新年が来ましたね。
今年は丙午(ひのえうま)の年だとか。
丙午生まれの女性は気性が激しいなんてことを聞いたりもしたことがありまして、前の丙午が回ってきた年では出生率が激減したそうですね。
いやはや、それ迷信じゃん。言いがかりだろとか、ちょっとは思ったりなんかして。
丙午という年回りのせいなら、男性でもそうじゃね?とか考えてしまう私は、センスがないでしょうか。
はい、分かっておりますとも。
この迷信の発端となったのは『八百屋お七』にございますことは。
ん~でも、実際のお七さん、火付けの罪で処せられたという以外の史実は、はっきりしていないそうです(by Wikipedia)
つまり、本当に丙午の生まれであったかどうかさえ、怪しい~
生年についても諸説あるとのこと。
お七さんに人々が同情を寄せたのか、事件に何かしらの事情があったのか……
実際の所は不明ながら、『好色五人女』の中で描かれ、文学的に昇華されたということなのでしょう。
八百屋お七のモチーフが、その後様々な作品で描かれたまではいいにしてもです。
まさか迷信の元凶にまでされたとなると、お七さんにとっては、いささか心外な炎上案件だったろうにと思えてきます。
むぅ……
こうして考えると、丙午の迷信はお七さんではなく、井原西鶴のせいじゃんか。
なんて気にもなってしまいました。
ちょっと、話はそれますが……
ドラマなどで、俳優さんが悪役や不道徳な役を演じた結果、そのイメージのまま嫌われてしまった、通りすがりに説教された、なんて笑い話があります。
特に昭和の頃は、○○の部屋などの番組で、そんな話を見ていた記憶があります。
つまり、共感や同情、あるいは反発を抱かせるほど、作品や演技に力があったということなのでしょう。
……そう考えると、井原西鶴を迷信の元凶だと断じるのも、少し乱暴でしたね(キリッ)。
根拠の薄い因果が結びつき、いつの間にか信じられるようになる。
迷信の発生とは、案外こんな仕組みなのかもしれません。
昨年は多くの作品にも出会えまして、飽き性な私がまだ何かを書いているという充実した一年となりました。
なるべくは大人しくしていようと思う私ではございますが、
今年も何卒、ご交誼を賜れますようよろしくお願いいたします。
この後、昨年を振り返ってみようと思う前に、年始のご挨拶でした。
昨年の初春の頃より、知人からの勧めもあって、AIを利用するようになりました。
情報収集や客観的分析は、大変に役立ってくれております。ともすれば、自分の拙い文章を褒めてもらって、自尊心を取り戻す副作用とかにも支えられたこともあります。(喧嘩もよくするけど……)
忌憚のない言い方をいたしますと、
手技としてAI代筆も有用だという認識はもっています。
世に代筆(もしくはゴーストライター)による文芸作品が出版されることと、AIによって生み出された作品との、手技的差異を見い出すことが出来ません。
但し、今秋、カクヨミに起きたAI作品における問題点は、その道義性と汎用的効率性への懸念であったことは確かでありましょう。
自分を棚に上げた上に、侮蔑していると思われたら心外ですが……
もし、AIアプリを喪失した場合に、AI作家の内で作品執筆の継続を可能とするのは何割なのだろう。
これはAIによる作文と思しき作品を幾つか読んで思いましたことで、恥ずかしながら、ただの老婆心にしかなりません。
自分の作品をAIの批評にさせて、作品の出来具合を確認する作業をよくやっています。一段落した後には、遊びがてら、AIに話の続きや小話をよく書かせていました。
AIによる作文には、文脈に整合性が感じられず、WEB上にある知識を陳列しているだけの印象を持つ作文であったからです。
これでは、恐らく読み手の関心を引くことは難しいなと思った覚えがありました。(どの口がゆうとんのじゃ)
ただの気晴らしや遊びとしては、面白かったのですが、それはあくまでも個人的な楽しみの範疇にしかなりませんでした。
AIの作文においては、ある種やむを得ない点だと思います。
まず修辞文や修飾の過多を、修正させようと思考が基本的なベースとして強いです。更に、AIが持つ大量の分析データから抽出される文章の形成は、平均的な表現であると指摘しても構わないでしょう。
だから、読みやすく綺麗な文章を書き出せると理解しています。
ここで、青山翠雲先生の著作をご紹介いたします。
『そこに愛はあるんか!?』
AI有用性に沈溺していく人物の姿をユニークに描かれている作品です。
(面白い作品ですので、是非ご一読を)
https://kakuyomu.jp/works/822139837914266050 こちらから一部引用させていただきます。
――過去に生み出された既存作品の集計集積から確率的に血の通わないAIから生み出された作品では、人間の「魂を揺さぶる」ことはできないのである。
(第2話:避けられた「安楽死」より)
私が言わんとすることを見事、言い表してくださっていますので、お借りいたしました。
一言、「卵」と言っても、ゆで卵、目玉焼きに厚焼き玉子。甘い味付けから、出汁や塩・醤油の加減にと、卵料理ほど、人の好みが分かれる料理はない気がしています。
これと同様に文芸、その他の芸術にあっても、何をどのように描くかは、作家の目線や感性に左右されます。
これが作品の血となり、青山先生の仰る「魂を揺さぶる」根源となるのではないだろうか。
私はそう思います。
もう一作品ご紹介いたします。
志乃亜サク先生が著された『AI生成小説の現在地』
自作小説を要約させた内容をAIに生成させるという面白い実験です。
(書き下ろしとはいえ改めて読み直しても笑えました。是非ご一読ください)
https://kakuyomu.jp/works/822139839036019058 実験のために書き下ろされた作品ですが、
高速道路で移動中に、トイレを我慢しているという極めて逼迫した場面を描かれています。
文章を一部お借りしようかと一瞬思いましたが……
ネタバレしてしまうなぁと思いとどまってしまいましたので、
すみません。私の両編に対する感想でお許しを。
志乃亜先生の作品では、高速道路での車内という限定された空間での会話劇という構成。その中に徐々に逼迫していく身体状況や、状況を回避させようという根拠のない行動の端的ながらリアルな描写であって、その切迫感に経験的感覚を想起して、共感が湧いてくるのです。
対して、AIの生成側は状況が切迫していることが、論理的にするりと理解できる文章。流石AI文章と思います。ですが、その切迫した状況で出来る反応かな?と思う描写に引っかかってしまったというのが、正直な感想です。
人の手による文章は、どうしても書き手の視線や感性、もっと言えば考え方というのが反映されます。だからこそ、面白味や味わいが生まれるのではないでしょうか。
この志乃亜先生の実験による比較は、これがよく現れた作品だと思いました。
もし、私がもっと文章が上手くなりえたとしても、今回、ご紹介した両先生の文章を到底真似ることは叶わない。(肩並べようすなっ!と言われそう……)
自信を持っていいますのは、両先生のユーモアや知性が作品の魂となっているのを感じられるからです。
この先、AI技術も更に発展して、私達に近づくかもしれません。
手作業での創作が斜陽となるかもしれない――
それは未来予想ですし、今日のことではない。
その日を迎える時が来ても、AIとの関係を模索しつづけることで、人が成せる領域を手放さずにすむのではないかと思っています。
ここまで読んでくださった方、いるかしら……
本年もよろしくお願いいたします。