第21話 内緒話
民が寝静まり、王都の喧騒が嘘のように遠のいた時刻。月の光だけが広場の勇者像を冷ややかに照らしていた。
一人の男が王城を抜け出し、人目を忍ぶようにして大教会の裏門を叩いた。分厚いマントで顔を隠し、護衛の一人も連れていない。その足取りは重く、憔悴しきっていた。
「……お入りください、陛下」
重い扉が軋みながら開くと、男——国王はマントのフードを深く被り直し、闇の中へと足を踏み入れた。
教会内部は厳かで、絶対的な静寂に包まれていた。高い天井のステンドグラスが、月光を受けて青白い幾何学模様を床に描き出している。その神聖な空間には不釣り合いなほど、空気は冷え切っていた。
祭壇の前。一人の男が背を向けたまま立っていた。王国の最高位魔術師にして、大陸一の賢者と謳われる男、ソロン。
ソロンは祭壇に置かれた巨大な魔術盤を見つめていた。水鏡のように滑らかなその表面にはぼんやりと、しかし確実に何かの映像が映し出されている。
「……ソロン」
王は、絞り出すような声で賢者の名を呼んだ。
「状況は……勇者は……」
「変わりありません……いえ」
ソロンはゆっくりと振り返った。その賢者と呼ばれる顔には、知性以外の疲労と苦悩が深く刻まれている。
「ご覧になりますか?」
ソロンが魔術盤に手をかざすと、その映像が音を伴って鮮明になった。
映し出されたのは、少し低い揺れる視点だった。時折、視界の端に小さく細い指先と、束ねられた桃色の髪の毛が見切れる。
それは、チコルの杖にはめ込まれた赤い宝石。その宝石に仕込まれた映像記録魔法が捉えた、砂漠の街サフィールでの出来事だった。
『ん〜……惜しいから、半殺し!』
スフィアの無邪気な声。そして次の瞬間、シモの胴体が見えない何かによって切り裂かれ、鮮血を噴き出す。
「……っ!」
王は、その光景に息を呑んだ。
ソロンが円盤をなぞれば、その分時間が本のページのように飛ぶ。シモが血の海に倒れ伏し、チコルが理性を失い、世界そのものを消滅させかねないほどの魔力を暴走させようとする。
『うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!!!!!!!!!!』
そして、シモの不死性が発覚した後。チコルが子供のように泣きじゃくりながら、シモに詰め寄る姿。
『私だって……私だって、仲間なんですよ……!』
『なのに……なのに、シモはいつもそうやって、肝心なこと、何も言ってくれないから!』
『大事なことは、ちゃんと共有してください!』
「…………あ……ああ……」
王は、チコルの悲痛な叫びに祭壇の前に崩れるように膝をつくと、その顔を両手で覆った。
「……ソロン……」
王の肩が小刻みに震えている。
「我々は……なんと、なんと酷いことを、あの子らにさせているのだ……!」
「…………」
「健気な少女を利用し、英雄の仲間まで、我々は最初から踏みにじっていた……!」
「……陛下」
「こうするしか、無かったのか……!」
王の懺悔が冷たい教会に響き渡った。それは一国を預かる王としてではなく、一人の人間としての叫びだった。
何故こんなことになったのか。
魔王は、確かにシモによって倒された。だが代償はあまりにも大きかった。その最期に、自らの存在そのものを「呪い」としてシモの魂に刻み込んだのだ。
シモの身体を蝕む残滓。いずれシモの精神を乗っ取り、新たな魔王として復活する可能性を残した最悪の時限爆弾だった。
王とソロンはそれを知る、数少ない人間だった。
「勇者を地下牢にでも監禁し、我々の監視下に置き続けることこそが最善でしたでしょうか?」
ソロンが水鏡に映る映像——今やピラミッドの内部を進む一行を冷徹に見つめながら呟いた。
「いいや……しかし、これはまるで、厄介払いのようではないか」
勇者を幽閉するなどあってはならない。だから彼らは妥協した。シモを目的の無い旅へ送ると同時に、絶対的な「監視」をつけることで。
そこで白羽の矢が立ったのが、チコルだった。
「あの娘は勇者を盲目的に慕っている。そして、あの異様な治癒の力。あれが魔王の呪いを浄化できるかもしれませぬ……あるいは」
ソロンは、そこで言葉を切った。
「……あるいは万が一、勇者が暴走した時。あの力ならば彼ごと、魔王の残滓を消滅させられるかと」
それがチコルに与えられた、本人も知らぬあまりにも残酷な役割だった。
王家からシモの旅への同行を認める証として下賜された杖。その柄にはめ込まれた、一際美しい赤い宝石。
それは高位魔術師の証などという名目で贈られた、最上級のアーティファクトだったのだ。
「陛下、ご覧ください。チコルは立派に戦っております」
王は映像の中で、確かにパーティーの一員として機能している私の姿を見て、再び顔を歪めた。
「ああ、そうだとも……だからこそ我々は……彼女の、あの純粋な信頼を裏切り続けているのだ……!」
「今は耐える時です、陛下」
ソロンは王の苦悩を冷徹な言葉で断ち切った。
「全ては、この世界から魔王を完全に消し去るため……たとえその結果、勇者シモ本人をこの手で処断することになったとしても」
ソロンの非情な覚悟に、王はただ涙を拭うことしかできなかった。
その時、魔術盤の映像が迷宮の最深部であろう巨大な石の扉の前で止まった。インヒューマとシェバンニが扉の解析を始め、シモがチコルと並んでその背中を見つめている。
『あの頃に戻ったみたいだ。皆で旅をしていた……』
シモのその懐かしむような、寂しそうな呟きが教会の冷たい空間に響き渡った。
「……着いたようですな」
ソロンが固唾をのんで水鏡を睨みつける。王もまた、自らの罪悪感を一時的に押し殺し、その視線を映像に集中させた。
あの日、魔王城でシモが何を失い、何を得てしまったのか。その全てを知る二人は、扉の向こうにある薬草がシモにとって希望となるのか、あるいは新たな絶望の引き金となるのかを、ただ見守ることしかできなかった。
教会の石畳に、王の抑えきれない涙が静かにシミを作っていた。
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