入浴中。
いつものように、ボディーソープのボトルをプッシュする。
「ズゴッ」
いつもと違う音。いつもならタオルの上にはこんもりとした白い泡が乗っているはずだが、それもない。泡になりかけてなれなかった、白い液体がわずかばかりあるのみだった。
ボトルを持ち上げる。軽い。間違いない。中身がなくなった。
まあ、どこの家庭にもある、日常のワンシーンだ。それはいい。
腹が立つのは、ぼくの前に風呂に入ったヨメ、そして子供たちの誰もがこのボディソープが尽きたことに気付いたはずなのに、誰も詰め替えをしなかったことだ。
なぜなら。昨日もぼくは最後に入浴したわけだけど、その時も同じようにボディソープの中身がなかったのだ。
わが家では、洗剤や泡石鹸などが切れたとき、切らした者が詰め替えをするという鉄の掟がある。
それは、次に使う人への思いやりを持ちなさい、という教えによるものだ。
人のために労を取ることのできる人間になりなさい。事あるごとにそう伝えてきたつもりだ。それなのに。
まあ、気持ちはわかる。
洗面所下の棚に買い置きしてある詰め替え用ボディーソープを取りに行くためには、すでに洗髪したあとで濡れてしまっている身体を一度拭かねばならない。すごく面倒だ。
きっと彼女らはこう考えたのだろう。
「ボディソープを切らした最後の一人にさえならなければ良いのだ」と。
どこまでも利己的な、卑怯者どもめ。
そっちがその気なら、受けて立とうじゃないか。
ぼくはボトルを傾けて、何度も何度もプッシュする。昨夜と同じように。
「シュコシュコシュコシュコシュコシュコ」
するとどうだろう。
ボトルの底に、ノズルの中にわずかに残ったボディソープが最後のチカラを振り絞って少しずつ、タオルの上に一回分の美しい泡を作っていくではないか。
良かった。これでぼくは今日もまた「ラストワン(最後のひとり)」にはならなかった。
翌日。
いつものルーチンでボディーソープのボトルをプッシュする。
「スコッ」
ぼくは天を仰ぐ。
わずかな水分の存在を示す、濁点さえなくなった。
先に入浴した彼奴らの行動が、ぼくには手に取るようにわかるのだ。
きっと同じように何度もシュコシュコとプッシュしたに違いない。
そしてついに限界がきたことを知るや、今度はボトルのフタを開け、底の隅に残ったわずかな石鹼液を直接手に取り自ら泡立てて身体を洗ったに違いない。
そうすることで、いよいよ限界か? となってから更に2回、いやうまくやれば3回はイケることをぼくは知っているのだ。
すべては最後のひとりになることを回避するために。
そこまで嫌か? ボトルの詰め替え。
なんて浅ましいことだろう。
何度プッシュしても乾いた空気だけを吐き出すボトル。
その空気にはシャボンの残り香、面影すらない。
無だ無、虚無を吐き出している。
ああ、もはやこれまでか。
ふと、フランス人は週に2~3回しか風呂に入らないという、あやふやなフランス知識がぼくの脳裏に浮かぶ。
なんでだったかな、硬水がどうとか言ってた気がするけれどよく思い出せない。
まあ、いま理由はどうでもいい。あのフランス人でさえ毎日風呂には入らないという事実こそが重要だ。
フランス人すら風呂キャン、いわんや日本人をやポワンヌ。
いや何も風呂に入らないと言っているわけじゃない。うっかり石鹸で洗うのを忘れてしまうだけの話なのだ。よし今日はそれで行こう。
これで今夜もぼくはラストワンを回避した。
翌日。また最後に風呂に入る。
さすがに今日は、誰かが詰め替えしてくれているだろう。
そう期待しながらプッシュすると例の「スコッ」
勢いあまって肩外れるかと思った。
驚いた。驚いたよ、ぼくは。
いつの間にか、石鹸使わないチキンレースが始まっていたとは。
誰でもいい。誰かボディーソープの詰め替えやってくれ。
◇
人間たちがそんな醜い争いをしている一方で、先月心臓の手術をしたニャー太はというと。
経過順調、一か月健診を無事超えて、お風呂も解禁されたので久しぶりにシャンプーしてもらってフワッフワになりました。
間抜けな顔してるだろ。ウソみたいだろ。寝てるんだぜ。それで。
