第6話

 ザザザ……、

 波が打ち返す。

「このあたり、王都の方にいつも潮が流れてるのに。今日は珍しく干潟に流れてくれたね」

 一生懸命漕ぐ必要もなく、変わった潮の流れに乗って、元の干潟に戻った。

 いざとなれば竜を呼んでなんとかしようと思っていたフェルディナントだったが、その必要はなかった。先に降り、杭に小舟を括りつけると、ネーリの手を取って、陸地に引き上げた。腕に飛び込んで来た彼をそのまま抱きしめる。

 ……離れ難い。

 放したら、またふらりとどこかへ消えてしまうんじゃないだろうか。


(帰したくない)


 フェルディナントは腕に力を込めた。

 その時、バサ、と羽ばたく音がして、竜が旋回しながら滑らかに、干潟に着地した。

 ネーリが目を輝かせる。

「あれがフェリックス?」

「うん」

 二人で彼のもとに歩いて行った。


 近づくと、ネーリが駆け出して、フェリックスの首筋を撫でたので、フェルディナントは注意する間もなかった。騎竜は愛玩動物ではないし、単純に軍馬と同じというわけではない。身体の構造がそもそも違うので、彼らのものの見方も違う。竜の目はかなり後方までものが見える。だから、尾で攻撃が出来る彼らにとって、実は後方から近づく者は、攻撃が加えやすいのでさほど脅威とは見なさないのだ。そのかわり、正面から近づくと、それは竜同士では序列の高い者がやることなので、いきなりそんなことをすると敵意を向けられることがある。


 そして顔周りを触られることは、竜は基本的に嫌う。

 フェリックスも気位が高いので、主であるフェルディナントにはどこを触られようと怒ったりしないが、他の人間が気安く顔や体に触れようとすると、怒って手が付けられなくなることがあった。


 その性格を知っていたので思わず、危ない、と止めようとしたのに、ネーリは呆気なく竜の首筋に触れ、額に触れ、それから腰を屈めて、瞳を覗き込んだ。

 普通新入りの従者にこれだけは絶対竜に対してやるな、とまず教え込むやってはいけないことを、いきなり全部やったネーリである。


 しかし、次の瞬間、不思議なことがフェルディナントの目の前で起きた。


 今までなら前足を跳ね上げて、首を伸ばし、羽を広げて激怒するはずのフェリックスが、ぺそ、と顎を地面につけて、更に首を低くしたのだ。足も折り曲げて、完全に寝そべる体勢に入った。特に顎を地面につけて身体を平らにする仕草は、完全服従を示す仕草で、フェリックスはフェルディナントに対してしか見せたことがない。

 ネーリはその仕草を見て、「わぁ 可愛い」と目を輝かせてまるで犬ネコにするかのようにしゃがみ込んで、フェリックスの額を撫でている。


(フェリックスがもう懐いてる……)


 驚いた。

 どうしてかは分からない。

 そういえば、今日は最初から様子がおかしかったのだ。

 頑として飛ぼうとしたし、飛んだ後は、明らかにフェリックスはネーリを探して飛んでいた。

 彼らは出会ったことがないのだから、それはおかしいことだ。

 ふと思い出す。


「ネーリ。……おまえ、昔、生まれたばかりの竜に触ったことがあると言ってたな?」


 フェリックスの顎を手のひらの上に乗せているネーリが振り返った。

「うん。でも、十年くらい前のことだよ。滞在した二日間ずっと抱っこして一緒にも寝た」

「その竜が、こいつかもしれない」

「えっ?」

 ネーリが驚くと、ひょこ、とフェリックスが少し顔を上げた。

 フェルディナントとネーリを見ている。


「いや……実は今日、俺がここに来たのは……、こいつに連れて来られたんだ。ヴェネトでは飛行演習がかなり禁止されてるから、鬱憤が溜まってるだろうと思って、駐屯地に一度引き上げた時に、飛びたい素振りを見せたから少し飛ばしてやった。好きに飛ばしたら、こっちへ来たんだ。離れすぎたから戻そうとしたんだが、珍しく言うことを聞かなかった。

今にして思えば、明確にこいつはお前を探していたんじゃないかと思う……」


「でも、僕があの子に会ったの二日間だけだよ? そのあとずーっと時間空いてたし……。

竜って、そういうことあるの?」


「実はあるんだ」


 フェルディナントは頷いた。

 えっ、とネーリは驚く。


「竜は場合によっては、一度会った人間の顔をずっと忘れず覚えていることはよくある。

例えば、戦場で自分に傷を与えた敵の顔なんかは絶対に忘れないし、逆に手当てしてくれた人間の顔なんかも覚えていて、信頼したりするんだ。特に言われてるのが、卵から生まれたての子竜が人間を見た時、その人間を親のように無条件に慕うようになると言われてるんだ」


「そうなの? 鳥でもそういう子、いるよね?」

「『刷り込み』だろ? 竜にもあるんだよ。でも……だとしたらすごく珍しいことだ。神聖ローマ帝国では、王家の森で、若い竜を飼っているけど、卵はまた別の特別な区画で育てる。竜の誕生は珍しいと前に話しただろ? だから、竜が誕生する時は、皇帝陛下自らが【白の庭園】と呼ばれるこの、保育場所を訪れて誕生を見届けるんだ。

 そして陛下自ら、名を与える。

 神聖ローマ帝国の竜は生まれる時、一番最初に見るのは皇帝陛下と決まっているんだ。

習わしなんだよ」

「そうなの。知らなかった」

「でもフェリックスがお前にこれほど懐くとしたら、相当生まれたての時ということになる。半年は保育場所から出れない決まりなんだが……陛下の特別な許可があれば、将来の竜騎兵候補に会わせたりするのは俺も聞いたことがあるけど、お前は他国の人間だし、かなり異例のことだ。お前の祖父が、相当、神聖ローマ帝国に重用されていないと、決して起こらないことだと思う。招かれていたと言ったが、祖父を招いた人物は分かるか?」

「それが……全然。いっぱい人はいたけど、覚えてなくて……。おじいちゃんは色んな人と会ってたけど、僕は竜の子とずっと遊んでた」


 フェリックスの、鋭い爪のある手を、触りながらネーリは答えた。

 確かに、何かしらの理由はあるんだろうが、それにしてもネーリは恐れ知らずだった。

 竜は普通の動物のように可愛いという感じの顔をしていないし、撫でたくなるようなフワフワの毛でも覆われてない。怯えるならともかく、一番普通の人間なら怖がるだろう竜の顔面と、手を触りに行ってる。

 怖くないのだろうか?


「あ、でも……名前とか全然分からないけど、おじいちゃんとよく話していた人が……」

 柔らかな泥の上に、小枝で、ネーリはささっと何かを描いた。

 エンブレムだ。

 さすがに迷いの無い筆さばきで、複雑な紋章も、描いて行く。

「こういう紋章がついてる護剣を持ってたよ」

 フェリックスも覗き込んでいる。


「【嘶く一角獣の紋章】……インスバッハ家の紋章だ」


 少し驚いたようにフェルディナントは言った。

「有名なひと?」

「有名も何も……今でも皇帝陛下の右腕と言っていい、名門中の名門だ。歴代の軍部大臣を歴任してる」

「そうなんだ。すごい優しそうな人だったよ」

 全ての神聖ローマ帝国軍人にとっては、インスバッハ家の紋章は側によると背筋が伸びるようなものだったが、ネーリがそんな風に言ったので笑ってしまった。

「おじいちゃんとチェスしてずっと話してたけど、僕が膝の上に乗っても、怒らないで頭を撫でてくれた」


 インスバッハ家の誰だったのだろう。

 それにしても、インスバッハ家の人間にそんな親しくネーリまで、家族ぐるみの付き合いをするなど、相当だ。しかし、王家の森の別荘で会ったということ、子竜のことを考えると、皇帝も承知の、関係だったように思える。

 単なる、裕福な貿易商とかじゃない。


(お前の祖父は一体どういう人だったんだ?)


 思わずまじまじとネーリを眺めると、彼が見上げて来た。

 まだ聞きたい感じはあったが、追及するのはやめた。

 言えることなら、ネーリはきっと話してくれるはずだ。

「そいつに見覚えあるか?」

「見覚え……」

 ネーリがフェリックスを見る。彼は小首を傾げた。

 その仕草が可愛かったので、ネーリは笑顔でフェリックスの大きな顔を抱きしめる。


「ない!」


 それはそうである。フェルディナントも思わず笑ってしまった。

 幼獣と成獣では、竜は全く姿が違う。フェルディナントだってフェリックスの幼獣の姿を見たって十年後の彼は分からないはずだ。


 ――ただ、竜の記憶は、彼を覚えている。


 今日の一連の不思議な行動が、それを示している。それしか理由が考えられなかった。

 そもそもそんな理由でもなければ、騎竜が一目会った人間にこんなに警戒心もなく懐いたりするのは、かえって問題なのである。きっとその時の竜がフェリックスだったのだ。

 本当に、不思議な縁だけど。


「それで、お前が会いたがったんだな」


 苦笑して、フェルディナントがフェリックスの額を押さえる。

「理由が分かったから今回は不問にするが、戦闘中は絶対に同じ命令違反はするなよ。あまりに自由に飛ばせてないから、ストレス溜まり過ぎて反抗的になったかと思っただろ……」

 だが、ネーリに対する反応を見る限り、そういう感じではないようだ。安心した。


「そっか。君が会いたがってくれたのか。残念、ぼくちょっとだけフレディが会いたいと思って来てくれたのかと思ったよ」

「えっ!」


 フェルディナントは赤面して、動揺した。

 それじゃ、自分が『別に会いたくなかった』みたいに聞こえる。

「ち、違うぞ。ネーリ。会いたかったよ。ただ……お前は街にいると思ってたから。【夏至祭】の最中、街が平和で、穏やかだったら、どこかで時間を見つけてお前のいる教会に行きたいって思ってたし……、ただ、その、さっきは」

 ネーリが立ち上がって、フェルディナントの手を取る。

「違うよフレディ。責めたんじゃないから。そんなに真面目に受け取らないで」

 彼は笑った。

 さっきまであった、何か寂しそうな、放っておけないような気配の笑顔じゃない、いつもと同じ温かなネーリの笑顔だ。


「……わ、悪かったな。俺はこういう、面白みのない性格なんだ」


「そんなことない。僕、フレディの国の為に一生懸命仕事をしてるところや、いつも頑張ってるところ好きだよ。……忙しいのに、僕なんかに会いたいって思ってくれる所も、だいすき」

 フェリックスが行儀よく座りながら、交互にフェルディナントとネーリを見ている。

「ネーリ……、俺もお前が好きだ」

 もう一度唇が重なる。

「……離れ難いとか言ったら、迷惑かな」

 フェルディナントが言うと、ネーリは首を振って微笑んだ。

「そんなことないよ。うん……ほんとうに、離れ難いね」

 そんな風に言ってくれて、フェルディナントは嬉しかった。

「これから、駐屯地に戻るんだ。数時間仮眠を取ろうと思って……、その、変な意味じゃないんだが……、良かったら騎士館に来ないか? ちゃんと部屋を用意させる。俺が街に戻る時、……送るよ」

 律儀にそんな風に言ったフェルディナントに、優しい表情を向ける。

「ありがとう。フレディ。……そうしても迷惑じゃない?」

「迷惑なんかじゃない!」

 慌てて否定してしまった。

「そんなでも、…………少しでもお前と一緒にいられるなら。俺は……嬉しいんだ」


 クゥ、と声がした。

 フェリックスが手綱を自分で咥えている。

 フェルディナントは半眼になった。

「……? 乗って、みたいに言ってるみたい」

「ああ……。俺にもそう見える……」

 ネーリは吹き出した。

「なんか……竜ってもっと気性激しいのかと思ってたよ。なんかこの子、散歩行きたいワンちゃんみたいなことするんだね?」

「ほんとだよな……。ヴェネトに来るまではあまりこういうこと、しなかったと思うんだが……」

 手綱を咥えて飛びたいみたいな顔をするようになったのは、明らかにこの国に来てからだ。


「可愛いね」

「騎竜は可愛いとか言われてたら駄目なんだぞフェリックス……」


 フェルディナントは額を押さえて深く溜息をついた。

「我慢してくれ。ネーリは竜に乗ったことがないから、危ないだろ? お前は先に飛んで帰っていいから……」

「ぼく、竜に乗ってみたいなぁ」

 フェルディナントは驚く。

「本当に?」

「うん。空の上ってどんな感じなのかな」

「でも、……怖くないのか?」

「飛んだことないから分かんないけど……高い所はそんな苦手じゃないから大丈夫だと思う。教会の屋根の修理とかもしたことあるよ」

 高い所が平気だからといって竜で飛ぶことが平気だとは限らなかったが、フェリックスとネーリを見て、やがて彼は頷いた。

「分かった。乗って帰ろう」

 わぁ……! とネーリは嬉しそうな溜息をついた。

「先に乗って。俺は後ろに乗る」

「うん、わかった」


 フェリックスがぺそ、と体勢を低くした。

 これもフェルディナント一人の時には絶対しない仕草だった。

 本当に、竜とは不思議な生き物である。

 少しフェルディナントの手を借りて、ネーリは鞍の上に乗った。鞍を掴んでフェルディナントも騎乗する。

「本当に、これだけで飛ぶの?」

「新人は鞍に落ちないようベルトや綱をつけることはあるけど、正式な竜騎兵は何もつけないよ。竜は巨大だから、軍馬より敵との間合いが遠い。要するに、身動きが取れないと戦えないし、括りつけられてるだけじゃ竜騎兵にはなれないってことだ」

 バサ、とフェリックスが大きな翼を広げた。

「大きい翼だね」


「浮くまで揺れる。……ちゃんと俺に掴まってろ」


 フェルディナントは後ろから、ネーリの身体を抱きしめた。

「うん……」

 フェリックスは数歩走り出してから飛び立つこともあるのだが、その時は干潟の地面に足を取られると判断したのか、踏み切らず、そのまま真上ににふわり、と浮かんだ。

 ある程度の高さまで浮かぶと、ゆっくり、前へと滑り出した。

 あまり高く飛び過ぎないように、低めの高度を保ったが、フェリックスは素直に従ってくれた。

「すごい……」

 ネーリは越えていく下の、森を見たり、向こうの山を見たり、水の都を見たり、子供のようにキョロキョロと目を輝かせている。その姿は、今日、沈んだ彼の表情を見ていたフェルディナントを思わず微笑ませた。


「星がいつもより近い……。降り注いで来るみたいだねフレディ」


 上半身を捻らせて、話しかけてきたネーリは、フェルディナントの瞳を間近に見て、ようやく気付いた。

(そうか……今分かった)

 暗がりでも光る、彼の不思議な、薄い、青い瞳。


(星の色だったんだ)


 ……怖くないか?


 フェルディナントが抱きしめたネーリの顔を覗き込んで、優しい声で聞いて来る。

 手を重ねて、彼に身を委ねて、うん、と頷いた。

 穏やかな風が頬を撫でて行く。


 二人は確かに、幸せを感じた。




【終】

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海に沈むジグラート 第6話【その運命の歪み】 七海ポルカ @reeeeeen13

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