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二重表現ラブ

私二重表現大好きなんですよね。

だけど二重表現って社会悪みたいに扱われます。正しい日本語教原理主義者の方たちが一部の過激ヴィーガンの如くとにかく根絶しようとしていて悲しいです。

なので日本語二重表現保護主義者の代表である私が正しい二重表現について書いておきたいと思います。

今日Xでちょうどいい例文を見ました。
「〇〇曰く~と言っていた」と書いてしまったことを反省する内容でした。

これについてしっかり考えるために例文を具体化しましょう。
「ぽんぽん丸曰く二重表現ラブと言っていた」

例文以外のところがなんかゴチャっとしてる…?まあ一旦よしとしましょう。

この場合の二重性は「曰く」という言語には主語が過去に発言した意味が含まれていて、「言っていた」が不要だということですね。

つまり
「ぽんぽん丸曰く二重表現ラブ」
「ぽんぽん丸は二重表現ラブと言っていた」

どちらかの方が歯切れがよいです。私も「二重表現は避けるべきだ」は基本的に賛成です。私は穏健派二重表現主義者なので。

なら何を主張するのか?何が正しい二重表現なのか?

そのためにさらに元の文章の問題をより深く考えてみましょう。つまり二重表現の何がよくないのか?です。この文章においては特に分かり易いです。二つの解釈が出来てしまうんです。

一つ目は単純な誤用。もう一つは成立した読み。つまり元の文章には二重表現ではない読みがあります。

『ぽんぽん丸曰く「二重表現ラブと言っていた」』の可能性が考えられます。つまり他のキャラクターに「あの時、容疑者は何か言っていた?」と質問を受けての返答なら正しい文章です。質問されて過去を振り返って証言をしていると読める。するとこの文章は二重表現ではなくて普通に成立してしまいます。

ここからわかることが、二重表現の一番の問題は単に意味の重複よりも読みの重複です。

よくある二重表現にも薄いけどでも読みのブレがあります。「頭痛が痛い」もひょっとすると頭全体が痛んでいるのだけどその上で一点激痛の箇所があるかもしれないです。「馬から落馬する」も犬とか鳥とか動物の名前が付けられた馬の群れの中の「馬」という固有名の子から落馬したのかもしれないです。

いやそんなわけないんですよ?なにより前後関係で理解できます。でもうっすい他の読みが意識に残ることが良くないと思うんですよ。集中して読みを探りあらゆる可能性を捨てない、そんなありがたい思慮深い読者にほど残ってしまうんです。だからよくないのだと思います。

そこまで理解した上でここから私がラブな二重表現について見ていきましょう。ならどんな二重表現はラブなのか?

こちらの『本屋』の結末の一文ですね。
https://kakuyomu.jp/works/16818093084356313566/episodes/16818093084374453107

『彼女はけたけた笑った笑顔のままそう言った』

すばらしい二重表現ですね。作者はぽんぽん丸という人みたいです。すんごい作家だな。

作者のぽんぽん丸曰く「この時期、二重表現にすることで『硬さのない日常の思考』に近い表現ができるのではないかと意識してうまく書けた」そうです。

ぽんぽん丸先生のお言葉を私のほうで端的に要約すると「普段そんな綺麗な文章で思考してなくない?」ですね。

たとえば人間失格を書くなら、やっぱりいわゆる純文学的な文体で、破綻なく正しい文法で書くべきですよね。社会から除去されようとしている人間が最後に世界に向けた感覚を書くのだから社会の正しさに徹底してこだわるべきです。だってあの主人公はいつでも世界に怯えていて自分の正しさを証明し続けないといけないと思っているから。間違いなんて許されない。もっと言えばその中に破綻した文章がちょびっと出てきたりしたら痺れます。家族のことについて話すとき、恋人について話すときだけ文章が破綻したら痺れます。

私が書く文章ってそんな重さ持たないんですよ。恋人とダラダラ本屋行くのに太宰治の思考はやめた方がいいです。そんなんモテないです。太宰治の意識でデートしないでほしいです。

まとめると物語のテーマに合わせて一人称視点の文章は破綻していてもいいはずです。むしろなぜ中学生の一人称視点の思考があれほど整った文章で書かれてしまうのでしょうか?なぜ学のない貧しい老人が誤用なくなめらかに語っているのでしょうか?混乱する人が文法を守るのでしょうか?

二重表現のような文章の破綻、よくある語句の誤用は血の通った表現とも言えます。

本屋は恋人2人がだらっとした時間を過ごしてます。彼女は主人公の二重表現をいちいち指摘したりしません。2人の間に正しい言語は必要なくて、むしろ個性のある歪な伝達の方が幸せまであります。だからこの物語の締めにはリラックスした二重表現を置いてます。

彼女の描写を破綻した二重表現にすることで「正しくなくても肯定し合える関係」が書けてます。本屋、すばらしい物語ですね。

反対に二重表現や文法的な誤りを脊髄反射で排除するなら、文章が著すことができるのは「高度な文学姿勢を持ったインテリ」だけになってしまいます。特に私は「低度な希薄姿勢で日々生きる凡人」を書きたいので困ります。

文法の誤り、語句の誤用だったり、ついてもきちんと向き合うべきです。もちろん意識できてなくて意図からはずれた読みを残すことはよくない。だけどしっかり意識した上で1つの表現になる可能性まで捨ててしまうのはもっとよくないです。

私達が書こうとしている物語に対して、キャラクターに対して、どんな言葉が適切なのか?それは単に整った文章ではなく、読みづらい破綻した文章まで射程に含めるべきではないか?

もちろんそんなふうに二重表現ラブを続けたら脊髄反射の正しい日本語原理主義者には罵声を浴びせられたりするだろうし、賞レースでも不利に働くかもです。だけど私達がなりたいのは、正しい日本語話者でもなく、優等生の受賞者でもないと思うんです。

私達は私達になるために書いてるんだと思うんです。砕けた言葉で気兼ねなく会話できる好きな人のために書いてるんです。だから文学的な正しさよりも、私達の言葉と向き合うべきだと思うんです。私達の文学はそうして生まれるべきでしょう。

もちろん正しい日本語もです。親しい間柄でも結婚式の時はパリッとした言葉使うべきです。でも二重表現のような誤用がふさわしい時間もたくさんありあます。文章としての正誤で単純化せずによく向き合おうと思います。

随筆を書き続けて世界をぽんぽんにしたいですね。ちなみにすでに世界のすべてはぽんぽんと言えるので二重表現と言えますね。

2件のコメント

  • 二重表現を知っておくのは良いと思うんです。
    何か書くのに文字数制限があることもあるし、文章をスリムにするか太らせるかは作者次第だし、二重表現とわかっていて使うぶんには、もし何かツッコミが来た時に説明できるので、良いと思うのです。
  • 祐里さん
    なんにしてもとにかく選択肢を狭めないことが大切なのかなと思います。文学的に間違っている、ふさわしくないからダメと全員が考えてしまうと新しい言語表現が生まれづらくなります。

    もちろん反対に努力を重ねた整った筆致も良いし、同時にルールの外の破綻してるおもしろさもいい。両方をすばらしいものとして書きたいし、そう感じたいなと思います。
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