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~最強の真祖 VS 最強の聖女~
紅蓮の月が、引き裂かれた夜空に妖しく座していた。
ゴシック様式の尖塔が林立する廃墟の頂。吹き荒れる暴風が、神代律の純白の修道服を激しく羽ばたかせていた。
律は膝をつき、肩で荒い息を吐いていた。愛用の退魔銀剣は半ばからへし折れ、足元には砕け散った聖森のロザリオの珠が転がっている。
「くっ……あぁ……っ!」
眼前十数メートル。
瓦礫の玉座に優雅に腰掛けているのは、あの男だった。
夜を織り成したような漆黒のインバネスコート。月光を吸い込んで青白く輝く怜悧な美貌。そして、すべてを見透かし、弄ぶかのように眇められた深紅の双眸。
あの日、深夜の裏路地で律の心を奪い去り、狂おしい初恋の呪縛で魂を縛り上げた――夜の帝王、あの伯爵。
「無駄だよ、小鳥さん」
男が冷たい低音で微笑んだ。その声が鼓膜を震わせるだけで、律の首筋――かつて牙をあてがわれた痕が、灼熱の熱を帯びて疼く。
「教皇庁の小手先の祈りなど、我が深淵の血脈には届かない。さあ……跪いて、今宵こそ我が花嫁となるがいい」
男がすんなりと立ち上がり、影を広げるように黒外套を翻して一歩を踏み出した。
圧倒的な死と甘美な破滅の気配が律を呑み込もうとした――その刹那。
――カラン、と。
静寂の戦場に、およそ不釣り合いな、硬質磁器がソーサーに触れる澄んだ音が響いた。
「そこまでにしてもらおうか。……私の可愛い小鳥に手を出されては困るね」
「――ッ!?」
男が、そして律が、同時に息を呑んで振り返る。
暴風吹き荒れる廃墟の縁。いつの間にかそこに設えられたアンティークの丸テーブル。純白のレースクロスの前で、優雅に脚を組み、白磁のティーカップを傾けていたのは――十文字真理亜だった。
聖カタリナ女学院のブレザーの胸元をわずかに寛がせ、月光よりもなお透き通る白銀の髪を夜風に遊ばせている。
その瞳は、いつもの気の抜けた眠たげな色ではない。この世の穢れをことごとく払い清めるかのような、透徹で底知れぬ真紅。
「じ、十文字様……!? なぜここに……!?」
律が悲鳴のような声を上げる。
男の眉がピクリと跳ね上がった。
「ほう……人間の娘か。いや、違うな。その平然とした佇まい……何者だ?」
「何者、か」
真理亜はカップをソーサーへと戻すと、ふわりと立ち上がった。
足音がしない。神聖な光をまとうようにして、真理亜は律の前に音もなく割り込む。
そして――。
そっと屈み込むと、冷たく滑らかな指先で、震える律の顎をすくい上げた。
「……っあ……!」
至近距離。吐息が触れ合うほどの距離で見つめ合う。
真理亜の完璧な造形の美貌が、慈愛に満ちた聖女の微笑みを湛えていた。
「安心していいよ、律。君の魂は、誰にも渡さないさ。……私の淹れたての紅茶を飲むまではね」
(あ、ああっ……十文字様……! あの方と同じ構図なのに、なんて……なんて尊く聖なる慈悲……ッ!)
律の脳髄が沸騰し、思考が歓喜と陶酔で焼き切れそうになる。
男が不快そうに目を細め、夜の闇を一気に凝縮させた。
「身の程を知れ、小娘が! 我が千年の呪詛――『断罪の血嵐(ブラッド・ストーム)』の贄となれッ!!」
男が外套を薙ぐと同時に、数万の吸血蝙蝠が刃の嵐となって真理亜へと殺到した。空間そのものを切り刻む、絶対死の奔流。
だが、真理亜は微動だにしなかった。
ただ、右手を手袋ごとすんなりと掲げ、人差し指をスッと立てる。
「下品な風だね。……お茶が冷める」
――パチン。
真理亜が指を鳴らした。
たったそれだけ。
不可視の衝撃波すら発生していない。だが、殺到した数万の血嵐が、真理亜の周囲を覆う清浄無比な聖域の力場に触れた瞬間、すべてが「パシュッ」と淡い光の粉へと還元され、夜風の中に霧散した。
「な……馬鹿なッ!? 我が真の力を、指先一つで……!?」
男が驚愕に目を見張り、後退る。
「私の前で『闇』を語るには、君は少しばかり若すぎるようだね」
真理亜が一歩踏み出す。
その瞬間、真理亜の背後に顕現したのは、天変地異を統べる大天使をも凌駕する、人ならざるほど圧倒的な神威。
男の漆黒の威圧など児戯に等しい、天と地の格差。男の身体がガタガタと震え始め、膝から床へと崩れ落ちる。
「ひっ……あ、貴様は……いったい、何者だ……!?」
「さあ、お帰り。二度と私の小鳥に近づかないことだ」
真理亜が優雅に右腕を払うと、男の姿は夜の彼方へと哀れに吹き飛ばされ、星屑となって消え去っていった。
一瞬にして取り戻された、静かな夜の帳。
真理亜はくるりと振り返ると、床にへたり込んだままの律に手を差し伸べた。
月光を背負ったその姿は、闇を打ち払う絶対の聖女。
「立てるかい、私の騎士殿? ……部屋へ戻ろう。今夜は、君のために甘いミルクティーを淹れてあげるよ」
「じゅう……十文字……さまぁぁぁぁ……っ!!」
感涙のあまり胸が張り裂けそうになり、律はその白く細い手めがけて、全身全霊で飛びついた――!!
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「――十文字様ァァァァッ!!」
「ぎゃあああっ!? 痛い痛い痛い! 神代さん何すんの!?」
バチンッ、と生々しい肉の激突音が響いた。
「……っ!? はっ……!?」
律がハッと目を開けると、そこは荒れ狂う廃墟でも、紅蓮の月夜でもなかった。
薄雲を通して朝の光が差し込む、白百合寮二〇四号室のフローリング。
そして、自分がソファから身を乗り出して渾身の力で抱きしめ、額を激突させていたのは――聖女の麗しき手ではなく、パジャマ姿で目を丸くし、痛そうに鼻を押さえて涙目になっている西園寺結衣の顔面だった。
「いったぁぁぁ……! ちょっと神代さん! 朝の給仕しに来てソファで寝息立ててたと思ったら、いきなりダイビング頭突きって何のテロ!? 痛いんだけど!?」
「えっ……? せ、西園寺……さん……?」
律は呆然と瞬きを繰り返した。
へし折れた銀剣もない。吹き飛んだインバネスコートの男もいない。
真理亜の起床前に極上の茶器を温めようと二〇四号室へ上がり込み、ソファに腰掛けて待つうちに一瞬だけ意識を落としていた記憶が、急速に蘇ってくる。
部屋の中央では、すでに制服に身を包んだ十文字真理亜が、手鏡の前でブラシを動かしながら、鏡越しに冷めた目をこちらへ向けていた。
「おはよう、神代さん。朝から結衣と随分アクロバティックなスキンシップだね。……額、冷やした方がいいんじゃないかい?」
「あ……じ、十文字……様……?」
律は床に膝をついたまま、自らの両手を見つめ、それから真理亜の平穏極まりない横顔を見つめた。
指先一つで男を吹き飛ばす絶対的な聖女の威光。
『私の小鳥』と囁き、顎をすくい上げてくれたあの美貌。
甘いミルクティーの約束。
(ゆ、夢……!? ぜ、全部、私の……妄想……!?)
カアアアアッ、と全身の血液が沸騰した。
耳の先どころか、爪先まで真っ赤に染まり上がる。
あの方と十文字様を脳内で勝手に激突させ、あまつさえ十文字様に奪い合われるという、教皇庁の騎士として、いや一人の乙女として万死に値する破廉恥極まりない夢を見ていたのだ。
「ひ……っ、ひふぇぇぇぇぇ……っ!!」
「ちょ、神代さん!? なんで頭突きした側が真っ赤になって泣きそうな顔してんのよ! わけわかんないってば!」
結衣の悲鳴が響く中、真理亜はコトとブラシを机に置くと、呑気に欠伸を噛み殺した。
「まあ、元気なのは良いことだ。それより神代さん、今朝の紅茶は何だい? 喉が渇いてしまってね」
「は、ははっ……! た、ただちにダージリンのファーストフラッシュを淹れてまいりますぅぅぅっ!!」
律は真っ赤な顔を両手で隠し、蜘蛛の子を散らすような勢いで給湯室へと逃げ出していった。
取り残された二〇四号室。
痛む鼻をさする結衣の横で、真理亜は不思議そうに小首を傾げた。
「……夢でも見ていたのかな。ずいぶんと幸せそうなうなされ方だったが」
「もんちゃん、お願いだからツッコミを放棄しないで……」
いつもの女子寮の朝は、一人の騎士の尊すぎる自爆とともに、今日も実に騒がしく幕を開けたのだった。