第22話 降臨
ピラミッドの内部は、私たちが想像していたワクワクドキドキの「ダンジョン攻略」とはかけ離れた、過酷なものだった。
黄金と幻影で飾られた入り口とは裏腹に、奥へ進めば進むほど、建造物としての悪意は剥き出しになっていく。
「右だ! 二歩だけ右!」
シェバンニの、鼻血でくぐもった絶叫が響く。
このピラミッドの空気は数千年の死と埃、そして毒性の胞子で満ちていた。獣人である彼の嗅覚は、諸刃の剣となっていたのだ。
極限まで研ぎ澄まされた感覚で罠の匂いを嗅ぎ分けるたび、彼の鼻の粘膜は焼けるような痛みに苛まれているようで。ダラダラと鼻血を垂れ流しながら喉を枯らしていた。
「シモ、左の壁……上から三番目のレンガを破壊しろ!」
インヒューマの指示もまた苛立ちが滲んでいた。彼の魔力探知は完璧だった。だがこの迷宮の罠は、完璧な探知を逆手に取るように仕組まれている。
魔力に反応して作動する罠、魔術的な解除を試みると連鎖爆発する罠、そして幻影の裏に隠された物理的な罠。
「はぁッ!」
シモの放った突きが、指定されたレンガを撃ち抜く。直後、私たちが立っている床下を何百本もの槍が高速で突き抜けていく凄まじい金属音が響き渡った。
「ひぃ……ふぅ……」
私は杖をギュッと握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返していた。私の役目は後方からの援護と回復。だがこの迷宮では、それをする暇すらなかった。
「チコル、次だ。五メートル先、床に魔方陣が見えるな?」
インヒューマの声に、私は顔を上げた。通路の先に、青白く光る魔方陣が描かれている。
「温度感知で作動する罠、のはずだ。さっさと冷やして無力化したまえ」
「あ、はい……」
「外の魔力から魔法を使え!」
「はいっ! ええと、あ、アイススピアー!」
生成した分厚い氷柱が、魔法陣を粉々に破壊する。すると両側の壁から灼熱の炎が噴射され、焦げた匂いが通路に充満した。
「くそっ、キリがねぇ……!」
シェバンニが熱気で霞む通路の奥を睨みつけ、悪態をついた。魔王を倒した精鋭が揃いながらもこの有様。
一つでも判断を間違えれば死が待ち構えている。私たちは文字通り、ギリギリのところで罠を回避し、一歩ずつ転がる骸の上を歩いて進んでいた。たった一つのミスが、彼らを永遠にこのピラミッドに縫い付けたのだと肝に銘じて。
「……はぁ……はぁ……」
どれくらい進んだだろうか。シェバンニは鼻血と涙で顔をぐしゃぐしゃにし、インヒューマもその額に玉のような汗を浮かべていた。
シモも罠の解除と不意の奇襲への対処で、かなり体力を消耗しているはずだ。
私もとっくに疲労の限界を超えていた。ゼエゼエと喘鳴のような息が漏れる。
「……待て」
インヒューマが足を止めた。私たちは巨大な観音開きの石の扉の前に立っていた。
「……ここが最奥だろう」
インヒューマの声には、確信があった。
「この扉の向こう……魔力の流れが他とは全く違う。巨大な力の源が奥で脈打っているようだ」
「スー……ッ、はあぁ……!」
シェバンニもまた、これまでの死臭とは違う匂いに深く息を吸っていた。
「あー、やっと新鮮な空気の匂いがするぜ」
インヒューマが複雑な術式を解除し、シェバンニが錆びた錠をこじ開けると、数千年の沈黙を破り、巨大な石の扉がゆっくりと開いていった。
漏れ出してきたのは、シェバンニが言っていたように凝縮された穏やかな芳香。私たちの疲労困憊の身体を優しく包み込んだ。
「……光?」
私は、開いた扉の隙間から差し込む柔らかな光に目を細めた。
「……なんだ、こりゃあ……」
シェバンニが、あんぐりと口を開けて、その光景に立ち尽くした。
扉の向こうに広がっていたのは、通路でも、墓室でもなかった。そこは、信じられないほど広大な、巨大なドーム状の空間だった。
そして、その天井。ピラミッドの頂点そのものが巨大な水晶か、あるいは魔力を帯びたガラスのようなもので造られているのか。
砂漠の強烈な太陽光が柔らかく、幻想的な光の柱となって空間全体を照らしていた。
「すごい……」
私は思わず息を呑んだ。光の柱が降り注ぐその場所はまさに楽園、花畑だった。
色とりどりの見たこともない花々が咲き乱れ、中央には透き通った水を湛えた泉がある。
死と罠に満ちた大迷宮の、まさに心臓部。古代の王が永遠の眠りについた場所に、これほどの楽園を隠していたとは。
「……フン、ここの主とは気が合いそうだ」
インヒューマですら、そのあまりの美しさに、感嘆の息を漏らしていた。
「ああ……すげぇや……」
シェバンニも、鼻の痛みも忘れたかのようにその光景に見入っている。ここまでの死と埃に満ちた道のりから、あまりにもかけ離れた光景。私たちの疲労が、一瞬にして癒されていくようだった。
シモも、その幻想的な花畑を見つめ、静かに息をついた。
「……あったんだね」
彼の視線の先。泉のほとりを中心に、ひときわ強く自ら光を放つ花々が一面に咲いていた。それは太陽の光が降り注ぐこの場所で、まるで夜空を映したかのように、淡い青色の光を放っている。
「あれだ……! スフィンクスが言ってた花だ!」
シェバンニが興奮したように叫んだ。スフィアが言っていた「ヘンに光ってる花」。シモの呪いを解くための、唯一の手がかり。それが今、私たちの目の前に群生地となって存在している。
「シモ、やりましたね!」
私は興奮と喜びで、思わずシモの腕を掴んだ。
「うん、あってよかった……」
シモも安堵の表情で花畑へと一歩足を踏み出した。私たちはその後を追うどころか、追い越す勢いで駆けた。
皆がこの苦難の旅の、最初の目的を達成したのだと安堵に包まれていた。
「あれ……」
私は光る花々の中に、一輪だけ、ひときわ違う輝きを放つ花があることに気づいた。
他の花が淡い青色なのに対して、その一輪だけは、まるで月そのもののような、深く澄んだ純白の光を放っていた。泉の水が、その花にだけ養分を与えるかのように集まっている。
「シモ、あれ……!」
私はその一輪の花に吸い寄せられるように近づいた。きっとあれがこの花畑の中心、最も強い力を持つ花に違いない。
「……これ」
その神秘的な美しさに魅入られ、そっとその花に手を伸ばした。この花でシモが救われる。私たちの旅が報われるのだ。
希望に満ちて、私の指先がその純白の花弁に触れようとした
——その瞬間だった。
「…………ごプッ」
背後で聞いたことのない、水が溢れるような苦悶の音がした。
「え……?」
私はゆっくりと振り返った。シェバンニもインヒューマも、私と同じように音のした方を見ている。
そこにはシモがいた。
「……シモ?」
彼は何も言わなかった。ただ自らの口元を、両手で必死に押さえている。
その指の隙間から、ありえないほど真っ赤な——いや、黒く濁った血が、溢れ出していた。
「シモ、どう、したんです……?」
彼は答えない。ただその身体がガクガクと小刻みに痙攣し始めた。
「おい、シモ!?」
シェバンニが駆け寄ろうとした。
「シモ!!」
「私の血はまだ効いているはずなのに……!?」
インヒューマの血。そうだ、シモが服用したあの血の効果はまだ続いているはず。なのにシモは。
「がばっ……! ぐ……!」
シモはもう耐えきれないというように、押さえていた手を離した。
まるでダムが決壊したかのように。シモの口からおびただしい量の黒い血が、美しい花畑の床へと滝のように吐き出された。
何かが、彼の身体を食い破って溢れ出しているようだ。
「シモッ!!!!!」
私の絶叫が、美しい光のドームに響き渡った。
シモは血を吐ききると、糸が切れた人形のように、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
粘性の黒い血は、自然に広がるというよりも、意志を持って花畑の上を動いているようだった。次第に集まり、固まり、その場に立ち上がる。
「これ、は……」
人の姿に、羊の目。獅子の脚に、トカゲの尾。
かつて人間界を征服しようと企んだ、最恐の魔族。
ここに来て魔王アズデモが現界したのだった。
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同行人チコル〜かつて勇者と呼ばれた者を見届けるまで〜 さいとう文也 @fumiya3110
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