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  • #151 化粧のお話 1への応援コメント

    義母はとってもお洒落さんでした。
    毎日3時になると近所に買い物に出かけるんですが、その時の様子が今でも時折思い出されます。
    三面鏡に向かってお化粧直しをし(お化粧は朝起きて一番にし、日に何度も鏡を見ます)、それから姿見で全身を右横から左横からと見て、後ろ姿までしっかり見てからやっとOK!
    そうやっての念入りな点検がルーティーン。
    しゃれっ気のない私にはとても真似できませんでした。

    女学生だった頃にも、髪を止める細いピン留のピンをちょっと熱して、それでまつ毛の先を挟んでカールしたとも聞いたことがあります。

    作者からの返信

    時代でしょうかね 祖母も母もスッピンで外には出ない派でした
    私は全く気にしませんし コロナ以降は微妙な時はマスクで対応
    してまする  (*⌒∇⌒*)テヘ♪
    女性としては 母たちに軍配があがりそうですけど
    もう ムリですわ


  • 編集済

    #145 林間学校と臨海学校への応援コメント

    大昔のことですから思い出せないのか?
    いやいや、そもそも私達には林間も臨海もどちらの学校もなかったようなんです。
    東京の夫は三年しか年は違わないけど行ったことあると言ってますから、もしかして私達は海沿いの故郷なので、わざわざ出かけて行く必要がなかったからかも知れません。

    林間学校と聞くと思い出します。
    3人の子供がいますが、上2人が祖父母の家に毎週土日に泊まりに連れて行ってもらう時、小さい末の子にはお姉ちゃん達は林間学校へ行くのよ、ってよく騙していました。毎週うちの子達は林間学校へ行ってたことになります。

    作者からの返信

    そうか~ 
    もしかしたら海も山も遠い関東平野ならではの行事だったかも
    今 思い出したんですが 
    小学校には遠足の他に〝都内見学〟というのがあって
    議事堂とか皇居とか行ったけど 勉強中心の見学で
    遠足より楽しくない認識でしたね
    旦那様はご存じかも

  • 見合い結婚、畳に「の」の字。
    仕事にしてる?と思われるような世話好きの仲人さん。
    そして🎶 愛ちゃんは太郎の嫁になる 
    昔はこんな感じでしたよね。
    そんな風景はもう見られないんですね。

    作者からの返信

    そう言えば 私の頃にも「近頃の若いモンは」と
    畳に〝の〟の字を書くような娘さんがいなくなった
    と嘆かれたのを思い出しましたw

    「近頃の若いモンは~」 は永久不滅ですね(⌒∇⌒)


  • 編集済

    第2話 黄金週間への応援コメント

    初めましてこんばんは。
    なるほど、一般労働者は休み(デモ)、校長たち管理職は働くと。
    私は、小学生の途中から土曜日が完全休日になったいわゆる「ゆとり世代」の導入生です。この呼び方に不満はあるけれど、他の世代の方たちの考えは、知って損はないと思いまして、ちょくちょく拝見できればと思います。
    ……あら、年齢がバレますね。ここだけのお話ということで(笑)

    作者からの返信

    初めまして ご訪問ありがとうございます
    私の頭の中の時代の記憶が 誰かに見てもらえたら
    誰かの参考になったら という願いが届いて嬉しいです
    ついでに(多分)ご両親の子供時代・青春時代に思いを馳せて
    みてはいかがでしょう (⌒∇⌒) 

  • #143 0日婚と20年婚約への応援コメント

    父の結婚相手は旅館の娘でお嬢様育ちだったのか?嫁いで直ぐに、御殿医の家系の娘で気位の高い姑を嫌って里に逃げ帰ったそうです。
    迎えに行かなかった父は昔のことですから、縁あっていっしょになったものをこんな程度で逃げ出すようでは、先が見えているとでも思ったのでしょうそれっきりとなりました。
    その後、母が親に連れられて家に来て、「今日からお前はここの家の者になるんだよ」と言われて置いて行かれたと聞きました。
    これぞ正しくゼロ日婚というものでしょうか。
    まぁ気位が高いこと、気難しいことといったら・・そんななか母はよく辛抱したなぁと言っていました。
    父を尊敬していたからだろうね、と二人の姉達から聞いた覚えがありますが、昔の時代でも自分の気持ちを貫き通す人もいれば、有無を言わず耐え忍ぶ人もいたという事のようですね。

    作者からの返信

    そうですか 我々が生まれて今こうして交流できたのは
    若き日の親たちの単純ではない 不思議な縁のつながりが
    あってなんですね  とても不思議な気がします 

  • 私の蚊帳の経験はこの前に書かせて頂きましたので、今日は蚊帳が海外へ贈って喜ばれていることを話したいです。
     
    アフリカなどの蚊による感染症に悩む国に贈っていますね。
    防虫剤が沁み込まれた蚊帳なんだそうです。
    日本の蚊取り線香も高く評価されていて、なくては困る品になっています。
    作り方を習って現地で安価で作られている物より、少々値段は高くなるけど日本の物が威力を発揮しているそうです。
    この蚊帳と蚊取り線香は、昔の日本の夏の必需品だった、と過去のものになってしまいましたね。

    作者からの返信

    蚊取り線香が海外で人気だというのは
    テレビで聞いた事があります
    マラリアなどが常在している国には
    なるべく 安価で良いものを届けてあげたいですね

  • 蚊帳、私も帰省した祖父母の家で寝るときに使ったことしかありませんが、中に潜り込むときの感覚とか、非日常の体験として懐かしく覚えています。

    作者からの返信

    蚊帳体験組ですかw
    本当に 布一枚奥に非日常がありました
    楽しくも懐かしい思い出です

  • #141 昭和は家も衣替えへの応援コメント

    私の子供の頃は夏に蚊帳の中で寝るのが当たり前でしたけど、今では蚊帳という言葉すら知らない人がいますね。
    蚊帳は吊るのもそれ以上に畳むのが面倒でした。
    昔から家にあった蚊帳は濃い緑色のものでしたけど、後に新しく買った蚊帳は薄い水色で色も涼しげで軽く、畳みやすくなったようで感激しました。
    蚊帳の中に入るには技?が必要で、よく振り払ってからでないと蚊が入ってきます。
    暑さでやっと寝た・・と思った時にブーンと。そんな時、誰が蚊を入れたのかって叱られました。
    今のシューっとひと吹き、なんてなかった蚊取り線香の時代ですね。懐かしい思い出です。

    作者からの返信

    そうですそうです 懐かしい~~
    雑に畳むと収拾がつかなくなって
    緑色の重い生地の裾をバタバタ振って 
    体を低くして滑り込むw

    色々思い出してきたので 次作は
    またネタを頂いて〝蚊帳〟にします
    ありがとうございます

  • なんと、ローバ登場!ではありませんか、嬉しいです。
    ありがとうございます、真留女さん。

    昭和の激せまの話題、いつもながらホントに詳しいなぁと驚いています。
    でもこんなに真留女さんが布団の仕立て直しの説明に、一生懸命になって下さっても、どれだけの人に通じたことでしょう。
    いえいえ、説明が上手くないというのではありません(絶対に、です)
    だって、昔どこの家でも使っていたような布団を、思い浮かべることの出来る読者がいるかどうか、というほどのことですからね。

    昔の布団が額縁仕立て(というのかな?)になってたのだって、そうとう古い人しか知らないんじゃないですかね。
    子供の時、母がお人形用に布団を作ってくれたんですが、それもきちんと額縁があって、ただ四角く縫って綿を入れただけのものではなかったんです。
    現在の掛布団だったら、綿や羽毛が入った四角いだけのものですよね(説明が難しいな)

    母はすごい布団フェチだったようで、お客様にフカフカのいい布団に寝てもらうのが、最高のもてなし方という人でしたし、打ち直しもよくしていて、座敷いっぱいに広げた布団生地に、綿屋さんで打ち直してもらった綿に新しい綿をのせて・・・そんな場面が、私の記憶にしっかり残っています。
    真留女さんのお蔭で、懐かしいシーンを思いだしました。ウルウルシチャウナ

    作者からの返信

    わあ~ 経験ありですか うれしいです
       ( ^^)人(^^ )

    確かに 今の人には通じなくなってると思います
    娘の家のベッドに綿の布団はありませんもの
    でも だからこそ記憶にあるものを書き留めておきたい!
    が このエッセーの原動力なので
    今回 そういうものを思い出すヒントを頂いて
    うれしかったです

  • あの日のことは「アンネの日」の呼び名で通用していました。
    仲良しの友達の家が綿屋さんで、いつも友達のMちゃんはその日用に買いに行っていました。
    ナプキンが売り出されると、綿屋さんのA子さんは毎月のお買い上げ品よりもナプキンの方がいいよと勧めていました。
    自分ちの商品が買ってもらえなくなるのにいいの?って、子供心にも売上のことを思いました。(綿屋さんの商売全体での売り上げは、ほんに微々たるものだったでしょうにね)

    作者からの返信

    そうか そうですよね 
    布団を家で縫ってた時代には
    綿屋さんがありましたよね
    どこで買ってたのか知らなかった
    謎が解けました 

  • #138 団塊さんの軌跡 2への応援コメント

    年金の話になると、娘は凄く羨ましがります。
    長生きしている我ら夫婦は、頼りがいの無くなった年金から、もう夫婦で何千万も貰ってるねと言われると、長生きして申し訳ないな、とちょっと思ったりもします。
    娘達の受け取る年金額に不満が無ければ、そんな寂しい会話もしなくて済むんでしょうにね。

    作者からの返信

    やっぱり 発足当時の試算では
    国民がこんなに長生きするとは~
    だった気がします
    申し訳ないけど それはこっちの
    責任ではない と居直りたい気も…

  • #137 団塊さんの軌跡への応援コメント

    1947年生まれですから正に私は団塊世代です。
    クラスは57人いた記憶があります。
    直ぐ上の姉とは8才も離れていたので甘やかされて、いつも母親にベッタリで過ごしていました。こんなでは小学校に入ったら苦労するからと母が近所の人達に言われて、幼稚園に通うことになりました。
    古い時代の母(明治生まれです)には、子供は専業主婦である母親が家でみるものという考えでした。

    作者からの返信

    幼稚園だって 今みたいに送迎バスが
    あるわけでもなく かなり離れてても
    母親が送って行って 昼過ぎには
    迎えに行くのが当たり前でしたから
    母たちは少しも楽ではなかったですよね

  • テレビは高級家具のように思えましたね。
    緞帳なんて表現にぴったりのカバーを、見る時には恭しく緞帳をあげて、見終わったら厳かに?緞帳を下す。
    こんな馬鹿げた洒落、当時の人にしか分かってもらえませんね。
    「テレビ今日うちにテレビがくるんだ」と、ちょっと自慢げに友達に話して羨ましがられる・・こんな光景も懐かしいです。

    作者からの返信

    通じてうれしいです
    緞帳なんて言っても通じるんだろうか
    と思ってたから
    スマホでテレビを見られる今では
    家の真ん中で〝宝物〟のようだった
    テレビなんて想像もつかないでしょうね 

  • こんにちは。
    私がナプキンを使い始めた頃にはまだ「アンネ」という言葉が生理の隠喩として使われていた記憶があります。本当にありがたいことですね。

    作者からの返信

    女性同士でさえ話す事が憚られた時代
    体調の悪い事さえ言えずに大変でした
    知らぬ間に大企業に飲み込まれた
    始業社長の勇気に子や孫は救われてます
    感謝です


  • 編集済

    そうそう、そんな事件ありましたね。思い出しました。
    忘れていたのでスマホで見てみました。
    犯人は籠城中トイレはどうしてた?なんて書いてありましたが、そうですよね、どうしていたんでしょう?
    って、関心はそこか?違うでしょう、ねえ?

    作者からの返信

    なんかね 本人は真剣だったのかもですが
    あまりにちっちゃくて 真剣に受け止められなかった
    ですよね
    今なら おかしなユーチューバーかと思うけどね

  • 万博、盛り上がっていましたよね。
    人間洗濯機が話題になって、ずいぶん賑やかだったけど、人間を洗う洗濯機なんてねぇぇ~
    あれって何が良かったの?と思っていたけど、あれからヒントがあって、いいものが出来たんですってよ。
    ミラバス、あのお風呂がそうらしいです。
    (テレビ「激レアさんを連れて来た」で知りました)

    大阪万博も折角やるんですから賑わうといいですね。

    作者からの返信

    まあ 始まればそれなりに盛り上がるのでしょうけど
    70年の熱気には及ばないでしょうね 
    今は他に楽しみが沢山あるし 
    見た事ないもの見ても あの時程ビックリしませんものね

  • 一時は極細ペンで描いたような細い眉が流行りましたね。
    美人のモデルさんならいいんですが、一般の人だと何だか不良っぽい感じがしました。
    悪ぶってる?って思いました、どこがいいんだろう、ともね。
    また極太い眉も流行ったことありましたね。

    作者からの返信

    眉一つで 大人っぽくも少女ぽくも
    なりましたよね
    富士山みたいな 裾広がりのソバージュも
    今になると どこがいい? だし
    流行って不思議ですね

    それにしても 男子の化粧は
    まだ キショイと思う昭和生まれです

  • 列車のトイレは下のレールがビュンビュン飛んで行くのが見えました。
    あれを見ていた世代です。
    列車の側に立って眺めていると、水しぶきが飛んでくるって笑い話がありましたが・・ 大昔の話です。

    作者からの返信

    やっぱり夢じゃなかった!w
    あの頃 線路を引けるのは大抵
    田や畑の真ん中だったから OKだったのかしら?
    新幹線の車窓 この頃は農地でもビニールハウス全盛ですもんね

  • やはり55人もいたんですか? 
    私のところだけじゃなかったですね。55~6・7人いてギュウギュウでしたね。
    ストーブの側の子は暖か過ぎて真っ赤な顔をして、教室の隅の子はいつも羨ましがっていました。
    アルミのお弁当箱はストーブに載せられましたから、ストーブの上はお弁当置き場となって、ほかほかのご飯が食べられました。

    作者からの返信

    そうそう 今のように棚なんかなくて教室びっしり生徒でしたよね
    ストーブに近くて真っ赤な顔をしてた子 いました!!

    高校時代かな ストーブ上方に網があって お弁当温めたり
    部活の子が雨でぬれたユニフォーム乾かして〝臭い!〟と
    文句言われたり…  ああ 懐かしいですね (⌒∇⌒)


  • 編集済

    昔の映画を思い出しました。
    そういえば画面が雨降りのようになっていたのがありました。
    新潟の、それも田舎でしたから、きっとうんと後回しになって、傷がついてしまっていたんでしょうね。納得しました。
    そうわかると、とっても面白~い。

    作者からの返信

    指定席で立ち見もなくて 今の方がずっといいのに
    なんだか懐かしいですよね 危機一髪にヒーローが
    駆けつけると 拍手が起こったりして
    観る側の一体感もありましたよね

  • 映画ファンにはたまらないエピソードですし、たまらなく羨ましいおうち?の子だと思われるでしょうね。
    そんなファンがもし真留女さんの立場だったら、お父さんがいい職に就いていてくれた、と大喜びでしたでしょうね。
    出演者が揃って来ている、同じ空間で試写を観ている・・誰もがいいなぁ、って思うけど、子供の頃ならそんなこと分かりませんよね、もったいない!! ああ羨ましい!

    作者からの返信

    確かにラッキーなんて全然思ってなかったです
    むしろ青春時代「あれが観たい」と言っても 
    父に「あんなの時間の無駄だ」なんて言われて 
    気持ちをそがれる事も多かったようなw

    父とは映画が縁で出会ったほど
    母が大の映画好きで 膝に乗る頃から
    映画館に連れていかれていたのですが
    今 思うと暗くなっても 大きな音がしても
    泣かない子でしたね私

  • 「一陽来復」冬至の日に頂きに、はるばる出かけていましたが長蛇の列で、毎年の大仕事でした。
    大晦日、そろそろ時間という時になると、夫が踏み台に乗り緊張して、電話で時報を聞きながらジャストに貼る!ということを、随分長い間やっていました。

    義理の叔母がとても熱心な人で真剣そのものでしたのに、決して落としてはいけないという「一陽来復」を息子が落としてしまい、その上、走り回って遊んでいた孫が踏んずけてしまった、と嘆いていた思い出がありました。(気の毒だったけど笑っちゃいました)

    作者からの返信

    そうそう 冬至一日だから混んでたんでした
    忘れてました
    117の時報を電話で聞きながら ペタッ! ですよね
    同じことを やっていた方と今になって巡り合うなんて
    この偶然だけで ワクワクします

  • 書かれてあることぜ~んぶが、私の子供の頃の暮れの風景と同じでした。
    懐かしくて、まるでその頃の映像を見ているようです。

    畳もあげて干してここぞとばかりにバンバン叩く、今3階のベランダで叩き過ぎる程に布団を叩いている人の音を聞くと、よくあの時のことを思い出したりしています。

    障子だって外して細かな桟までしっかり洗い、よく乾かしてから貼りましたけど、マンションには障子がないので、もう何年も貼ることはありません。
    今ではそんな面倒なことがなくなって助かるけど、なんか味気ない気がしないでもありません。

    作者からの返信

    「畳叩いていいよ」と言われて
    普段やった事がない程 思いっきりひっぱたいたり
    障子をグーで破ったり なんかお祭りでしたね

    今になると あんなに寒い時に家の中も吹き曝しで
    やらなくても よくない?
    と思いつつも 懐かしい風景ですよね

  • 今ははだしのゲンもほたるの墓もダメですもんね。どうかと思いますよ。

    作者からの返信

    なぜダメなのか 訳が分かりませんよね

    そういう体験を 日本の子供がちょっと前に
    本当にしたんだ という事実からすれば
    今の子供こそが知るべきだと思いますが 

  • あの頃の学費は月3万くらいだったが学生運動を起こさせないために、学費を親が苦労して出しているってするために上がったという記事を読んだことがあります。いや、それにしてもあげ過ぎ!って叫びたい!

    作者からの返信

    〝学費値上げ阻止〟の立て看 
    どこの大学にもあった気がします
    学校側が 密かに足並みをそろえた
    という事でしょうかね

    東大の門前で あの頃を思い出して と
    ミルクキャラメルを配っていた 籠城学生の
    お母さんたちもいましたね

  • 初めまして♡
    ムームーは祖母が着てました。
    懐かしい♡

    作者からの返信

    私もムームーは体型不問なので
    着ていました
    当時は〝夢のハワイ〟に思いを馳せて

  • 初めてのお産は月足らずで破水してしまったので、生まなきゃいけないからと産道を広げる処置から始まりました。
    無理やり拡げるのですから痛いのなんのって、もぉぅ。でも我慢強いんだなぁワタシって、と思う程我慢して頑張りました。

    産まれた子は月足らずで2500ギリギリで、その細い足を先生が骨についた皮に注射をした時に我慢がきれて、布団で声を押さえて泣きました。
    泣きわめくのが恥と思って堪えると、息が詰まりそうになって苦しくて、こうやって死んでいくのか・・などと気弱になりました。
    隣のベットにお見舞いに来ていたお婆さんに、喝を入れられて我に返ったという、情けない思い出があります。

    これも数えきれないほどのお産の内の、ほんの一例といえましょうか。

    作者からの返信

    今と違って 月足らずで産まれるというのは
    生死にかかわる事でしたから 初めてのお産では
    殊に 不安で一杯だったの よく分かります

    座っているだけで涙が止まらなくなる
    マタニティーブルーも経験しました

    それでも すごい 素晴らしい体験だったと
    思っています

  • 知る楽し
     
    何故に授業は
     
    つまらない






    げん😒

    作者からの返信

    同感です 授業では〝知る楽しみ〟は
    得られなかったですね

  • 何か、昭和40年代前半くらいまでは、アメリカ文化が日本にどんどん入って来てましたね。

    ルーシー・ショーや奥さまは魔女…ウチも家族揃って見てました。

    私は子供時代からお遊戯だのフォークダンスだのが苦手でしたね。

    何故だか小っ恥ずかしいんですよね。

    見るのは好きなんですけどね。

    子供の頃は親父に連れられて、浅草国際劇場のSKDのショーなど観に行きました。

    日活アクション映画の中、キャバレーで踊る白木マリさんの姿などもテレビで見てました。

    けっこう昭和は面白かったな。

    作者からの返信

    本当に懐かしいですね
    日活映画といえば とつぜんカーボーイ風の
    色男が馬に乗って現れて 町を救って
    どこへともなく去って行く

    なんて 荒唐無稽が楽しかった時代でしたね
    私は 次世代の吉永小百合・浜田光夫の
    純愛路線にせっせと通ってました(⌒∇⌒)

  • 真留女さん、最初からずっとワオ・ワオ!の連続です。
    本当にそうなのよねぇ、って相槌うちながら読ませて頂きました。

    娘が生まれた時、義母が喜んで色々と世話をやいてくれました。
    私もエッセイに書きましたが、義母は足の格好が良くなる為といって、オムツをした後に「伸びろ伸びろ」と言いながら、足をスッと真っ直ぐに延ばして、着物の裾まできっちりと揃え、その上、おくるみに包んで、まるでソフトクリームのコーンのような状態にして出来上がり!となるのです。

    確か私の母は、甥っ子や姪っ子の着物を着せてやる時、裾はユルユルだったようだけど、義母はそんなに几帳面な人でもないのになぁ、と不思議でした。
    でも、そんなにきっちり仕上げてくれても、抱っこしたりしているうちに裾は大いにはだけて何のこっちゃ、になっていました。
    それで正解だったのですねぇ。あんなにきっちりをやり通していたら、股関節脱臼で苦しまなければなりませんでした。

    その反動かどうか知りませんけれど、娘は今、両足開いてMで寝ています。
    私は母がうるさかったので、女の子が大股開いて!とよく怒られていましたから、娘のこの寝姿が嫌で嫌でたまりません。品位に欠ける、恥を知らないのか、とよく怒っていますが、寝ていてのことですから仕方ありません。
    ちょくちょく足を綴じてやっていますが、熟睡を邪魔するようでかわいそうにもなります。

    このようなこと一つで、こんなに長くなってしまいましたが、全部に同感、とかそれうちもしたぁ、とかいっぱいコメントしたいことがありました。
    昔を思い出してとても楽しめました。
    相変わらず真留女さん、昭和の生き字引!! 拍手、です。

    作者からの返信

    ソフトクリームのコーンて 言いえて妙です(⌒∇⌒)
    もちろん記憶にはありませんが 母の事だから
    厳重に締め上げていたんだろうな と想像しています
    もちろん 悪気がなかったのは分かっていますが

    うちの娘もひどい寝相で 結婚した時は
    心配しましたよw

  • こんにちは。
    私も乳児の時に脱臼して、一歳半まで歩けなかったと母から聞いてたので、今回の話は人ごとには感じられませんでした。
    年の離れた弟が産まれたときにはまだ布おむつで、おむつカバーやおむつ干しを使っていた記憶があります。


    作者からの返信

    そうだったんですね 赤ちゃんの足は開いたままがいい
    と医者からはっきり聞いたのは 私の下の子の頃だったと
    思いますので 色々な事が大きく変わった昭和でしたね

  • 小学生の頃、父親と成田市の方へドライブに出かけ、藪に覆われた小高い丘に登り、周りの景色を眺めたら、急にウンチがしたくなったのでそこで野グソをしたことがあります。

    丘を降りたら下には雑草に囲まれ、鉄格子がはまってる石室があり、何とそこは古墳だったことが分かりました。

    貴重な思い出です。

    作者からの返信

    成田に古墳があったとは知りませんでした

    野〇 つながりで
    学生時代 山に行くと(春山夏山ですが)
    男子が急に道を外れて林の中に入って行くと
    先輩が「キジ撃ちに行ったんや」と言ってました
    〝キジ撃ち〟は排泄の山の隠語だと その時知りました
    今となれば それも懐かしい思い出です

  • 第1話 序に変えてへの応援コメント

    私は昭和30年代前半生まれの昭和原人です。

    興味持って拝読します。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます
    統一性のない書き散らしですが
    少しでも 懐かしんで頂けたら
    嬉しいです

  • お釜に入ってのパーマ、子供の頃にやってもらっていました。
    カールが可愛くって素敵なんだけど熱くてイヤでした。
    母がそばで一生懸命に団扇で煽いでくれてました。
    懐かしい思い出です。

    作者からの返信

    おかっぱ頭のすそがカールした
    少女スターの髪型が皆の憧れでしたね
      でも自分がするとイメージが違うんだわ

    父の好みで セシールカットやヘップパーン刈り
    (超ショート)にされては 文句も言えずに
    膨れていました私

  • 髪結いさんの様子は朝ドラ「おしん」で、おしんが髪を結っていたシーンで、少しばかりは分かります。
    昔の人はずいぶん面倒な髪型していたんですねぇ。
    結うのも結われる人も、どちらも大変だったでしょう。
    箱枕なんか、絶対に寝られませんから気の毒でしょうがないです。

    作者からの返信

    そうですね 女性が付ける数少ない
    専門職だったんですよね

    箱枕はムリです 頸動脈が止まる気がするし
    そのまま朝までなんて 考えられません
    叔母は新日本髪を結ってもらった大晦日
    こたつで 両手で頬杖をついて
    座ったまま寝てましたw

  • 脱脂粉乳を飲んだくちですワタシ。
    美味しくて喜んで飲んだ子はいなかったんではないでしょうか。
    景気づけか暗示の為か知りませんけど、飲む前にミルクの歌を歌いました。
    ♬ ミルクミルク おいしいミルク あ~まいミルク 
    ここまでは何故か歌えます。
    何十年も前のことなのにねえ。

    作者からの返信

    ミルクの歌があったんですね
    子供たちの幼稚園では食事の前に
    歌を歌ってから「いただきます!」
    と言ってました きっとガヤガヤを
    鎮めるためだろうと思ってましたw

    とにかく「まずかった」ですよねえ

  • 高校の体育祭では全てが終了すると、シメのキャンプファイアー(キャンプではありませんが)で盛り上がりました。
    フォークダンスをしたり、皆で腕を組んだり手を繋いだりして歌ったり。
    いいものですね、いつまで経っても思い出として浮かんできます。

    体育祭のきつい練習や、本番での競技が終わりホッとした時に、高く燃え上がる火を見ているともの凄く感動してきて。
    それが終わりに近づき消える頃には、何だかとても寂しいような悲しいような、何とも言えない気持ちになって・・独特な雰囲気がありました。

    作者からの返信

    そうそう 楽しかったですね 
    高校の文化祭や体育祭の後の後夜祭 
    校庭に 何日もかけて作った立て看板とか
    仮装の小道具とかを積み上げて火がつくと 
    意味なく泣けて来て

    今はないのかな? 一生の思い出に
    やらせてあげたいですよね
     

  • #64 炎の思い出 断片への応援コメント

    何てステキなエピソードでしょうと感激しました。

    大きなリュックをしょって、鉄道を乗り継いで、全国を旅する真留女さんの姿もかっこいい!と思っていましたが、またこのスキーで滑走する姿の真留女さんも素敵!!
    そういったことに全く無縁な私ですから、ステキ素敵!と言いっ放しです。

    作者からの返信

    ありがとうございます
    私のスキーは「お前は懲りんなあ」と
    教師に言われたレベルなんですが

    松明滑走の美しさは全人類に見て欲しい
    ♬ロマンチックが止まりませんよ

  • #57 昭和の旅 カニ族への応援コメント

    旅行なんて必要なければしない私ですから、ただただ、スゴイスゴイと拍手です。
    ですからカニ族なんて言葉だってもちろん知りません。
    カニ食べ放題しまくる旅人、くらいしか想像できませんでした。

    そしてリバーサイドホテル、なるほど洒落てる。なるほどとは違うか。
    こうなると陽水の名曲「リバーサイドホテル」も・・な訳、ないですよね。
    🎶ホテルはリバーサイド  あはは、川沿いリバーサイド 
    立派な野宿の歌ですね、これ。 大好きなのがもっと好きになりましたワン

    作者からの返信

    ああっ 気が付かなかった
    〝ホテルはリバーサイド〟ですもんね
    88chamaさん 最高です!! 

  • 中村敦夫の「あっしには関わりのないことでござんす」
    これ、流行りましたよねえ。

    あさま山荘事件では、その時初めてのお産で、床上げまで義母にお世話になっていたところです。一緒にTVを見てどうやって助け出すんだろうと、気が気ではなかったですね。
    そんな時、現地にいてスキーを楽しんでおられたとは・・うふふ、ですネ。

    作者からの返信

    全く静止画のような画面を何時間も映してましたよね
    なんとなく抑圧的な 暗さのある時代でしたね
    (私は遊んでたけど)

  • 当選の車、スゴイ条件揃いで何だかせこい感じがしますね。
    でも昔だから本当にすごい賞品だった表れですね。
    あっちゃこっちゃに赤い文字でS&Bの文字が?
    そして連なって銀座をパレード? 笑っちゃいますネ。タノシイ

    作者からの返信

    本当に今ならそんなのいらない と言われますよね
    ハワイ旅行が当たったら 全員レイをかけて並んで
    スポンサーの横断幕持たされて写真撮られる時代でしたもんね

    編集済
  • 何を思ったのか、母が私達娘3人に黒の羽織を贈ってくれたことがありました。
    うんと上等のものだったようで、仕立て屋さんに奮発したと聞きました。
    でもどんなに上等でも、私と直ぐ上の姉には無用の物でした。
    使う時、使うところがないのですから。
    田舎では不幸があった時、まず駆けつける時に黒羽織ででかけるようで、それで送ってくれたんだと思います。
    でも、でも洋装の時代で着物なんか、とっくに着た記憶すら薄れています。
    母が呆けた?と疑いました。
    タンスの肥やしになって幾年月。幾度目かの引っ越しの時に、しつけのかかったまま処分となりました。
    申し訳ない気持ちと、何でそんなものを、とが半々でした。

    作者からの返信

    我々は何かの時には着物を着る親を見てきましたが
    自分たちはほとんどそんな機会はなくなっていて
    親世代とのギャップがありましたね
    もう 娘世代は絶対着ないと思うので
    夏冬の喪服一式 今年こそ処分しようと思っています

  • #45 私のテレビ創成期への応援コメント

    ウチも中学の頃テレビを買いました。
    遠い所からもやって来て、終わると数十人の残した砂や土埃などを、姉が掃除するのがいつものことでした。

    作者からの返信

    そんなに来られては大変ですね
    野球とかプロレスかしら
    あの頃は 喫茶店の入り口に
    〝テレビ 野球放映中〟なんて札が下がって
    お客さんを呼んでました

  • 野犬狩りはうっすらと記憶にあります。
    当時の人気海外TVドラマ「ベン・ケーシー」で、主人公の医師が噛まれて、発病するかと家族でドキドキしながら見ました。
    主人公ですから死なないと思っていても、当時の人達は狂犬病の恐ろしさを教えられていましたから、心配したんですよね。

    作者からの返信

    ベンケーシーのそのエピソード見てました
    狂犬病とか破傷風とか まだまだ身近にあって
    木下恵介劇場で 主人公が破傷風で亡くなるエピソード
    も記憶しています 今は病気の説明からしないと
    怖いと思われないのかもですね

  • 何だか映画で知る知識のようで、面白いですね。
    よくまぁこんなにいろんなことを教えて貰えて、と嬉しくなります。
    小説書いてる人には勉強になる知識ではありませんか。

    作者からの返信

    祖母や母や叔母などから聞いた話は
    もう 子供に話す事もないですが
    こうして書いて 読んで頂けるのは
    本当に嬉しい限りです

  • 1ドル360円を知っています。そんな時に外国へ行く人は凄い人で、洋行帰りと崇められたものでしたね。
    50年近く前に結婚しましたが、海外へは行かず10日間の九州一周の新婚旅行でした。
    やはりお決まりのホームでお見送り、ってのを受けました。
    照れくさいものでした。貰った花を襟元につけてやってる写真なんか見ると、わざとらし~って笑っちゃいます。

    作者からの返信

    海外旅行なんて〝夢の~〟とつく時代でしたよね
    ホームの見送りも次々発車する新幹線では
    やってられなくなったんでしょうね
    昔は 転勤していく人もホームで万歳三唱して
    見送ったりしてましたね

  • 真留女さんの記憶力には脱帽ですね。
    大いに感心していたら、私も少々思い出したことがありました。
    次兄の結婚式だったか、ウチでやったんですが参加者の中に(その家族だったかな)、赤痢(だったかな)の人がいたことが分かって、使った全部の什器や部屋を消毒するのにてんてこ舞いしました。

    様態の悪い状況を隠して参加していたと、後から聞きました。人騒がせな勝手な人もいるものだと、皆は腹が立つより呆れたと言っていました。
    たくさん集まりましたから責任を感じて、家族は大変な思いをしました。

    作者からの返信

    それは一大事でしたね
    お祝いに集まってくれた人にも気を使うし
    普段の何倍もの什器を使ってるし
    しかも 上等のものだし 症状が出ていたとしたら
    〝何してくれるねん!〟という気分ですよね

  • はじめまして、何時も楽しませていただいています。
    私の住んでいるところにも同じような、青のりと塩など入れてつく「かき餅」があります。
    各家によってこだわりの作り方があって、地元では「かき餅コンクール」も開かれています。
    子供の頃は大好きなおやつでした。

    作者からの返信

    いつもご訪問ありがとうございます
    同じ作り方なのに家によって味が違ったり
    塩や砂糖や甘辛醤油など 掛けるものにも
    個性があって 楽しかったですね

  • #57 昭和の旅 カニ族への応援コメント

    ボーイスカウトだった時に、カーキ色のリュックを使っていました。

    僕らは確か、「キスリング」と呼んでいたと思います。

    さらに時をさかのぼると、「カニ族」だったんですね。

    作者からの返信

    キスリング 持ってました 
    上部を紐でしばるだけで
    上蓋のないリックですよね
    あの紐の部分を複雑に巻いて
    そこに 大判の時刻表を半分に折り曲げて
    挟むのが〝カッコイイ〟という
    謎の風習がありました

    コメありがとうございます

  • とても。
    面白く、拝読しております。

    我が家の御風呂は。
    薪をくべておりました。

    ガス湯沸かし器が羨ましくて。

    だって。
    ひねると、お湯なんて。

    羨ましかったです。

    中学生の頃。
    よく、薪割していました。

    結構。
    楽しかったですけど。

    御風呂が沸くまで。
    ジョギングしたのを今でも覚えています。(笑)

    作者からの返信

    ご訪問ありがとうございます
    ガス湯沸かし器がつく前 母は油の多い皿は 
    まずやかんで湯を沸かして それで油を流してから 
    水道で洗ってたのを思い出しました

    時々 これがなかった時 どうしてたっけ??
    と考えても 思い出せない事があります
    今の子たちには 言っても分からない話ばかりですが
    面白いと言って頂けるの すっごく嬉しいです

  • 第2話 黄金週間への応援コメント

    はじめまして。

    昔は。
    土曜日も半ドンで。

    週休二日制よりも過酷でしたけど。

    その分。
    昼から麻雀や、飲みに行ったりと。

    楽しかった記憶があります。

    今は。
    休みでも。

    メールをチェックしたりして。

    気が休まらないような。
    大変な時代だと、思います。

    作者からの返信

    ご訪問ありがとうございます
    確かに 週休2日といっても携帯電話がある限り
    仕事や日常から完全に雲隠れは出来ない時代ですよね
    営業さんがポケベルを持たされた時に
    〝なんか 気の毒〟と思ったのを思い出しました

  • 姉は洋裁・和裁、編み物、お茶・お花など習っていたので、年のウンと下の私は、洋服やセーターなど沢山作って着せてもらってました。
    家の中には花が活けられていて、炉辺でお茶のお稽古ではお菓子目当てで、お客の役をしていました。(姉は甲斐あってか、いちおう旧家といわれる家に嫁ぎました)

    私は大学を終えるとすぐに結婚しましたから、花嫁修業なるものはせず、子育てが一段落した頃40の手習いでお花を習いました。
    花好きだったので楽しくて・・ 看板は不要と言っていたのですが仕方なくもらいました(買ったようなものですがね)。
    大きさはもう少しで洗濯板に使えそうなサイズ。何の役にも立ちませんでしたが捨てられず、やっと3年ほど前に物を載せる板となれました。

    作者からの返信

    好きこそものの上手なれ というようにある程度分別がつくようになってから〝これが好きだ〟と習うのが正しいお稽古だと思います
    それでこそ上達もするし身にもつきますよね 私は習い事に振り回されましたが 自分から行きたいと言ったのはソロバン教室だけでした

  • 私の田舎では真留女さんの言われる「なまこ」と同じように、丸餅以外はお餅を細長い蒲鉾型にして薄く切りました。
    白は勿論ですが黒豆や栃や柿(皮?)よもぎなどが入った豆餅・栃餅・柿餅・草餅などで、堅くならないうちに切って1本の縄(ワラ)に何個も縛って(うまく表現できませんが)、天井から何十本もぶら下げて乾燥させます。まるで暖簾のようになります。
    お餅はすぐにカビますが、こうしておけば保存食になり、おやつで楽しめます。
    お婆ちゃんのぽたぽた焼き、って何とか製菓にありましたがそんな感じで。
    さいの目に切ったものはあられや揚げ餅にして、そんなおやつが楽しみな時代でした。

    作者からの返信

    知ってます 薄く切ったお餅を藁に編み込むようにして軒に吊るして
    カラカラにするの見た事あります
    じっくり焼いたり 油で揚げたり 日持ちがするおやつでしたね

  • 高校生の時アメリカの少女と文通していました。
    クリスマスの頃の手紙に、クリスチャンでもない多くの日本人のクリスマスはこんな風と、真留女さんの書かれているサラリーマンのバカ騒ぎ?の風景を、下手な英語で綴りました。
    何とか意味は通じたようで、返事にはアメリカでもそんな輩が沢山いるとのことで、私の想像と反するものでちょっとビックリしました。

    作者からの返信

    へ~ びっくりですね 私の友人がカソリックの女子高で
    イブは校内の教会で一晩中ミサをして 朝出てくると母親たちが
    お汁粉を作って待っててくれたのがXマス
    と聞いて 海外はみんなそんなのかなと思ってました
    (汁粉はないでしょうけど) 

  • 本当に感心してしまうのですが・・
    これまでの回でも、例えば結納のことなどにしても、よおく記憶されているなぁと尊敬してしまいます。
    私なんか忘れないように書き留めておきたいと思っても記憶もないし、それ以前に物事に対して関心も持たない人でしたので、思い出しようにありません。
    でもたったひとつ、姉が嫁いだ先で箪笥の中を近所の人に披露するとかで、引き出しをいっぱいにして、着物をたくさん持って行ったのを思い出しました。

    実家自慢の友人(というほどでもないかな)が嫁いできた時に、反物を数えきれないほど持たせてもらって来たと言っていました。
    子供や孫が生まれた時までの分だそうで、必要に応じて染めるのだそうで白地だそうです。
    箪笥も幾棹だとか何がどれだけとか、(婚家は狭い家でしたのに)婚礼道具の凄さを競うような風習の地域の人だったようです。
    (因みに私は裸でと言って貰えてハイ宜しく、で、全てを婚家でまかなってもらいました。ありがたかったです)

    作者からの返信

    昨日の事は忘れるのに昔の事は一つ思い出すとズルズルでてきます
    引き出し一杯にしたら後使えない ほんとに合理的でないですよね
    箪笥の引き出しの底に 出産時用のさらしやガーゼの反物
    (安くてかさが高い)を敷いたなんて話も聞いた事があります

  • 「愛ちゃんはお嫁に」に出てくる「でしゃばりお米」がその仲人の代表❓格ではと、私は思っちゃいます。
    そんな世話好きな、仲人好きの人が張り切っていた時代があったんですよねえ。

    作者からの返信

    「でしゃばりお米」は懐かしい(笑)
    母がよく「全くあの人はまるででしゃばりお米だわ」なんて
    言ってました もう通じない言葉ですね
    隣の家の子が何歳かも分からない時代ですものね

  • #26 女で十文は恥だったへの応援コメント

    次姉が多分足が大きかったのでしょう。
    靴を見ては「バカの大足、間抜けの小足」といって、母はとても残念がっていました。気の毒に、ね~とよく思っていました。
    昔はこんなこと言ってたのか、と思ってスマホをみたら「バカの大足、間抜けの小足、中途半端のろくでなし」とありました。
    他にも地方によって色んな言われ方があると知り、笑っちゃいました。

    作者からの返信

    うちの方では「バカの大足 マヌケの小足 丁度いいのは僕の足」って
    言ってましたよ
    息子も27センチ越えで安いスニーカーにはサイズがなくて
    たっかいの買わされて 往生しました

  • 日紡貝塚の選手達、東洋の魔女なんてよばれてましたね。
    メダリスト達が全国の学校を訪問してくれたんでしょうか、私は当時高1だったのですが、私の母校の中学校にも来てくれたので、体育館で練習風景を見せてもらうことができました。
    中学では排球部だった私は先輩面して、選手達のいる部屋にも入ることが出来ました。写真も撮って得意になっておりました。
    河西選手は大きかったけど、藤本選手は中でもやや小柄で、回転レシーブがすごかったと私の頭にインプットされています。

    作者からの返信

    そうでしたね あの時 野球と相撲以外のスポーツを
    初めて見たと思います みな一流選手でしたから輝いてましたね
    排球部(そう言ってましたよね)でしたか
    直接お会いできて練習を見たら 一生忘れませんよね

  • ビートルズが来日した時、私は大学生でした。
    下宿のご主人から、息子がビートルズを見に行きたいと言ってるけどどうしたものか、と相談されました。
    あの頃はビートルズなどのロックは不良の音楽だという親たちがいました。
    古い親たちは、あのウエスタンカーニバルの様子を見て、ロックはろっくでもねえ(下手な洒落🙇)ものと思ったのでしょう。

    ジュリーにキャァキャァ騒ぎ、オックスのファンが失神するなんてこともありましたね、懐かしいです。

    作者からの返信

    リーゼントがまかり通っていた中学でマッシュルームカットは
    〝不良〟と言われて 先生のチックで髪を固められてました
    今から思えば 何だったんだろうです
    オックス 忘れました 今時の華奢で色白男子の先駆者ですね

  • 大学生の時は彼(現・夫です)のところへ電話して長話していました。
    公衆電話に10円玉をたっくさん持って、じゃらじゃら入れながら大変でした。
    その後どれ位かして100円玉が使えるようになりましたね。

    作者からの返信

    私の友人も「10円玉が10枚あったら取り換えて」
    と皆に言ってました 今の子には味わえない必死さですね

  • 一昨日10話まで一気に読ませて頂きました。
    懐かしくて、そうだった、あの頃は・・と昔を思い出しておりました。
    おそらく真留女さんは私の一回り下くらいでしょうか。でも同じようなことをしてきたようですね。(もっと若かったらスミマセン)
    今では子供達に話しても信じられないようなことを、我々は沢山経験してきました。
    当時の様子を話してやりたいと思うのですが、もういい歳ですので忘却の彼方へ、と行ってしまっておりました。
    それがこのエッセーのお蔭で蘇りました。

    今回の電話の件ですが、私もよく呼び出し係りに使われておりました。
    けっこう遠くまで呼びに行きましたし、お願いする方もそれをずいぶん気長に待っていましたね。
    時々、石鹸やマッチなどのちょっとしたお礼をもらったりしたものです。

    作者からの返信

    いつもありがとうございます
    〝一回り…〟イエイエほんの少しお姉さまを見つけて
    しゃあしゃあと妹面しているだけです

    そうですね 電話かけた時ずっと待ってましたね
    下駄の駆け込む音がして「来た」なんて思って
    懐かしいです