「老人の戯言」という文章でインターネットの功罪について書こうとしてから随分と時間が経って未だに書き終えていない。インターネットという技術は画期的なものだけど、その技術は大概の発明と同様に「人間の余り芳しくない側面」を引出す部分が多く、技術というものの中立性と反する結果を生んでいる。
その一つに「世論形成」の問題があって、正直言って「まともな理性の世界」では相手にされなかった愚論がインターネットによって歪められた形で「世論のようなもの」を形成して蔓延するという実に馬鹿げた状況を現出させているという問題がある。
そうした負の側面の一つに「叩く」人々の存在があって、これは社会病理学の格好のテーマになると僕は考えている。
今、アメリカでは大リーグのチャンピオンシップの最中で、佐々木朗希投手がシーズン中の不振を覆すような活躍を連日見せている。佐々木朗希投手は、高校野球の地方大会の決勝戦に温存された過去があって、その当時から一部の人間に批判されていた。NLBではほぼ二試合をパーフェクトに抑えるという快挙をやったにも関わらず、「甘やかされている」というような批判はつきまとい、大リーグに挑戦してからもその不振の時には散々ないわれようで、同じ野球選手の中にも「舐めている」というような発言をする人間もいた。ベンチの中で涙する姿に「メンタルが弱い」という批判も受けた。そうなると世間というのは次第に「叩く側」に回る。「叩く」ことが正義を主張しているような勘違いが起こるのだ。そして彼は散々叩かれ続けた挙句、今居るチームからトレードに出されるという「噂」まで流れる始末であった。
しかし、僅か三試合で世界は変わった。それが勝負の世界だというのはある意味正しいが、「叩いた人」が正しいというわけでは決してない。だいたいそういう人間を「叩く」人というのはたいした努力も才能もなく「ぼーっと生きてきたから」叩くことが平気でできるのだろう。彼らは「叩く」相手をみつけ「自分が叩く立場にいる」ことのみに快感を感じている。そんななかには地区シリーズでバッティングが不調の大谷選手を叩き始めている愚か者も散見される。しかし大谷も佐々木も「ネットで叩くしか能がない」人間達よりも遙かに努力し、挫折し、そして復活しているのである。
佐々木にしても大谷にしても「そんな程度の人間」は相手にしてないだろうが、しかしそういう人間が平気で増殖しているのは社会の病理でしかない。
「佐々木がベンチで流した涙」は自分の不甲斐なさに対しての涙であり、復活するために必要な涙であった。そうした涙も流せない人間がネットで平気で人を叩く。
実に情けない病理である。政治・スポーツ・芸能とにかく目立つ人間を「何らかの理由で」叩こうとしているメンタリティを持っているとふと思ったら、「黙る」ということの価値をもう一度考えてみて欲しいものである。