世界の終わりに立ち会った者たちは、その身を焼く炎の記憶よりも先に、ひとつの軽口を思い出す。
「ソーリー、マイバッド」
それは冗談めいた調子で放たれた。にもかかわらず、それは世界の死を告げる最終の詩句として残響し、人々の胸に焼きついた。
奇妙なことに、世界を閉じる言葉は祈りではなかった。祈りは常に天に向かう。しかし、謝罪は他者に向かい、そして「マイバッド」は主体の罪を矮小化する言い回しにすぎない。ここに人類の皮肉がある。
――終末を告げるのは、神の厳粛な声ではなく、誰かの軽率な言い逃れだったのだ。
「責任」という概念は、時に世界より重くのしかかる。だが、人間はそれを真剣に抱えきれない。
人は責任を抱えたままでは生きられないからだ。だからこそ、罪の重みはしばしば冗談に転化される。笑いによって罪は軽くなる。だがその軽さが、逆説的に歴史を決定してしまう。ここにあるのは、軽口が歴史を動かすという恐るべき真理である。
「ソーリー、マイバッド」とは、言葉の責任を最小化する形式だ。主体は罪を認めつつも、真剣さを排除する。そこには償いの意思はなく、ただ「過ちを認めた」という形式だけがある。だが、その形式が世界を終わらせる。つまり、人類は「責任を軽くする術」によって、「世界を軽く終わらせる」ことすら可能なのだ。
自己責任は個を縛り、自己を責め続ける牢獄となる。だから人は、最後の瞬間にその牢獄から逃れる。「他責」という形を取って。
世界の終焉は必ずしも悲劇の大仰な舞台を必要としない。終末とは往々にして、誰かの何気ない行動によって訪れる。そして、その行動は、祈りよりも、沈黙よりも、そして神話よりも強く記憶される。
人類はそこで初めて悟るだろう。
――他責こそが最大の自己肯定であると。
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特に書くことがなかったので、大好きなうゲームについて出来るだけ小難しくバカバカしく書いたんですけれど、誰がこんなゲームやんねん。でも、こういうゲームなんですよ。LoLって。
めちゃくちゃ面白いけど、他人には全くオススメ出来ない。そして、運営が無駄に敷居を高くしている。今でこそ色んな解説動画あったりするけれど、何で大元があんなに不親切なんだろうなぁ。全部を説明するのは無理だけど、もうちょっと親切さがあってもいい。あとスパゲッティコードなクライアントをいい加減どうにかしてくれないか。
全くオススメは出来ませんが、LoLに興味がないそこのあなたにも、ぜひキャラクターのストーリーは読んでいただきたい。意味不明なくらいに詳細で入り組んでいて、どこかの国の神話ですか?ってレベルで仕上がってます。あと、アニメ化されているアーケインもぜひ。LoLを知らなくても楽しめます。
いつにも増して執筆と関係のない内容なのでお叱りを受けるかもしれませんけれど、まあでも今に始まったことでもなし。
コラって言われたら、sry mbと返します。
お後がよろしいようで(よくはない)。
追記。
明日から読書の化身と化しますので、どうぞ大量の♡や★に怖がって下さい。物語の更新は、まあそのうちメイビー。