第17話 魔女ンチの黒猫
人間の成れの果てのような風貌の老婆が、ただ血眼になって川のせせらぎに視線を走らせている。
頬がコケ、やつれ、はげ、これほどまでに穢らわしい風体の老婆は、ぐるぐるとエンジン音を吹かせ空回りする車体のモーターを横に、あの衝撃で助かっているはずもない少女の残穢を、ひしゃげた車椅子の車輪を、なんとも名状しきれない憎悪をもって睨みつけていた。
(……助かっているはずもない、かぁ)
……まごうことなく、暁は、たったいま死んだ。
(……死なれちゃ、友達にもなれんな)
私はそっと老婆を見遣る。一匹の猫に気取られるほどの底の浅い殺意ではなかったのだろう、老婆はひたすらに、取り憑かれたかのように、川の奥底から気泡が生まれないかだけを探っていた。まるで、底に沈んだ少女をさらに沈めんが如く。
老婆、老婆、と。やめておこう。
彼女はまだ、そんな歳じゃない。
ひとり息子が昏睡して、夫が殺人の罪で刑務所に入って以来、あれからまだ数年しか経ってないのだから。
(……山内さん。老けたなぁ)
繋がりがあったのかは知らなかったが、繋がりがあったように見せるのは難しいことではなかった。
山内さんはもともと魔女家業の顧客だった人物だ。
山内家のひとり息子は間違いなく麻薬事件の関係者だったのだろう。で、山内家の大黒柱は麻薬事件の幕引きの立役者だった。取り残された山内家の婦人の情緒は、いかほどのものだったのだろう。わかってやれるはずもないけれど、関係者だとわかった人物を軽自動車で轢き殺せてしまうぐらいの救えない何かだったのは想像に難くない。
(……ごめんな、暁。……私が呼んだんだ)
水底に謝意を込める。
(……頭のおかしくなっている人ってのは、スピリチュアルが寄るべになるってのは案外間違ってないんだね。新興宗教に財産を吸い取られる彼女の前に猫の姿で君のことを話した時はこれほどまでなく演説のし甲斐があったよ。……「あなたの息子さんが被害を受けた集団暴行の首謀者を知っています」って言って君の名前を出したの山内さんの表情は、……まぁ、これは言葉にせずとも無粋か)
とはいえ、実際それっぽいことを暁が起こしているとは想定外だった。
因果なものだ。私は図らずしてひとつの復讐劇を完成させてしまった。
きっと暁が虚偽でリンチに合わせたサッカー少年の正体とは、山内家の一人息子のことだったのだろう。
(……ここら辺で待ち合わせだったんだ。山内さんには君の外見的特徴を、……車椅子ユーザーであることを伝えてあったから、そいつを見つけ次第煮るなり焼くなり好きにしてって約束だったんだ。だから、無駄話で時間を潰した。自由とか、平等とか、もはや毛ほども興味のない話で焦らして、友達とかいう甘ったるい言葉で君を籠絡させた。刺されるにしろ、首を絞められるにしろ、殴打されるにしろ、焼き殺されるにしろ、気付かれちゃ助けを呼ばれるかもしれないから、必死で君の気を引き続けたんだ)
水底から視線を外し、私は事件現場を背後に陽の当たらない路地の塀へと登った。
そのまま振り返ることなく、なるべく入り組んだところへ、逃げるように歩いた。
「……君は、私の最初で最後の友達だったのかも知れないな」
だったらどうして、だなんて、君は聞くだろうか。
そうしたら、私はそっけなくこう答えてやるのだ。
……だって、君は東郷先生に助けを乞うたではないか。って。
納得しないだろう。いつもの減らず口で私を叱責するだろうか。冗談っぽく、それとも冗談っぽくでしか本音を言えないかのような口調で、君はブツクサと私をなじってくるのだろうか。だったら、私はあくびを噛み殺しながらこんなことを言うのだ。
……だって、だって、それじゃあ――――――
「――――――そんなんじゃあ、君はアリスの友達にはなれないじゃないか」
って。きっと、君が響を正気に戻した日のような笑みで。
どこまでも同類なんだ。私と君は。
「……じゃあね、暁」
……また、あとで。
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幕引。終劇。エンディング。大小問わず物語の〆を彩るオーケストラは、物語の身の丈に合わない荘厳であるべきだと思わされていたけれども、タクトが空を切ることさえ憚られる静寂を前に「そういうものか」と天を仰ぐ。
雲の間隙を縫う朧月は、枯れ葉を踏み歩く“来訪者”の存在を薄暗く照らした。
「……ずっと、怪しいやつだと思っていたんだ」
それは待ち人だった。私は身を寄せていた木の幹から立ち上がり、“スカートの裾”を払う。
“こいつ”が来たということは、詰まるところ、そういうことなのだ。きっと、こいつは私の丹精込めた手紙を読んでくれたのだろう。と胸を突かれ、血相を変え、着の身着のままここまで、ここまで来てくれたのだ。この山中も山中、奥も奥、この“なぜか瓶の破片が散乱した“穴の近くの待ち合わせ場所へと。
「……まずは役作りからだね。あれはひどいの一言だったよ。とくに君との親交は深いわけではないけれども、実に君らしくないと思えてしまう言動ばかりだった。……焦っていたのかい?それほど、君の中で『魔女』って単語がそれほど恐ろしかったのかい?」
雲に遮られる月光は雑木林の影をより暗澹とさせる。
顔色は見えない。だから、独り言のように続ける。
「……疑念と偏見はきっと隣接しているんだろうね。そんなんだから小さなことでもいやに目についた。君が女子グループと並んでボディクリームだかハンドクリームだかを貸しあっていた時に、他の女の子が手に塗っていたところ、君だけは“胸元”に塗っていた。感触を確かめるためなら手の甲や腕で十分なんだ。そんなところ、君だけはわざわざ服をはだけさせ、胸元に塗った」
「……」黙りこくる待ち人。
「……これは雑学も雑学なのだけれども、魔女がホウキで空を飛ぶってのは、一説によれば“飛んでいるように錯覚していただけ”だなんて言われているんだってさ。……そう、もっと雑な物言いをすれば、薬キメてトンでたってだけ。……その薬ってのが、軟膏。……つまりクリームってわけだ」
「……」待ち人は、一向に言葉を発しない。
「……そんな軟膏、魔女の皆様はどこに塗っていたんだと思う?……胸元だったんだってさ。何が大事って、匂いが大事なわけで、しっかりずっと絶え間なく匂いが鼻腔を通る胸元っては軟膏を塗るにあたってちょうどいいスポットなんだ。……だから思ったよ。君はクリームの感触を確かめたかったんじゃない。無意識ながら、匂いを確かめたがってしまっていたんだって。……そんなことされちゃあ、こじつけられちまうじゃないか。
……件の麻薬事件に関与しているんじゃないかって」
「……」それだと根拠が弱いとでも言いたげだ。薄暗い影から愁眉が見てとれる。
私は手紙にこう認めたのだ。『君の悪行を晒す準備は整っている。』と。『今夜中に瓶の廃棄場所へと来い。』と。ここに来ている時点で、ここの存在を知っている時点で、関与していた可能性は極めて濃いのだろう。だが、ここに来る前段階で私が関係者だと断ずる証拠を握っていないと、ここまでの断言を記した手紙は書けない。
コイツは早く知りたいのだ。
自分が犯したミスの正体を。
「……まぁ、引っ張ってもなんだ。君んちの花瓶がわりの瓶を調べさせてもらったんだ。たまたま入手する機会があってね。整然とした雰囲気のガーデンに花瓶ではなくただの瓶を使っていたのが妙に引っかかった。それも植えられた花の様子は枯れる寸前だった。花に興味があるわけではない。されども捨てるわけでもない。……捨てられない事情でもあったんじゃないかってのは、邪推が過ぎると我ながら思ったんだけど、ビンゴだったよ。……洗っても、洗っても、残滓が残るわけで。瓶の淵から、ね」
「……」待ち人は終始無表情だった。しかし、ほんの一瞬、ただ刹那、その表情が綻んだように見えた。
待ち人は枯れ葉を踏み、月光に被曝する。
長い髪を揺らしながら、こちらへと来る。
「……そんなに怪しかったかな、僕の名演技」
はじめて、言葉を発した。
「……ああ。すごく。何よりも、ロールプレイがいただけない。ロールプレイを貫くなら、君は魔女裁判時、または魔女裁判が開催されるにあたって、こんな風な決め台詞で口角泡を飛ばしてなければならないはずだったんだ。『誰が犯人なんだ!』『犯人の真の目的はなんなんだ!』ってね。でも君は一度だって、ただの一度だって、君は興味を示そうともしなかった。……ただただ、魔女の正体を知りたがっていた。それはいけない。なんだって君は……
……探偵気取りなのだから。
……なぁ、吹雪」
影。影。影。から現れたのは、吹雪だった。
「いやぁ、はは」とぽりぽり頭を掻く吹雪は、「そりゃ盲点だったよ」と、滑稽さをアピールしながら私の眼前に立つ。
「怪しかったかぁ。怪しかったよねぇ。うん、怪しいと思う。だって、そんな設定だったの僕ほっとんど憶えてなかったんだもん。こりゃいけないね。多岐にわたる僕の志望校選択の欄に芸能科の学校の選択肢は無くなったよ!うん!下手な演技はするもんじゃないね!」
「……で、釈明はある?犯罪者の吹雪くん」
「犯罪者だなんて心外だなぁ。まぁ、うん。でも、犯罪だったよね。だって小さかった頃の話とはいえ、薬に手を出したんだもんね。悪いことだよ。いけないことだ。でも善悪の判別なんてつくわけないじゃないか。当時の僕は小学生未満だったんだよ?とはいえ、よくないことはよくないことだね。ちゃんと反省すべきことだよ。僕は魔女だったのかもしれない。だから魔女である僕が告発されるのが怖かったんだ。自白するよ。許されるかわかんないけ――――――」
「――――――……下手くそな演技はやめたほうがいいって話をしてなかったっけ」
ピクリと肩を揺らす吹雪。この後に及んで嘘で糊塗しようって腹づもりなのだ。
ただ、按ずるにきっと、舐めているとか、そういう次元の話ではないのだろう。
彼は根っからの嘘つきなのだ。
それはもう、言い訳が立たないくらいの。
「……花を植えられるほどの瓶だ。“小瓶”じゃないんだよ。下っ端がせっせと働き回っても小指ほどももらえなかったであろう麻薬が、たったいま、君は植木に代用できるほどの“瓶“から検出されたこという事実を否定もしなかった。……そりゃ容易には捨てられないよな。下っ端が頭を使わずポイポイしていた小瓶とはわけが違う。……意味するところはなんなのだろうな、吹雪?」
正直、正直を言えば、私は瓶から麻薬だなんて検出していない。それに、きっと検出されない。検出されるわけがない。検出されるヘマなどしない。
手紙もある意味で一か八かの賭けだった。そんな分の悪そうな賭けに、この瓶の捨て場所を知っていたこと、麻薬事件に関与していた証言を得られたこと、私の推論とも呼べない推論を否定されなかったことは、あまりにも私にとって都合のいい偶然であり、ここまでの道程に必然など微塵もなかった。それほどまでに巧緻に隠匿されていた真実であるにもかかわらず、断言せざるを得ないほどに直感が囁いたのは、もはや“魔女んちの猫の勘”とでも呼ぶべきか。
「……これは、あまりにも突飛な邪推とでも呼ぶべきなのだろうけれども、」
魔女の使い魔として、さまざまな“魔女”に遭遇した。
拗れた家族愛に溺れた魔女。
終生愛から見放された魔女。
他人の不幸に興奮する魔女。
いろんな“魔女”と出会い、会話をし、最後を見届けた。
「……」
だからこそ、あぁ、わかってしまうのだ。
お前は、きっと“普通”な人間ではないのだろう、と。
「……お前、件の麻薬事件の元締めだったりするんじゃないのか」
悪魔の歯は白かった。
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「……いやあ、論理の飛躍もここまでくると空中戦のような様相を呈してきたんじゃない、山田ちゃん?……しかし!すごい!素晴らしい!感動したよ、山田ちゃん!僕は探偵失格だろうけれども、君なら小説の探偵さんくらいにはなれちゃうんじゃないの?だって、だって――――――」
無機質さが彩度を増す。
「――――――正解なんだもんなぁ」
軽口のような、なんでもないような、そんな色のない自白。
「……自白してくれるんだ。てっきり、何がなんでも口にだけはしないようにするんじゃないかって思っていたんだけれども」
「いやいや、僕だって内心は寂しいんだよ?だって、誰にもわかってもらえる話じゃないだもんね。話さないし、話すわけにはいかないし、話せるわけがないことなんだから。だからこそ、マイ・ベスト・フレンドの山田ちゃんに真相を突き止めてもらって気分が高まっているまであるんだ。わかってもらえるって案外いいことだね!秘密を秘密のまんま墓まで持って行ってもらうよりも味がしていてずっといい!」
言っている意味がまるでわからない。
意味はないのかもしれない。ただ、意味のないことをこんな場面で口走っていることさえも意味がわからない。
「ここは圏外ってのもいいね。二人だけってのもいい。動物はともかく、人の気配ってのには機敏になってしまっている僕だけれども、ここには僕と山田ちゃんを除いて誰もいない!万が一、ボイスレコーダーがあっても今から山田ちゃんから奪うし問題ない!
……なんかドキドキするよ!告白してもいいかな、告白してもいいよね、告白しちゃおっかなあ!」
さながら、もう詰みであること強調するような言い回しをする吹雪。
告白をすると鼻歌を唄うかのように宣言する吹雪はスーッと息を吸い、ハーッと息を吐く。
「……僕!こう見えても人殺し童貞なんだ!」
紅潮した頬を露わにし、懐から取り出したのは銀色だった。鉄色だった。それでなくとも生臭い色だった。
刃渡りで言えば15センチ弱。
硬直した。それでなくとも、もう遅かった。
――――――腹に銀色が突き刺さった。
――――――腹から銀色が抜かれた。
――――――腹に銀色が突き刺さった。
――――――腹から銀色が抜かれた。
――――――腹に、それはもう深々と、銀色が突き刺さった。
「――――――あ、ガッ」
――――――い……た。あ…………これ、死n
「僕が実行犯だってこと、誰にも言ってないよね?ああ、いや、言ってないね。っていうか、言えないよね。だって山田ちゃんは僕が実行犯だったってことに確証を持ってなかったんだもん。証拠を出せなかったんだもん。だから、あてずっぽう!つまり当て勘だったってこと!そんなこと誰かに言っても仕方がないよね!まぁ仮に当て推量を押し付けられた協力者がいたとしても、そんなずっこけそうな推理に付き合ってくれる大人なんていない!」
――――――銀色を押し込められながら、ポッケを探られる。
――――――出てきた録音機を奪われる。
「やっぱり持ってた!もー、チープだよ!ガッカリだよ!……それにしても、瓶を捨てられなかったのは致命的だよなぁ。ああ、これが最大のミスだよ!僕としたことが!瓶捨て場からおばあちゃんの所在を割り出して殺しに行ったおじさんの話を聞いたら誰だってヤバいって思うじゃんね!ねぇ!山田ちゃんはどう思う?」
――――――グリグリと銀色で腹の肉を、内臓を、抉られる。
――――――い、…………あ。いたい。
「ひどいなぁ、ひどいよぉ、ひどすぎるね、山田ちゃん!僕が十年以上隠し通した秘密だよ?それがこうも雑な推理でバレるんだもん。思い返せば、どれもこれも加賀くんのわけのわからない奇行が原因なんだけど、“魔女”だなんて意味深なこと言いやがってさ!ちょっとイメチェンして、遠くの学校に入学して、誰も僕の過去を知らない新天地で上手く溶け込もうって思ってた矢先なのに!魔女の悪行だなんて風聞立てられたら婀娜っぽい僕が!魔女だって!思われるかもじゃん!」
――――――あし…………もう、立てな
――――――崩れ落ちる。身体も意識も、月明かりの差し込む隙間すらなくなるようにモヤがかかる。
「……で、で、で!山田ちゃん。死に際なんだから、遺言の一つもないの?」
崩れ落ちそうになる私を介抱するように、はたまた介錯するように、吹雪は私の眼前でしゃがむ。
表情とは表裏で無機質な瞳。
疑念と偏見は隣接している。
「……いいなよ、遺言。後世に残しておいてあげるからさ」
吹雪は、信じられないほど狡猾でどこまでも賢しい吹雪という少年は、包丁を深く刺してなお、模糊とした疑いに目を細める。
自身の過去を直観にして言い当ててしまった知人が、深夜の森奥深く、誰とも連れず自分に逢いに来たということに。
一抹の不安が、古傷のように拭えない。
「…………」
吹雪にとって、刺すこと、殺すこと以上に肝要なことがある。
山田テレスの、“目的”である。
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――――――どうした、早く言え。
――――――死んでしまう前に言え。
ミスが怖かった。自分の自覚のない、自分の管理のない、自分の触れられないミスの存在があると思うだけで怖かった。
しかし、蓋を開けてみればミスと呼べるミスなどなかった。強いていれば空瓶の存在ぐらいだったが、そんな空瓶、微々たるリスクを負ってでもさっさと処分してしまえばいい。つまり、僕以外の誰かが、それが僕であったとしても、僕の過去を証明する手立ては瓶の処分をもってして一切なくなる。
――――――お前が死ねば、疑う奴すらいなくなる。
直観で言い当てることをした山田さえいなければ、過去はまた過去へと戻る。過去が過去のままであれば、風化し、消し炭になり、それはいつしか思い出としてさえ語られなくなる。だから直観であったとしても、掘り返されるってだけで大迷惑なのだ。それでなくとも有る事無い事言いふらされでもすれば、関係者がウジャウジャといるこんな田舎で酷いトラブルに巻き込まれるかも知れない。それに、いつしかこの女は核心に迫るかも知れない。
――――――何かあるんだろう?
誰もいないことは確認済みだ。人の気配には子供の頃以来、敏感になっている。だから確信を持って言える。ここには誰もない。そんななか、お前を刺し殺し、お前を埋め、あまつさえ白骨化させてしまえば。そんなことがあれば、万が一でもなければ見つからないし、万が一にでも見つかったとて誰かがわからない。数キロも離れていないキャンプ場からの失踪者ですら、周囲にいることがわかっていてもなお見つけるのは困難なのが実情だ。絶好機、さながらここは絶好機に他ならないのだ。
「………………」
――――――何も、ない、のか?
殺すメリットしかない。殺さないメリットがない。そんな状況下。
心音が、遠くの警鐘のように、囁くように鳴り続けているような。
――――――だったら、……だったら、お前。
――――――ただ、殺されに来たようなものじゃないか。
「……遺言って、ほどのものじゃない、……けど」
出血が止まらない。どくどく、どくどく、と腹から落ちるきめ細かい泥のような血流は、このままでいればこの女が死にだろうことを容易に想像つかせる。けれども、その声音は、その口調は、その態度は、あまりにも死にかけの人間の様相とは異なっている印象を吹雪に与える。
「……言ってみなよ。忘れてやんないでいてあげるからさ」
「……そ、……っか。…………でも、大したこと、じゃ、ないん……だ」
ゾクリっと、悪寒が背筋を走る。
「……二分の一、だった。……いいや、たぶん、……二分の一どころじゃない。もしかしたら砂漠の砂粒から砂金を見つけ出すような、……そんな確率だったんだけれども、……あ、あたって、よかったって……あぁ、よかった」
……二分の一?
「……どっちにしようって、……思って、たんだ。でも、“暁”はだめだったから。……暁は、……私とおんなじだから。……それだとだめなんだ。それだと、……それだと、これから数十年、…………長生きするなら、百歳になるまで、…………だれが、おともだちになってあげるの……って」
……意図がわからない。何を言っているの毛頭わからない。
瀕死のいま、吐かれる言葉は恨み節か、さもなくば延命のための協力への取り引きの持ちかけだと踏んでいた。そうでなくてはならなかった。だって、死ぬってのは、人生においてそれほど大きな分岐点であることは間違いないのだから。
……理解、できない。
「……山田ちゃん。君は僕に、誰かの友達になって欲しいって思ってるんだ?」
「……アリスちゃん。西田、アリスちゃん」
「……そんなに仲よかったっけ」
「……私の、大事な家族だから」
この後に及んで妄言としか思えないことをつらつらと並べる山田に、僕は確かな戦慄を覚えている。刺され、掻っ捌かれ、垂れる臓物と共に吹き出す血飛沫は赤色のはずだけれども、今の僕の手につく血痕が黒色となって僕に染み込んできているような。
……共感が、できない。
「……私は、……幸せもの、……だなぁ。……うれしい。……嬉しい、よ。……神様は、見てくれていたんだ。……神様なんて信じていなかったけれど、こんなにも、…………こんなにも、理想的な終わり方を、……許してくれるだなんて」
「……は?」
……聞き間違えか?「幸せ」だと、そう言っているのか?
……お前はいま、死にかけているんだぞ?
……あぁ、こいつは、ヤバいやつなんだ。
……そっか。だから、納得してやれなんだ。
「……死んだら夢、叶えらんないじゃん。幸せなわけがない。生きててなんぼのものだねでしょ?だめだよ。瀕死だかって迷言並べてそれっぽく逝こうだなんて。僕が許さない。僕は僕の僕だけの確約された勝ち組ルートにちゃちゃを入れてきた君を許さないよ。だから悔いや懺悔の言葉を涙ながらに吐露しながら死なないと。……君はミスったんだよ。とどのつまり、君は負け組なんだ。……自分の弱さ愚かさクソ雑魚さを噛み締めながらくたばりなよ、さっさとね」
「……言われなくとも、……さっさと死ぬよ。……死ねるのだから、死ぬ大義があるのだから、遠慮なしに死ぬよ」
「……だったら、」
「……吹雪。……ありがとう、ね」
……だから、……さっきから、なんだ。なんなんだ。この寒気は。
……理解も、共感も、納得も、全てが僕の中で拒否反応が起こっている。
「……何が?」
「……私は、……やっぱり幸せ者、だよ。……だって、“目標”を達成して、……この世においてやらなくちゃいけないことを、……ちゃんとさせてくれて、…………それでいて、死なせてくれるのだから。……この“地獄”から抜け出すための口実をくれたのだから」
……目標を達成した?
拍動が強まる。いいや、落ち着け。僕の行為にミスなどない。ミスがあったとて、その全てに付帯するリスクを回避してきたんだ。誰も何もどれもこれも僕の不利益に傾くようなことはないよう全身全霊を注いできた。いまだって、この遺言の聴取は僕の見えざるリスクを明確化させるための一環で、それら含めて用意周到に行ってきた今までが否定されるわけがない。ミスっている、はずがない。
「……君の目標って、」
君の目標って、なんなんだ。
そんなことを聞こうとした矢先、
「……あとは、アリスちゃんのこと、よろしくね」
……思わないのか?思うはずだろ。思わないはずがない。
……どうして、いま、この状況で、僕が君の頼みを聞き入れるだろうと本気で思えているんだ?
「……馬鹿言うなよ、負け組ふぜいが。……僕がお前の頼みを聞くわけが、――――――」
「――――――ありがとう
――――――ありがとう
――――――ありが、と……う」
事切れる、その最後。神への礼賛のような、そんな不気味を通り越した神秘的恐怖を前に、僕は包丁を深々と突き刺す手を、より深く突き刺す。嗚咽のような、吸引できなくなった呼気を吐き出すように、ただひと言、彼女は耳元で囁くのだ。
「ご愁傷さま」と。
まもなく、山田テレスは息を引き取った。
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「僕はね、政治家になるんだ」
土壌を一メール以上掘り、死体を投げ入れ、埋める。
シャベルは近隣のアパートの階下から入手した。豪雪地帯というほどではないが、それなりに雪の積もる地域だ。常備してあるだろうと思って急ぎ立ち寄ったのだがアテが当たった。
「僕はね、僕のための国を作るんだ」
土を固め、草木でカモフラージュする。
かつて街を麻薬色の染めた事件。発起人でこそなかったものの、ルールを立て付け、ルールを遵守させ、ルールを確固たるものとしてきたのは自分だった。麻薬になど興味はなかった。ただ、次世代の子供たちを用いた仮想の組織づくりは、僕の性にピッタシだった。
「はじめは地方議員からかな。そこで調子づいて、それなりの発信力で国政を狙うよ」
獣や、いわんや気まぐれな人間に掘り返されるわけにもいかないから、周囲に溶け込ませる。
才覚があった。手駒を手駒らしく使う才覚だ。今日の僕のアリバイづくりだって完璧だ。第三者目線、今日の僕は隣町にいることとなっている。万が一にも万が一などない。だが、手駒ってのは所詮手駒だ。扼すれば、底辺だ。人に使われるぐらいの底辺はその身惜しさに僕に不利益を被らせる可能だって多大だ。だから、殺人のようなとっても大事なことは、底辺になどにさせず、僕が自分でやった。手駒は手駒だ。盤上向かいの棋士を刺し殺すのは僕の役目だから。
「僕は、誰かに従いたくなんてない」
「僕は、誰かに負けたくなんてない」
「僕は、自分を曲げたくなんてない」
「いずれも強者でありたい。いずれも弱者を見下したい。責任だよ。責任。僕はね、責任を負っていたいんだ。それでいて責任をすべからくまっとうしたい。人はそれを端的に“野望”とかなんとかと要約するのだろうけれども、僕のそれは“使命”と言っていいんだ。僕は政治家になる。僕は人を導く旗手になる。……いいや、違うか。
……僕は、“ルール”そのものになりたい」
間違っている。間違っているだろう。間違っていると言ってくれ、山田ちゃん。
「ねえ、間違っていると思わない?」
「どいつもこいつも」「いつ何時も」
「間違えまくってるんだ」
「価値観のアップデートとか言っている連中がどうして僕よりもゲスばかりなのか。自身を顧みれず他者の思想を劣等と扱うだなんてゲスでしかないじゃないか。思想に優劣があってたまるかって話じゃない?きっとあれやこれや思想についてとやかく言ってくる連中ってのは他の目に見える実績が皆無のど無能か頭のネジが飛んでる死んだ方がマシなクズかのどっちかだよね」「共産党だけど共産主義じゃないってのはひょっとして高度なギャグなのかな?」「生活保護受給者の身分で納税者に楯突くなんて前世虫かなんかだったとしか思えない厚顔さだよね。暇なら働けよ。働かないなら死ね」「差別?あるよ。するよ。当たり前じゃん。日本人の誰がベトナム人に敬意を示しているんだって話じゃない?ハゲもデブも不摂生もキモイじゃんね。同じだよ。差別はあるし、差別するし、差別されるもんなんだ。日本人が東南アジア系を発展途上国の未文明人と勝手にイメージを抱いているのと同じ。勉強とやらをして差別らしきもののモヤが晴れたとイッてる目をしている人たちは往々にして下民の不勉強さを差別しだすんだ。で、どこの誰が差別をおさめられるんだろうね。だから僕は差別をするんだ。いつの日か大手を振って負け組弱者を足蹴にしながら慈悲を与える理想の僕になっていたいものだよ」「そういえば天皇とかいつまでいるんだよって話だよね。いまだに崇拝している人たちは今が西暦何年かわかっているのかな?馬鹿だよね、あれ。天皇だの陛下だのなんだの呼ばれているけど、なんていうかしっくりくるのって人柱って感じだよね。現代の生贄。リベラルにコケにされて失われつつある文化煌めきの象徴。声高らかに言ってやればいいんだよ。あれがほんとの人でなしだって」「保守だかなんだか言ってる連中の保ち守りたいものってはなんだろうね。己が利権かな。それを支持する連中はなんだろうね。蝿かな。さしづめ保守はうんこってことだろうけど、あれらの言ってる歴史修正はいい加減にした方がいいよね。南京大虐殺はあっただろうし、関東大震災時に朝鮮人をなぶり殺しにした連中もいるだろうから、自分たちの守っている昔話はうんこも混じってますって言えればいいのに。そうはしないのだから、何を守っているのかわかんなくなっちゃってるね。バカだよね」「あ、でも日本は遅れている遅れているって口角唾を飛ばす人たちも大概だよね。僕はこっちの方が断然気に入らないよ。ああ、いや。しっかり納税している連中が言うなら百歩譲ってどなた様に稼がせてもらっているんだって嘲笑するだけで済むんだけどね。いいや、笑えないや。死ね、売国奴。で、貧民で生きてる価値がなくって自堕落な経済活動しかできない連中がどうしてのうのうと日本の悪口を言えるんだろうね。お前だよ、この癌が、摘出されろ、って思うよね。何様なんだろうね。責任も義務も果たせないクズのゴミは二の句には生かしてくれてありがとうって涙ながらに上級国民を崇めておくべきだよね。北朝鮮を見習うべきだよ」「どいつもこいつも、国民ってのはダメだね。民主主義の敗北と嬉々として騙る物書きは根本的にわかっていないんだ。違うよ。国民がダメなんだ。ろくに政治経済を学んでいないのに正しい判断ができるわけないし、大人になったら誰も本なんか読まないし学ぼうとしないし考えようともしない能無が大半だし、本を読んでいる!って粋がってる奴らほど他人の知識を咀嚼できていない低IQだしで救いようがないんだ。日本国民ってのがダメなんだ。そもそもが劣っているんだ。だから民主主義の敗北ってのは違うんだ。もっとちゃんと考察するなら寡頭制がいい。女性は政治をしない方がいいだろうね。政治分野の大学進学率がゴミなんだから黙って政治に従っておけばいいんだ。あと六十代もいらないね。さっさと死んで土壌の肥料になった方がいいから。低学歴も消そう。あ、あと愛国心のないやつは殺そう。そんで一部だけで政治を決めるんだ。もちろんエリート政治は往々にして間違えるってのが史実の王道ルートだけど、僕は戦争をすべきってなるんだったら戦争を起こせばいいし、国民が飢えるってんなら飢えさせればいいと思うんだ。ただひとつ勝てばいいんだ。負けたらから日本帝国はダメだったんだ。それだけだよ。それだけなんだ」「日本の歴史教科書は東條英機の悪口を書いている場合じゃないんだ。日本帝国最大の汚点はアメリカごときに負けたことだよ。何をやってんだと後生の僕なんかは思うね。せっかく国民はやる気だったんだからチョコレートの配膳をもらいにいくふりをして米軍基地を吹き飛ばせば良かったんだよ。死んでも勝つとか、死んでからも勝つとか、一緒に死んででも勝つとか、それくらいの心意気で戦争をしないと。戦争をしたことが戦犯なんじゃないんだ。負けたことが戦犯なんだ。だから靖国神社に参拝するときなんかは墓前に靴べら擦り付けて名前に泥をつけておかないと。そうでもしないと次世代だ勘違いしてしまうじゃないか」「まあどっちにしたって、底辺国民はしっかりと覚えておくべきだよ。特に支持政党なんかないって中立ぶってるクズは心に刻んでおくべきだよ。ただでさえ力もなく価値を見出せないカスなんだから票の力ぐらい見せろよって。そんなんだから政治家に舐められるんだって。政治家はそんなものは見向きもしないんだ。だって、底辺の浮動票なんていらないからね」「こんなクズでゴミでカスな国民の皆さんのためにトップに立つ人間は間違えられないよね。間違っちゃダメだよね。間違えられるはずがないよね。だから僕は政治家になるんだ。クズでゴミでカスな国民の皆さんの夢見がちな短冊を破り捨てて責任を果たすんだ。それでいて思い出させてあげるんだ。文化の喜びも、教養の正しさも、どうしようもない優劣も。みんなが教えようとしない教えたがらない教えられない数々の虚しい弱者の摂理を解いて、素晴らしき強者のありようを口説き、この世に自由も平等もないことを伝えてあげるんだ」「そんな簡単なことを、僕がしてやるんだ。誰もしないから。しようともしないから」「ああ、間違っている」「間違っているよ」「話せば話すだけ間違っているさまざまが腹立たしくって仕方がないよ!」
風に押し流され雲が晴れる。晴天。一面、星空。
「……僕は、ミスらない。
……僕は、政治家になる。
……政治家になって、僕がルールになる。そうすれば、僕は間違えなくなる」
たった一度のミスをして、その後の人生が破滅していく数多の有名人を見てきた。僕だけだった。それを眺めながら「この〇〇はダメだね」「なんでこんなことしたんだろうね」「好きだったのに」と群衆の愚かな呟きをよそに、僕だけだが自分を戒めたんだ。
……僕は間違えない、と。
「……僕はね、石橋を叩く主義ではないんだ。叩き壊す主義なんだ。壊れるだろうってのがダメなんだ。壊れてしまえばいいって思うんだ。そうすれば、もう橋を渡らなくて済むから」
だからね、山田ちゃん。
「……西田アリスちゃん、彼女の未来を壊すことにするよ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……私を?刺し殺しに来たの?」
目を丸くして驚くそぶりをするアリス。脅しだと思っているのか、殺されてもなんら感慨を抱かないのか、それにしたって脅されているのだから多少であっても人間的反応を期待したであろう吹雪は眉を細める。
「……そ。……言っておくけど、脅しじゃないよ?」
吹雪は客として薬屋を営んでいる西田の家に訪れていた。もちろん、客と言うのは虚偽だ。吹雪はいつもの口調で、いつもの所作で、いつもの雰囲気で、軽々しく棘もなく、含みも見せない趣旨の掴めない物言いで山田テレスについてのカマをかけた。
結果、あまりにもあっけなくアリスは山田テレスについて語ったのだ。
「恨むんなら山田ちゃんを恨んでね。ちょっとした私用で彼女が目障りになっちゃったもんだから、いまさっき山田ちゃんを刺してきちゃったんだ。いまごろ死んでおいてくれるとすごく助かるんだけど、……どうしよっか。どうしたいかな、西田ちゃんは?」
……と、吹雪は遺品である山田テレスの髪束と血のついた包丁をテーブル上に放るように置く。
いま言ったことも虚偽だ。山田テレスはすでに死んでいるし、埋めてあるし、アリスに選択権など与えていない。
「……いまならまだ山田ちゃんの死に際にぐらいなら会えるんじゃないかな、……なんてね」
吹雪にとって、このまま気が動転したアリスが自分の言いなりになってくれればもうけだ。何も明言はしていないが、極限状態の人間であれば微かな希望を拡大解釈してくれることを吹雪は知っている。いま死にかけている風、まだ生きている風なことを匂わせれば相手を思い通りに動かせると知っている。
「……はやく決めたほうがいいと思うんだけどなぁ。どーなるかわかんないよ?」
また、アリスが下手な真似、例えば警察への通報なんて手段を取ろうものなら、山田テレスの居場所は二度とわからないと伝えてやるつもりなのだろう。
手筈はもう整っている。
あとは吹雪の提示した選択に応じたアリスを山の奥深くに連れ込み、黙らせればいい。
黙らせ方なんていくらでもある。特に女の子だ。いくらでもある。最悪、殺せばいい。
「ほら、さっさと決めないと――――――」
「――――――あのさ……」
吹雪の選択を迫る台詞に、アリスは困惑のまま被せるように遮る。
ようやく決めたのだろう。決めてくれなければ都合が悪い。決めてくれさえすれば、自己の判断に寄り添ってさえくれれば、抵抗する考えは自らの理性によって律しられる。それがたとえ誘導された選択の結果であったとしても、決めたのは自分である以上、自分に非があると思ってしまうのが人間なのだから。
「それじゃあ、さっさと山田ちゃんのところに――――――」と、はなからアリスの返答を軽んじている吹雪。
だから、「何言ってんの?」と、決断でも保留でもないアリスの返答に、吹雪は苛立ちをあらわとする。
「……理解力がないのかな。それとも理解する気がないとか。どうだっていいけど僕も暇じゃないんだよね。これで手一杯なんだ。
……だから君が気になるであろう山田ちゃんの安否とかをわざわざ話に来てやってるのに、君がそんなんでどうするのさ。山田ちゃんのこと心配じゃないの?あんなに山田ちゃんとの思い出を語っていたわりには、気遣ってやるぐらいの心配りもないの?……そういう聞き分けの悪いのとか聞く気のないのとか聞いてもわかんないのって好きじゃないんだよね」
「……あなたの好き嫌いとか、興味ないし。どうでもいいけど」
アリスはひと呼吸置く。
「……さっきからなに言ってるか、ぜんぜん意味がわかんない」
「だからぁ」
「だってさ」
だって、“そりゃそうだろう”。
吹雪にとって、アリスが判断に迷う何かがわからないはずだ。なぜなら問うまでもない。ここまで親しげで、どちらも思い合っている関係なのに、まるで他人事のように振る舞っているのだから、不可解極まれりだろう。彼は彼で初の殺人の後だ。余裕もない。その不可解さに考えを巡らせるにあたって頭脳が怒気に阻害されるなんてことがあるのかもしれないが、ともかくとして、吹雪はアリスの心情を理解できずにいるのだろう。
ただ、それはアリスも同じなのだ。
もっと言えば、“アリスの方がわかっていなくてあたりまえ”なのかも知れない。
だから、
だから、
だから、“私”は、リビングのドアを開けてしまうことにする。
「――――――だって、“テレス”はさっき帰ってきたところだよ?」
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「……は?」
腑抜けた声。驚き声も出ない吹雪は驚嘆の眼差しで私をみている。
吹雪という少年は、その過去や本質の見方によって見え方が異なる。ただの善良で無害な市民のようで、極悪非道の麻薬密売人のようで、とても臆病で女装までする小心者のようで。ただ、“私たち”の見解は、過去や本質を踏まえてなお、統一されたものだった。
「……アリス。わるいけど、ちょっと席を外してくれないかな。お客さんとちょっと込み入ったお話がしたくって。…………はは、嫉妬しないでよ。あとでちゃんと甘やかしてやるから。……私も待ち通しいんだよ、アリス」
すっかり気分を良くしたアリスは「じゃあ、あとでね!」と手を振りリビングをあとにする。
「……こんばんわ、吹雪くん」
「……」
「……きこえなかったかな?こんばんわ?」
「……どうしうこと?」
「……?どうもこうも。こういうことだよ」
「ふざけんなッ!!」
吹雪は勢いのまま立ち上がり、座っていた椅子を倒す。椅子に傷がないかが気になったけれど、吹雪の顔色を見るにそれどころではなさそうなので、私は気が乗らないがことの顛末を話してやることとする。
「……君は見誤ったんだよ。合理主義者の欠陥と言っていいかもね。あたりまえをあたりまえのまま進めていければ、おのずとうまくいくもんだから、あたりまえじゃないことを計算に入れなさすぎたんだ。君はあまりに“魔女”という単語を軽視しすぎたんだよ。……だから、君は“私たち”の思惑通りになるんだ。……魔女なんだから、魔法だって魔術だってあるかもしれないじゃないかってことぐらい、想定しておかないといけなかったんだよ」
「……は?……なら、なに?死者蘇生でもしたっていうの?」
「……惜しいね」
「……惜しいってなんだよッ!」
「……クローンってのがあるんだよ、吹雪くん」
……は?と、目を丸くする吹雪。そりゃそうだろう。こんなインチキのような魔法や魔術があるのだから、これを計算に入れておくべきというのはあまりに酷だったのかもしれない。あぁ、いや、しかし、いちど彼は“私”が人間から猫になる過程を見ているんだっけ。それにしても、だろうか。けれども、こっちだって大変だったんだ。こっちだって、薬草はいいけれど、“赤子”が必要なもんだから、……わざわざ“妊娠”までしたんだぜ?
狂っていると思うよ。本当に。“私”は狂ってる。
「……厳粛に行こう。“はじめまして”、“吹雪くん”。私と君は、実は初対面なんだ。…………動揺しているね。無理もないよ。君は“私”にしてやられたんだからさ。君は確かに山田テレスを殺した。山田テレスを埋めた。山田テレスが間違っても見つからないよう間違いが起こらないように埋めた場所もカモフラージュをした。夢じゃないよ。君はやり切ったんだ。あわよくば完全犯罪だったね。恐れ入るよ」
「……な、んで」
「……なんで知ってるのかって?いやぁ、話が早いね。さすが超犯罪級の天才くんだね。あ、この超〇〇級の、ってのは私が“厳選”されていた時に見せられていたアニメなんだけどちょー面白くってさ。退屈が嫌いなアリスのためにあらかたのエンターテイメント映像はコンプしたんだけど、吹雪くんも今度一緒に――――――」
「……はやく続けろ。無駄口を叩くな」
「……あぁ、怒ってよるね。ごめんね。……なんで知ってるか、だっけ。そりゃ、まぁ、見てたからだよ。映像もある。ほらほら。…………これね、君は人の気配にはめっぽう鋭いだろうって“私”がいうもんだから、猫の姿で撮りに行ったんだ」
世闇で黒猫。見つけられるはずがない。
「……はじめっから殺される気で“私”は君を山奥に呼び寄せたんだよ。それでいて、殺されることによって、……自分が死ぬことによって、君が思い通りになる罠を仕掛けたんだ。猫である私の盗撮って形でね。ほら、君が死体を埋めている映像もバッチリ。こんな映像がある以上、君は政治家にはなれなさそうだね。残念だよ。……あ、死体はもうすでにここにはないよ。もっと遠くに移しちゃったから」
瞳孔が定まらない吹雪。ここまできてなお活路を見出しているのだろうか。
いいや。でも無理だ。君はいまさっき自爆テロにあったようなものなんだ。
しかし、君は偉いよ、吹雪。あの狂人を前にしても、しっかりと殺人を遂行できたのだから。その後の処理も完璧だった。近辺に隠しカメラがないかのチェックも怠らなかったし、埋葬場所も見ていなければ確実に見つかりようのない場所だったのだから。冷静で抜け目がなかった。
「……ただ、まぁ、もうちょっとうまくやれそうなもんだったけどね。君の前に現れた“私”が猫ではなく人間の姿で現れたことに疑いを持つべきだったね。思うんだけど、瓶も捨てられない君が殺人にまで至ったのは、やっぱり君のミスだったんだよ。あれかな。カッとしたのかな。“私”に瓶が捨てられなかったことを指摘されて、多少のリスクでヘッジできた問題を言い当てられて、……それで君の中で確固たるはずのリスクマネジメントが変わっちゃったのかな?……多少のリスクを負ってでもやるべきだってね」
「……」
「……かわいそうだよ。本当にかわいそう。私は哲学を知らないし興味もないけれど、もし精通していれば、君の心にある大事なものが“私”によって操られていたんだなって考えると、…………あぁ、君は、なんて――――――」
「――――――やめろ」
「――――――君はなんて、哀れな負け犬なんだろ、って」
「……っ」
屈辱と恥辱と。あと、なんだろうか、この表情は。
ごめんね、吹雪。これも“私”の指示なんだ。わざわざ私にアリスの横にいる座を手渡してくれたのだから、これくらいのいうことは聞いておかないとバチがあたっちゃうからね。だから、君に多少嫌われようとも、君をめちゃくちゃに壊さなければならないんだ。
「……ふふ。で、相談なんだけどさ」
「……」
「……ギリギリ君が負け犬回避の裏技があるんだけど、聞く?」
「……」
「……聞くんだぁ。かわいいね。……“私”の遺言、聞いてあげてよ。アリスの友達に、ってやつ。私はアリスの家族だけど、だから友達にはなってあげられない。君にしかできないことなんだよ。暁ちゃんにはできないこと」
「……」
「……君のような、クズでゴミで、際限なく腐ってるやつ。悪いことしても悪いことに対する反省もなく、反省があっても次の悪さしか考えてないやつ。性悪説の二元論で絶対的に悪なやつ。この世のエデンを作り上げるにあたって確実に癌になるやつ。死んだ方が世のため人のためになるやつ。
……そんな倫理観ぶっ壊れ野郎じゃないと、アリスの友達にはなってあげられないから」
「……その、ために?」
「……ん?」
「……そんなことのために、……あいつは、……僕に刺されたってか?」
「……そうだよ。狂ってるよね。狂ってるよ。私が思うに、アレも相当だったと思うよ。それでいて罪悪感は一丁前にあるんだから、死ねて本望だっただろうね。あーあ、あれと同じDNAって考えるだけで、私は私のお先が怖いよ」
彼女にとっては、エンドロールだったんだろうけれども。
私にとっては、たったいまからオープニングなのだから。
「……あ、そういえば。カメラのデータは複製済みだから盗んでも意味ないよ。その複製済みのデータも、……いまごろはイギリスにあるかもねぇ。で、仮に君の知恵でデータがなんとかなっても、“私”の死体と一緒に君の家から拝借した瓶も埋めておいたから。……裏切るべきじゃないと思うなぁ」
裏切れば最後、君もただじゃ置かない、と釘を刺す。
そこからわかる罪状だけでも、殺人に薬物所持、その他諸々たくさんの罪の証拠になり得るのだから。
「……とにかく、末長く行こうよ。
……君は政治家になるんだろ?」
一説によれば、かつて魔女は悪魔に唆され契約をさせられていたらしい。契約というものをあまりに悪徳に描くものだから、当時の時代背景、特に近代革命時期の薄暗い闇が見えるけれども。契約と魔女は、切っても切れない関係にある。
なんというか、因果なものだ。
「……吹雪くん。じゃあ、改めて。
……ようこそ。魔女んちの猫が、君を歓迎するよ」
魔女んちの黒猫 容疑者Y @ORIHA3noOSTUGE
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