「朱の小夜印?・・私の先祖がお世話をしたのなら、その小夜印を貰っている筈ですが、なんせ焼失してしまって何も残っていないんですよね、」理久男は腰砕けになりながらも団体職員の知識に並ぼうと焦る態度を隠せなかった。団体職員の云う〝切れ長の目〟にどこかで引っ掛かりを感じ、宿泊庵の主人の先祖が岡城の門番兵だったことを思い出し、ビジネスホテルに電話でチェックアウトを入れ、竹田の金融機関から料金を送金する事にして、団体職員と共に宿泊庵に舞い戻ったが、この時、竹田に来てから一週間が経過しようとしていた。宿泊庵にオーナーは戻って来ていたが、客の入れ換えと、新たな客の受け入れとで、てんてこ舞いで、駐車場の一画に馬蹄形にテントが張られ、そのテントの中にも客がいてボランティアに見紛うべき受け入れ増で目一杯の状態となっていた。理久男は団体職員共々主人の部屋で休み、まったくの居候的な立場になったが本人達は満足していて、又、主人はラングラージープの中で眠るのが快適のようだった。

団体職員が想像で言ったことは、門番兵と小夜様は主従の関係で有りながら、お互いの厳しさを癒す為に懇(ねんご)ろになり掛けたこともあったらしいが、それは想像の域を超えておらず、岡城焼失後の行方は分かっていないと云う。兎に角、存在が公にされなかったことで記録もなされなかったようだ。ただ〝小夜様〟の肩書きは一子相伝で見目麗しい子女で敏捷性に長けなければならなかった事、岡城の城主は城の規模通り弱小で、相手の隙を狙って美貌と敏捷性を持っている子女にその役目を与えたとの事で、その証は翡翠の朱印を持っていて、それは今も発見されていないらしい。団体職員と庵のオーナーは美貌の〝小夜様〟の歴史にはひとかたならぬ興味を持っていることは間違いなかった。

理久男はもしかして滝のある沢に行って祖父の十歳の少年に話が聞けるかも知れないと思い、出かけて見たが全く反応が無かった。あの少年の幻も己の事のみ発信し、雑音が激しくなると出て来なくなるおそれがあった。少年の影は〝小夜様〟の中に埋没したようだった。その日は夕方から宿泊庵の労務が待っていて、シャワーを浴びて寝るのが深夜になるくらいで世話になった主人への遠慮もあったが、団体職員と電話番号の交換をして翌日、理久男は大分の代表的な場所である宇佐神宮に向かうことにした。眠りにつく時、家が焼けたのは曾祖父が誰かの恨みを受けた為に起こったのは、つじつまが合うことであるし、曾祖父の親(曾々祖父)が助けた〝小夜様〟と御用商人との関係に何かがあったのか?無かったとしても次の代に火事になった原因は一体何んなのかが、解けないままで終りそうで、解けたとしたら目を覆いたくなるような結果が待っている気がして理久男はそのままで良いとも思ったし、知らないままにしておきたいと弱気の虫が這い出ても来たが、不思議とここに来て身体の中の意識がはっきりと回転し、団体職員の確かな史実を聞く内に剛の気が表れて来る己を見た。


翌日、理久男は宇佐神宮に向かう前に暴走族のリーダと連絡をとった。妹、千夜(チヤ)に会う為だ。病院は大分の中心市街地にあって指定通りの病棟に千夜はいた。肩にギブスをはめてピンクの入院衣を着て、長い黒髪を横に束ねた小麦色の少女の深く沈んだ切れ長の目が眠りから覚めたように見えた。理久男が病室に入った時、夕立ちが来たと思ったのは、廊下で看護師が診察台を運ぶ荷車の滑車の音が、にわか雨が屋根を叩く音に聞こえた為に千夜が目覚めたか?と、又は痛みの為に眠れず、既に理久男の気配に気づいていたのではないかとも思った。崖下から担ぎ上げた時の甘い髪の臭いが甦って来る。スレンダーで柔軟な身体は今にも動き出しそうな猫科を想わせる十八才の少女は痛みに堪えて疲れ切った表情があった。理久男は立てかけてあった折りたたみの椅子をベッドの横に開いて腰を下ろし千夜を覗き込む姿勢を取った。千夜の細く虚ろな目は理久男を無視したようにただ天井に向けられていた。感情のない冷めた感謝の気持ちは露ほども表わさない表情は人間の少女とは明らかに異質のものを感じたことは彼の今回の旅の出来栄えを著しく低下させたというか、少年の頃からあった自分のレベルとはかけ離れた太刀打ち出来ないものはナンセンスだと放り投げる反面、内心は興味津々の筈なのに後ろ髪を引かれる思いで、無理にその場を打ち消そうとすると持ち前の頭痛が起こって来そうになった。そういう時は思い切って素直になること、自分から逃げ出したり、病的な衝動も失せて来ることを何となく祖父からのインスピレーションで知らされていたような?・

・その時、突然!千夜の口元が何かを言いたげに動いた。彼女は眠たげな目線を開いて理久男を引き止めようとする表情があった。理久男は少女の真近に耳を傾けた。

「あの時はありがとう!・・まだ痛いので睡眠剤を飲んでるの!」薄目を向けた千夜は辛うじて気恥ずかしそうな掠れた小さな声を出したが、実際 少女の顔は痛みの為に歪んでいた。声を出す毎に痛みが増幅される!人と話し合える状態では無さそうで、この娘は何故?自分を引き止めようとするのか?もし健康であったならば平々凡々とした己などには見向きもしない野生の娘なのだが、目が合った時、苦痛の中に、柔らかいいにしえの情感が一瞬溢れ出たようにも見えた。そして彼女の痛々しいほどのか細い声が続いた。

「この二年間、私は変だったの?人形を抱えた私のお祖母さまの幻影の中で、旅芸人の一座で出会った思い出の人の子孫?・・会う事が宿命付けられたように私は縛られていたの?・・最初は凄く嫌だったけど、貴方に助け上げられた時、もしかしたらこの人かも?と思ったの、変かな?何か古風だよね?お兄ちゃんが言ったの、貴方がその子孫だって?でも母さんは嫌いなんだって?そんな事、」理久男はその言葉が良く呑み込めず、その因果に戸惑いながら頷いた。因果が連鎖する少女の告白じみた言葉を訴えられて返事の仕様が見当たらなかったが、隠された少女の情感を垣間見た瞬間、人には言えない心の奥底で次第にこの小悪魔的な美力の娘に小躍りしたくなるような衝撃に若者は胸を大きく鼓動させた。切れ長の目のどこかにあどけなさが残るこの娘は今日まで激痛の為に何度も痛み止めを繰り返して疲労困憊し、焦燥しきっていて、無口で寡黙な宿命の中で懸命に立ち向かおうとして来たこの数年の年輪のようなものが醸し出されていて、不憫で愛おしい感情が沸き上がった。薄目を開けて枕もとの睡眠剤を一粒飲んで又眠り始めた少女の肢体は神々しくも理久男の心を捉えて離さなかった。廊下から再び雨が屋根を叩くような滑車の音がして、その瞬間、理久男の脳幹の中で舞台の幕が変わったように病室が異空間に入り込んだ気がして背中がヒヤリとした。そして意識が薄らぎ、朦朧とした脳幹に響いてきた。

「この娘がお前の因縁の相手だ!」と誰かが云うのを受信した。理久男は誰かに

「お祖父さんだよね?、僕も何となくそんな気がしていたよ。でもこの娘と最後まで付き合う事が出来るかな?この子も未だ生活が暴走しているようだけど?ちゃんと一緒にやって行けるかな?」、と思いがけなくもあっさりと言ってしまった。

「うまく行かなかったら、お前の不足の致すところじゃ!」

天満神社の老人の管理者の言葉の中に “祖父様と好きおうとった浄瑠璃の一座の娘 ”と云うのがあって、理久男の祖母から聞いた祖父の若い時、懇ろになった旅芸人の娘が重なるのは筋が通る話ではあったが、その娘の孫に当たるのがこの千夜になる訳で、この状況でまさか?結婚を前提にと理久男は思ってしまったのだが、そうなると余りにも時期尚早である事は常識的に言っても、若い理久男でもその様に思えたのだが、・・

「お祖父さん、この娘も僕なんかと一緒に本当にそのつもりでいるのかな?」

「わしと一座の娘とは相思相愛じゃったから孫娘がその情愛を受け継いどるのは確かじゃ!」

「だけど、この娘はかなり、じゃじゃ馬だよ!大丈夫かな?僕とは?自棄を起こされるんじゃないかな?」

「この娘もお前と同じ隔世遺伝じゃ、お前が愛を育めば愛嬌は良くなるじゃろうし、じゃじゃ馬な娘ほどいい女に変わって行くんじゃ!」

千夜は恥ずかしそうに俯いたように見えた。理久男は話を変えてこのように問うた。

「お祖父さんはお父さんの前にはこうして現れないのかい?」

「わしの息子は不肖の産物だ!だから、あいつの前には現れない事にしとるんじゃ!」

「そうですか?僕にとっては良い父親だけどな?就職のことなんか、心配してくれるし、・所で僕の曾々祖父さんは岡城に出入りしていた〝小夜様〟と云うお方を助けたらしいんだけど、火事の原因がそのお方に関係しているのか、知りませんか?」

「曾々祖父?そりゃ!わしの父親の一代前の話じゃ!わしは見聞きした事しかわからんのだよ?・この娘も辛い事が続いたんじゃろうが、その内に大人の女に変わって行くじゃろう、」千夜の寝息が聞こえた。痛みが和らいだのだと思われたが、柔和な寝顔の中に夢を見ているようで小さく何かを口ごもっていた。・・

診察台を押した看護師が一段と大きい滑車の音を立てながら病室に入って来た時、いつの間にか部屋の照明に照らされた千夜の眩しそうな瞳が見開いていた。後ろからついて来た医師が千夜の太股の包帯を解きにかかった為、理久男はドアの外に出た。その時、勝気な少女の悲鳴に似た声が聞こえ、理久男は身を切られる思いがした。ふと、顔を上げると目の前にリーダーの兄と赤いパジェロの二人の女性アスリートが呆然と立っていた。

千夜の治療が続いたので、四人は外に出て、近くのファミレスに入った。リーダーの話では千夜の症状は骨盤にもひびが入って、長期の療養が必要だとも言った。本論はもっぱら女性アスリートとリーダーとの会話が続き、リーダーの強靭な身体能力を見込んだヘッドハンティングの交渉が成立したこと、二人のアスリートが所属する県外のある企業に就職する為に大分を去らねばならない事、の中に千夜をどうするか?千夜は兄にはついて行かないと言う・・云々が話し合われた。・・・


暴走族のリーダーはこれまで長期療養施設に入所している母親(妙夜)と家の借財返済の為に金が稼げるハードな職種を渡り歩いていた。若い頃の母親は師範学校に通い、教師を目指すほどの恵まれた環境に育ったのだが、その頃から次第に彼女への幸福の女神は囁く事がなかった。母親の幼少の頃は事業家の娘として大事に育てられ、祖母は瀬戸内有数の海運会社系列の鉄鋼資材を扱う鋼材会社の娘だったが、先祖の血を引いたのか、祖母は十歳頃になると人形浄瑠璃の世界に魅せられその一座に参加したのだった。五~六年の間、路金を払って一座と共に旅をした。そして相思相愛の出会いがあったのだ。理久男の祖父との出会いだった。十五になった祖父が上京する途中、鳴門の船宿で上着の中に縫い付けてあった大金を盗まれて失意の中で浄瑠璃一座に助けられ、宇佐まで帰る道中、娘は祖父の厳しい境遇を知り、同情心に始まって、次第に惹かれ合ったのだ。しかしその時点が親元へ帰る約束の時であり、祖父も再び志を果たすために上京したのだった。互いが忘れえぬ思いを持ったまま。・・・

リーダーの祖母が浄瑠璃一座から戻った家は、父親が経営する鋼材会社でそれまで系列の親会社に優先的に鋼材の納入を果たしていたが、時は昭和が始まり、第一次世界大戦まで勝ち続けて来た日本は益々富国強兵殖産興業政策で、より近代的な船舶、輸送船、荷上げ用重機が重宝される時代に突入し、海運会社も大手の造船所への船の発注を余儀なくされた。独占納入に慣れきった系列企業は一度外に放り出されると競争に弱い、兄弟の血を分けた系列企業でも良い製品の優先順位には負ける、次第に鋼材会社の赤字が増え、再生不可能の状態にまで陥った。鋼材の単価は大きく、長引くと多額の負債となる。当時は銀行の補助融資と云うのは滅多に行われず、親会社の海運業も助け舟を出すほど余裕が無かった。大人へと成長し、会社の跡を取った祖母は婿を迎え、多額の負債を清算するために工場、敷地すべてを製鉄会社に売却し、太平洋戦争の敗戦が終結した後、縁故がある大分の国東に本拠地を移し、当時日本で流行り始めた軽くて錆びない素材のアルミニウムを扱い始め、在来の銅線に代わるアルミニウム送電線やアルミ箔の製造を開始した。後年アルミニウムの消費量は急激に伸びたが、戦争の傷跡が悪化した夫は、娘の子が生まれた直後あの世に行った。それでも女社長率いるアルミ会社は順調な伸びで推移して行ったが、六十八歳の女社長が没した後、急激に事業は縮小して行った。娘の妙夜は教師を目指していたが、母親の死によって会社を継ぐことを余儀なくされた。三十路の後半に近づいた頃、元体育教師であった男と再会し結婚、立て続けに二人の子供を設け、事業も持ち直したが、夫が神戸の実業団のある競技の監督に招聘され滞在していた時、テロに巻き込まれ非業の死を遂げた。実はこの男の家系は大昔、朝鮮半島の突端、新羅の国から互いの国同士の協定の為に倭国(福岡と大分の一部)に送られて来た種族で、その後、日本に帰化した苦難の一族であると言われ、その時、母親の妙夜は〝小夜様〟の血を引く女はいつの時代も隠れた新羅と相まって、くノ一の非情の世界に身を置かなければならないことを悟った。千夜の兄は十五歳で父親と死別するまで父親の精神に何よりも傾倒していて、新羅の血はこの息子に果敢に影響を与えていた。夫の支えを失った母親は一身に背負ったアルミ工場の経営に心身共に疲れ、大きな取引で詐欺にも合い、神経症と頚椎損傷で療養生活を余儀なくされ、工場の身売りと残った借財を返すために兄はアスリートの夢を諦め、高校を中退して金が稼げる職種を選んだのだった。先輩の伝を頼って鳶職から崖面の吹き掛け工、そして現在の解体業のスタッフに辿り着いた。これ等の業種は通常の人夫の数倍は稼ぐ、それは強靭な肉体と強い意思に裏付けられたもので、千夜の兄は四年間で千数百万の借財を返済し、住まいの競売を免れた。暴走行為は行き場の無い心の葛藤を払拭する随一のはけ口であって、高三だった千夜もそのことで夢を諦め、卒業後、兄に従って暴走行為の中で心を荒らすことで己を鎮めていた。千夜が事故で大ケガをした事が因果か?暴走族のリーダーだった兄に救いの手が差し伸べられた。以前高校二年で室内個人競技バトミントンの部で県内トップレベルの身体能力を表わしていたが家庭の事情で全てを捨てたのだが、その天性のバネを二人の女アスリートに依って引き戻された。数年のブランクはあったが、筋肉トレーニングによって、更にレベルが上がる事を自他共に認識した時点で、兄は企業スポーツの一員として夢と経済的なものが両立する方向に向かうことになった。千夜の兄のアスリートとしての専属契約が一段落した時、女アスリートが妹をどうするか?兄に聞いた。

「千夜は・・俺から離れち行きよる!」

「離れる?」

「この東京の兄ちゃんに聞いちくれ?」目を向けられた理久男は迷っていた。祖父のルーツを探し求める事はある程度の目標に揺らぎはなかったが、千夜の事となると祖父の少年の言い分は理解してはいたが自信はなく、脈々と流れて来た先祖からの血と時を越えた宿命が何故か不安だった。むしろ理久男の時代でそのような因縁を打ち切り、完結したい気持ちが強くなっていて、千夜を愛しい気持ちも少しは芽生えているのだが、その血の流れに大きな恐怖に近い意識が生まれるのは当然でもあった。。

「そう言えば?私たち、病室の前に暫くいたけど、お医者さんが入って行く前、ドアの中を覗いた時に何か?寒々とした異空間の様な?理久男君と千夜ちゃんの他に誰かがいるみたいな雰囲気だったわよね?」と女アスリートたちが不思議そうに言った。

「妹は夢を見るっち言うか、何かに?マインドコントロールされちょるところがあるんじゃ!」

理久男は女アスリートとリーダーの会話を遠くの方で聞いた。遥か彼方の吉野の丘に千夜は女系の血の流れを脈々と受け継いでいて、そして理久男の血の流れと相まって、祖父の時代に人形浄瑠璃の娘と引き合い、離れて再び今、千夜と出会った。ひょっとしてこの赤い糸は隔世遺伝(数世代)から数えると、理久男の曾々祖父がお世話した相手は〝小夜様〟で 宿泊庵の主人の先祖の岡城の門番兵の話、団体職員の先祖の城の御用商人の話、が本当ならば切れ長の妖女であった〝小夜様〟が生きた西南の役からの五世代後の相伝の子孫として千夜に強い隔世の血が流れているのかも知れない?・・理久男は背中が寒くなったように身震いした。これは時間と空間との遥かなる次元より、より遺伝的、肉体的事物の数珠状の繋がりに迫る衝撃があった。 その夜、アスリート就任祝いと暴走族リーダー退任送別会を銀縁メガネの女が取り仕切った。暴走族のメンバー、キャバクラの女たち、女アスリート、そして以外にも宿泊庵のオーナーと団体職員も同席したのだった。銀縁メガネが呼んだのだろう?逆に庵のオーナーたちも〝小夜様〟の関係者に近づいてみたかったのかも知れないのだ?千夜の兄の取り巻きであるフリーメイソン的メンバーは暴走族風以外にも普通の人間も数名いたが、リーダーとの別れで泣き出すメンバーもいた。 酔った元リーダーが理久男に絡んできた。

「アンタさ〜!東京出身じゃろ!利口そうじゃけど?千夜をどうかしてくれるんな?」

「何とも、はや!どうなんだ?俺は、わかんね〜よ?」理久男は得体の知れない熱いものが込み上げ、それに圧倒されていた。

「どうなってんだよ?これは一体?助けてよ!お祖父ちゃん」理久男は心の中で叫び、中ジョッキのビールを一気に飲み干した。そして地鶏の串焼きを一度に引き抜いた!二杯目のビールがあまり強くない理久男の額に目眩を起こさせた。銀縁メガネの女と話していた庵のオーナーがいつの間にか、理久男の傍に来て肩を叩いた。

「君は最高の宝物を見つけちょ!誰にでもあると違うんぞ、」祝いの中心であるリーダーは複雑な心境を呈している。

「こいつ俺から宝物を取りやがっちょ!」元リーダーの兄は心の中の大事なものを失うことへの不安と焦燥が増幅され、行き場のない状況に陥っていた。其れは責任が無い理久男に向けられた。

「俺も暴走族の身内なんて欲しくはね〜よ!」

「分かったよ!妹は頂いて、クズの俺は消えろ!ちぃ事か?」

「誰もそんな事言って無いでしょう!・・あんたさぁ!妹さんと離れる事が寂しいんだよね?」、アスリートの女が隣にいた。

「仕方ないよ!兄一人妹一人だもんね?侘しさいっぱいだよね」二人の女アスリートが頷いた。

「俺はあいつが大事やけど、あいつは俺の言う事は聞かないっちゃ!」

「あの子にはきっと〝小夜様〟の血が流れてるっち!お前とは違うんじゃ!」庵のオーナーが目を閉じながら言った。

「この人にもその“小夜様”って人の血が流れているんじゃないの?」アスリートは兄が劣ってるとは思えなかった。

「女だけの相伝なんじゃ!この凄腕の血の流れは!それは稀にしか出て来ないんじゃ、」オーナーは呟いた。

「わしにも会わせてくれませんか?先祖が助けて貰った恩があるので、その子に!」団体職員がメガネの奥で小さな目をくるくる回しながら哀願した。

「君は会ってるじゃないか。俺の庵で。以前、暴走族の女に酌して貰った代わりに金要求されちょった事が、あの娘が千夜じゃ!映画に出てくるような黒革ルックの姉ちゃん!そして族のリーダーがこいつだ」オーナーは兄に親指を向けた。

団体職員は悲鳴に似た声を上げた!

「ありゃー!わしあの時、酔ってて、今まで気づかへんやったわ!」

「つまり、この兄貴も〝小夜様〟の不肖の子孫て訳だ!」

その時、リーダーがテーブルを叩いた!小さなコップが飛んで床に落ちて割れた、

「何で!あんた達にそないな事がわかるんじゃ!〟小夜様〟なんて!・・こっちは迷惑してるんじゃ!千夜も頭変になっちょるし!こんな東京の兄ちゃんとくっ付けにゃならんて、誰が決めたんじゃ?」周りは呆気に取られ、緊張感が走った。

女アスリートが

「〝小夜様〟って誰なの?どんな人?昔の人(女人)?」

酔っているのか?瞑想しているのか?判らない庵のオーナーが徐に動き始めた。

「おい!兄ちゃん!貴様、解っちょらんのか?手前ぇ〜の先祖の事?バイクを乗り回す事だけが能じゃね〜んじゃ!」

「何だよ!おっさん!やるんか?」酔ったリーダーが怒り立った。

「おう!やったるわ!その暴走頭を叩き直しちゃる、表に出ろ!」オーナーはリーダーの肩袖を引いた。族の数人が立ち上がったが、

「お前らは来るんじゃねぇっち!」リーダーが叫んだ。

「ちょっと!強化選手は揉め事はだめよ」女アスリートが窘めたが、結局全員が外に出た。

「あんたら!話まとまったら、又ここにおいでよ?」銀縁メガネの女が店の中から呼びかけた。

「ストリートファイターじゃないんじゃから、・・ううん!ここはまずい!あの公園に行くか?」オーナーが叫んだ、

「通報されたらお兄ちゃん、選手生命終わりだよ!」女アスリートがリーダーの肘を掴んでいる。

「だってよ!このおっさんが外に出ろって!」

「成長してねぇ、こいつの脳ミソにカツを入れちゃる!」庵のオーナーは本気気味だ、

四月の下旬、理久男は夜の肌寒さに襟を立てながら

「オーナー、大丈夫ですか?」

「任しとけ!」がっしりとした体をトレードマークの迷彩色の上着に包んだオーナーは薄笑いを浮かべている様に見えた。街灯に照らし出された公園に十数人の一団が入って行く、黒革ルックの若者も混じっていて、数組のアベックや前面道路の通行人が異様な風景に目を凝らしている。女アスリートが

「ここもまずいんじゃないの?」と呟いた。噴水の手前の広まった所に立ったオーナーは直立の姿勢から一礼をして、

「ええっ!今から少林寺大分支局の入門テストを行う!・・そこの君!前に出なさい!」と声を張り上げて叫んだ、入門テストだと聞いた野次馬が興味あり気に集まって来た。リーダーは渋々、前に立った、

「おっさん!怪我しても知らねえっち、」

「いいから!お前の好きなようにかかって来い!」

リーダーの長身から繰り出す黒革ルックのまわし蹴りが街灯に反射して弧を描いた。身構えていたオーナーは一歩引いた。続いてリーダーの体が少し宙に浮いて、半転した逆足のバック蹴りがオーナーの胸元に食い込む瞬間、横向きの姿勢から両手でリーダーの長い足を抱え込み、支点となる足を払った。一瞬だった。リーダーは肩口から地面に叩き付けられた。オーナーはとっさにリーダーの左腕を後ろにねじ上げ、右腕の肘鉄をリーダーの首の後ろに打ち下ろした。勝負は決まったかに見えた!その瞬間、リーダーはオーナーの手を振りほどいて、強靭な身体能力のバネを生かして跳ね起きた。眼光が狼の目に変わっていた。外灯に照らされた庵のオーナーの表情が不気味に笑った。次第にリーダーが俯いて、そして狼の目が萎えた。

「おっさん!手加減しちゅ!」

「そこの二人の女性アスリートに恨まれるっち!お前のその長い足とバネはアスリートの為に使え!」野次馬の中から元レインジャー部隊出身らしい!の声が囁かれた。公園から引き上げる時、理久男に呼びかける二人連れの優男がいた。

「数え唄歌うお兄さん!元気だった?会いたかったよ!」この前キャバクラで会ったオカマだったが、男や女に対する性の意識が無い、安らげる雰囲気に、理久男は相手が求めるままにハグをした。その日は長い長い一日となった。理久男は宇佐神宮行きを先延ばしたのだが、その夜、レンタカーはどこかの駐車場に置きっぱなしにして団体職員が運転するラングラージープに便乗して宿泊庵に向かった。持ち金が無くなった事と、もう一週間旅を延長することを実家に連絡を取ったばかりだった。オーナーの必殺のひじ打ちがこの前の窃盗団を捕まえた時と同じだった事を思い出し、理久男は感心していた。オーナーが言うには

「本当の敵を倒すときは、首の後ろの頸椎を陥没させて片端同然にすることもあるんじゃが、窃盗団もアスリートも片端者にしたらいけんち!・・今日のは気合だけだったっち!」

「えっ!実際に打ってないんですか?」

「そう!気合だけでも相手には効果があるんじゃ!」

理久男が宿泊庵に来たのはもう一つの理由があった。それは火事で焼け出された十歳の祖父が引き取られた寺を訪れることが、ずっと頭のどこかに引っ掛っていたことだ。宿泊庵には公務員であるオーナーの妻が駆けつけていた。行政の災害援助のために被災者が宿泊する庵の手伝いに回された為だったらしかった。理久男と団体職員はラングラージープの運転席と荷台で睡眠を取ることになった。

翌日、理久男は庵の竹田出身の初老の女性スタッフを伴って庵を出た。それはオーナーの指示に因るものだった。その女性は料理の味付けが丁寧で早く、品があって客の受けが良かったが、庵のオーナーと微妙な関係になっているらしく、妻が加わった事で、その軋轢を避けるために理久男に振り向けたのではないかとも思われた。女性は五十前後で庵の主人と同年配の様だったが、物腰が柔らかく茶道の家元を思わせる。そして車の中で彼女の過去を聞いたところによると、女性の家は祖父の代まで河宇田湧水群一帯の地主で伏流水を使った酒造元でもあり、一時は大分県有数の純米酒造会社にまで成ったが、有り余る財で銀行経営に乗り出したところ、合併した相手の銀行の隠れた負債の為に銀行は共倒れし、酒造会社も大幅に縮小せざるを得なくなったこと、跡を継いだ父親は苦労の末病死、その時点で原資である水田を全て手放し、酒蔵会社も人手に渡し、古い住まいだけが残った。その後、母親と跡取り娘のこの女性は食糧事務所勤務の夫と共に小さな小じんまりとした家に移る事になる。乗り捨てレンタカーに便乗する女性から当初オーナーから聞いていたこの宿泊庵の元の持ち主の河宇田湧水の老人が若い頃、祖父が経営する酒造会社にも勤めていた事を女性の口から聞いた。竹田の歴史は意外な人間の繋がりがあることを知った。

女性は現在、夫と死別し、高齢の母親と二人暮らしで、暫く京都の母親の実家にも居た事があって、子供たちはそれぞれ公務員と、次女は母親の京都の縁者に嫁いで、女性は母親から京料理を習い身に付けたと云う。 その辺を庵の主人に気に入られ、現在、庵に世話に成っているとの事、・・理久男はこの京美人と庵の主人夫婦との間で今後、一波乱起こるのではないかと想定したが、女性のもう一つの話に気を集中した。女性の先祖の酒作りは大正時代から始め、当初は家内作業でやっていたのが、西南戦争で需要が増え、十年単位で規模を拡大して行ったこと、ミネラルを多く含んだ伏流水を使った純米酒は甘さとうまさの評判が上がり続けた。その後銀行経営の失敗で破綻するのだが、まだ生産量が少なかった頃、岡城にも純米酒を納めていて、その頃の岡城にまつわる事や、その後の竹田の歴史、史実、事件を毎年の酒の出来栄えと共に事細かく過去帳に記録されており、それを読み解くことが出来るのが、年老いた母親だと云う。理久男は祖父が子供の頃、家が焼けて孤児になった事、和尚に拾われて寺で小僧をして修業した事を一通り話したが、女性は理久男を見つめ、深く心が動いたらしく、

「貴方の事は庵の主人から少し聞いちょります。私はこの地で育ちましたので、ある程度は知っちょりますが、お祖父様が子供の頃と云いますと私は未だ生まれておりませんので、当時の事は分かりませんが、私の母が良く分かるんじゃないかと思います。」、多分、理久男の祖父の家が燃えた事件や祖父が小僧となった寺の在処もわかるかも知れないとの事だった。

「貴女にこうして会ったのは千載一遇です。もしかしたら、祖父の霊が呼び寄せたのかも、知れない!急で申し訳ありませんが、お祖母さまに会って、お話を聞きたいのですが?」 

女性は了解した。今日は母も体調が良さそうだからと言った。理久男は女性の指し示す方向にハンドルを切った。

「お祖母様は幾つになられるんですか?」

「母は八十三になります。冬場は体調が悪かったんですが、春になって持ち直しまして、今日も朝から庭いじりしておりました。」

理久男の車は竹田駅の近くに差し掛かり、坂を少し登った所にあった二階建ての小さな家の前で停車した。狭い庭があり、その先には大自然の風景が広がっていた。三十メートルはある切り立った岩肌に細い滝らしきものが見えるのだ。理久男は車を降りてその前に立った。

滝、それは一本のガラスの数珠となって垂直に落下し、虹色の水飛沫を放ちながら枝葉と岩陰に流れ落ちていた。ここは自然の聖域の入り口に思えた。

「綺麗な滝ですね!眺めも良くていい所ですね!ここは。」呟いた理久男は女性に導かれて玄関から応接間に通された。暫くしてスラリとした白髪の祖母(母親)が現れた。

「お出でなさいませ!東京からお越しにならはったそうで?」理久男は深々と頭を下げた。

「はい!お世話になります。此方に伺えばこの竹田の昔の事が分かると聞いたもんですから?」女性がお茶を運んで来たのと入れ代わりに祖母は別室に消えた。そして再び戻って来た時は葛籠に入った過去帳らしき物を取り出して、金縁の眼鏡をかけて和紙のつづら折りの記録帳を広げ始めた。理久男は造り酒屋の歴史に纏わる秘話を単刀直入に聞いてみた。

「昔、西南戦争の頃に岡城におられた〝小夜様〟については知っておられますか?」

「あぁ!〝小夜様〟のことをお知りになりたい?・・この方のことはですね?・・あの~この過去帳に詳しく記してあるのを何度か見ておりますが?・・・」老婆は少し狼狽していて、過去帳を捲る手が震えていた。理久男は続いて問うた、

「〝小夜様〟がおられた時代と滝の近くの家が燃えたのは少し違いませんか?」老婆は眼鏡を動かしながら

「ちょっと待ってください!・・〝小夜様〟が活躍されたのは明治の初めなんどすけど?

その○○川の上流の滝の近くの家が燃えた事は微かに私の父親から聞いた記憶が有るだけですが、えぇと?・・〝小夜様〟は二人の供を連れて、傷付きながら熊本軍の中に潜入し、敵の大将の前で“岡城は去る者は追わず!訪れる者は拒まず、薩摩・熊本両軍に敵意無し!岡城と民は貴軍に抗(あがら)う意は無し!望むは天地の恵み、竹田の湧水を血で汚したく無し!”と叫ばれ、黒装束をすべて脱ぎ捨てられ、長い黒髪を右肩に束ね、小麦色の裸身を晒されて、・・聞き届け頂ければこの身は如何ようにと!・・肩口から太腿まで一筋の血が流れ落ち、毅然と立ち尽くす天女の姿は神々しいまでに敵兵の目に焼き付いた。美しい女人で有りながら、勇気とあっぱれさに感服した敵の大将は、城も民も湧水も我が軍に抗らう事がなければ良しとし、お三方も何処かに落ち延びられよ!と云うことに成りましたそうですが、竹田の民は岡城の空が真っ赤に染まるのを一晩中眺めていて、城には尚も薩摩兵が残っていて徹底抗戦の様相で、・・その後、お城は焼け落ちたようでございます。・・

〝小夜様〟はその後、川の上流の小さき滝がある民家に逗留され、傷を癒されたとあります。この事は二人の共の一人がお城の御用商人であった事、その御用商人は当酒蔵にも出入りをしておりまして、ずっと後にうちの酒蔵を訪れた時に、当主であった曾々祖父が商人の言葉を書き記したとありますが、間接的でしたので多少、出来事のずれがあったかもしれませんが?〝小夜様〟はいつも懐に〝小夜印〟と云う翡翠(ひすい)の手形印を持っておられて、密約の相手や依頼事が成就した時にその印を押したとあります。二人の従者も労苦の証に和紙に〝小夜印〟を与えたとあり、逗留した家には素性が分かるのを避けて、金銀を与えたとあります。逗留期間は傷が深かったのか?三ヵ月に及んだとあり、戦いの余波を避けるために一時、宇佐神宮に辿り着き、戊辰戦争終結後に再び吉野梅園に逗留され、そこで御用商人とお別れしたと綴ってあります。二人の従者がずっと!気遣っていたのは〝小夜様〟が一人娘の行く末に心を痛めておられたとあります。〝小夜様〟の立場は薩摩軍の武将とも戦略の面で近い関係があった事、そして一番考えられるのは少量の紅や香料・白粉を納めた折の城内の女衆の噂話の中で、城主は〝小夜様〟を直属の間者としてだけではなく、その美しさと類まれな智を大層お気に入りで、褥を一緒にされる事もあって、更に金銀の秘蔵を城内の地下に隠す事を託され、御用商人ともう一人の門番兵と共に、其れをされたとありますが、この辺の話は現実であったかどうか?判りませんが、岡城は元々貧しいお城で、そんな金銀があったとは文献にはありませんもの?」、理久男は恐る 々 聞いてみた。

「あの〜、お祖母様、〝小夜様〟は何処で子供を産まれたんでしょうか?」老婆は眼鏡をかけ直し、無数に書き連ねてある文字を丹念に探りながら、

「お産みになったんは宇佐どしたようですが、吉野梅園に戻って来んしゃった時は、玉のような姫様を抱いて来なさった様です。吉野梅園の天満神社の近くに寝所を建ててそこにお住まいになって、神楽の催しがある時などは、姫様をその舞台に立たせると後光が射したように、舞台が華やかに輝いたと申します。そして姫様は当時、逗留していた人形浄瑠璃に大層ご執心に成られ、いつも傍を離れなかったとあります。そして、吉野梅園と宇佐神宮に金銀の寄贈をされはったとも記してあります。・・その先の足取りはこの過去帳には記してご座いません。私もその後の〝小夜様〟と姫様はどうなさったのか?気がかりどして、色んな歴史の文献をお調べしたんどすけど、分かりませんでしたが、ただ、その頃の逸話として神の化身となった一人の巫女が息を引き取ったとありました。」、老婆は思いが深まると、言葉が涙声になった。理久男は背筋が凍るような恐怖ともう一つの哀しい宿命に堪らない程の思いが残った。・・・

〝小夜様〟からの相伝が順当に行けば姫様はその後、人形浄瑠璃の一座に入られ、姫様の子孫が理久男の祖父と吉野梅園で心を通じ合った相手と云うことに成り、その人の子孫の千夜が〝小夜様〟と岡城主の血を連々と引き継いでいると云うことに成る。理久男は胸の震えと共に逃げ出したい衝動を覚えた。と同時に十歳の祖父の亡霊が現代に現れるのは、あの時火事で丸焼けになった恐怖と独りだけが生き残った心の怨念と云う心霊がこの地に留まり浮遊している為ではないかと思った。しかし祖父の亡霊は〝小夜様〟関連に付いては知らぬ存ぜぬなのだが?心霊が隠す訳はないのだから、やはり知らないのだろう?と。



陶芸と和尚

女性の祖母は幾分、心に疲れが出たらしく胸に手を当て、つづら折の記録帳を閉じようとしていたが、

「あら!堪忍しとくれやすな!お兄さんのお祖父さんが行きんしゃったお寺の事もありましたよね、そのお寺は火事のお家から一番近い寺だと聞いとります。行きんさっとなら、娘に案内させますよ?」

「はい!有難うございます。一応、其処にも行って見ます。」理久男の頭の中は〝小夜様〟の血筋の事で飽和状態に成っていて、祖父のことは何処かに追いやられていたが、丁重に礼を述べ、玄関に向かった。

「また、何か?ありましたらどうぞおこしやす。あの~、その後の〝小夜様〟の事がお分かりに成りましたら、私にもどうぞ教えておくれやす。」理久男は振り返り何度も頭を下げた。女性と一緒に外に出たが、日が差し流れ落ちる滝が突き出た岩にあたって霧状になり、小さな虹を作り出していた。女性は北の方角を指差した。車のフロントガラスには幾つもの山並みが押し寄せ、丘が続き、その間を道が何本も交差し、支線から小道に別れ、曲がりくねった道路網に完全に古いナビゲーションが読めなくなっていた。女性は運転を交代しようとも言ったが、焼けた屋敷跡の位置とその寺の方角が同じ方向だと思った理久男との意見が交錯した。

「あんたはん!この竹田の地理が分かってへんから!・・あの屋敷跡は川の一番奥にあって随分離れちょります。お寺もこの付近には全くおへん!屋敷跡から一番近いお寺がこっちの方角なんです。」

理久男はこの女性も母親に似て、京都の芯のある佇まいを身に付けてはいるが、かなり頑固な女だとも思った。女性の指示通り、曲がりくねった道を暫く行くと、お寺らしき末広がりの屋根が見えて来た。そこは大きな寺ではなかったが、車を境内の前に停め、山門をくぐり、浄財の箱に賽銭を投げ入れ両手を合わせた。突き出た下屋の柱が数百年の面影を偲ばせる、窪んだ古い傷痕があった。右手の境内は疎らな林になっていて、紅葉、南天、どんぐりの木らしき中木の枝の中に木漏れ日が射し込み、根元は一面に緑の苔に覆われ、手入れが行き届いている。奥からホウキを持った僧が微笑みながら近づいて来た。珍しい都会の若者を眺めるように。・・理久男は頭を下げた。そして参拝をしに来たことの挨拶をした。

「えぇ〜、お若い方、どちらから?・・」女性は面識があるようで会釈をしながら微笑んでいる。僧は意外と若く、丸めた頭が青々と毛根が生きづいていて、理久男より二回りくらい歳上だろうか?紺の作務衣を着た色白の住職で、目が静かに澄んでいる。理久男は東京から来たことを告げ、この竹田で生まれ、十歳で焼け出され、この寺の小僧として過ごした祖父のことを尋ねてみた。住職の静かな目が一瞬、驚きの表情を見せた。

「私は七年前この寺に入ったのですが、前の住職から寺の過去帳なるものを預かっておりまして、少し読ませて頂いておるんですが、先々代の住職の時だと思いますが、あれは確か?大正十二年だったと記憶しておりますが、火事で孤児になった少年を引き取って小僧として育てた、と記してありました。私も可哀想な少年が御仏にお導きがあった事を感激して読ませて頂きましたので良く覚えておるんです!」住職は訛りが無くて、標準語だったので、この地の出身ではないと理久男は思った。その通りだった。

「あの時の小僧さんは貴方のお祖父さんでしたか?縁がありましたね。それではお話を伺いましょうか?今日は日和が良いので外がいいでしょう。アウトドアと申しますか、そう云う場所がありますので、こちらにどうぞ。」住職は苔むした林を抜けて境内の裏側に招き入れた。二人がそこに行くと、焼き物の窯が煙を上げている。傍にはタオルを頭に巻いたうら若いジーンズ姿の女性が木板のテーブルの周りに据えられている丸太の座椅子に腰を下ろして、紅茶を飲んでいる。彼女はゆっくり此方を向いた。

「妻です、陶芸をやっております。・・こちら様にお茶を、」妻は素早い立ち振る舞いで作品であるカップにポットから紅茶を注いでテーブルに並べて、軽い笑顔を作った。美しい人だと理久男は思った。およそ寺の境内とは別次元の風景に戸惑いながら丸太の椅子に腰を下ろした。

「以前は主人もやってたんですよ。この寺に入る前に、」理久男たちは住職の顔を見た。住職は微笑んで頷いていたが、まず客人の話を聞く姿勢を示した。理久男は祖父がこの寺と宇佐神宮にお世話になった後、十六歳の時、東京に出て事業を始めた事までを説明し、そして今回、自分が祖父のルーツを探る旅にこの竹田に来て色んな目にあった事を思い出すように述懐した。

「どんなことがあったのですか?」

「はい!あの~、祖父の子供の頃の亡霊が出て来て切磋琢磨しろ!とか、岡城のくノ一だった〝小夜様〟の子孫の娘との因縁の出会いとかありまして、・・とにかく頭が混乱する事が多いんです。」、理久男は素直に話した。連れの女性が驚いたように

「〝小夜様〟の子孫の娘さんの話は初めてお聞きしましたよ。」

「〝小夜様〟の関係はともかくとして、お兄さんとお祖父様は隔世遺伝で、つまりお兄さんの中にお祖父様が生きているのです。お祖父ちゃんっ子だったでしょう、貴方は?」住職は問うた。そして一瞬であったが、顔が曇った。

「はい!私が小さい頃、祖父には可愛がって貰いました。そして大好きでした。祖父の事が、」

「そうでしょうね、それはハッキリと判ります。私もお兄さんと一緒で東京出身なんですよ。妻も大学の後輩で同じ道を歩いて来ました。当初、京都で陶芸の修業を致しましたが、いつかはこの地で焼き物をしようと決めていたのです。私はこの地の湧水群の地中から溢れ出る清らかな水で土を捏ねたかったのです。そして私の中に流れる隔世遺伝の汚れた血を洗い清めたかったのです。」、

「汚れた血ですか?」理久男は唖然とした表情になった。

「いや、いや!私の先祖にも悪い人がいたもんですから、まあ、詳しくは申しませんが、」、

住職は少し照れ笑いをしながら、

「はっ、はは!お兄さんのご相談だったのに、変に脱線してしまいましてご免なさい。しかしその事はもう以前の事ですから伏せておきましょう。まあ私にも人間の汚い血が流れていたと云う事です。」住職は静かに手を合わせて合掌した。

理久男はそこまで言いかけた住職の過去の真意が気になった。

「和尚様!私も自分の先祖の事を包み隠さず、恥を忍んでお話し申し上げようとしてるんですが、住職が汚れた血のことをおっしゃられて、流石に神仏に帰依されたお方だと一瞬、感心したのですが、途中で止められたのは非常に気になります。私の祖父も過去、一家が全員焼け死んだ悲惨な境遇で、他人には言いたくない!知られたくない秘密にしておきたい事だと思っていたんですが、その祖父がお世話になったお寺を引き継がれた住職が途中で隠し事にされた事で、私の心自体が落ち着かなくなったというか、成仏できない様な気持ちになって・・すいません!生意気な事を言ってしまいました。本当にすいません!」

「あっ!これは?・・・こちらこそ失礼しました。何と申したら良いのでしょうか?先祖の事を告白された貴方を傷つけてしまいましたね!・・・実はこれを言うと妻が嫌うもんですから、言い出したのについ途中で止めてしまいました。申し訳ありません。 “あなた!何も、そんな、過去の、ご先祖の汚れた血なんて!事実確認もない、そんな事をこの場で話す事じゃないんじゃないの?”と、妻に何度も抗議されました。でも何度もそうする事で逆に私の心に曇りが生じているのを感じていたのです。このお兄さんは自分の血の流れを包み隠さず、負の遺伝から逃げる事もなく、正直にお話しされる姿に、今、私は自分の身に置き換え思ったのです。神仏には正直であらねばならないのだと、」、妻の表情には夫婦間のこの問題への軋轢が長く尾を引いている感があって、妻にとっても一つの消化できない思いが横たわっていた。

「その辺は私には良く分かりませんけど?あなたの生き方はあなたの物ですから!・・で

も妻としてあなたの陶芸の才能が神仏に正直になる事で消え去ることが、今でも残念なのです。人生は汚い血も綺麗な血もあってもいいのでは?それが人間の生き様、それを作品として表現することで、・・」と言いかけた妻は途中で話を止めた。僧侶と陶芸家のちょっとした言い合いが暫く続いたことで、理久男と連れの女性はただ、唖然とするばかりだった。そして女性が呟いた。

「よろしゅおすな!聡明なご夫婦のそれぞれの道を究めようとなさるお姿は、」

住職は頭を掻きながら頷いた。そしてまた静かに語り出した。

「私の家は東京の下町で江戸時代から続いた呉服商の大店だったようですが、終戦ですべてを失い、それでも祖父は古着屋から少しずつ立ち直り、やっと新興のデパートの一角に呉服の店舗を出すようになりました。しかし昔の大店のきねずかの勢いで、イギリス製の紳士服に手を出したところ、ある時点で、仕入れの貿易詐欺にあったのです。大金は払ったが品物は届かず、と云う奴です。その為にお金が回らなくなり、屋号の信用を落とした末に祖父が命を絶ったのです。詐欺をした組織が偽商社だったんですね!祖父はその辺を見抜けなかった。店の看板も地に落ちて大きな借財だけが残ったのですが、闘争本能だけの若い父親はその組織に復習し始めたんです。家には不穏な人間が出入りするように成っていました。その頃、良縁が壊れた為に父親の美しい妹(叔母)が自ら命を絶ちました。その光景を小学生だった私は家の横にあった大きな倉庫の中で見つけたのです。以前、山のような反物と服地があったその倉庫は私たち子供の遊び場から自殺場所に、そして父親の不穏な品物と不穏な人物が出入りする場に変わっていました。私も中学生になるとそこに出入りするようになり、そこでは若ボンと呼ばれていました。ある時、父親の指示で裏街の一角で見張りをしましたが、それは相手を陥れ、自殺に追い込む為のものだったのです。私の心の中には父親と同じ復習の鬼が宿っていました。 その後も何度か鬼の作業をした記憶があります。そして祖母が病気で死に、父親が原因不明の事故であの世に行きました。その時点で 母親は残っていた大きな借財を家と倉庫を売ることで、すべてにけりを付け、不穏な世界から足を洗う事になったのですが、一文無しになる筈が、終戦の焼け跡から立ち直ろうとして祖父が仕入れた古着と共に数十点の古美術の陶器が高値で売れ、妹と三人で小さな借家に移り、私は工芸大学に、妹はその後、教師になりました。私は陶芸の世界で名器を作ろうと云う欲と、どこかに復習の鬼の汚れた意識が残っていて、そこに迷いが生じてしまったと思っています。」

長い住職の話が終わり、ふと見るとテーブルを離れた陶芸家の妻が窯の前に座り、気丈にも上を向いて涙ぐんでいる姿があった。住職は妻の後姿を眺めながら呟いた。

「私が僧侶に転身した理由はもう一つあるんです。・・この地で陶芸をしている間も大分と阿蘇の至る所を歩きました。その中で一番気を留めたのが岡城の古戦場跡です。城は焼け落ち、自然の岩肌に戻っているあの城跡で、私は陶器の残骸を見つけたのです。そこには色んな焼き方と色合いが残る破片が出てきました。私は夢中でそれを手に取り当時の時代背景を考え物思いに耽りました。・・ある霧が漂う日に陶器の破片を見つけた場所 々 に西南戦争時の兵士の亡霊が立ち、お互いが何かを語り合っている姿が見えました。その語りは私にも向けられているようにも思えたのです。・・・

『器はわし達の生きて行く糧であり、亡骸の墓標じゃけに、元の場所に戻しちょくれ!』と木霊する意識が伝わって来ました。わたしは背筋が凍りました。と同時に名器を作ろうと云う欲の為に戦士の墓標を荒らしてしまった事に深い後悔と更に陶芸の道への迷いを覚えたのです。私は持ち帰っていた破片をすべて元に戻し、線香を上げました。その時、亡霊のざわめきがあって〝小夜様〟という名が語られたのです。わたしは両手を合わせ、南無阿弥陀仏を唱えていました。その後〝小夜様〟と云う歴史上の人物を大分県の民族郷土史家に尋ねに行きましたが、岡城の間者で竹田の民と湧水を守った美しい女人で自らお産みになった姫様と一緒に何処かに落ち延びられて、その行方は不明のままで終わっています。ただいつも懐にあった珠玉の〝小夜印〟の所在は血統を引き継いでいる者の手にあるものと思われるが、今だにその行方は知られていない、との見方でした。」

住職は静かに言葉を終えた。

いつの間にか陶芸家の妻が傍に座って目を閉じている。理久男と連れの女性も岡城の壮大なドラマに圧倒されたように身動きが取れなかった。住職が小さな声で囁くように言った。

「先ほど貴女方がおっしゃっておられましたが〝小夜様〟の子孫だと云う娘さんとの因縁の出会い、・・これについては少し信じがたい眉唾物かと思っていましたが、似ているといっても現代の若者は体格や顔が西洋人化して、背も伸びて八頭身になっておりますので、・

・その〝小夜印〟か何かが出てきたのですか?」

理久男は住職の深い悟りの世界に手を合わせたい気持ちでいたのだが、突然の住職の猜疑心、住職も真実を突き止めたいという思いは感覚的にはわかるのだが、眉唾物という言葉には驚き、次第に怒りが込み上げた。連れの女性が昔の作り酒屋の過去帳に〝小夜様〟らしき女人の事を書き連ねてあって、それを理久男に話したことを言い添えた。住職は

「その娘さんが・・五世代前の〝小夜様〟の血を引いていると云う事実関係が出て来れば別ですが?・・今までこの類の想像だけで、ものを言ってそしてそれが事実とは違っていたということを私は何度か経験しておりまして、しかしこの事も仏のお導きの通りだと思っています。」

「それは仏様も眉唾物だと思っておられると言う事でしょうか?」理久男は唖然となった心が固まったままでいた。

「仏は解っておられると思いますが、私には未だ解かりません。しかしそれは追々と・・」

住職は暫く沈黙した後、

「しかし、お兄さんとお祖父様のように隔世遺伝で先祖が心の中に生きていると申しましたが “小夜様”の強い隔世遺伝をその千夜さんという娘さんが引き継いでいるならば千夜さんの心の中にも “小夜様”が生きているという事になりますが?お会いして見るとわたしにも解る気がしますが?・・」

「もう、いいです!私は祖父の事が好きですが、千夜は “小夜様”のことがあまり好きじゃないみたいで避けているようでもありますので、和尚様が仰るように違っているかも知れません!」

陶芸から仏の世界へと悟りを開いたこの住職に猜疑心を持たれた事は理久男の心の中の大事な芽生えが壊されて行くような、そして次第に弱々しい憤りと共に自分の中の確信がひ弱に陥って哀しくもあった。歴史の中に隠れた、時の女人 “小夜様”の血族を持つという少女が現われたと言っても、確たる証拠がない状態では常識的見解としては眉唾物だと言われても仕方が無いのだが?それは真実に矛盾する可能性が高いと思われても、実は本当の事であるという確証が取れないもどかしさ、理久男はうろたえて来た。庵のオーナーと団体職員の先輩がここで証言してくれれば良いと思ったりもした。・・・

「祖父が若いころ、吉野梅園で若い女性と心を通じ合ったことは事実ですが、現在十九歳の千夜がその女性の孫に当たることは祖父の亡霊が言いました。そして祖父が吉野梅園で心を通じ合った女性が〝小夜様〟の子孫に当たることは?・・岡城の門番兵の子孫の人の話とか?御用商人の子孫の人の話とか?・・他人の話ですから?そんな事は信じられないと言われればそれまでですが?・・私も最初は暴走する娘として脅威を感じていましたが、それが少し可愛いところがあるという気持ちに変わって来ましたし、“小夜様”に関しては近寄りがたい最も恐ろしい存在から次第に尊厳に近い気持ちを抱くようにもなりましたが、・・そういう事に付いても、もう自信が無くなりました。」理久男は開き直りの自棄の状態になっていた。理久男はこの時点で心の中に苦労して組み上げられたパラドックス(逆理で一見矛盾しているように見えるが、深く考えれば真実を含んでいる状況でもある)が壊れて行くのを感じた。

「私ももう判らなくなりました。亡霊が言ったなどとは怪しいですよね?逆にそんな大それた血筋じゃ無い方がいいのかもしれない!私も〝小夜様〟の血筋に執着している訳ではありませんので、・・元々こんなつもりじゃなかった。就職も有りますので、早く東京に帰りたいと思います。ただ、祖父がお世話になった此方のお寺を確認したかったのです。」理久男は殆んど冷静さを失っていた。 探れば探るほど嫌なものが見えて来て、そして人間の修羅が逆襲してくる。知らなければそれも無いのに?の結論に達してしまう哀れさ、心が折れて、混乱するものから抜け出たい思いになっていた。・・・同伴の女性が怒ったように言い放った!

「貴男がそんなんじゃ、困ります!何のために私の家の過去帳を教えたと思うんどすか?年老いた母親まで引っ張り出して!・・貴男のお祖父さんが吉野梅園で心を通じおうたんは人形浄瑠璃一座の娘はんだったんやろう?そのお孫さんが千夜さんだと貴男は信じているんでしょう?千夜さんからもそのように発言があったと貴男は言ったし、彼女からのインスピレーションも感じられたんやろう?、それにここの和尚さんも岡城での陶器の破片の件で兵士の亡霊に〝小夜様〟の事を聞かされたんでっしゃろう!〝小夜様〟はとも角として姫様は人形浄瑠璃一座の中に身を隠して落ち延びられはったと過去帳にもありましたし、その子孫が連々と人形浄瑠璃に身を置いてらっしゃる、千夜さんと云う娘さんも貴方のお祖父さんの亡霊が言われるようにその人達との繋がりが十分考えられるやおまへんか?」京都女は敢然と迫って来た。理久男は泣きそうになって頭を抱えた。

「僕は一応、東京に帰ります!そして?・・・」

目を見開いていた陶芸家の妻が憐れむように

「凄い事になったわね!でも、凄い!」と呟いた。旅が二週間の終わりに近づいていた。理久男は結局、宇佐神宮には行かずじまいで翌日、東京に帰る事を決めた。寺で自棄になった後悔と後味の悪さで胸の中が重苦しくそして人間の修羅の逆襲が耐えられなくなっていた。就職が決まった証券会社への出社はもう数日しかないのだ。遅れたら新人としての受けは良くない、後ろ髪を引かれることが山積しているが、祖父のルーツを探ることはすべて一応押さえた。混乱して朦朧となるものからけじめを付ける二十二才の若者としての判断だった。東京に帰る前日の夜、宿泊庵のオーナーと団体職員の先輩と酒を飲んだ。オーナーの妻は被災者奉仕を切り上げて自宅に帰っていた。酒の席には寺で叱られた元造り酒屋の女性も加わり、殆んど話の中心に座り、理久男の気弱さを責めた。オーナー(宿泊庵の主人)も団体職員も其々の先祖が〝小夜様〟に最終直接的に関わっていたことに感激しきりの様子で、盛んに女性を持ち上げていた。理久男は千夜に付いてこの女性があの時もっと証言してくれれば良かったのにと思ったが、後の祭りでその場の雰囲気は千夜の問題は二十二歳の若者(理久男)には伴侶とするかの判断を求めるのは無理だと勝手に決めて、若い理久男は話の論外となり、オーナーの場合は同僚の銀縁メガネの女から依頼を受けて、兄と離れる千夜の面倒を見ることになったことに至上の喜びを表していた。理久男は気が抜けた気持ちになったが、世話になった三人に丁重に礼を言って、翌朝、庵に別れを告げた。酔いがさめやらぬオーナーが軽く手を振った。そしてひとりで大分市内まで運転し、乗り捨てレンタカーの総代金を大分支店に支払った。駅から高速バスで博多駅に向かい、新幹線で帰るつもりでいた。バスに乗って窓を眺めると、大分の街並みが通りすぎて行く。青い海が眩しく、遥か向こうの山並みが霞んでいる。苦い心の痛みが続いた。もう長い間この地に留まって様々な幻想の中を泳いで来た世界が薄らいで行く。〝小夜様〟は遠い 々 大昔の夢物語、千夜は手が届かない、さ迷う陽炎のようで兄貴分の庵のオーナーの逞しい腕の筋肉だけが懐かしく、バスが進むに連れてその全てが見えなくなりそうだった。バスが別府を過ぎ、宇佐神宮の沿線に差し掛かった時、神宮の広い駐車場の真ん中を真っ黒い犬を引いた千夜(チヤ)が大股で歩いているのが見えた。黒髪をかき上げ小麦色の頬を太陽に翳しながら、引き継がれて来た、くノ一が大仕事を終えて陽だまりの中で遊んでいるような?・・退院したのか?と思った。その光景は二度と理久男の脳裏から消えることのない衝撃!時間が過ぎても永遠と続くこの一瞬の輝き!哀しさの中に心から湧き上がる嬉しさがあった。千夜がチラッとバスを振り返ったように見えた。理久男はバスを降りようと云う衝動に駆られたが、高速バスは途中下車は許されないのか?遠ざかって行くバスを千夜がずっと見つめている気がする!黒い犬が遠くで二度吠えた!理久男の胸の鼓動が鳴って血液が逆流した。現存する光り輝く一つの美しい肉体がこれ程までの衝撃を己に与えるのを見た。そして透明な数珠状の情念が繋がっているのを信じたかった。

「俺は赤い糸を絶ってはならないんだ!いや、絶ちたくない!」理久男は見えなくなった光景を見続けながら呟いた。

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