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背中に花より団子の忍者 プレビュー

 天井に張りついていたエルフの忍者は、闇に溶け込むように静かに動いた。他の誰も気づかないよう、慎重に息を潜めている。その体はしなやかで、青色の忍び装束は部屋の薄暗い天井の隅と完璧に同化していた。
 テッサロニケは椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。彼女の手は小刻みに震え、心の中では数え切れないほどの思いが渦巻いている。母との再会、妖怪の存在、そして今、謎の騎士団員たち。あまりにも多くの衝撃が短い時間に押し寄せていた。
「カッサンドロスは……」
 テッサロニケは声を低くし、周囲を警戒するように視線を這わせた。
「彼は秋分までに全てを終わらせるつもりです。ロクサーネとその子を……彼らは生かしておく価値などないと言っていました」
 オリュンピアスの顔に怒りの色が走った。彼女の目は鋭く、その手は拳を握りしめている。
「それがあいつのやり方だ。アレクサンドロスの血筋を絶やし、全てを手に入れようというのだな」
 クロードはテッサロニケの言葉に顔をしかめた。彼の表情は厳しさを増し、サミュエルと目を合わせた。
「秋分……それほど時間はないですね」
 クロード=ガンヴァレンが言った。
「すぐに行かないと」
 サミュエル=ローズは静かに頷き、癒し手らしい穏やかな声で言った。
「テッサロニケ様、私たちにもう少し詳しく教えていただけませんか? アンフィポリスの監獄、警備の配置などを」


(中略)


 桜雪さゆの言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。彼女の視線が天井に固定され、ニヤリとした笑みが広がる。その表情だけで、何かが起きようとしていることは明らかだった。
 オリュンピアスが素早く反応し、天井を見上げた。彼女の目は鋭く、警戒心に満ちている。長年の経験からくる直感が危険を告げていた。
「何がいる?」
 オリュンピアスが低い声で尋ねた。彼女の手は本能的に腰に触れたが、そこにあるはずの短剣は今日は持ってきていなかった。
 目に見えない敵を前に、無防備な状態で娘と対峙しなければならないことに、彼女は内心で歯噛みした。
 テッサロニケも恐る恐る天井を見上げた。彼女の顔からは血の気が引き、両手が小刻みに震えている。まだ桜雪さゆによる衝撃から立ち直れていないのに、さらなる驚きが待ち受けているようだった。
「見える?」
 桜雪さゆが楽しそうに言った。彼女は指先で小さな氷の結晶を作りながら、それを天井に向かって投げた。結晶は空中でキラキラと光を反射し、何もない空間で止まったように見えた。
 しかし実際には、青い忍び装束に身を包んだエルフの忍者の肩に当たり、かすかな氷の粒子が散った。レティチュは動かないよう必死に努めていたが、額に冷や汗が滲み出ていた。
 クロード=ガンヴァレンはサミュエル=ローズと視線を交わし、静かに頷き合った。
 二人は桜雪さゆの遊びに付き合うつもりはなく、むしろ任務に集中していた。アンフィポリスの監獄に向かい、ロクサーネと若きアレクサンドロスを救出することが最優先だった。
 突然、桜雪さゆが手を伸ばして空中を掴んだ。
「いたぁ~いですよー!」
 妖怪の力で、レティチュの姿が徐々に現れ始めた。エルフの女忍者は驚愕の表情で天井から滑り落ちそうになり、慌てて姿勢を立て直した。
 彼女の緊張した表情からは、この場で発覚することを全く予想していなかったことが窺える。
「この忍者のわたしがバレるとは……」
 レティチュの声は低く、かすれていた。彼女の目はテッサロニケからオリュンピアスへ、そして桜雪さゆへと素早く移動した。
「オリンピックさんこわーい顔しなくていいよ~~わたしの友達のパンチラ多いエルフ! ねぇレティチュちゃん」
「パンチラは余計です! これどういうことなんですか? 教えてくださいよ! クロードさんでもサミュエルくんでもいいですから! カラスの女神モリガンにVR食らってからやっと知ってる人と合流出来ましたよ! ミハエルさんは? まだ合流できてないんですか?」
 エルフの女忍者はわめきちらす。


「レティチュちゃーん!」
 桜雪さゆが両手を広げ、まるで古くからの友人に再会したかのような喜びで声を上げた。
「可哀そうに~なかなか合流できなかったのね~」
 レティチュはさゆの態度に困惑した表情を浮かべながら、天井から床へと軽やかに飛び降りた。
 足音一つ立てずに着地する彼女の動きは、まさに訓練された忍者そのものだった。青い忍び装束は室内の光を受けて微かに輝いている。
「説明してください。これが何の状況なのか全く理解できませーん」
 レティチュは周囲を警戒しながら言った。彼女の瞳は鋭く、狭い部屋の中にいる全員を迅速に分析しているようだった。
「わたしはただミハエル団長の指示で情報収集に来ただけで……ミハエル団長はオリュンピアスとプトレマイオスに助力、アンティゴノスとカッサンドロスに敵対しています。そしてミハエル団長はアリウスさんとフレッドとアンティキィラ島へ古代のパソコンを奪いに行っています」
 クロードは一歩前に出て、静かにレティチュに向かって頭を下げた。
 彼は部屋の中の全員を手で示しながら続けた。
「私たちはアンフィポリスへ向かい、アレクサンドロス大王の血族を救出する計画を立てている」
 サミュエル=ローズが優しい声で補足した。
「モリガンのVRのせいで離ればなれになっていたんですね。ぼくたちも合流には手間取りました…………」
 彼の瞳には真摯な思いやりが宿っていた。
「ミハエル団長は現在、アンティキティラ島で古代の機械を調査しています」
 レティチュの顔に驚きの色が浮かんだ。
「アンティキティラの機械……?」
 彼女は何かを思い出したように眉をひそめた。
「ケルトのダーナ神族、モリガンがそれを狙っていたという情報もあります。彼女が私をVRに閉じ込めた理由はそれかもしれません」
 オリュンピアスは警戒心を少し緩めたが、完全には信用していない様子だった。


(中略)


 ドンドン!
「テッサテロニケさま! お変わりありませんか!」
 突然のノックの音に、桜雪さゆ以外の皆が凍りついた。
 桜雪さゆだけは衛兵の声がしたとたんケラケラと笑っている。
 衛兵の声が部屋中に響き渡り、テッサロニケの顔にパニックの波が押し寄せた。彼女は恐怖で目を見開き、母と、部屋を埋め尽くした見知らぬ訪問者たちとの間を必死に見渡した。
「隠れて!」
 彼女は慌てて囁き、震える手で奥の壁に掛かった大きな装飾のタペストリーを指さした。
「あそこへ――早く!」
 オリンピアスは年齢を感じさせないほどの素早さで動き、音を立てずに重厚な布地の後ろに隠れた。長年の宮廷での陰謀によって、彼女は必要な時に姿を消す術を身につけていた。タペストリーには、アレクサンドロス大王がガウガメラで勝利を収めた場面が描かれていた。ガウガメラは皮肉にも、彼の母の隠れ場所となっていた。
 エルフの忍者レティチュは既に姿を消していた。まるで天井の隅の影に溶け込むように、彼女がいつ動いたのか誰も気づかないかのように。訓練によって、彼女はこのような姿を消すことが第二の天性となっていた。クロードとサミュエルは視線を交わし、部屋の両側に陣取った。テッサロニケの個人的な付き人といった風情で、さりげない姿勢を取った。
 動かなかったのは桜雪さゆだけだった。彼女は部屋の中央に立ち、十二単を隠せないまま、いたずらっぽい笑みを唇に浮かべていた。
 彼女をむしろ楽しんでいるようだった。
「これ、どうすればいいの?」
 テッサロニケは不安そうに呟き、今や大げさな無関心さで彼女の爪を見つめている雪女の妖怪を指さした。
 クロードの顔が緊張した。
「さゆちゃん、何やってんの……」


(後略)

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